朝倉千尋の頼みごと
家に着いた。
廊下の電気は自動で点くようになっている。
俺は千尋に洗面所で手を洗うように言う。
場所を教えていないのに、千尋は慣れたように洗面所へ向かった。
「ねぇ、着替えないんだけど、このままでいていいの?」
「着替えたいか?」
「んー隼人がこのままでも大丈夫なら、別に着替えなくてもいいかな」
「俺が潔癖症だと言いたいのか?」
「そうじゃないけど、嫌がる人いるじゃん。外に出た服で寝ないでほしいとか、靴下は脱いで欲しいとか、そういう人。潔癖症じゃなくても、なんか変な拘りを持っている人がさ」
「なるほどな。まあどうせこの後風呂に入るだろ? その時に着替えるでいいんじゃないか? 今、お湯沸かしているから」
「え、そんなの悪いよ! 私は大丈夫だから」
そんなびしょびしょの身体で何を言っているんだか。全く大丈夫には見えない。幾ら着替えたとはいえ、濡れて体が冷えていることに間違いは無いのだから。
「いいから。風邪でも引かれたら溜まったもんじゃない。遠慮なんてしなくていいから、さっさと入ってこい」
「うぅ……分かったよ」
お風呂が沸ける音と同時に、千尋は洗面所へと入り、鍵を閉めた。
ちょ、それだと新しい洋服が置けないのだが……
仕方がない。テレビでも観ながら扉が開くのを待つとするか。
俺は諦めてリビングへと向かった。
しばらくして、洗面所の鍵が開く音がした。
「隼人ー!! 新しい洋服貸してー!」
予想していた通りのことを言われ、俺は小さくため息を吐く。
「ほら、新しい洋服」
「ありがとう」
千尋は受け取ると、再度扉を閉めて鍵をかけた。
用を果たした俺は、リビングへ戻りテレビを見る。特別好きでは無いのだが、他にすることがない。千尋の話というのは何なのだろうか。検討もつかない。いや、つきたくない。
5分程だろうか、経った時、洗面所の扉が開いた。
リビングへ千尋が顔を見せる。
「お風呂はどうだった?」
「うん、気持ちよかったよ。ありがとう」
千尋はそう言いながら、こちらへ来る。
ソファーに座るように促すと、彼女はそれに従った。
少しばかりの沈黙がその場を包み込む。
気まずい……今はそれしか思えない。
俺の方から話しかけた方がいいのだろうか。
それとも、彼女がその話をするタイミングを待っていた方がいいのだろうか。どれが正解だか分からない。分からないが故に、俺は彼女が口を開くのを待つことにした。
暫く経ち、彼女がゆっくりと口を開く。
「あのね、私があなたに声をかけたのは、私のお願いを聞いてほしかったからなの」
「ああ、俺を探していたって言ってたもんな。外で話しにくそうにしていたってことは、相当聞かれたくないお願いなんだろ?」
「ええ、そうだね。聞かれてはならない。聞かれちゃいけないことだね」
「そのお願いとは? 殺し屋である俺に話すくらいなのだから、相当やばい話なんだろ?」
「ふふっ。流石殺し屋。察しが良くて助かるよ」
察しが良すぎてもあまりいいことは無いけどな。その言葉は俺の心の中で消滅した。
「それで? 俺にお願いとは?」
「うん……あのね隼人……私のことを殺してくれないかな」
「…………」
何を言われたのか分からず、言葉に詰まる俺。
そんな様子を察してか、千尋は少し困ったように微笑んだ。
「やっぱり、難しいよね。けど、あなたじゃないとダメなんだ。私のお願い、叶えてくれないかな?」
「俺は確かに殺し屋だが、依頼を受けていない相手を殺すことは出来ない。それは規約違反になってしまう。やむを得ない事態に陥っているのなら、多少は許してくれると思うが、そうでは無い場合は、それは長に言わないと――」
「神流朱門だね?」
「ああ、そうだが……無理やり書かせるとかそういうことはダメだからな?」
「分かってるよ。そんなことはしない。それに、今彼は忙しいからね。仕事を増やしたら可哀想だ」
「忙しい……? 長はいつも忙しそうだが?」
俺の言葉に、千尋はくすりと笑う。
この後に抗争が起こることを、彼女の口から聞かされる。
「抗争……? 組織同士がぶつかるということか?」
「そういうこと。まあ、正確には……1人の男を殺そうと敵組織が動き出す……って感じかな」
「その男とは……?」
「察しが良いのか悪いのか分からないね。あなたのことだよ、隼人」
「俺のこと……?」
千尋に答えを言われてなお分からない。
抗争が起きる。それを阻止しなくてはならない。それは分かる。
だが何故、俺を殺すためだけに敵組織が動こうとする? そして神流がそれで忙しくなる理由も分からない。
全てが分からず、頭の中は疑問符で溢れた。
そんな様子の俺に、千尋はまたまたくすりと笑って言った。
「隼人に死なれたら困るからでしょ。あなたは神流の大事な右腕で……大事な息子なんだから」