あなたの人生を彩る一輪の花になれたら
「祝福、して差し上げないとよね」
ベロニカは窓辺に置かれた一輪挿しの花瓶を見つめながら一人感傷にふけっていた。
数日前に生けられたばかりのチョコレートコスモスは未だ瑞々しさを保ったまま花開いている。
窓から覗く空はすっぱりと線が引かれたように綺麗に二分されていた。東は燃え滾るように茜に染まり、西にはぽっかりと三日月が浮かぶ。そんな朝と夜の狭間の朝月夜。さっぱりとしている空模様とは裏腹に彼女の心には暗雲が垂れ込めていた。深閑としている書斎に彼女の呟きがぽつりと響く。
「だって──」
(こんな花、贈ってくるんだもの。きっと素敵なお相手でも見つかったんだわ)
割り切れない感情でもあるのか、ベロニカは自身の婚約者について思案を巡らせた。紫檀の机に置かれた一枚の絵葉書を摘まみ上げ、愛おしそうにそっと綴られた文字を撫でる。
彼女がこんな花、と称するチョコレートコスモスの花の言葉は恋の終わり。ベロニカの望みに反して、やはり婚約者は彼女への想いを失くしてしまったらしい。彼女は陽の登り切っていない暗がりで寂しく悲嘆に暮れる。
冬隣のこの季節、突如として吹いた風は強く、ばたばたと忙しなく窓が鳴く。隙間から入り込んだ朔風が彼女の頬をじんわりと冷やした。
ベロニカの婚約者は彼女の生まれた月になると、毎年、律儀に一輪の花を贈ってくれた。─あなたの人生を彩る一輪の花になれたら─、と記された一枚の絵葉書を添えて。
彼女はその墨痕鮮やかな筆跡を見るたび、どうせならば一輪の花じゃなく花束が良かった、と悄然としてため息をついた。
一輪の花となって仄かに色を付けるのでは無く、花束になって色彩豊かに飾り立てて欲しかったと。
道端に密かに咲く程度のちっぽけな存在では無く、盛大に咲き誇る花畑のような唯一無二の存在になって欲しかったと。そんな風に人生を共にしていきたかったと。
しかし、今やそれは叶わぬ夢で、届かぬ願いで。チョコレートコスモスのほんのりと甘い香りがそう彼女に告げていた。
彼女は一輪の花から絵葉書に視線を落とす。そこには例年とは違い、もう一つ、彼からのメッセージが書かれていた。
─生誕の日の出会いの刻、宮廷の庭園にて君を待つ─、今日は彼が指定するベロニカの生まれた日。程なくして迎えの馬車がやって来るだろう。そうすれば彼女はここを発たなければならない。
今年もまた、彼女は乾いた息を漏らす。その息は例年にも増して悲しみの色が強く滲み出ていた。
(きっと婚約解消の話だわ。でも、彼とは元々そのような約束でしたし)
彼女─ベロニカ・アーネストも、婚約者─ネイサン・ミハエルも侯爵家の生まれだ。
清楚で純朴で可憐という言葉が良く似合うベロニカと、無口で寡黙で静謐という言葉が良く似合うネイサン。二人の婚約はベロニカが13歳になった日に結ばれた。
13歳と言うとこの国ではデビュタントを迎える年齢で。偶然にも誕生日に開催された舞踏会で、デビュタントを果たすべく彼女は宮廷に出向いていた。
馬車を下り、両親に手を引かれ連れられた場所は会場であるはずの大広間、では無く、花咲き乱れる庭園だった。そこでベロニカとネイサンは出会い、二人の両親に婚約の成立を伝えられた。
アーネスト領も、ミハエル領も安定した領地であり、社交界でも周辺地域の中でも確固たる地位を築けている。資金も潤沢とは呼べないがそれなりにある。だから、そこまで齷齪と裾野を広げる必要はない。それにベロニカは末娘であり、ネイサンは次男。家督を継ぐべき立場でも無いため、政略を強要するつもりはない。
親の欲目としては二人には恋をして、愛を知って、そうやって人生を共にする相手を、寄り添う相手を見つけてほしいと思っている。ただ、社交界の手前、婚約者が居ないのは何かと不便だ。今回の舞踏会もパートナーの同伴が義務付けられている。
そこで、我々は仮の相手として二人の婚約を結ぶことにした。運命の相手が見つかればいつでも婚約を解消してもらって構わないと考えている。お互いを拠り所としつつ、好きに恋愛をしてほしい。
と互いの両親に告げられ、解消を前提とした二人の婚約生活は始まった。
(彼を困らせたくないもの、だから、笑顔で送り出して差し上げたいわ)
誰に見られている訳でもないのに、ベロニカは心の中で虚勢を張る。そして一輪の花へ静かに笑いかけた。
枯れ落ちた紅葉が全てを覆い隠すことで大地を華やかに装うように、彼女もまた、儚く募らせた恋心を淑女の笑みで包み隠し凛と装うのだ。
ネイサンは、口数は少ないが優しい人間だった。
ベロニカを庇護するように常に半歩手前を歩き、屡々気遣うように視線を向ける。そして、折に触れて手を差し伸べた。差し伸べられた手はいつも、硝子細工に触れるかのような柔和な手つきで。何時だって丁重にベロニカを扱った。
13歳、ベロニカが初めて貰った花は黄色いコスモスだった。
出会いの舞踏会で二人は合間を縫って訥々と言葉を交わした。社交辞令のような深堀しない上辺だけの会話。そこで彼女が誕生日であることを知ったネイサンは別れ際にささやかな贈り物をした。黄色いコスモスと短い言葉が綴られた絵葉書。口下手な彼の、浪漫に溢れた行いにベロニカは少し驚き、明るく可愛らしいその花に口元を綻ばせた。
14歳、ネイサンはベロニカにサンビタリアの花を贈った。
この頃まで、ベロニカとネイサンの関係は付かず離れずの距離感で続いていた。仮の婚約者以上の感情を抱いていなかったベロニカに、ネイサンを恋愛対象として意識させたのは他でもないネイサンだった。
普通の婚約者と同じように月に数回程度の交流を重ねていた二人。決まって出るのは、想い人は出来たのか、気になっている人はいるかといった恋に関する話題だった。いつものように話題を出したベロニカにネイサンは“それはあなたです”と一言消え入りそうな声を発した。そして手渡されたサンビタリアの花と絵葉書。ベロニカは自分が誕生日であったことをその時思い出した。赤面したネイサンの表情にベロニカの頬まで赤らみ、二人の恋は始まったのだ。
15歳、ベロニカが貰った花はペチュニアだった。
この年の春、ミハエル領は領地経営に失敗し少なくない負債を負っていた。行商人の口車に乗せられ手を出した商い。それが詐欺であったことを知った時にはもうすでに遅かった。ミハエル家の信用は徐々に失墜し、無能領主と囁かれるようになっていのだ。
ネイサンはそれでも失った信用を取り戻そうと必死に各地を駆け巡っていた。日に日に険しくなっていく彼の表情、日に日に痩せ細っていく彼の身体。婚約者として出来ることはそう多くはなかった。強いて言えば普段と変わらない態度で彼に接すること。ベロニカは努めて平静を装った。彼の居場所に自分がなれたら、彼の心休まる場所になれたら。そう思いながら彼との日々を過ごした。やっと地に足が付いた生活が取り戻せてきた頃、ネイサンは彼女にペチュニアを贈ったのだ。“いつも感謝している”そんな言葉を口にして。普段、あまり感情を表に出さない彼のしどろもどろな言葉を聞いて、ベロニカは彼を心の底から愛おしく感じていた。
16歳、彼が彼女に贈った花はリンドウだった。
数日前ベロニカの父が不慮の事故により急逝した。その知らせを聞いたネイサンは息せき切って彼女の元まで馬を走らせた。太陽の日差しが大地を焼く、夏の暑い日のことだった。
ベロニカの父親を弔う最中、震える彼女の手をネイサンは固く握り続けていた。涙を零す間さえもないほどに忙しく過ぎた日々の中、彼は黙って彼女に寄り添い続けた。そして、ふと彼が彼女に笑いかけた瞬間、堰を切ったようにベロニカの瞳からは涙が溢れ出し、ネイサンはそんな彼女を静かに抱擁したのだ。ベロニカが自然と笑顔になれるまで、彼は彼女の下を離れなかった。ベロニカの説得の末、一度領地に戻ったネイサンは去り際、彼女にリンドウの花を手渡した。寂しさに押しつぶされそうな時、ベロニカはその花の爽やかな香りを聞き、ネイサンの絵葉書を眺めてやり過ごしたのだ。そんな彼の物言わぬ力強さにあの時のベロニカが何度も救われたのは言うまでもない。
こうして、多くは語らない彼の確かな優しさにベロニカは次第に惹かれていき、恋心を募らせていったのだ。
「ベロニカお嬢様。出発の準備が整いました」
「ええ、ありがとう。今行くわ」
物思いに耽っていたベロニカは侍女の声掛けに軽く返事をする。彼女はゆったりと立ち上がり、落ち着き払った動作で書斎を後にした。
顔を出した太陽によって一輪の花に光が差す。彼女が去った後の書斎は温かな光に溢れ、柔らかな静寂が辺りを包み込んでいた。
***
「ネイサン様、今日こそ彼女に想いを伝えないといけませんよ」
「ああ、分かっている」
「しっかりと伝えてくださいね。そうでなければ宙ぶらりんな彼女が可哀そうだ」
「ああ」
従者の小言にネイサンは静かに頷いた。
冷静沈着にも思える彼の態度が、只、緊張しているだけであることを長年の関係で知っている彼の従者は彼の強張った顔を見つめふっと笑った。
「頑張ってください」
「ああ」
従者はネイサンの肩を小突く。彼の振る舞いにネイサンは口元を僅かに緩めた。
秋の昼下がり、乾いた風が一面の花畑を緩やかに揺らしている。コスモスの花達は思い思いの色で鮮やかに咲き乱れ、花に笑いかけたベロニカの幼い表情が彼の脳裏にちらついた。
「ネイサン」
記憶の中のベロニカに気を取られていたネイサンの耳には、聴き馴染んだ声が届いた。
「ああ、ベロニカ。済まない、ここまで呼び出して」
「いえ」
短く返事をするベロニカは淑女の笑みを浮かべていた。その瞳の奥に潜む悲しみの色にネイサンはすぐさま気づき、口を開いた。
「どうして──」
「ネイサン、おめでとう」
「え?」
「素敵なお相手が見つかったのでしょう?私のことは忘れて幸せになって頂戴ね」
笑みを崩さず祝福の言葉を告げるベロニカ。ネイサンの疑問はさらに膨れ上がっていた。言葉も、浮かべる表情も、普段と変わりないはずなのに、やはり彼女はどこか寂し気だ。
「どうして、そんなこと……?」
「だって、あなた。チョコレートコスモスなんて花、贈ってきたじゃない」
「ああ、あなたに僕の気持ちを伝えたくて」
書物で調べた言葉の意味を想起し、彼はやはりこれしかないと自分を落ち着かせる。しかし、ベロニカは彼の発した言葉を聞き、眉間に皺を寄せた。
「あんな花、贈ってくるなんて。婚約を解消したいって意味でしょ?素敵な相手が見つかったって言うのに、なんでそんなに戸惑っているの?」
「いや、なんでって」
「花の言葉は、“恋の終わり”……でしょう?」
「え……?」「え?」
二人は短く声を漏らし、目を見合わせた。そして、ネイサンは小さく笑い、口を開いた。
「違うよ。全然違う。“移り変わらぬ思い”だよ。僕はあなたに出会った時から移り変わらないこの気持ちを伝えたくてその花を贈ったんだ。そして、今日はあなたにどうしても伝えたいことがあってここまで足を運んでもらった」
「移り変わらぬ思い……?」
「ああ、そうだ。僕達はここで出会って5年が経った。僕はあの日、あなたに一目惚れしたんだ。黄色いコスモスに笑いかけるあなたに」
記憶の中の彼女がネイサンの瞼の裏には浮かんでいた。亜麻色の髪が風に揺られ、黄色いコスモスに笑いかけた幼いベロニカ。澄んだ青の瞳がコスモスの黄色を反射して輝いていた。ちっぽけな花にすら笑顔を零す彼女が可愛らしくて、彼は気付いたら恋に落ちていた。
「だから、あなたが笑いかけていた黄色いコスモスを僕はあなたに贈った。その花の言葉が“幼い恋心”だと知った時はあの時の僕にぴったりだと思って、嬉しかった。あの日から僕の想いは変わらない」
「そんな小さなことで?」
「ああ、僕もびっくりだったよ」
彼自身、彼女の虜になってしまった自分を疑った。しかし、恋は盲目と言う言葉はどうやら正しいらしいと自分を納得させた。そうしないと抑えきれないほど、彼はベロニカの笑顔を忘れることが出来なかった。
「でも、落ちるようにあなたに恋した僕と違って、あなたは僕を意識していなかった。腹立たしかったよ。あなたしか眼中に無いっていうのに、あなたは僕に好きな人が出来たかなんて残酷な事聞くんだ。どう答えていいか、いつも戸惑っていた」
「それは、ごめんなさい」
ベロニカは瞳を僅かに翳らせた。そのころころと移り変わる彼女の瞳にネイサンは口元を綻ばせる。
ベロニカもネイサンと同じように口数の多いほうでは無かった。しかし、目は口程に物を言うとはよく言ったもので、ベロニカは瞳の色を頻繁に変えた。そんな彼女の変化にネイサンはいつも見惚れていた。
「違うよ。僕は謝ってほしいわけじゃない。僕がどれだけあなたを好いているのか、伝えたいだけなんだ。あなたと関われば関わるほど、僕はあなたを好きになった。僕はあなたの視界に入りたくて、サンビタリアの花を贈ったんだ。花の言葉は“私を見つめて”、僕の気持ち、少しは伝わっていたかな?」
「ええ、当たり前じゃない」
ベロニカは小さなひまわりのようなその花を思い出す。そしてあの時、震えていた彼の声を。当時の胸の高鳴りが蘇ってきて、ベロニカも口元を綻ばせた。
「それなら、良かったよ。ミハエル家が無能領主だと皆が口を揃えて詰った時、あなたは普段と変わらない態度で僕に接してくれた」
「でも、私、それしか出来なかったわ」
ネイサンの想いに反して、自責の念に駆られるようにベロニカは唇を噛み締めた。そんな彼女の反応を見て、ムッとしてネイサンは口を開く。
「それしか、なんて言わないでくれ。僕はあなたのその態度に何度も救われたんだ。だから、いつかあなたが悲しみに暮れたとき、身を挺してでもあなたを守ろうと心に誓った。これが愛というものなんだと僕はその時初めて知った。あなたへその気持ちを伝えたくて、ペチュニアの花を贈った。僕は“あなたと一緒なら心が和らぐ”んだ」
俯くベロニカの視線を上げたくて、ネイサンは彼女の手を取った。大きなその手は彼女の掌に優しく触れる。ベロニカはピンクと白の花びらを懐かしむように遠くを見つめた。
「来てほしくは無かったけれど、あなたが悲しみに暮れる日は想像していた以上に早く来てしまった。アーネスト侯爵が亡くなったと聞いて一番にあなたの顔が頭に浮かんだ。あなたはころころと表情を変える癖に、本当に辛い時、上手く誤魔化せてしまうところがある。絶対に人に頼らないような人だから、僕はあなたが心配だった。だから僕はあなたが涙を流した時、少しほっとした。僕もあなたの居場所になれたのかなって」
「とっくの昔になっていたわよ」
当時の日々を思い出すようにベロニカは顔を歪ませる。潤んだ瞳がネイサンを見上げ、彼はふっと息を漏らした。
「それなら、良かった」
「いつまでだって、あなたの傍に居たかったよ。あなたに寄り添って支えてあげたかった。でも、そう上手くはいかないから。僕はその気持ちをリンドウの花に託した。“あなたの悲しみに寄り添う”、僕はいつだってあなたの傍に居るって伝えたくてこの花を贈った」
「私、毎日あの花と絵葉書を眺めていたわ。あなたが傍に居てくれる気がして、寂しさが紛れたの。何も言わないで傍に居てくれたあなたが、リンドウの花がどれだけ私の救いになったか分からない」
ベロニカの反応にネイサンは目を細めた。二人の脳裏には青紫をした淑やかな花が浮かぶ。彼はあの時と同じように固く彼女の手を握り締めた。
「それなら、良かった。僕は情けないことに言葉足らずなところがある。伝えたいことであればあるほど、上手く言葉にならなくて、いつも言い淀んでしまう。だから花に頼ったんだ。花の言葉に。でも、本当に伝えたかった思いは花の種類じゃなくて、本数にある」
「本数?」
「ああ、一輪の花の言葉は、“運命の人”」
──あなたの人生を彩る“運命の人”になれたら──
ネイサンの脳裏には何度も脳内で反芻し続けたその言葉が浮かんでいた。
ベロニカは彼の言葉を理解したのか、泣き笑いのような表情を浮かべる。
「分かりにくいわよ」
ぼそっとベロニカの口から零れ出た言葉にネイサンははにかんだ。そして少し大げさすぎる呼吸を一回すると、口を開いた。
「僕と結婚してほしい」
ベロニカの目の前に言葉と共に差し出されたのは一本の赤いバラ。彼の発した言葉は今までに無いほどにしっかりとベロニカの耳に響いていた。
彼の言葉にベロニカは小さく頷き、幸福の色が浮かぶその瞳からは一筋の涙が零れ落ちた。
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