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第七夜

漸く手にした縁図から、イザヨイは眞輝の周囲に異様に死者の多いことを知る。他方、愛着を暴走させる沙智とは敢えて会わない期間を定めたのだったが…。




 五日ぶりに雨の上がった水曜日、雑居ビルの並ぶ通りを眞輝が歩いてゆく。そのすぐ後ろを影のように付いてゆくのは恋人とは別の女だった。黒いスタンド看板の出された階段の下で足を止め、以前にも二人で入ったことがある雰囲気で誘う彼に、毳毳(けばけば)しい化粧の下から不審な目を向け、彼女は尋ねた。

 「通夜に来なかったのに私と話したいって、何なの」

 うやむやのうちには飲まないという姿勢で、彼女は不安定なヒールの足を揃えている。

 「後を追おうとか考えてるんじゃないよね?」

 眞輝の表情はぴくりとも動かなかった。

 「ごめんね」

 「ふざけないで」

 一声叫ぶやつかつかと歩み寄り、袖を掴んで強く揺さぶる。好奇と迷惑の混ざる目を向けながら、二人の側を人が通り過ぎてゆく。

 「ふざけるなよ、あんた、マジでふざけんな。そんなの誰も、茜だって許さない。第一身内は、あんたの彼女はどうなんの? 遺される側の身にもなってみろよ!」

 人目を憚らない友人に、眞輝は薄ら笑いを崩さなかった。



 「ここへ来て厄介なことになってきました。いろんな人から引き留めを喰らうんですよ、どういうわけか伝わってて」

 大方私の仕業だろうと言いたげな余白を残して、眞輝は例のごとく台所へと足を向けた。再び雨の降る十九日の木曜日、ここへ来る前に私は彼がいくつかの契約を月末で止める手続きをしていることを把握した。つまり手を打つ時間は残り二週間を切っている。

 「あなたには(うるさ)いだけですか」

 叱咤激励は逆効果であることを承知の上で、私は縁図(えにしず)に名の挙がる者すべてに働きかけた。彼から会おうと連絡を受けた者には勘が働き、その他は虫の知らせに彼の危機を悟るように。それが神の分限において許されるぎりぎりの手立てだった。

 神が施してよい奇跡は法で厳しく規制されている。なぜなら神とは〈くう〉の(ことわり)を維持するために生み出された存在だからだ。エントロピーの増大則であらゆる秩序はそのままに放置すれば崩壊へと向かう。人の世も、星も、宇宙も、時空も、絶えず手を加え続けなければ解体してゆく。あるべき姿を保つよう働きかける〈力〉、それが神なのだから、理を曲げるような行いは、当然許されない。個々の神が思うがままに事を歪めれば、秩序を踏み荒らされ均衡を失った宇宙はたちどころに滅びてしまう。

 死神課が対策に乗り出したところで自殺者がゼロにならないのは、そういうわけなのだ。人の心はよく手入れされなければ(すさ)んでしまう。とはいえ神にできるのは理の綻びを正すことであって、作り替えることではない。眞輝の企てに気がついた縁者が(こぞ)って彼の行く手を阻みその手から死を取り上げてしまうことを、私は祈るしかない。

 「いや、嬉しいです」

 コンビニの袋に入ったままの酒類を冷蔵庫から取り出して、眞輝は戻って来た。

 「ひたすらにありがたいですね。批判も叱責も、見当違いな励ましも。どんな言葉も俺にはねだれるはずもなかった(はなむけ)(はなむけ)なんですよ。俺なんかのために言葉をかけてくれる人がいるのかと思うとね」

 炬燵テーブルの上に林檎の発泡酒の洒落た瓶を二つ並べ、向かいに座る。

 「幸せですね」

 言いながら、寒気がした。

 「ええ、幸せ者です。いい人生でした」

 伸びた前髪に隠されて、彼の目差(まなざし)を認めることはできなかった。

 「イザヨイさん」

 「はい」

 彼自身飲み物に手を出さないまま。しとしとと降る雨音の他に音のない部屋で、ぽつりと尋ねられた。

 「人が死ぬのは怖いですか」


     ***


 ――あの朝。

 形容しがたいにおいが袖の下から這い出して、私は目が覚めた。組紐の異変と悟り雨戸を押し開け朝日の(もと)に晒すと、果たして一本が黒変している。すぐには誰のものか(わか)らず名を呼びながら一色ずつ調べた。二周目にしてようやく萌木(もえぎ)色、淳也の組紐がないことに気づいたが、紐は朽ち果て、私の手の中でボロボロと崩れ落ちてしまった。取るものも取り敢えず、マントだけは引っ掛けて、早朝の北第四庁舎に馳せ参じた。

 普段顔を合わせることのない早番の死神が慌ただしく動き回っていた。その中にイナミさんが一人残り、廊下の隅で他班の神と声を潜めて何やら話し込んでいた。上司の姿を見た私は動揺のあまりそこへ割って入り、今しがた萌木色の組紐に起きたことを報告した。

 「ケースが死ぬとそうなるんだよ。今朝、通過列車待ちの踏切内に飛び込んだ」

 呆然として、「既に事後処理班が対応した」と続けられた言葉が入らなかった。私は何も言わずに背を向け走りだそうとしていた。後ろから上司の声が刺さった。

 「行かなくていい。もう済んだことだ。帰って休んでなさい」

 「まだ救えるかもしれません」

 咄嗟に口答えした、私自身そんな希望はもっていなかった。

 「行ってもそこに彼はいない」

 イナミさんは止めた。それでも私は現場に向かった。結局のところ、彼が本当に死んだことをこの目で確かめるだけのために。

 まだ電車が止まり、警察その他制服に身を包んだ係員が淡々とそれぞれの仕事をしていた。振替輸送のアナウンスが通勤時間帯のホームに響き、誘導係の駅員が乗客に頭を下げていた。運転見合せに悪態をつく人、電話をかける人、凄惨な事故の後始末に興味本位でカメラを向ける人。(むくろ)に群がる烏のように、様々な人間の姿が彼の死を取り巻いていた。

 《もう大丈夫です》

 ブルーシートの前に立ち尽くす私の耳に、その時になって彼の声が蘇った。ほんの十四時間ほど前、(まばゆ)い夕日の中で笑っていた彼の顔が目の前に蘇った。

 《あなたと話せてよかった。ありがとうございました》

 何かの花のような香りが笑う彼から漂っていた。それが死のにおいだとは知らなかった。私は何もわかっていなかった。人が死ぬということも、彼の言葉の意味すらも。


     ***


 「神様にとって、それは怖いことですか」

 私は唾を飲み、目を逸らさずに尋ね返した。

 「あなたは怖くないのですか」

 フフッと、眞輝は乾いた声を漏らした。

 「俺は異常者です。からっぽで、何にも感じない。だから何でも簡単に手放せてしまうんです。手の中の幸せも、命さえもね」

 「何も感じないから、誰かがあなたのために心を痛めることがあなたには嬉しい、ということですか」

 「かもしれません」

 「でもそれはあなたが自分で感じなくてはならないものです」

 「もちろん。それができないから、異常者なんです」

 何も感じない。それは嘘だ。嘘でないならばこの間、私に休みがないことに過剰な反応を示した、あれは何だったのだ? ――それを取り上げてみようと口を開きかけたところへ、眞輝が呟くように言葉を続けた。

 「まあ、育った環境のせいなんですよ」

 彼の視線は私には向けられていなかった。

 「俺の場合は、境遇が特殊すぎたんです」

 瞼の裏に縁図が浮かぶ。肉親そして複数の友人の名が死別や失踪の罰印で消されていた。

 「話してもらえますか」

 「話しますよ。今じゃなくて、別の時に」

 こないだ彼は来週の後半がいいと言った。一通りの挨拶も終え目処が立ち、今はもう遅すぎるという時まで引き延ばすつもりでいる、ということだ。

 「わかりました。では一つだけ。客観的に見て、あなたのこれまでの人生は不幸な出来事が多かったようですが、自分では〈いい人生〉という感想なのですか」

 「そうですね。周りではいろいろなことがありましたが、俺自身は不幸でもなんでもなかったし、苦労も全くしてないんです。何を以て苦労と見なすかにもよるかもしれませんが、なんにせよ、俺はずっと人間のクズでしたよ。碌に足掻きもしないで、ただ漫然と時を過ごしてきたんです。だから本当に、この死には何の意味も重みもないんです」

 口を挟もうとする私を再び遮り、眞輝は続けた。

 「だからあなたも気に病まなくていいんです。俺のことで苦しまないでください」


     ***


 沙智と約束した木曜日だった。眞輝にどう対してゆくか方策を見出せないまま、私は彼女の部屋を訪れた。距離の修正を図った一週間、これで鎮まると願いはしても正直期待していなかったが、私と再会した彼女の反応は予期せぬものだった。

 「そうか、木曜って言ったっけ。来てくれたんだ」

 二度と来ないとでも思っていたかのように言う彼女の顔からは、私に対する関心が嘘のように抜け落ちていた。狭い台所を散らかしてケーキでも焼こうとしているらしい。袖を(まく)ったその左腕には、数日前のものと思われる自傷痕が無数に刻みつけられている。ここ数年、過剰服薬はしてもそれはしなくなっていたはずだった。私の視線に気づくと、彼女は「ああ、これ?」と掲げて見せた。

 「怒らないでよ。別にこんなの、こんな浅い傷でどうこうなるわけないんだから。死にたくてやったんじゃないし、あんたとは関係ないよ。久しぶりに実家に帰ったんだ、それこそ何年かぶりに」

 粉を(ふる)い終え、ボウルの中身に合わせる。

 「しばらくはあんたのこと考えてたよ、なんであたしのこと一人にするんだろうって。夜も眠れないでずーっと考えてたら、母の顔が浮かんできたの。それで日曜日に会いに行った、あの人とは何言っても通じ合えないって、わかってたのにね。案の定大喧嘩になって、あたしは泣きながら逃げ帰った。心はこんなにズタズタに傷ついて血を流しているのに、体ばかり無傷なのが無性に憎らしくて許せなくなったの。本当に久しぶりにね。あの人の作品だからこうしてやらずにいられなくなったんだって、それは今になってわかったんだけど……。でもね、今度のことがあったおかげで、素晴らしい人と巡り合ったんだ」

 ボウルの中で混ぜ合わせた生地をパウンド型に流し込む。横顔に喜びが溢れ、きらきらと零れ出した。

 「あの人はあたしを見つけてくれた。あたしの中の寂しさを見抜いてくれた人。あたしのことを赦してくれたの。こんなに醜くて(いびつ)なところも知った上でね。本当に神様みたいな人。あの人だけはあたしのすべてを受け容れてくれる。あたし、あの人と結婚するんだ」

 黒々とした影が彼女の足元から壁を伝い、立ち上がっていた。

 「そう」

 私はその影に向かって返事をしていた。

 「では私はしばらく要りませんか」

 パウンド型から目を離さないまま、彼女は答えた。

 「そうね。次は二週間先か、もう来なくてもいいよ。あたしにはあの人がいるから」

 影は膨らみ、一段と黒さを増して見えた。

 「なによ、()けるの?」

 口元に余裕のある笑みを浮かべて、沙智は私を見た。

 「だってあんたは、すぐに他の人のとこへ行っちゃうんでしょう?」


■登場人物

イザヨイ:生命省人間庁人口調整局死神課自殺対策班青年係の新神

イナミ:直属の上司。三期目で祟神課から異動してきたばかり

眞輝まさき:二十五歳の青年。組紐は柿色

あかね:眞輝の幼馴染で故人。幽霊となり付き纏う

淳也じゅんや:イザヨイが担当し、亡くなった。組紐は萌木色

沙智さち:自殺行為を繰り返す二十八歳の女性。組紐は牡丹色

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