第三夜
眞輝が最初に死を図った時、現場には女の幽霊の姿があった…。
神様は答えてくれないけど、見ててくれるんですね。と言った人がいた。
たまたま訪問していた時に組紐が切れ、別れを惜しんで涙を落としながら、私に尋ねた言葉だ。彼の心細い笑顔を覚えているから、そうだと答えてやったのだと思う。私が尋ねられたことをわりとスルーするので、そういう心証になるのかもしれない。
人間にとって理不尽な現実世界の問題は死に次いで古い関心事であり、神の仕事はといえば理を護ることだから、眞輝が文句を言う気もちはわかる。実は数回生まれ変わればおおよそ平等になるように産神課が調整しているのだが、来世に期待して死なれては本末転倒なので、私の立場上答えるわけにいかないのだ。
それよりも、今回の対話でいくつかの手がかりが得られた。
「あ、イザヨイさんだ」
午前三時の詰所で調査要請の提出書類を書いていると、後から入ってきた同僚に声をかけられた。明かり障子に月影の射し入る木造平屋建ての室内を影が横切り、やがて火灯りに顔が浮かび上がる。青年係の同期のトミテだった。
「お疲れ」
需要の関係でうちの班は夕方から深夜にかけて降臨する。一晩に十五から二十件の訪問を行い、戻るとたいていこの時間になる。
「お疲れさまです。落着ですか?」
「逆、これから調査要請」
「あら。長期化しそうなんですね」
ぽそり、と同情を含む声で言い、トミテは記入台の引出しから介入が終了したことを報告する様式を一枚取り出した。
「こちらは一人切れました」
「おめでとう。今日はこれで上がり?」
「いえ、これを福神課にお返しに」
黒のケープの下から何か取り出し、記入台の上に置く。鈍く光る小さな銀の鋏だった。
「何それ」
「縁班の縁切係からお借りしたんです。大好きな彼と一緒に死ぬんだ、って盛り上がってる子だったので、そこの縁を切らせてもらいました」
「お、おう」
涼しい顔をして結構なことをさらりと言う。
「で、その相手は」
「さあ。一人で死ぬということはないと思いますよ、そういう人じゃないし。男のほうは祟神課が対応を検討しているらしいので、そちらにお任せです」
「そ、そうなんだ。ならその彼女は巻き込まれなくてよかったね」
「本当にそう思います」
そのまま会話が途切れ、それぞれに記入を進めた。私の方が先に書き終えてしまい手持無沙汰に、並んで立つ彼女の横顔を眺める。紙のように白い頬に黒い睫毛が長々と影を落とす。トミテは生まれた時から死神のような子だ。
「イザヨイさんの、牡丹の子はどうなったんですか?」
筆を走らせながらトミテが尋ねた。牡丹の子とは、牡丹色の組紐のケースの意味だ。
「こじれてる。さっきも、『あんたのそのパターナリズムがムカつくんだよ!』って、ブチ切れられた。はじめは呼んだら二秒で来てほしいって話だったんだけどね」
「うわ、きつい」
沙智という二十八歳の女性のケースで、十代の終り頃から自殺行為を繰り返し、現在に至る。当初から医療機関と繋がっていたため、死神課としては把握しながらも出動を見送ってきたらしい。それがこの頃になって、主治医も匙を投げかけているということで上が我々の出番と判断し、なぜか私に白羽の矢が立った。ほんの十日ほど前のことだ。
「いいんだけどね。別に怒ろうが泣こうが、構わないんだけど。ああでも、やっぱり思っちゃうな……同じ降臨なら福神とか、基本的に感謝されるところは」
羨ましい。ここだけのホンネに、ぽそり、とトミテが水をかける。
「福神課はみんな鬱になるって聞きますけどね」
「なんで」
「だって世の中は不幸な人ばかりじゃないですか。上から下まで、右を向いても左を向いても。しまいには『幸せって何だろうね』が口癖になるらしいですよ」
「福神の?」
「そう」
「ええー……ちょっと待て、何に希望を見出せばいいんだ、私は」
本当に頭痛がして頭を抱える私を見て、トミテはクスッと魔性の笑みを浮かべた。
「まあ、新神の私たちに割り当てられているケースはこれでも救う余地のあるものばかりみたいですよ。神の力をもってすればまだ対処可能というか」
「だろうね」
ケース検討会で先輩方の話を聴いていると本当にそう思う。希望は見えないけれど。
***
今度ナマメも誘って飲みに行こうよと誘うと、トミテは「わーい、嬉しい」と言った。いまひとつ棒読みなのだがそういう子なので、改めて声をかければ来るだろう。ナマメというのも青年係の同期の一人で、トミテと私と彼女で三人組のようになっている。
庁舎の近くに新しく構えた居に帰りつくと、アシタレが上がり込んで寝ていた。我々の世では昔も今も通い婚が主流で、恋人と伴侶の区別もあまりない。
「帰ったん?」
マントを脱ぐ音で覚めたのか、寝ぼけた声が後ろからした。床の上に起きだして眠い目をこすっているのが見なくてもわかる。私は構わずに黒服から着替える。夜着に纏いつくように、袖を通す私の背に重みが覆い被さった。
「あれ、衣が重いな」
「お帰り。待ってた」
ちっ。鬼があまい声を出しやがって。
「アシタレさ、恋人がいるのに死にたいって何だと思う?」
ええー、と悲鳴を上げて奴は離れた。
「嫌や嫌や、なんぼ仕事がつらいかてイサちゃん死んだらあかんて」
「死神が自殺してどうする、アホ。まじめに、仕事の話してんの。女がいるのに死にたくて、周りを女の死霊がうろついているって、どういうことだと思う?」
「なんやそれ、修羅場」
「まじめに訊いてるんですが」
「だって俺、せっかく来たのに他の男の話……」
負けじと拗ねて座り込み、口を尖らせる。アシタレはこういう奴である。
「課の方に周辺の調査要請は出してきたんだけど、ただ待っているわけにもいかないだろ。一応、迷っている霊を見かけたら冥府に通報する義務もあるし」
そこまで言うと、ようやくまじめな顔になってアシタレは姿勢を正した。
「それやったらただ窓口に行かんと、タマホメ様を訪ねて相談した方がええで」
「タマホメ様?」
「なんでもその昔、人間の娘から鬼になって、長いこと迷うとる子らの霊を束ねてはった偉い神さんや。その辺のことをようわかってくれるやろ。他のはあかん、冥府は人を裁くとこやさかい、することが手荒なんや。川原で店やっててもよう見かけるで、こう、無理無理に引っ張られてくの。迷うてるのにもそれなりの理由があるんやろに、気の毒や」
話しながら瞼の裏に情景が浮かぶらしく、しかめ面で首を振る。なるほど。膝を突き合わせ、私は尋ねた。
「そのタマホメ様は、どこに行けば会える?」