第二章 危険な絆(その三)
一昨日のことを思い返してみるが、特別なことは思いつかないなあ。昼メシにパスタを作ってやったことぐらいか?
それを特に凛香が喜んでたフシはなかったと思うが。
「お兄様、そんなに物思いにふけるということは、何か思い出されましたか?」
「いや、一昨日俺の部屋に凛香が来たとき、コーヒーを淹れてやったら、ミルクはないのか!って怒られたなあ、ってことを思い出してた」
「え! リンちゃん、一昨日、お兄様のお部屋へ行ったのですか?」
「え? いや、ああ、来たよ。なんかおふくろに俺の様子を見てくるよう言われたみたい。特に何もなかったよ。部屋を見たら、すぐ帰ったし」
「…………」
さっきの様子だと、凛香がその日に泊まったことを希砂ちゃんに言うのはヤバい気がする。いろいろ妄想されたあげく、とんでもない誤解を生みそうだ。絶対黙っていよう。
希砂ちゃんは疑わしそうな目付きを俺に向けたようだったが、もしかすると俺の思い込みかもしれない。幸いなことに、凛香が俺の部屋を訪ねたことについて、希砂ちゃんからそれ以上の追及はなかった。
「……お兄様」
希砂ちゃんがズイッと上半身をこちらに乗り出した。闇落ちした眼が怖いが、目と鼻の先につき出された整った顔立ちと、希砂ちゃんから漂うふんわりとした甘い香りに、俺は不覚にもちょっとだけドキッ!としてしまう。
「あなたと凛香さんは血の繋がった兄と妹ですから、万が一にもおかしなことは起きないと思いますが、世の中には男女を問わず、不埒なことを考える輩が大勢います。
学校では、凛香さんに手出しをするような愚か者には、わたしがお引き取りいただくことを徹底しているのでご安心いただいて結構ですが、学校外ではわたしが把握できないこと、対応できないことが数多くあります」
うーむ、「お引き取りいただくことを徹底している」っていったい何やってんのよ、希砂ちゃん……。
「そこでお兄様に提案があります。わたしと同盟を組みましょう! ともにリンちゃんを守るのです!
お兄様、仮にもあなたは凛香さんの最も近いお身内なのですから、凛香さんを守る義務があるのですよ!」
同盟?! おいおい、戦略シミュレーション系のネトゲか、世界史の授業ぐらいでしか聞いたことのない単語だよ。リアル世界でそんな言葉を口にする中三女子なんて、聞いたことないぞ。
まあここに一人はいるわけだが。
「学校外の凛香さんの行動について、お兄様のわかる範囲でいいですからできるだけ細かく、わたしに情報提供いただけませんか?
後の処置はわたしの方で責任もって対応しますから、お兄様にご迷惑はかかりませんし、ご心配も不要です。
それさえ徹底いただければ、凛香さんに群がる蟲どもは間違いなく排除して、凛香さんの純潔をお守りすることをお約束します!」
闇落ちした瞳に闇の業火を激しく燃えあがらせて、希砂ちゃんが迫ってくる。怖いよ。
「……いやあ、さすがに妹をスパイするみたいなマネはできないよ。第一、俺にメリットないし。
それをやって妹が喜ぶなら考えなくもないが、希砂ちゃん、今言ってた『不埒者にはお引き取りいただくことを希砂ちゃんが徹底してる』って話、凛香は知ってるの? もしかしたら知らせてないんじゃないの?
もし俺が今の話を凛香にしたら、希砂ちゃんのこと、凛香はどう思うかな?」
「!?」
たちまち希砂ちゃんの顔から血の気が引いた。
俺の知っている凛香というヤツは、良いことも悪いことも自分でしっかり受け止めて、自分で判断し対応することを良しとする性格のはずだ。
自分に届く前に、自分以外の誰かの判断でモノゴトが決められたり、情報が届かなくなるなんて、絶対納得できないタイプだと俺は認識している。
妹が中学受験したとき、学力的にはもっと上位の超人気校にだって行けるレベルがあったから、うちの両親はそっちの学校を受けるようにかなり積極的に動いたのだが、彼女は「キライな学校だから絶対に受けない、行かない」と言い続け、親が命じようと懐柔しようと、絶対に受け入れようとはしなかった。
受験シーズン直前、大変お世話になった塾の先生に「合格実績のために何とか協力してほしい」と頭を下げられ、懇願されてその超人気校を渋々受験し、その後は結果を見ようともせず、人から合格を知らされても「へー、ふーん」と他人事のような反応しか示さなかったようなヤツだ。
自分が知らない間に、他人の関与で、本来自分に起こるべき事象が起きない状態になっていると知ったら、そしてそれに関与しているのが親友と思っている人物だったら、彼女は激しく怒るだろう。
凛香のことだから、もしかすると親友の気持ちを慮って表面的には怒ったそぶりは見せないかもしれないが、心の中ではその裏切りに深く傷つくことだろう。
凛香の親友と自称し、凛香もそれを認めている希砂ちゃんが、そういう凛香の性格を知らないわけがない。
「……まさかお兄様、わたしを脅す気ですか」
悔しそうな表情で下を向いたまま、希砂ちゃんは固まってしまった。
凛香を大切にしたい、守りたいという希砂ちゃんの気持ちはすごく伝わってくるし、兄としては本当にありがたいと思う。そこまで思ってくれる友人がいるなんて、凛香は幸せ者だと思う。
でもその気持ちが強すぎた結果、凛香が嫌な思いや悲しい思いをするというのは、やっぱり違うだろう。それは凛香の気持ちが尊重されていないということだ。
たしかにこれをネタに超絶美少女・希砂ちゃんを脅して、あーんなことやこーんなことを……という考え方もあるにはあるけど、そんなことバレたら凛香がまず黙ってないだろうし、そもそもこの娘自身の闇が深過ぎて、どんな報復をされるかわからない。君子危うきに近寄らず、だ。
「大丈夫だよ、今の話は絶対凛香にはしないよ。約束する。
むしろ、そこまで凛香のことを想ってくれてありがとうな。さすがは凛香の親友と言ってくれるだけのことはあると思う。
ただ、希砂ちゃんの求めに応じることはできないよ。凛香はきっとそういうことを望まないと思う。どうして凛香が望まないのか、希砂ちゃんならわかるだろう?」
希砂ちゃんはうつむいたまま、こくり、と頷いた。さっきは闇の化身のように恐ろしげに見えた希砂ちゃんが、今は、怯えきったただの小さな女の子に見える。
彼女の両膝の上に置かれた手は強い力で握りしめられている。顔を覗き込むと今にも泣きだしそうだ。
とはいえ、仮にも妹が「親友」と言っている女子を泣かせるわけにはいかないよな。
「ゲヘンゲヘン! ん、んんっ、だ、だから希砂ちゃん、同盟とかいうのは無理だけど、凛香に何か普通と違う行動とか気になる発言があったら、俺の気づく範囲で伝えるようにはするよ。
そのかわり、凛香の考えていることが俺にはわからないことが多いから、希砂ちゃんが俺から凛香の話を聞いて、妹が何を考えてるのかわかったら、その内容を俺に教えてほしい。それでいいか?」
希砂ちゃんは、ハッ、と顔を上げて、俺の真意を測るように俺の顔をジッと見つめた。
俺が照れ隠しに指で頬を掻くと、それをきっかけに彼女は眉根を開き、それから弱々しく微笑んだ。
「……お兄様、ありがとうございます。そんなふうに言ってくださるとは思いませんでした。
でもいいのですか? それではご自身がおっしゃっるとおり、凛香さんをスパイすることになってしまいますよ?」
「都合のいい言い訳かもしれないけれど、こういうのはスパイって言わないんじゃないかな?
俺は女子が考えてることがわからなくて、一番身近にいる妹が何を考えてるかすらわからない。だから妹の親友の希砂ちゃんに、妹の変わった動きや気になる動きを相談して、妹が何を考えているかについてアドバイスをもらいたいんだ」
俺がそう言うと、希砂ちゃんは目を丸くしてぱちぱちと瞬きした。
「俺ってモテそうにないだろ? 女子相手に何話していいかもわからないし、センスもなければ、気の利いた対応もできない。
俺が一人暮らしを始めたのは非モテ生活を脱出するためなんだよ。
女子にモテるようになるためには、まずは一番身近にいる妹の気持ちが理解できるようになること、そのあたりが第一歩だと思ってる。そのために希砂ちゃんも協力してくれると嬉しい……んだけど……」
話を聞いていた希砂ちゃんの様子が変わっている。さっきまではキョトンとした表情だったのが、何だか苦いものを口に入れられたような、呆れたようなビミョーな顔つきになっている。
「……お兄様、なんなのですかそれは。ご自分がモテたいために、最も身近な女子であるリンちゃんの気持ちがわかるようになりたいとおっしゃっているのですか?
途中まではわたし、お兄様に対する感謝の気持ちをもって話を聞いていましたけれど、今の話ではお兄様自身の願望を実現することが目的ということですよね?
自分の願望を実現する行動をとるという意味では、わたしと同じではありませんか!
そんな人に一瞬でも感謝の気持ちなんてもってしまうなんて、わたしバカみたいですわ! はああああ……」
盛大なため息を吐いたあと、気を取り直した希砂ちゃんは、その綺麗な顔にニヤリと凄絶な笑みを浮かべた。
「でも気に入りました。わたし、お兄様とは仲良くやれそうですわ。同盟というより、同志って感じでしょうか。
先ほどお兄様がおっしゃった条件で結構です。お兄様はリンちゃんの気になった様子をわたしに伝える。わたしはその様子からリンちゃんが考えているであろうことをお教えする。ギブアンドテイクでいきましょう」
「うん、わかった。よろしく頼む」
合意の握手をしようと、俺は希砂ちゃんに自分の手を差し出し、希砂ちゃんも手を差し出しかけたのだが、なぜか彼女は途中で動きを止めた。
「お兄様、お互いを本名で呼び合うと、リンちゃんが何かの機会にそれを聞いたり目にしたりして、私たちの関係を怪しむおそれがあります。お互いコードネームを決めておきましょう。
そうですね、英語で絆のことはボンドといいますから、わたしのことは『同志ボンド』とでもお呼びください。お兄様のことは何とお呼びすれば?」
「そうだな、俺は凛香の知らない裏アカでは『シャオロン』と名乗ってる。同志シャオロンでどうだ?」
「わかりました。それでは同志シャオロン、よろしくお願いします」
俺と希砂はガッチリ握手をした。
そうしてようやく凛香が戻ってきた。
「ただいまー! わたしがいない間、なに話してたのー? 盛り上がった?」
希砂ちゃんの黒い瞳には穏やかな光が戻り、何事もなかったように、超絶美少女の姿を取り戻している。
「いや、リンちゃんはお兄様と仲良しでうらやましいな、って話をしてたんだよー。なんか一昨日、お兄様のお部屋に行ったんだって? リンちゃんそういうこと、わたしには教えてくれないから」
凛香は一瞬、希砂ちゃんに見えない角度で「チッ!なんで言うのよ!」みたいな顔をして俺を睨んだが、何事もなかったようなにこやかな顔で、希砂ちゃんを振り返って言った。
「あー、言ってなかったっけ? お母さんに頼まれて、お兄ちゃんの新居の様子を見てきたんだよー。親バカだよねー、あははは……」
「そうなんだー。だったら言ってくれればいいのに。わざとわたしには黙ってたのかなー、なんて変なこと考えちゃった。ゴメンねー」
その表面上はにこやかだが、実は心の中ではエグいやり取りが行われている様子を見て、俺は中三女子たちといえども決して一筋縄ではいかず、油断すると相手に飲み込まれてしまう、ということを初めて実感した。
女子たちがみな、こんな年齢の時分から丁々発止の鍔迫り合いや駆け引きを繰り返しているとすると、俺の同年代の女子たちはどれだけ手管に長けており、俺たちより大人なんだろうか。
俺は自分のモテ生活の夢が、にわかに現実味を失っていくことに、内心動揺を隠せなかった。
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