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次の日。
私はあのまま眠ってしまったようだった。
目を開けると、眩しい朝の光が窓から差し込んでくる。
けれど、私の心は少しも晴れていなかった。
全ての感覚が膜を貼っているようで、薄ぼんやりと感じられる。
起き上がって鏡を見れば、ひどい有様だった。
髪はボサボサで、目は腫れぼったく、涙の跡がくっきりと頬に残っていた。
とりあえずドレスを脱いで、普段着に着替える。
顔を洗えば、少しはすっきりして見えた。
朝食の席でなにか気付かれはしまいかと思ったけれど、幸いにも両親は気づかなかった。
いつもの通り新聞を読む父。
ドロシーに今日の仕事を言い付ける母。
二人をそっと覗いながら「フェリシアン様との結婚をやめたい」と伝えたら、どういう反応をするだろうと考えた。
きっと猛反対されるだろう。
言う前から答えはわかっていた。
私はそのまま部屋に戻った。
何もする気が起きない。
私は椅子に座って、ぼうっと過ごした。
けれど、思考は自然とパトリス様の言葉を思い出していた。
――『だからあなたのほうから言いなさい。フェリシアン様に「お別れしたい」と。』
フェリシアン様に伝える――?
そんなこと想像することも辛かったけれど、考えてみた。
もし言ったらフェリシアン様はどうするだろう。
理由もちゃんと言わなければならない。
でないと、きっと納得しない。
『二人の仲を想って、身をひく』と言ったら。
私の中のフェリシアン様は『君が気にすることではない。私は君と結婚することを選んだんだ』と口を開いた。
――それが『責任』だからと。
私は顔を覆った。
結婚できない。
こんな形の結婚が幸せなわけがない。
私はフェリシアン様には世界一幸せになってほしい。
私の好きなひとだから。
だけど、私が言ったところで、フェリシアン様は聞いてくださらないだろう。
最初に初めに言った『十六歳になったら君をすぐ娶ろう』という言葉通りここまで来たのだから。
意志も責任感も強いフェリシアンの前では私など言い負かされてしまうだろう。
――どうすればいい?
真剣に考え始めた私の頭にその時、お母様の言葉が突如降ってきた。
『貴族の娘の体に傷が残れば、行く末は年の離れた男の後妻か修道院に行くしかないもの』
はっとした。私が怪我を負ったときに言われた言葉。
――そうだ、修道院に行こう。
私が何か言ったところで、結婚が取りやめになることはない。
両親もフェリシアンも反対する。
でも、私がいなくなれば――。
そう、それが一番いい。
そうと決まれば、私は早速修道院に行く支度に取り掛かった。
持っている中で一番大きな鞄を取り出して、下着や簡素なワンピースを何着か、それから櫛などの小物を詰めていく。
修道院では贅沢できないだろうから、必要最低限のものだけ。
――それから
私は隅にある戸棚のところまで行くと、上から二段目に収まっているものを見つめた。
腹が少し凹んだ人形に、くまのぬいぐるみ。
どちらも私にとっては、とても大事なもの。
二つを眺めているうちに、フェリシアン様に出会ったときのことが思い出された。
あの時、初めてひとを好きになった。これからもそれは変わらない。
この気持ちがあれば、私はこれからだって充分やっていける。
涙ぐみそうになる瞳を拭って、私は二体の間に置かれたもうひとつのものに視線を向けた。
そこにあるのは、白いうさぎのぬいぐるみ。
お祭りの日にフェリシアン様がくれたもの。
私は迷った末、うさぎのぬいぐるみだけ持っていくことにした。
本当は全部持って行きたかったけれど、鞄の中には入りきらなかった。
うさぎのぬいぐるみを選んだ理由は『婚約者の私』に彼がくれたものだったから。
これを眺めていたら、一緒にいた時の楽しい思い出も一緒に蘇る気がした。
私はうさぎのぬいぐるみを手にとると、鞄の中に詰めた。
最後にフェリシアン様に買ってもらったピンクの貝殻のイヤリングをハンカチでそっと包んで一番上におくと、鞄をしめた。
――いつ出ていこう。
結婚式はもう三日後。
二日後はフェリシアン様のご両親に挨拶に行く日。
今日はもうあと数時間で日が沈んでしまう。
出ていくなら明日しかないわ。
両親とドロシーの目を盗んで、午前中のうちに出発しよう。
そして次に私は、家を出たあとの行程を頭の中に組み立て始めた。




