第二章 危険な絆(その一)
「そんな感じで、わたしの気持ちとかなーんにも考えないワケよ。ほんとイヤになっちゃう!」
「それでも『お昼ごはん、好きなの食べてもいいよ』って言ってフォローしてくれたんでしょう? いいと思うけどな。わたしはちょっとうらやましい」
「いやいや、本人を見てないからそんなこと言えるんだよ! ほんとに気が利かないし、オタクだし、ダサいし、どーしよーもないんだから!」
どうやら、俺の知らないところでこんな会話があった、と後日知った。
安井仙人からの的確な指摘を受け、フォローがうまくいった結果、妹・凛香は機嫌を直し、俺はその日をなんとか乗り切ることができた。
電車を降りた俺たちは、繁華街にある目的のウエアショップに向かう途中、凛香様のご指定によるお洒落なカフェレストランでブランチを摂った。
波打つような白い壁のうえに、朱色に光る瓦が乗っている南欧風のカフェで、外には白いパラソル席が並んでいるお店だったので、少々ビビりつつ店に入ったのだが、メニューはリーズナブルで正直ほっとした。
まあ、凛香はその辺もわかったうえで店を選んだのだろうが、食事が済んでデザートが出る頃の顔つきや態度を見る限り、おおむね満足しているように見えた。
そのあと目的地のショップに行き、あーでもない、こーでもない、という凛香の指示に従って試着を繰り返し、最終的にはふたパターンのトータルコーディネートを決めてもらったので、その両方を買った。
お札を二枚出して、僅かなお釣りが返ってきただけだったのだが、凛香に言わせれば「それでもかなり安くまとめたほうだよ」とのこと。
服代にそんなにお金をかけたことのない俺としては、世の中の人たちは着る服にそんなにお金をかけていることを知って、少なからぬショックを受けた。
まあ、夏コミなんかに行けば、それを余裕で上回る金額分の同人誌を俺も買ったりするから、何にお金をかけるかはその人の価値観なのだろうけれども。
そんなこんなで、なんとかミッションを達成するとともに、凛香にもヘソを曲げさせず、無事に実家にご帰還いただくことができました。大変おつかれさまでした。
昨日一昨日の嵐のような凛香の来襲のときとは打って変わって、俺は心穏やかに今日、日曜日の午前中を過ごしている。
何時まで寝ていようと、どんな格好をしていようと何も言われない生活って、こんなに良いものだったのか。あらためて、一人暮らし万歳!
それにしても、安井仙人恐るべし、だ。
昨日、電車の中から俺がDMを送って、ヤツが的確な三つのコメントを寄越すまで、若干のやり取りとわずかな時間しかかかっていない。
そのコメントに従って対応しただけで、あれだけ不機嫌だった凛香、それも相当面倒くさい性格の妹が、ころっと機嫌を回復させたのは今でも信じがたいことだ。
三つもらったコメントのうち、二つのコメントへの対応だけであそこまで凛香の態度を変えられるのだから、三つ全部対応できていたら、いったいどうなっていたのだろう。
さすが女性心理に関して「仙人」と異名を取る者、振り返ってみてあらためて感服せざるを得なかった。
安井仙人、彼はいったい何者なんだろうか。とてもただの大学生とは思えない。
検索サイトで「安井仙人」と入力して調べてみても、出てくるのはすでに知っている情報ばかりで、目新しいものはなかった。考えてみれば、本人は「安井」としか名乗っていないから、「安井仙人」で調べても仙人と接点があった仙人の周りの人の話しか出てこない。ウワサ話の域を越えない情報しか出てこないのだ。
かと言って「安井」で調べると絞り込めず、どれが関係のある情報なのか特定できない。
まあ考えてみれば「安井」が実名かどうかもわからないわけだから、そもそもが雲をつかむような話だ。
来歴その他は謎の人物ではあるが、昨日の一事からしても、女性心理をつかむという点では大いに卓越した人物であることは間違いない。
その安井仙人から「女子を苦手な男子」改メ「じょにだん」に真名を改名された俺って、逆にどれだけ女ごころがわからないのか……。
一番近い女子である妹の気持ちもわからないのだから、接点のない一般女子の気持ちを察するなど、到底無理な話なのではなかろうか。
そんな絶望感に襲われる。
いずれにせよ、仙人には昨日の礼はきちんと言わなければいけない。その接触をきっかけに、仙人の女性心理把握のコツを俺も身につけられるよう、教えを乞うことはできないものだろうか?
差し当たって俺は、お礼の言葉をDMすることにした。
「昨日はありがとう」
「アドバイスのおかげで妹の機嫌は急回復し、買い物も無事に終えることができた」
「ほんとうに助かったよ。ありがとう」
なんだかありきたりで何のひねりもない礼文だな。もっとも礼文なんて、基本的にはパターンが決まっているから仕方がないとは思う。
次に書くべきなのは、三つのコメントのうち二つめのコメント「女が男と出かける際の心理を理解しとらん」についてだ。
あのとき、他の二つのコメントについては自分なりに解釈ができたが、このコメントについてはうまく解釈できなかった。そこでこんな風に書き込むことにした。
「昨日もらった三つのコメントのうち、女子が男子と出かけるときの心理というのは、俺にはあまりよくわからなかった」
「ご指摘のとおり俺は『じょにだん』だから、妹の心理を察するには、まだ経験値が足りなさ過ぎたんだと思う」
「特にウチの妹は生意気で、俺に対する当たりも強くて、一般的な女子とは心理的な違いがあると思うんだがかそのあたりはどうなんだろう?」
「そのあたりについても、もう少し詳しく教えてほしいと思ってる。今後の参考にしたいと思うので、よろしく頼む」
これでOKと。
仙人にお礼かたがた、メッセージを送っておいてから、俺は妹がいた二日間できなかった片付けものとか、洗濯などの家事をやることにした。
妹は俺の部屋が結構片づいていることに驚いてたみたいだったが、片づいた状態をキープするために、俺だってそれなりの努力はしているのだ。
放っておくと、たちまちペットボトルだって溜まってくるし、プラごみなんかでゴミ箱もすぐいっぱいになる。
洗濯物だって、取り込んでそのままにしておくと、シワが寄ったままになったり、ホコリまみれになってしまうのだ。
実家にいるときは、洗濯物は、洗濯機に放り込んでおけば自動的に洗われ畳まれてタンスに入っていたし、ゴミ箱のゴミもいつの間にか消えていた。
あれは、俺がいない間にどこからともなくコビトさんが現れてやってくれてたわけじゃない、ということを一人暮らしを始めてから、あらためて認識した。
誰かが、別の誰かのことを想って、「その人が喜ぶといいな」という小さな願いを込めて行なうちょっとした「何か」――された側は往々にして気づいていない場合もあったりする――は、想われる側からすると、とても貴重でありがたいことだ。
たぶんこれまで、俺はいろんな「誰か」から、そういう「何か」をたくさんもらってきたんだなと、いまさらながらに思う。一人暮らしを始めてみて、そういうことに気づく機会が思っていた以上に増えた感じがする。
気がついたからには、俺もどこかで誰かに「何か」をしてあげられる側になれるといいな。最近はそんなことを思ったりしている。
おいおい、大学生になって俺、なんだか急におとなの階段を昇っちゃってる?笑
冗談半分、そんなことを考えてみたりするが、他方、仙人の助けがないと満足に妹のご機嫌をとることすら出来なかったりもするわけで、ひとりであれこれ想いを廻らせては、盛り上がったり凹んだりしているのが最近の傾向だ。
そんなことを考えながら、洗濯機を回し、ゴミを分別していると、呼び鈴が「ピンポ〜ン」と間の抜けた音で鳴った。
誰か訪ねてくる予定なんかないし、宅配の届く予定もないから、こりゃ何かの勧誘だな。風のフジ丸なみに気配を消してスルーしよう。
そう思ったとたん、
「ピンポーン、ピポピポピポピンポーン!
ピピピピピピンポーン!!
ピポピポピポピポピポピポーン!!!」
こ、この連打は……
知っている……気がする!
それも、ごく最近聞いた気がする!!
でも、まさか今日も来るのか? ここに?
そんなはずはない、と思いながらドアスコープを覗くと、俺のワンルームのピンポンを相変わらずゲーム機のコントローラーボタンよろしく、スコスコ押しまくっている見覚えのある姿。
俺は瞬時にドアロックを解除し、バッ!とドアを引き開ける。
「凛香っ、おまえ、どうしてまたここにっ?!」
「あのねえお兄ちゃん、どうしてって、そりゃあ電車を乗り継いで来たに決まってるんだよー。何回言えばわかるの?」
玄関口には、ニヤリと笑う凛香の姿があった。
昨日お引き取りいただいたばかりのはずだが、いったい何の用だろう。
「またわざわざ来るなんて、今度は何の用だよ?」
「あのねえお兄ちゃん、昨日買った服、さっそく着て出かけてみない?
それでその服を着たときの、かわいい女の子の反応、実際にどんな感じか試してみたくない?」
「はあ、なにそれ? 凛香おまえ俺をからかってんの? 俺そんなにヒマじゃないんだけど」
「からかってないよー! 実はこれから学校の友達と会う約束があるんだけど、その子がお兄ちゃんに会いたいって言ってるんだよねー」
俺の都合は完全に無視してるな……。このヤロ。
「おまえさあ、どうせ俺のことをあることないこと、ムチャクチャに伝えてんだろ。それを面白がって俺を見たいとか言ってんじゃないの?」
「へへ、そ、そんなことないってー!」
凛香おまえ、そんなひきつった顔の半笑いで言われても、まったく信じられないんだけど!
「その子、きずなちゃんっていう子でわたしの親友なんだー。一人っ子だから、お兄さんていう存在に憧れてるみたい。
わたしが昨日の話をしたら、お兄ちゃんに会ってみたいとか言い出したんだよー。あんなダメダメなお兄ちゃんの話をしたのに、物好きだよねー?」
こら、昨日の話なんて他人にしてんじゃねーよ凛香。スゲー恥ずかしいだろうが!
「あ、ちなみにきずなちゃんって、超絶美少女だから!
髪の毛とかサラサラだし、色白いし、顔ちっちゃくて、まつ毛とかもすごく長いんだよ!
去年の文化祭のとき、校外の男子から超モテモテで大変だったんだからね!」
「いや、かわいいのかもしれないけど、俺とは関係ないじゃん。
親友ってことは、おまえのクラスメイトかなんかだろ? 昨日も言ったけど、俺中三の女子とか興味ないし」
「あのねえお兄ちゃん、お兄ちゃんの興味はどーでもいいのよわたし。親友の希望をかなえてあげたいだけ。
超かわいい女の子二人を連れて歩けるから、周りの人から絶対うらやましがられるよー? 十八年間、そんな経験ないでしょ、お兄ちゃん?
おまけに昨日凛香が選んだ服が、妹以外の女の子にどう映るか直接感想が聞けるわけだし、いいことづくめじゃない?
こういうことを経験させるチャンスを作ってあげたわたしに、跪いて感謝してほしいくらいだよー」
でたでた、凛香の「あー言えばこー言う」攻撃。
でも反論しても、絶対敵わないんだよなあ。
まあ、家族以外の女の人、それも若い女性に会う機会なんて小中高のクラス以外ではなかったし、これまで相手にもされてこなかったよ、たしかに。
これからモテ生活を目指すなら、ちょっとずつでも女子への免疫をつける必要はあるかもな。
「わかったわかった、どうとでもしてくれ。
おまえの親友の頼みを断ったりしたら、あとでおまえに何されるかわからんからな」
俺は半分諦めの境地で、凛香にそう答えた。
残りの半分は、凛香が喜ぶといいな、という小さな願いを込めて。