命の代価
それでどれだけ寿命が延びるかわからないが、もしも腕一本差し出さなければ明日までの命だと知った時、私は腕を差し出すだろうか。
投げっぱなしで結論なんてないけれど、そんなことを考えてしまったのです。
2022年 知人のガンが再発した時のお話
がんの知人がいる。
元々は肺がんだった。3年前に肺がんの手術を受けてがん細胞を全て切除し、経過観察のために定期的な血液検査を行っていた。
何事もなく2年たったころ、血液検査の結果が悪化したので全身を調べたら脳にがんが転移していた。
転移した場所は手術不可能な場所で、放射線と抗がん剤で治療することになり、治療は成功したかに思えたが1年後にまた再発、今度は両耳の聴神経に転移していた。
左耳はまだがん細胞が小さく投薬治療を施すことになったのだが、右耳は薬ではどうにもできずに放射線治療を施すことになった。
聴力と引き換えにして。
聴神経に放射線を当てると聴力は完全に失われるのだ。
そして今、遺伝子治療とその後の経過観察を続けている。
こう言ってはいけないのだろうが、ここまでくるととてもこれで終わるとは思えない。今回の治療が成功だったとしても、数年後にはまたどこかに転移が見つかるのではないだろうか。今回は聴神経を切り捨てて寿命を得たが、次もまた、どこかを切り捨てることになるのではないだろうか。ではその次は? さらに次は? 人は数年の寿命のために、いったいどこまで切り捨てられるのだろうか。
乳がんのため乳房を切除するという話を聞くことがあるが、他にも似たような話はたくさんある。
たとえば知人の父親。長く糖尿病を患っていたが、合併症を引き起こし右足を切断しなければ命が危ない状態になった。何をするにも足は切らねば命はないというので手術を行ったが、術中に状態が悪化しそのまま亡くなった。結果としてはダメだったが足一本を引き換えにしていくばくかの命を得ようとしたことになる。
あるいは私の母。肺膿瘍で体力が低下し手術もできなかった。食事を摂ろうにも誤嚥を引き起こしてしまい自力で栄養補給ができない。点滴では必要な栄養が足りず、そのまま緩やかに死んでいくか、胃ろうで体力を回復させるかの選択となったが、かといって胃ろうにしたところで完治の可能性は1%で、つまり数週間もしくは数日の命を得るために、のどの機能を切り捨てられるかという選択になった。
人は常に命の代価を支払っている。
時だ。若さと言ってもいい。
あまりに当たり前なので誰も気にしていないが、毎日毎日、人は若さを消費して命をつないでいる。たとえ「ヨボヨボになってまで生きていたくはない」などと言っても、実際に「命」より「若さ」を選ぶ者はまれだ。
しかし、命をつなぐのに「若さ」だけでは足りなくなったら、突然、その代価を求められたら、たとえば腕1本差し出さなければ明日死ぬとなったら、どうするだろうか。
たとえばそれがピアニストなら、命よりも腕を選ぶだろう。
たとえばそれが幼子の母なら、腕より命を選ぶだろう。
1日でも生きるべきだ、とは思う。
少なくとも考えることができる内は「人である」と言えるのではないかとも思うが、だからといって脳だけ残った状態で生きたいと願う者が、果たしていったいどれほどいるのだろうか。
先に述べた知人は今年で50歳になる。彼には養うべき妻と高校生の息子がいる。おそらく妻子のために何をなげうってでも命を得ようとするだろう。何を削ってでも生きようとするだろう。しかしその代価が妻子に負担を強いるものとなった時、彼は命をあきらめるという選択も視野に入れるのではないか。
そうなった時、正直、かける言葉が見つからない。
がんについて私は詳しくはない。だが命をつなぐために腕を差し出せと言われたら、次に足を差し出せと言われたら。あるいは視力なら、味覚なら……。
私は命のためにどこまで差し出せるだろう。