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第一夜

夜は助言をもたらす




 (ことわり)からの逸脱が人間らしさであるという。

 それはそれで良いとして。


 「――死神の仕事を増やさないでくれ」


 歩道橋の下を途切れなく駆け抜けてゆく車両の群れを眺めるうちに、言葉が零れた。私の声は冷気のゆらぎに紛れて消え、足元では誰かが手向けた白い花束のセロファンがパラ、パラとかすかな音を立てている。昨夜ここから一人飛び降りた。大型トラックに轢かれ即死であったという。担当はさぞかし無念であろう。

 茜の陽が横ざまに射し、細い風には煙の香りが混ざる。少し前までは踏み潰された銀杏のにおいで鼻が曲がった。それも時期が過ぎ、銀杏並木は静かに輝いている。これからが我々の繁忙期だ、とウミヤメ様はおっしゃる。勘弁してほしい。生命省人間庁人口調整局死神課自殺対策班青年係での最初の一年が終盤に差し掛かっているが、すでにごちそうさまの気分だ。これが神の仕事かと思うばかりの日々だった。迷った挙句神ではなく鬼になった恋人のアシタレは賢い選択をしたのかもしれない。ああ、神は神でも、もう少し理系科目ができていれば環境省に入れたのになあ。

 冷え切った缶コーヒーの最後の一口は金属の味がした。担当に会ったら渡してやろうと思いながらつい飲んでしまったお供え物だ。まあいいや。嫌味を言われたら謝ろう。

 踵の磨り減った黒ブーツの横に缶を置き、長い夜の訪れを前に伸びをする。黒のマントが顔にかかる。今日最初に訪問するのは新規のケースだ。アパートはここからそう遠くない。なるべく簡単に落着するといいな。マントの襟を直し、念じながら、私は飛んだ。

 今しも冷たい八畳間で首を吊ろうとする若い男の目の前に。


 「どうも。死神課自殺対策班青年係のイザヨイです」


     ***


 今から十か月ほど前。年の初め。新神(しんじん)の入職式に出席するため〈くう〉のお膝下にある講堂を訪れた私はすっかり舞い上がっていた。〈くう〉というのはいっさいの理の祖であり、要するに我々が棲む超自然界の長であるところの存在だ。ちなみに「存在」とみなすべきか否かをめぐる議論は遥か何十億年も昔から続いていて、本来御名がないのを我々は畏れ多くも〈くう〉もしくは〈無〉とお呼びしている。それはともかくとして、〈くう〉のお膝下に召集されるというのは他にない名誉であるので、私は舞い上がっていた。今も昔も難関といわれる神の試験に通ったことが嬉しくてたまらない、無邪気な子どもだったのだ。

 きっとあまい花の香りがするのかなあ、などと妄想していたが、さすが〈くう〉のお膝下とあって、一万の新神が集う講堂は柱も壁も床も天井も混じりけのない白の石材で造られた見事なシンメトリーの建物だった。そこにはただ光と、影があった。

 私が着いたときにはもう大方集まっており、一緒に合格した親友のヌリコが見えないかきょろきょろしていると、すぐに立派な金刺繍のローブを着こんだ老齢の神が前方脇の扉から入ってきて、舞台に設えられた壇上に立った。

 〈くう〉ではない。〈くう〉には御姿もなければ御声もない。この式を執り行う、おそらく神事院(じんじいん)の長官だ。

 「新神の諸君。入職おめでとう。諸君は本日から悠久の年月を神として勤めてゆくことになる。これから各々の配属先を告げるが、いずれの庁、いずれの課への配属であれ、神という我々の仕事は決して楽な仕事ではない。地道で難しく、そして多くは報われることのない仕事である。しかし我々が立派に務めることなくしては、〈くう〉が創り給うた理を維持することはかなわないのである。そのことを諸君には肝に銘じておいてほしい……」

 スピーチは退屈で、私は半分聞き流しながら舞台の虹梁(こうりょう)に施された美しい彫刻を眺めていた。シンメトリーでもそこだけ柔らかさの宿る紋様は、雲のようにも、水の流れのようにも見えた。ああ、きっと、世界のはじまりを表しているのだ。光でもなく闇でもない、「無」の中に〈くう〉がゆらぎを生み出され、ゆらぎから世界が生まれた。〈くう〉は「無」であり、「無」は〈くう〉である。しかし我々には、神である我々にも、光か闇によってしか「無」を捉えることはできない。そのように〈くう〉は遠い存在であられるのだ……。

 現実に根差した苦悩というものがまだ何もなかった私は、そんな途方もないことを次々に考えつき、神になった途端にすべてを悟ったような心地に浸っていた。名誉と幸福に酔っていたのだ。そんな空想も、周囲が一斉に胸の前で手を合わせたことでかき消され、私は皆と共に、「シンボル」すら飾ることの許されない〈くう〉の前で職務への誓いを立てた。

 ――と。ここまでは良かった。宣誓が終わると、神事院の長官は新神たちに講堂の入り口で渡された札を出すように指示した。いよいよ辞令の交付だ。新神は一万もいるので、今は何も書かれていない白木の札に、これから長官が「汝に以下の任を命ずる」の一声で各々の配属先を浮かび上がらせるらしい。効率的。

 神の試験は大きく分けて一般職と専門職に別れていて、私が受けた一般職の合格者は成績によって上から時空省、環境省、生命省に割り振られる。生命省は下界の最も具体的な事象を扱う省で、現場主義のため降臨機会も多くかつ仕事が細かいので管轄するエリアが限定されている。環境省はグローバルなので下界よりも超自然界の他所の地区への出張が多い。時空省はまさに世界(宇宙)の均衡を司る省であり、抽象的すぎて、形而上学と数学の才能を要する専門科目は私には端から理解できそうになかった。逆にいえば教養科目の成績のみで入れるのが環境省と生命省であり、時空省を狙っていても、専門科目が落第点なら環境省(か生命省)になる。私が引っかかったのが生命省。庁以下の配属先がこれから発表される。第五希望まで出せるというので私は第四までを鳥獣庁の部署で埋めた。第五が人間庁衛生局の福神(ふくのかみ)課だった。人間庁は嫌だ。しんどいことで有名だ。なぜなら理に従わないのが人間だから。ああどうか、せめて第三あたりで決まってほしい。

 「汝に以下の任を命ずる」

 白木の焼ける芳しい香りが立ち込めて、私は閉じていた目をそっと開いた。

 焼印のように現れた文字を見た。

 「うーーー、っげ」

 思わず声を漏らした口を手で塞いだが後の祭りだった。周囲はまじめすぎて視線すら注がれないのが余計に痛い。けれども恥じ入るよりも何よりも、私はたった今下された自分の先約三十年の運命に打ちのめされた。


 〈生命省 人間庁 人口調整局 死神課 自殺対策班 青年係〉


 死神課。言うまでもなく一番不人気な部署だ。


     ***


 第五希望まで人気どころばかり並べたのが裏目に出たか。

 この後は各部署に別れてオリエンテーションと指示されて周囲がぞろぞろと動き出しても、私はしばらくその場に立ち尽くしていた。

 死神課。一度配属されるとなかなか異動できないという噂もある。激務。汚れ仕事。嫌われ者。激務。激務。激務。動けん!

 「イザヨイ!」

 ぱっと現実に引き戻されると、目の前にヌリコが立っていた。

 「ヌリコぉー! どこになった?」

 私は涙目で、札を持ったヌリコの手に縋った。

 「人口調整局の……」

 死神?

 「産神(うぶがみ)課の安産班」

 ――う、うらやましすぎる。

 「めちゃくちゃいいじゃん……、感謝されるし」

 「うーん、どうかな。今は高齢出産だしね。イザヨイは?」

 言いながら私の手元を覗き込むと、ヌリコは急に落ちつきのない笑顔になった。

 「あっ、でも、最初に死神経験した神ってあとあとどこへ行っても働きぶりが違うとかって評価されるしっ。それにイザヨイなら案外向いてるんじゃない? 他人に引きずられて病んだりしなさそうだし」

 「どういうフォローだよぉ」

 早く移動しなさい、と出入口のところから係員に厳しい声で呼びかけられて、私たちは慌てて駆け出した。出るときにもじろりと睨まれて、それ以上私語するわけにもいかず、頷き交わしてそこで別れた。白木の札の裏側にはご丁寧に庁舎への地図が浮かび上がっている。間もなく同じ方向の一団に追いついた。なかなか大きな集団だ。同期だけでも百はいるだろうか。皆が皆私のように落胆しているかといえば、そんな様子でもない。皆まじめで平静な顔をしている。ああ、惨めだ。

 人間庁には衛生局と人口調整局があり、衛生局に福神課、貧乏神課、祟神課、人口調整局に産神課、死神課、疫病神課がある。死神課の内部はさらに班に分かれ、老衰班、病死班、事後処理班に加えて自殺対策班、さらに過労死班が創設された。「お迎え」のような楽な仕事は引退の近いベテラン向けの仕事で、若い神はとにかく体力と気力を求められる仕事を任されるとは、有名な話だ。

 本庁の裏山にある死神課の北第四庁舎は漆黒に金の荘厳な木造建築だった。黒い屋根瓦や装飾の気品はさることながら、新神が集められた本堂の艶やかな漆の床は鏡さながらに金の天井画を映している。どこで焚いているのか、ほのかに伽羅の香りが漂い、思わず手を合わせたくなる美しさである。装束のことをいえば、やはり福神のような華のある部署のものは素敵で、死神は質素な黒と決まっているのでそれもつまらないと思っていたが、この美しい本堂に一般的な礼装の新神が会してみると、白や他の色ではなく、黒に染まるのが至上の喜びであるようにも思えてくる。私が再び崇高な職務の幻想に浸りかけたところへ、係員が死神課の長であるウミヤメ様のご登場を告げた。

 襟と袖口に金の刺繍を施した黒の打掛を長く引きずり、背の高い女神が颯爽と入ってこられた。その御姿は未だ若々しく、黒い瞳は穏やかな知性を湛えている。

 「ようこそ、新神の諸君。我が今日の死神課を司るウミヤメである」

 夜気のごとく冴えた御声がお堂に響き渡った。緩んでいたのではなくとも、全体がピリリと緊張に引き締まるのを肌で感じる。

 「諸君の中には、死神課への配属となり気を落とした者もおるであろう。何を隠そう、我もそのような新神のひとりであった。だが、神の仕事には上も下もない。いずれの課の配属になろうとも、損もなければ得もないのだ。等しく難しく、等しく尊い仕事である。諸君も遠からず思い知ることになろうが、まずはこのことを心に留めてほしい」

 ああ、なんと凛々しい。お堂にウミヤメ様と私だけが向き合っているように思われた。

 「さて、実際的な話に移るが、我々が管轄する下界は今日多死社会である。下界が死者を多く生むとは、すなわち冥界が人口過剰になることを意味する。天国ばかりでなく地獄も死霊で溢れており、審判の待ち時間は過去十年連続で平均六年。窓口を倍にして対応しても審判を待つ死霊の列は一向に縮まらず、今後さらに伸長してゆくことが予想されている。順番を待ちきれずに列を外れる死霊の数も年々増加しているが、こうした死霊はどこへたどり着こうとも悪霊となるため深刻な問題である。

 無論下界人は死を免れぬ存在であり、加齢や病による宿命的死亡者数の増大は人口規模の拡大と相関するゆえ自然な現象である。しかしこれに対して、本来長寿を全うできるはずの人々の間に希死念慮が蔓延している状況については改善の余地がある。そこで我々死神課としては年間自殺者数の一万人減少を目標に掲げた十年計画を実施しておるところであり、本年がその中間年である。死を司る死神の仕事は、下界人に死ぬるべき時の訪れを告げることばかりではない。現代においてはむしろ、生命を持て余し、人生にくじけ、逃げ出そうとする者の死を阻み、生者の世に正しく根付かせることが最も重要な役割となりつつある。そのため、今日では状況に応じて衛生局との連携も一般的になってきた。孤立や悲嘆は福神課、貧困もしくは過剰な富に因るものは貧乏神課、遺恨に関わるものは祟神課が援護に応じる場合もある。また、本課は特に職員のバックアップに力を入れている。ケース会議は随時行うものとし、個人的な相談を受け付ける制度も導入している。ゆえに諸君は安心して、志をもって職務に励んでほしい」

 力強いお言葉には、私に割り当てられた仕事が課の中でも最もつらく励ましを必要とする職務であることが滲んでいた。とはいえその時は、私は周囲に混ざって熱烈な拍手を送った。ウミヤメ様の威厳が、この仕事に対するとりあえずの情熱を私に授けたのだった。


     ***


 「おやめなさいな、縊首(いしゅ)自殺なんて」

 真っ暗な瞳がぼんやりと私を見つめた。無精髭がここ数日の暮らしぶりを物語っている。物の少ない部屋。西窓から射す陽ばかりがいやに火照り、床が冷たい。

 「どうも。死神課自殺対策班青年係のイザヨイです」

 私はなるべく穏やかに聞こえる声で名乗り、優しげに見えるように微笑みかけた。

 「……死神?」

 男は口の中で呟くと、縄に手を掛けたまま、ふふっと寂しげに笑った。

 「そうか。俺は本当に死ねるんだな」

 死神を見て怖気づく者は、たとえ首を吊ろうとしていてもたいして本気ではなく、俄かに抗う力が湧いて本当に望んでいるのは死などではないことに自分で目覚めたりする。そうであれば簡単なのだ。だがどうやら、この人は本物さんだ。

 「残念ながら違いますね。自殺対策班の、と名乗ったでしょう。私はあなたの早すぎる死を阻みに来たんですよ」

 わけが分からないような顔をしているのでもう一度、今度はフルで肩書を名乗る。

 「私は生命省、人間庁、人口調整局、死神課、自殺対策班、青年係のイザヨイ、あなたの担当です。どうぞよろしく」

 手を差し出すと、男は案外素直に握手に応じた。神に触れると同時に、半分迷い出ていた魂が彼の体に戻り、瞳の奥には疑問の光が宿る。

 「……え、え? 神って公務員なの?」

 「似て非なるものですが、異動のある役職です。次は産神かもしれないし、福神かもしれません。それよりこの部屋寒いですね。ちょっと場所を変えませんか」

 男は呆気にとられたように目を瞬いている。

 「まずは話を聴きましょう。髭を剃って、身支度しなさい。食事くらい奢りますから」

 もちろん私の奢りではない。経費が出る。

 「イザナミさん、でしたっけ? 俺を止めようったって無駄ですよ」

 ふむ、さっそく抵抗するか。このまま連れ出せるかと、待ってやるつもりで窓の方を向いていた私は一息ついて振り向いた。

 「イザナミではなく、イザヨイですよ。満月の翌日の月を〈十六夜〉と書いて〈いざよい〉というでしょう。確かに伊弉冉尊(イザナミノミコト)黄泉国(よもつくに)の永世名誉大明神ですが、冥府の職員は専門職ですから、一般職の一役職である我々死神とは別物です。混同なさらないように」

 「……死なせてくれるのが死神の本分じゃないんですか」

 「少し違います。話せば長くなりますが、話すのは面倒ですね。聴くのも面倒でしょう」

 フン、と、男は顔を背けて捨鉢に笑った。

 「俺なんか助けて何になるっていうんですか。俺が消えたって誰も悔やまないし、俺もこの世界がほとほと嫌になった。今の俺にはそれこそ死だけが救いなんです。何もかも終わりにして、もう楽になりたいんすよ」

 うんうん、それはおまえのファンタジーだからな。

 私はにっこりと微笑んで、闇に沈みゆく部屋に明かりを点けた。まあ、利き手の人差し指をふっとやれば明かりくらいは造作なく点く。蛍光灯であろうとLEDであろうと。

 「残念ながらそう上手くもいかないんですよ。ハイ、お終い。というようには終わらないんです。亡くなる方が多すぎて、冥界は大変混雑しておりましてね。入り口の審査を受けるまでの待ち時間が現在平均で六年となっています。冥界の門前で長蛇の列に六年も並ぶくらいなら、その間に状況を変えることができますよ。あなたが生きていればね」

 ここで生命の尊さや倫理や輪廻のことをくどくどと説教するよりは、なるべく現金な話をして死に対する幻想を崩してやるのが今のところの私のやり方だ。なにしろ人間は死に対して甘美な幻想を抱きすぎている。そして死の幻想に憑かれた彼らが本当に希求しているのは安らぎと眠りなのだ。

 今や日は完全に落ちた。今日は語り出しそうにないと判断して、私は失望した様子で床に座り込んだ男の前に屈んだ。

 「今夜死なないことをしましょう。よく眠れるように(まじな)いをかけてあげます」

 「寝て覚めたって運命は俺の前からいなくなりませんよ」

 拗ねた子どものように呟く。

 「私はそれを変えるお手伝いをするんです。今、いくつですか、あなたは。名前は?」

 「知ってて来たんじゃないんですか、神様のくせに」

 「自分の口で言いなさい」

 「……眞輝(まさき)。今、二十五です」

 「では、眞輝」

 私はマントの下から例のものを出し、彼の左手首にしっかりと結わえ付けた。小さな石を編み込んだ特別な組紐である。

 「ミサンガ?」

 「これが切れた時が私との縁の切れ目です」

 私が立つと、眞輝は挑戦的な目を上げた。

 「そう簡単じゃないです。この勝負はきっと俺の勝ちで終わりますよ。イザヨミさん?」

 やれやれ、今度は月夜見(ツクヨミ)様と混同か。私は笑った。

 「イザヨイですよ。お手柔らかに」


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