第三章 雨に降られて(その二)
「デカい声出すなよ、聞こえてるって。
なんで希砂が来たのかは俺もよくわからんが、なんだか来ちまったんだよ。
住所は前に『教えてくれ』って言われたから教えてあった。雨に降られて濡れちまったらしく、いまバスルームで……着替えてる」
さすがに今シャワー浴びてる、とは凛香には言いにくかった。
「何か事情がありそうだから、あとで希砂本人にも訊くけど、おまえならなんか知ってるかと思って電話した」
「………………ふうううっ」
凛香はしばらく沈黙したあと、深い溜め息をついた。
「今日、ちょっといろいろあって、きーちゃんとケンカ……というか、言い争い? みたいになっちゃって。
午後の移動教室のあと、姿が見えなくなったから先生に聞いたら、早退したって言われて。
そのあと何回もメッセージ送ったり、電話したりしたんだけどまったく反応なくて、おうちに連絡しようと思ったけど連絡先わからなくて……超心配して、いろいろ知り合いに当たってたんだ」
「そうだったのか。言い争いって、いったい何が原因だったんだ?」
「うーん、それがね……わたしこの間、別のクラスの子から文句を言われたことがあって。なんで『話しかけてほしくない』なんて言うの?」って、さ。
わたし、全然心当たりがないから『何の話?』って尋ねたら、その子はわたしと一度話をしたいなと思ってくれてて、知り合い経由でそのことを伝えたら、わたしが『話しかけてほしくない』って答えたことになってたの。
その知り合いって誰?って訊いたら、きーちゃんだって言うの。きーちゃんがそんなことしたなんて信じられないから『そんなわけないじゃん』って言ったら、相手は『絶対、そう言われた』って言い張っちゃって。
それでわたし、きーちゃんに直接『そんなことないよね? ウソだよね?』って訊いたんだけど、きーちゃん黙っちゃってさ。
わたし頭にきて『なんでそんなこと言ったの? なんか理由があるなら言ってほしい。どうして黙ったままなの?』とか追及してたら、移動教室の時間になってそのままになっちゃった、って感じ。
まあ、きーちゃんは黙ったままだったから、言い争いとも言えないんだけどね……」
「そうか……」
「ところでお兄ちゃん、なんできーちゃんのこと呼び捨て? 前に会ったときは『希砂ちゃん』とか言ってなかったっけ?」
「お、おう、そうだったか? おまえの同級生だから、おまえを呼び捨てにするのと同じ感覚っつうか、そんな感じかな? まあどっちも中学生だしなあ、うんうん」
凛香、さすがに鋭い! 希砂とのやり取りもいろいろあったから、俺の中では希砂呼び捨てはデフォルトになってた。あっぶねー!
「ふーん……ま、いいけど。そんで、これからどうするつもりなの?」
「おまえから聞いた話がきっかけだとすると、なんで希砂はそんなことしたのか、ってことがポイントだよな。ただ、おまえからいろいろ聞かれても黙ったまんまだったってことは、おまえには話せない理由が何かあるのかもしれん。
とりあえず、いったんこの件は俺に預けてくれないか? まずは希砂本人に話を聞いたうえで、おまえにも希砂にも悪くならないように考えてみるからさ」
おそらく、希砂はいつもやってきたように、新たに凛香に接触しようとする人間をシャットアウトする工作をしたのだろう。
希砂は完璧主義者だから、普通は計画どおりにうまくいくのだろうが、相手のせいか、あるいは手違いがあったか何かでほころびが生じ、工作の一端が凛香本人に伝わってしまった、ということなのだろう。
凛香には悪いが、希砂の工作も俺の情報提供も、万が一にもバレると、希砂にも俺にも大変都合が悪い。
ここは俺がこの件を引き取るかたちにして、何とかするしかないだろう。
凛香は「うーん」としばらく考えていたが、「わかったよ。もめてる当事者同士だと、気まずかったり意地張ったりして、うまくまとまらないかもだから、お兄ちゃんに間に入ってもらったほうがいいと思う。お任せするから、頼むね」と、意外に素直に了承した。
最近の兄妹関係改善の効果だな。あらためて仙人には大感謝だ。
「きーちゃんに何かあったら、たぶん一番にわたしに連絡がくると思うから、誰かから連絡がきたら、なんとかうまくごまかしとくよ。
出来るだけ早く、きーちゃんをおうちに帰してあげて。こっちで何かあったら、お兄ちゃんに連絡する」
「わかった」
「あと……ね」凛香はちょっと口ごもるように続けた。
「きーちゃんには、もう気にしないでいいよ、わたしはきーちゃんを信じてるから、って伝えておいて。
きーちゃんのことだから、何か考えがあってしたことだと思うし、こんなときだからこそわたしは親友を信じる。そう伝えてくれると嬉しい」
「それもわかった。ちゃんと伝える。俺を信じてくれ」
「あは、お兄ちゃんの信頼度は、きーちゃんの足下にも及ばないけどねー。
お兄ちゃん、きーちゃんのこと、よろしくお願いします。そして連絡ありがとう」
妹との電話を終えた俺は、希砂にどういうふうに切り出すべきか、あらためて考えはじめた。
バスルームからドライヤーをかける音が聞こえるタイミングで、俺はもう一度ケトルのお湯を沸騰させる。
そしてドライヤーの音が止まったタイミングを見計らって、今度はカセットコーヒーをセットしたマグカップにお湯を注いだ。
コーヒーのいい香りが漂い始める。
ガチャ、という音とともにバスルームのドアが開いて、俺のジャージ姿の希砂が出てくる。スクールバッグを肩にかけ、手にはたたんだセーラー服を抱えている。
「ま、とりあえずその辺に座って。
その前に制服はハンガーにかけた方がよさそうだな。バスルームには乾燥機能がついてるから、服を乾かそうか」
物入れからハンガーを二つ出して、希砂に手渡す。
希砂が上着とスカートそれぞれをハンガーに通して、形を整えている間、俺はバスルームの洗濯物乾燥用のパネルを触り、乾燥時間を一時間にセットした。
希砂がハンガーにかかった服をバスルーム内にかけ、俺は乾燥ボタンを押してバスルームのドアを閉めた。
「大したものはないが、まあコーヒーでもどうぞ。
スティックシュガーとコーヒースプーンもそこにあるから。飲めば多少は温まるだろうよ」
希砂はコーヒーを置いたセンターテーブルの前に、膝を抱えるようにして座った。頭からバスタオルをかぶり、膝と膝のすきまに形のいい顎を当てて、コーヒーの入ったマグカップをぼんやり見ている。
「……苦いの、だめなんです。ミルクか何かありませんか」
たまたま昨日、牛乳を買っていたことを思い出し、冷蔵庫からパックごと出してやる。
注ぎ口から牛乳をマグカップに注ぎ込んだ希砂は、マグカップを両手で包むようにして持ちあげた。
ひと口、こくりと飲み、ほうっ、とため息をつく希砂の目は、どこか遠くを見ている。
「……失敗、しちゃい、ました」
希砂が文節を区切るように、呆然とつぶやく。
「リンちゃんにいろいろ問い詰められて……でも、何も言えなかった……どうしよう……もうだめだぁ……」
言葉が湿り気を帯びていく。表情は固まったままだ。まだ表情が感情に追いついていない。
「……わたし……お兄様にも、愛想を尽かされて……しまいました、よね?……でもこうやって、すがって……情けない、わたし……いっつも、そうなんです。いつもいつも自分勝手。気がつくと、周りに誰もいない……好きな人ほど、みんなみんな、わたしから離れていってしまう……」
膝に顔を埋めて、希砂は嗚咽をあげ始めた。
泣くときは、泣いて、泣いて、とにかく泣くほうがいい。そしてそれを黙って聴いててやるのが、近くにいるヤツの務めだ。
そういえば、むかし凛香とも、こういうことがあった気がする。
なぜだか子どもの頃、妹と背中をくっつけ合って、妹がしゃくり上げるのを背中で感じていたことがあった。そのときも俺は、凛香が泣いてるのをただ黙って聴いていたっけ。
希砂はひとりっ子だったはずだ。彼女が泣いてる声を黙って聴いてくれるひとはいるのだろうか。
俺は絞り出すように泣き続ける希砂の声を聞きながら、マグカップに入ったブラックコーヒーをぐびり、と飲み込んだ。
涙を流して泣くと、心が洗われたようにすっきりするのはなぜだろう。俺はそれが昔から不思議だ。
ひとしきり泣いた希砂は、さすがに目は腫れているが、落ち着きを取り戻したように見える。
目の腫れは自分でも意識しているのだろう、それを隠したいのか、さっきまで掛けていなかったメガネを今は掛けている。
「お兄様、ありがとうございます。だいぶスッキリしました。なんだか泣くためにここに来たみたい。恥ずかしいです……」
希砂は少しはにかみながら、言葉を紡ぎ始める。
希砂が語る言葉は、これまで希砂の言葉には感じられなかった柔らかさをまとっている。
凛香と話しているときの緊張感も、同志ボンドとして話すときの厳格さもなく、中学三年生らしい率直さと未熟さが言葉の端に現れていて、とても新鮮だ。
「あらためてお兄様にはお詫びしなきゃですね。
ほんとうにごめんなさい。リンちゃんのこと、本当にたくさん丁寧に教えてくれたのに、わたしこれまで、お兄様との約束をほとんど果たしてきませんでした」
寂しそうな、そしてちょっと苦味を含んだ微笑がこぼれる。
「実は今日、リンちゃんに隠してやっていたことが、リンちゃんに知られてしまいました。
リンちゃんだいぶ怒ってたから、今回のことでリンちゃんの気持ちはわたしから離れてしまうと思います。
他にもいろいろ隠してやってたから、そういうのまで全部知られたら、たぶん絶交されちゃうな。まあ自業自得ですけど」
テーブルの一点を見つめるようにして、希砂は続ける。
「リンちゃんが離れていくのに、兄であるお兄様とわたしが繋がり続けていくことはできません。
わたしの知らない場面で見せるリンちゃんのかわいいところ、お茶目なところ、優しいところをお兄様が教えてくださって、それを知ることができるのって、全然当たり前じゃなかったんだなあって、いまさらながらに思います。
わたしが知らないリンちゃんのことをいっぱい教えてくださって、ほんとにほんとにありがとうございます」
希砂は膝を抱えた姿勢から正座に座り直し、姿勢を正すと、俺に深々と頭を下げた。
「リンちゃんやお兄様との繋がりが切れてしまうことはとても残念ですが、自分のせいですから仕方がありません。
唯一の心残りは、わたしがお兄様との約束――リンちゃんの学校での様子とか、どんなことを言ったりしたりしているかお知らせすること――をまったく果たしていないことでした。
だから、その約束だけは果たそうと思って、こうやって来たのですが……まさか雨に降られるとは思いませんでしたね。わたし、天からも見放されているのかも」
「……そうだったのか。俺のためにわざわざ来てくれたんだな。ありがとよ」
俺の言葉を聞いて、希砂は困惑気味に顔を赤らめた。
「な、なに言ってるんですか? 元はと言えば、わたしが悪いんですから。お兄様がわたしに感謝する理由なんて全然ないです。
それどころか雨に濡れてしまったせいで、結局はお兄様にさらなるご迷惑をかけることになってしまいましたし」
「心配はしたが、迷惑だなんて思っちゃいないぞ。
……希砂さ、凛香本人ではない俺が言うのもなんなんだが」
「はい?」
「凛香はそんなことくらいで、おまえから離れたりしないと思うぞ。妹を見損なうな」
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