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第八夜

イザヨイの尽力も空しく、眞輝は思い留まらせようとする周囲の動きをむしろ「はなむけ」と喜ぶ。他方、距離の修正を図った沙智との関係は思いがけない展開を迎え…。




 依存する対象が転位した。いつものことだろうか――。


 こっちだよと誘うように、沙智は新しい恋人の手を引いていた。金曜日の夜九時、見つめ合う相手は彼女とは裏腹に駅の方へと体を向けている。あの異様に黒い影の存在が気にかかり、私は密かに様子を観に来た。なるほど人のよさそうな青年だった。このまま帰さないつもりでいる沙智と、夜を越すつもりのない彼の無言の攻防が続く。

 ふいに沙智が引く手を離した。何を思ったか点滅する信号に向かって歩き出し、横断歩道の真ん中に立ち尽くす。彼女のすることを見て、青年は動いた。沙智も恋人が自分を安全な場所へと連れ戻すことに抵抗はしなかった。手を引かれるままに歩道に戻り、今の危険行為を咎められる。俯いた顔に表情はなく、彼の言葉を聞き流しているのか検閲しているのか、傍目には判断しがたい。

 「――ひとまず今日はこれで帰ろう。明日また話そう。もう少し、ゆっくりと仲良くなりたいんだ。僕らまだ会って一週間も経たないよね?」

 夜を共にせずにここで別れることを承服させようと沙智に言い聞かせる青年は、しかし自ら彼女の手を握り、なかなか離せずにいた。

 「何も急がなくていい。これから時間をかけて、少しずつお互いのことを知っていこう。離れていても仕事していても、僕の頭の中はもう沙智のことばかりなんだよ。それほど大事に想っているんだ。だから今日は遅くならないで帰ろう。僕を信じて」

 早口で説得する彼の息はかすかに震えていた。目の前で実演されたためだろうか、自分に拒絶されたと思って沙智が死ぬのではないかと恐れている。一触即発の張り詰めた空気の中で、終始沈黙していた沙智が口を開いた。

 「沙智のことだけ?」

 彼が言った言葉を繰り返し、目を上げた。血の気のない顔に剃刀の刃のような笑みが浮かんでいた。頷く恋人に、再び目を伏せて「わかった」と呟いた。彼は彼女から手を離した。恐る恐る――一歩、また一歩、沙智から目を離さぬまま後退る。

 「それじゃ、また明日な。お休み」

 俯いたまま、沙智は応えたようだった。少し表情が和らぎ、青年は彼女に背を向けた。

 その時。


 彼に引っ張られるように、沙智の体からすーっと黒い影が離れた。

 影は縮み、子どもの姿に変わった。

 確かに沙智は追い縋らなかった。その場に留まり、彼の背中を見送った。だが沙智から分離した少女は、彼に追いつき、纏わりつき、その背によじ登り、しっかりと首筋に摑まった。沙智の目には映っていないようだった。彼も背後を気にする様子はなく、振り向かずに歩いてゆく。

 驚くままに、私は追いかけようとしていた。青年の背に憑いた影の少女を。追いかけようとして、何かを踏んだことに気がついた。


 牡丹色の組紐だった。切れて、私の足元に落ちていた。


     ***


 「えっ、切れたの? やったじゃん!」

 カチャン、と箸を置いてナマメが声を上げた。その夜は早めに上がってトミテたちと飲みに行く約束をしていた。牡丹色の組紐が切れたことを上に報告するため、私は二人に遅れて合流することになったのだが。

 釈然としない。

 「えー、いいよ、切れたんだから。後はその男に引き取ってもらって、万々歳だよ」

 「そりゃあ、恋人ができて落着っていう、それ自体はよくあることだけどさ」

 これは「落着した」といえるのか。私が見てしまった、あの影のことは何としよう?

 「深追いはしない方がいいですよ。分限越えになりますし」

 塩辛をつつきながら忠告するトミテに、「そうそう、トミちゃんの言う通り」などと同調して、上機嫌のナマメは私の肩を抱いた。

 「とにかく飲もう、今夜は。飲んで忘れよう!」

 なんだそれは。私が振られたとかそういう話か。

 ちょうどよく私のビールとナマメがおかわりした檸檬サワーが運ばれてきた。金曜日の夜とあって、仕事上がりの神々が続々と集まってくる。表には提灯の黄色い光が溢れ、麓の飲み屋街は祭りの賑やかさだった。隣のブースから一際派手な笑い声が(なだ)れ込み、既に酔いが回っているらしいナマメの声を押し潰す。店の中はかなり騒がしく、互いの声が聞き取りづらいので自ずと会話から気が逸れた。二人の顔を交互に見ていても、あの少女の姿が脳裏をちらつく。背の高さでは八歳程度、だがそれよりも幼く見えた。生地は上等でも窮屈そうなワンピースを着て、髪はくしゃくしゃと(もつ)れ、裸足だった。良家の令嬢でありながら野生児であるような、ちぐはぐな印象の子どもだった。

 「――だからね、そんなこと言われた日にはさ、もうさ、私、本当に『帰らしてもらっていいかな』って」

 ここまで出かかったの、と喉元を指すナマメの仕草に引き戻される。

 「『ただ面倒くさくなったから』ってさ。『生きる意味がわからない』はまだ悩みだけど、『やる気が起きない』っていうの、多くない? 多いでしょ? 別に、勝手にしろとまでは言わないけど、そういうのまで私らが面倒見ないといけないのかって、本当にそうなのかって、私は思うわけよ。だって、『面倒くさい』ってさ……」

 「うん、わかるよ、こっちもどうしていいかわからなくなるやつね」

 「でも、そういう〈死にたい〉が本来の自殺対策班(うち)の管轄なんだろうな」

 くだを巻くナマメを宥める私、そこにぽそりと水をさすトミテ。いつもの構図である。

 「だって不幸とか貧困は本来衛生局の管轄じゃないですか。病苦はうちの課でも病死班だと思うし。理由はないけど死にたいとか、虚しいとか、他所で対応できないものに対応するのがうちなんだと思う」

 なるほどな。その線でいくと眞輝こそがうちの客なのかもしれない。ならば沙智は、誰が関わればよかったのだろう。

 「そうなのかなあ。でも、他所で無理なものは死神(うち)だって無理だよ」

 ナマメは口を尖らせ、ジョッキの結露を指で払った。

 「死神なら何とかするだろっていうの、ホント無理。うちはなんでも屋じゃないっての」

 「まあ、他課からの扱いが雑なところは否めないですね」

 否めないのか。

 「そういえばイザヨイさん、こないだ別件で調査要請出してませんでした?」

 「ああ、うん。返事来ない」

 「ハイ、来たー。雑な扱い来たー」

 ナマメがバン、とテーブルを叩く。

 「そうなんですか、ウミヤメ様にも相談したって噂に聞いたんですが。来ないんですね」

 「来ないね……(えにし)班以外ね。運命の神様とか絶対休暇取ってる」

 「しゅーりょー。この季節に休暇とか舐めてるにも程があるー」

 いやいや、何が終了だ。勝手に終わらすなって。

 ふと自分の左腕が目に留まる。先ほどまで一番目を引いていた牡丹色の組紐がそこにない。最も目につく袖口には、柿色の組紐が結ばれている。そうだ、沙智との縁は切れたのだ。何はともあれ、私の手を離れた。眞輝のことを、今はどうにかせねばならない。



 翌日はまず詰所に立ち寄り、私からイナミさんのデスクへ向かった。沙智の件で妙なものを見てしまったのは事実だから、報告書を提出して知らん顔ではなく、一応上司に直接の申し送りが必要だろうと思ったのだ。

 「おはようございます。昨夜報告書を出させていただきました。牡丹の件ですが――」

 「うん、お手柄だったね。さっきまで引継ぎの件で僕の後輩が来ていたよ」

 未処理の書類の山に埋もれて、目も上げずにイナミさんは応えた。

 「祟神(たたりがみ)課の方が」

 報告をして、ついでに眞輝のことを相談するつもりだった。心は切り替わっていたはずなのに、後輩と聞いて俄かに胸が冷たくなる。以前そんな話をした。自殺の恐れさえなくなれば祟神課に繋ぐこともあり得ると、イナミさんは言っていた。

 「そう、怨霊班の。君が組紐を燃やしてしまわずに返納したのも、良い判断だった。追跡に役立つって。よろしくと言っていたよ」

 「――私が引き継がなくてよかったのですか?」

 奇妙に思われた。いくら風通しのよい職場とはいえ、実際に沙智に対していたのは私だ。沙智のことなら私が一番よく知っている。

 「何を?」

 戸惑う私の顔を、イナミさんの黄色い目が見据えた。

 「君が見た影のことはあちらに任せておけばいい。藤村沙智は己の霊魂を怨霊にして送り出した。怨霊は捨て置けばあらゆる理を害し、人に憑けばその魂を食い荒らす。法の下に始末せねばならない」

 法のことならば知っている。あれがそういうモノであることも、わかってはいた。

 「ですが、あれは生霊です。沙智はどうなるのですか」

 「どうにも。彼女はもう魂を手放している。だから彼女に害が及ぶことはない。見た目には落ち着くよ。他人には鬱々として過ごすようになったと思われるだろう。それでもこれまでよりは上手く生きていくはずだ。愛情も得やすくなるだろう」

 私の心を見透かしているように、イナミさんは続けた。

 「君は本当によくやった。ご苦労だったね」


     ***


 ――これが沙智にとっての最善だろうか。

 私は沙智に自分を律することを覚えさせたかった。冷静になって己を見つめ、必要なのは彼女の混沌を支持する他者ではなく、彼女を縛る秩序であることに気づいてほしかった。子どもではないのだからできると思った。それが誤りだったのか。

 上司にはそれをするなと釘を刺されたのをわかっていながら、私は見に行った。手出しするつもりはなかったから「見届けに」というべきか。怨霊班の祟神が沙智から分かれた影を退治するところを。

 恋人の背に覆い被さっていた少女は、我が身の危機を悟ると慌てて逃げ出した。追手は一人ではなかった。降り続ける雨の中、ちょうど狼の群れが獲物を狩るように、青白い衣に身を包んだ祟神たちが逃げ惑う影をじわりじわりと追い込んでゆく。

 『もう、何なの。あっち行ってよ!』

 ついに丁字路に追い詰められ、哀れな少女は泣き喚いた。

 『散々抑えつけて飢えさせといて、最後は殺すの? 害虫みたいに?』

 狩人たちは応えなかった。正面の一人が無言で動き、左右の二人も同様に距離を詰めてゆく。少女は怯えて爪先立ちになり、悲鳴を上げた。

 『イヤ! 来るな、人殺し! 助けてイザヨイ、誰か来て!』


 名を呼ばれて、思わず体が動いた。

 しかしそれよりも早く彼女に応えた者がいた。

 狭い路地に一陣の風が吹き抜け、何者かが祟神の前に立ちはだかった。


 手には長槍を持ち、すらりとした長身に白の直綴(じきとつ)、金色格子の白い七条袈裟を纏う。束ねた髪は絹のように白く、目尻の切れ込んだ顔は瑞々しく、二本の角をもつ異形(いぎょう)の神だった。

 あの袈裟は、と誰かが呟く。腰に帯びた太刀を抜き、首領であるらしい正面の男神が低い声で警告した。

 「法の命ずるところです。即刻、我々に引き渡していただきたい」

 異形の神が静かに応えた。

 「葬らずともよかろう。私が引き取り、後を見る。それでどうだ」

 (さや)かな御声に縋るように、少女は法衣(ほうえ)の腰にしがみつく。

 「子守はとうに辞められたのでは?」

 もしや――思い当る御名に鼓動が高鳴る。それに重ねるように首領が続けた。

 「気まぐれならば手出し無用です。タマホメ様」




■登場人物

イザヨイ:生命省人間庁人口調整局死神課自殺対策班青年係の新神

トミテ/ナマメ:死神課自殺対策班青年係の同期

イナミ:直属の上司。三期目で祟神課から異動してきたばかり

ウミヤメ:死神課の長。イザヨイの憧れ

タマホメ:冥府の神様。人の娘から鬼となり、神になった

眞輝まさき:二十五歳の青年。組紐は柿色

沙智さち:自殺行為を繰り返す二十八歳の女性。組紐は牡丹色


■組織構成

人間庁>衛生局、人口調整局

 衛生局:

  福神課(縁班他)

  貧乏神課

  祟神課(怨霊班他)

 人口調整局:

  産神課(安産班、運命班他)

  死神課(老衰班、病死班、事後処理班、自殺対策班、過労死班)

  疫病神課

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