魔法の杖は真実を語らない 6
Chapter 6
31
『馬追い亭』は市の郊外に近い、かなり寂れた場所にあった。そのせいもあって、メルルたちは『馬追い亭』をすぐ見つけることができた。周囲にほとんど建物がなく、宿だけがぽつんと建っていたからである。ベネディクトは宿の場所を「郊外」と説明していたが、印象としてはそう感じるだろう。
宿の前には数名の駐屯兵が立っていた。レトが身分を明かすメダルを見せると、兵士は敬礼して道をあけた。
「部屋は覚えているね?」
階段に向かいながらレトはメルルに声をかけた。今回、アルキオネは振り落とされまいとレトの肩につかまって一緒だった。
「3階の1号室です!」
メルルはほとんど駆け上がるように階段を昇りながら答えた。
実際には部屋を探す必要はなかった。3階に着くと、ひとつの部屋の前で兵士が立っていたのである。もっとも、この宿の部屋数は各階で5部屋ほどなので、探すのにあまり苦労はしなかっただろうが。
「メリヴェール王立探偵事務所のレトと申します」
レトはメダルを見せながら兵士に話しかけた。兵士はうなずくと、「こちらです」と室内を指し示しながら脇へどいた。
ベネディクトは床の上に横たわっていた。頭部が血で真っ赤に染まっており、その首には白い紐が巻き付いているのが見える。主に荷台を縛るのに使われるものだ。ベネディクトは口を半開きにして、驚愕の表情を浮かべたままこと切れていた。
ベネディクトのかたわらには白衣を着た男が身をかがめていた。ここの検死官らしい。
「王都の探偵さんかい? 珍しいね、こんなところに現れるなんて」
検視官は眼鏡をずりあげながらレトに話しかけた。何ごとにも無感動な人物らしく、肩にカラスを乗せたレトの姿に何の反応も見せていない。年齢的には中高年ぐらいかと思ったが、声を聞くともっと若い印象だ。メルルは検死官の野暮ったい眼鏡を見つめながら思った。
「死因はわかりますか?」
「見たまんまだよ」
レトの質問に、検死官は遺体を指さしながら答えた。
「頸部を紐状の凶器によって圧迫されたことによる窒息死。この被害者は最初、前頭部を鈍器らしいもので殴打され昏倒した。それから紐で絞め殺されたというわけだ。途中で意識を取り戻したようだが、そのときにはすでに抗うことができなくなっていたのだろうね」
レトは床をすばやく見回した。
「靴のかかとが筋をつけている。ベネディクト氏は、戸口で犯人に襲われて床に倒れ、犯人は部屋の中央までベネディクト氏を引きずってから犯行に及んだんだ。部屋の扉を閉めて、誰にも見られないようにするために。凶器の紐は犯人が持ち込んだものだろう。ベネディクト氏は自前の馬車を持っていなかった。荷台用の紐を持参したとは思えないからね」
レトは戸口からベネディクトの足もとまでを流れるように示しながら説明した。そこにはベネディクトの靴がつけたと思われる黒い筋が描かれていた。
「犯人はベネディクトさんを訪ねにやってきたのですね? で、扉を開けて迎え入れた瞬間に襲いかかった……」
メルルは黒い筋を見つめながらつぶやき、レトは小さくうなずいた。「そうだろうね。僕もそう思う」
「でも、いったい、どうして? 誰がこんなことを……?」
メルルは慄きながらつぶやく。わずか2日の間に、ふたりもの人命が失われた。サマセットの場合は不幸な事故のようなところがあったが、今回はあきらかに殺害を目的としている。どのような事情でベネディクトは狙われたのだろう?
「順番を間違えちゃいけない。僕たちはそれを調べに来たんだろ?」
レトはメルルを諭すようにいった。メルルは気まずそうにうなだれる。「すみません」
レトはベッドの脇に置かれた籠に目をやった。そこには黒い大きなカバンが置かれている。メルルは昨日ベネディクトに会ったときの様子を思い出した。あのとき、ベネディクトは手ぶらだった。荷物はこの宿か、どこか別の場所に預けてから、博物館を訪れたのだろう。
「カバンの口は閉じられたままだな」
レトはカバンを持ち上げながらつぶやいた。遺体にちらりと目を向けてからカバンを開き、ベッドの上に中の物を並べだす。メルルはレトが置いた物を種類別にしてきれいに並べなおした。
「これが最後だ」レトは小さな櫛を取り出してベッドに置いた。
「ほとんど着替えですね」並べられた物を眺めながらメルルは感想をもらした。
「財布もある。高級そうなペンや香水入れなど、金目になりそうなものもね。どれも手付かずだ」
メルルは思わずレトの顔を見上げた。「物盗りではない……?」
「少なくとも金銭目的ではなさそうだね」
レトはベッドから一冊の手帳を取り上げた。これもカバンの中から出てきたものだ。
「これは……」
レトはページをめくりながら小さな声をもらす。メルルはかたわらで首を伸ばしてのぞきこんだ。「……サイン帳、ですか?」
ノートにはさまざまな紙切れが張り付けられてある。紙切れの種類は、主に領収書や受取書のようだ。どうも貴族のサインを蒐集したサイン帳らしく、ポール・マクダネル伯爵やアイリッシュ伯爵など有名貴族の名前が見える。ベネディクトの仕事に必要なもののはずだが、どことなく趣味の品とも思える。
「各界の著名人、貴族の方がたのサインをまとめたものだね」
レトはそういいながらノートをベッドに戻した。「カバンを開いたとき、中はきれいに整理して収められていた。犯人はカバンを開けてすらいなかったと思うよ」
レトはカバンの中身については調べつくしたと考えたようだ。レトはくるりと身体の向きを変えてベッドから背を向けた。
「死亡推定時刻はわかりますか?」
レトは検死官に質問した。レトの視線はベネディクトに向いたままだ。質問しながらも、自分の目でも実際に確かめているようだ。一方、検死官は自分のあごを撫でると、少し天井を見上げた。
「うーん、大ざっぱだが、午前0時から3時までの間かな。解剖をすればもう少し絞れるだろうけど」
「そうですか」
レトはうなずいた。
「遺体の第一発見者はどちらに?」
レトはてきぱきと質問を重ねる。状況を把握する要領の良さでは誰にもひけをとらないのだ。
「えっと、俺だが……」
戸口からひとりの男が手をあげた。質素な身なりの男で、少し猫背だ。年齢は50歳あたりか。
「あなたは?」レトは男に声をかけた。
「この宿の主人だ。まぁ、俺ひとりでやっている宿でね。従業員なんてうちのかかぁが手伝いでやっているぐらいだ」
「この方を見つけた経緯は?」
「頼まれたのよ、その旦那に」
宿の主人は横たわるベネディクトを指さした。
「朝、寝坊することもあるから、念のため7時に起こしに来てほしいってね。この宿は安い代わりに食事を出さないんだが、起こすぐらいのサービスはやっている。約束の時間きっかりに、ここの扉をノックしたんだが返事がねぇ。ひょっとして、もう出ていってしまったんじゃねぇかと扉を開けてみたんだ。ここの宿代は前払いだからね。勝手に出ていく客は珍しくねぇんだ。しかし、こちらの旦那は宿を引き払っちゃいなかった。今と同じ場所でおねんねしていたのさ」
「駐屯軍にすぐ報せたのですか?」
宿の主人は肩をすくめた。「まぁね。もっとも、報せに走ったのはうちのかかぁだったがね」
「あなたはずっとここにいたのですか? 駐屯軍が来るまで、誰もこの部屋に入りませんでしたか?」
「ああ。誰かにのぞかれて騒がれるのも嫌だからね。この扉を内側から閉めて、誰も入れないようにしたよ。軍の皆さんがおいでになってから、ここを開けたんだ」
「話の流れだと、あなたが最初にこの扉を開けたとき、カギはかかっていなかったのですね?」
宿の主人はちらりと天井を見ながら答えた。「ああ、たしか……、そうだ」
「あなたがこの部屋にいる間、何かなくなっていないか確認されていますか? この部屋の調度品とか」
「見てのとおり、この部屋にあるのはベッドとちっぽけな書き物机、そして、その机のための椅子。あとは、洋服掛けに荷物を入れる籠ぐらいだ。何も盗られちゃいないね」
レトは部屋をぐるりと見まわした。「調度品は無事……と」
レトは再び宿の主人に視線を戻し、
「ところで、昨夜の0時から3時までの間、この宿で何か騒ぐ音とか聞こえませんでしたか? 誰かと争うような」
と尋ねた。
宿の主人は手をひらひら振りながら顔をしかめた。
「宿の中は静かだったよ。誰も騒いじゃいなかった」
メルルは主人の答えに引っかかるものを感じた。「宿の中は……?」
「外から『火事だぁー』って騒ぐ声が聞こえたのさ。ちょうど0時頃だよ。その日の受付を終えて、フロントを閉めようとしていたときだからたしかだ」
「火事?」メルルは思わず聞き返してしまった。ここでも火事が?
「声が聞こえたのはたしかに外からだったのですか?」
レトはメルルにかぶせるように質問した。メルルはむくれてしまったが、レトの態度のほうが正しい。メルルは黙って宿の主人の答えを待った。
「間違いないね。声が聞こえたのは宿の裏手からだ。そこは馬小屋があるんだ。いい馬小屋なんだぜ。この宿は馬をゆっくりと休ませるための宿なんだ。馬ってのは繊細な生き物だからね。夜中でも馬車や大勢のひとが行きかう街中より、民家もまばらなここのほうが静かで馬も落ち着けるんだよ。こんなへんぴな場所で商売が成り立つのは、そういうお客の希望に応えられているからさ。そういうわけだから、馬小屋での火事は一大事だ。慌てて裏手に飛び出してみたら……」
「馬小屋が火事だった」メルルが先にいうと、宿屋の主人は首を横に振った。
「馬小屋の手前で大きな焚火が燃えていたんだ。そこらあたりの枯れ木や枯れ枝を集めて燃やしたらしい。どこかのバカが、風の吹きこまない場所で暖をとろうとしたんだろうが、思った以上に火が燃え上がったんで慌てたんだろうな。『火事だ』って叫んで逃げ出しやがったようだ」
「『火事だ』といった人物の姿は見なかったんですか?」
「俺が飛び出したときはもう誰もいなかったよ」
「声の感じはどうでしたか? 男でしたか? 年齢は若いようでしたか?」
「男の声だったな。年齢は……わからないな。聞こえたのは一瞬だったし。若くはないが、じじいでもない。そんな感じだ」
「ところで、その大きな焚火はどうしたんですか? 消したのですか?」メルルが声をはさんだ。
「当り前さ。馬小屋に燃え移ったら大事じゃねぇか」
「そのときの様子を実際の現場で説明していただいてもいいですか?」
レトが頼むと、宿の主人は頭をぽりぽりとかいた。「まぁ、かまわねぇが……」
レトは検死官に振り返った。「ご遺体を運び出してかまいません。本部で詳しい検死を行なっていただけますか?」
「了解した、探偵殿」検死官はうなずくと、かたわらの兵士に遺体の運搬を指示した。
レトは宿の主人をうながすように部屋を出た。
「ところで、昨夜は何名の宿泊客があったのですか?」
レトは先を進む宿の主人の背中に話しかけた。
「さっきの紳士を入れて3人だ。軍が宿を出るのを禁じたから、まだ部屋にいるはずだよ」
「1階に着きましたら、宿帳を見せていただけませんか?」
宿の主人は無言で片手をあげた。了解した、ということだろう。
1階に着くと、宿の主人はまっすぐにフロントへ向かっていった。カウンターの上に端がめくれ上がった宿帳が開いた状態で置かれている。宿の主人はそれを取り上げると、無言で戻ってきた。
「ありがとうございます」
レトは宿帳を受け取ると、すばやく中に目を通した。すぐに内容を暗記したのか、レトは無言でメルルに宿帳を預ける。メルルは慌てて宿帳を受け取ると、そこに書かれた名前を手帳に書き写し始めた。
「では、裏手を案内してください」
レトはどんどん話を進めていく。宿の主人は別に気にするふうでもなく、ゆっくりと階段の脇を指さした。「こっちさ」
宿の主人が指さす方角に目をやると、奥まった薄暗い場所に古ぼけた扉が見える。近寄ってみると、思っていた以上に古い物らしかった。かつてはかんぬきがあったと思われる場所には何もなく、かんぬきをかけるくぼみだけがぽっかりと空いている。
「ここはカギがかからないのですか?」
レトが扉を指さすと、宿の主人は小さくうなずいた。
「不用心だっていいたいんだろ? たしかにそのとおりだが、このあたりに盗人がうろつくことはないんだ。それぞれの部屋はしっかり戸締りできるし、それにほら」
宿の主人はカウンターを指さした。
「受付に立札が見えるだろ? 『宿泊中の貴重品はお客様の責任で管理ください。盗難について、当宿はいっさいの責任を負いかねます』って、丁寧に掲げてあるしな」
「なるほどですね」
レトは扉に手をかけた。扉は何の抵抗も見せずに開いた。レトはそのまま宿の外へ出る。記録を取り終えたメルルは、宿帳を宿の主人に返してレトに続いた。
裏手へ出たすぐ目の前に、おそらく焚火の残骸だと思われる黒焦げた塊が地面に横たわっていた。大量の水を浴びて、ところどころで日の光を照り返している。
「ここですね」
メルルはレトの隣に立つと囁くようにいった。
「馬小屋には飛び火しなかったみたいだね」
レトの目はすぐ向こう側の馬小屋に向けられていた。馬小屋は宿より古びておらず、清潔感の漂うきれいなものだった。馬を優先している宿というのは誇張した表現ではないようだ。
「あそこの井戸から水を汲んで、大急ぎで消したのさ」
宿の主人は、右手を指しながら説明した。そこには小さな井戸が見える。井戸の周りは水浸しで、宿の主人がいかに大慌てで水を汲んだのかがうかがえる。
「この騒ぎの間、宿の客は手伝いに来ましたか?」
レトは背後を振り返りながら尋ねた。レトの背後には宿がそびえたっている。2階の窓からは半分身を隠すようにして、こちらをのぞいている影があった。メルルが相手を確認しようと目をこらすと、その影は姿を消して見えなくなった。
「誰も外には出なかったよ。まぁ、火は大きかったが、宿にも馬小屋にも離れていたからな。『ぼや』にもならなかったよ。だからだろうね、誰も裏には現れなかった。まぁ、大したことがないと思ったんだろう。もっとも、俺は最初にあの火の塊を見たときはそう思わなかったがね」
「焚火を消して、ここへ戻るまでどれぐらい時間がかかりましたか?」
「さぁ……。たしかだといえないが、5分……、長くても10分程度のことだと思うぜ。かかぁが消火の手伝いに間に合わないぐらい短かったから」
「わかりました。ありがとうございます」
レトが頭を下げると、宿の主人はくるりと背を向けて、さっさと宿に戻ってしまった。接客業のわりに愛想がないとメルルは思った。
「僕たちも戻ろう」レトはメルルをうながすと、先に立って宿へ戻っていった。メルルはあたりの様子を記憶に留めると、レトの後を追った。
32
宿に入ると、宿の主人は受付カウンターに戻っていた。宿帳をカウンターの上に直している。話し方といい、野卑な印象だったが、あの馬小屋のこともある。案外、几帳面な性格かもしれない。そうだとすると裏手の壊れた扉は放置したりしないか。メルルはとりとめもなく思いながら、レトに続いて階段を昇り始めた。レトは宿の主人にうなずいてみせると、そのまま2階へ上がりだしたのである。
「現場に戻るのですか?」
メルルはレトに尋ねると、レトは少しだけ顔を向けた。「残っている客に話を聞く」
レトの答えは短いものだった。メルルもそれ以上は質問をせずに従った。
レトがまず向かったのは2階の一室だった。メルルが宿の裏手を見上げたときに、影が見えた部屋である。メルルは急いで手帳をめくった。手帳にはこの宿に泊まっている宿泊客の名前を控えたばかりだ。
――モーリス・ペン。
メルルは目的の名前を見つけた。
「ペンさん、よろしいでしょうか? メリヴェール王立探偵事務所のレトと申します。昨夜の事件について、お話をおうかがいしたいのですが」
レトは扉をノックしたが、奥から応える声は聞こえなかった。しかし、扉の錠を外す音が聞こえると、少しだけ扉が開かれた。わずかなすき間から暗い目がのぞいている。警戒心の強そうな目だとメルルは思った。
「事件の話って?」声の調子もこちらを警戒しているのがわかる。
「昨夜、この上の階で殺人事件が起きたのはご存じですよね?」
暗い目は伏し目がちにうなずいた。扉の開き具合はそのままで、室内に入れようという考えはないらしい。
「少しだけ。正直、あまり事情がのみ込めていない」
相手は言葉を選んで詳細を語ろうとしない。何を聞かれるのか恐れているようだ。
「お名前はモーリス・ペンさんで間違いないですか?」
レトは単純な質問から始めた。相手に後ろ暗いところがなければ、答えるのに問題がない質問だろう。
「もちろん」モーリスは即答した。レトはうなずくと続けて質問した。
「ご職業は?」
「冒険者だ。カンタブル市のギルドに所属している。疑わしいのなら、そこに照会してくれ。ここへはクエストの帰りに寄っただけだ。昨日はここで日が暮れてしまったからね。裏を取りたきゃ、ギルドマスターに聞いてくれ。クエストの内容から、ここが帰り道の途中だということも説明してくれるはずだ」
「けっこうです」レトがうなずくと、モーリスはとんとんと足を踏み鳴らした。少し苛立っているらしい。「早く本題に入ってくれないかな。聞きたいのはこんなことじゃないだろ?」レトに本題の質問をうながしてくる。レトはうなずいた。
「では、本題に入らせていただきます。昨夜、この裏手で火事騒ぎがあったのはご存じでしたか? ここから現場はよく見えたと思いますが」
「騒ぎは知っていたよ。でも、騒ぎがあったときは眠っていたからね。記憶はたしかじゃない。誰かの声で目を覚ますと、窓の外が明るい。様子を見に窓辺へ寄ったら、裏手に大きな炎があがっていた」
「そのとき、周囲に誰かを見ましたか?」
「いいや。あ、でも、すぐ、この宿の主人が飛び出して、井戸に駆け寄るのが見えたな。もし、馬小屋に燃え移りそうだったら、僕も馬小屋へ駆けつけて、自分の馬を避難させたんだけど」
……消火を手伝う、じゃないんだ……。
メルルは胸の内でつぶやいた。
「……見ている間に火も消し止められたんで、そのままベッドに戻った。それからは、朝、駐屯兵に起こされるまでずっと眠っていたよ」
「宿の中で誰かが争うような声や騒ぎは耳にしていない?」
扉のすき間から影が小さく上下した。うなずいたらしい。「聞いていない」
「わかりました。どうも、ありがとうございました」
レトが頭を下げると、扉はすぐに閉められた。メルルは少しだけ気分を害した。レトはメルルの気持ちを察したらしい。メルルの肩を軽く叩いた。
「むくれてないで。次へ行くよ」
レトはモーリス・ペンの部屋から斜め向かいになる部屋へ向かった。ベネディクトが泊まっていた3階と同じような部屋の並びである。レトが向かったのは、ベネディクトの部屋の真下にあたる部屋だ。メルルは『2階の1号室』と見当をつけて、手帳をめくった。
――メリル・ポートマン。
扉の番号に目をやると、そこはやはり1号室だった。
レトが扉をノックすると、待ってましたとばかりに扉が大きく開かれた。中から背の高い女が現れた。若いと思われるが、化粧が濃くて年齢がわからない。
「いいかげん解放してくれる? アタシ、朝から用事があったのよ!」
すさまじい勢いでふたりに迫ってくる。あのアルキオネでさえ、迫力に押されたかのようにレトの肩で身体をのけぞらせた。
「申し訳ありません。事情を確認するまでもう少しご辛抱ください。早く確認が終わるようご協力をお願いします」
レトは丁寧な口調で頭を下げた。メルルも合わせるように頭を下げる。女は「フンっ!」と鼻を鳴らしたが、それ以上抗議する気は失せたらしく、「で、聞きたいことは?」と、不機嫌だが落ち着いた声で尋ねた。
レトはさきほどと同じ質問をメリルに尋ねた。それに対するメリルの答えは簡潔なものだった。
自分は各地を廻る歌手である。市のはずれにある小劇場の公演でやって来た。宿にここを選んだのは、劇場近くの宿が取れず、乗合馬車の馭者に教えられたからで、ここに泊まったのは初めてである。事件については、昨日の深夜、火事だと騒ぐ声は聞こえた。窓に寄って外を見たが、どこも火の手はあがっていない。誰かのいたずらか、何かの勘違いだろうと思って、そのまま眠ってしまった。駐屯兵に押しかけられるまで、事件のことは何も気づかなかった、と主張した。自分の身元については、劇場の支配人に確認すればわかると自信たっぷりに答えた。
「本当に、何の騒ぎも耳にしなかったんですか?」
メルルが念を押すように尋ねた。
「本当よ。疑ってるの?」
「事件があったの、あなたの部屋の真上なんですよ」
メルルが天井を指さすと、メリルの顔がみるみる蒼ざめた。「本当に?」
「本当です」
メリルからこれまでの強気の態度が息をひそめ、彼女は不安そうな表情で額に手をあてた。メルルの言葉で、昨夜のことを必死で思い出そうとしているようだ。
「……悪い、わね。本当に、何も憶えちゃいないわ。正直いうと、昨夜のあのころは、この部屋に持ち込んだお酒を飲んでいるところだったの。騒ぐ声が聞こえてからしばらくは起きていたけど、だいぶ酔っぱらっていたからね。ひょっとしたら何か聞いていたかもしれないけど、記憶に残っていないわ。いつも酔っぱらって、気がついたら眠っている。それがアタシの日常だから」
メリルの目はすがるような表情になっている。嘘はいっていない、信じてほしい。その目はそう訴えているようだった。メルルはレトの顔を見上げた。レトは心を動かされた様子も見せずにうなずいた。「わかりました。ご協力ありがとうございます」
1号室から離れると、レトは階段に向かって歩き始めた。メルルはレトの背中に話しかける。「手がかりなしですね」
「そうでもないよ」
メルルは驚いたように立ち止まった。「何かわかったんですか?」
レトも立ち止まるとメルルに振り返った。「事件の状況がのみ込めた、ということさ。それによって見えてくることもある」
周りに聞かせないためだろう。レトは小声で話した。メルルはレトのそばに駆け寄った。
「何が見えてきたんです?」
「犯人は2階の誰も訪ねることなく、まっすぐ3階に向かったということさ。物盗りであれば、2階の様子もうかがっただろうが、ふたりの証言はそんな異常がみられなかったことを示している。ふたりとも火事騒ぎ以外に何の物音も聞いていないと証言しているんだからね」
「犯人の狙いは最初からベネディクトさんだったと」
「そうなるね」
レトは階段を昇り始めた。メルルは後を追いながら、レトの背中にささやきかける。
「私にはさっぱり見えてこないところがあります」
「どういうところが?」
レトは振り返りもせずに聞き返した。
「昨夜の火事騒ぎ。それも犯人の仕業でしょうか?」
「おそらく。こんなひと気のないところで、しかも、宿の裏をわざわざ選んで焚火をする理由がない。第一、あそこは馬小屋の前だ。火に驚いて馬が騒ぐ可能性だってあった。焚火をしたい者がいたとしても、あそこは火を焚く場所として選ばないだろう」
「……ですよね。では、どうして、そんなことを? 犯人の目的は何ですか?」
「そうだね。僕にとっても、それは謎だ。だけど、この謎こそが真相に近づくカギだと思っている」
ふたりは3階に着いた。1号室の前で、さきほどと同じ兵士が直立している。兵士はレトたちの姿を見ると、すばやく敬礼した。
「ご遺体はすでに運び出されています」
兵士は短く報告する。レトは「了解しました。ありがとうございます」と礼をいいながら事件現場に入った。
兵士の報告どおり、ベネディクトの遺体はそこになかった。代わりに人型に隈どられた白いチョークの線が床でのたうっている。その脇に、もうひとりの兵士が立っていた。手に凶器とされる白い紐を握っている。
「遺体を動かしたとき、その下から何か現れたりしましたか?」
レトの問いに、兵士は首を振った。「いいえ、何も現れていません」
兵士はレトに近づくと、手にしていた紐を手渡した。「兵長がこれをお渡しするようにと」
「そちらで検証はされないのですか?」
「検死官の見立てで凶器であることは確認できています。証拠のさらなる分析は専門家にお任せするとのことであります」
「なるほど」
レトは紐を自分の目の高さまで持ち上げた。そこで再び「なるほど」とつぶやいた。
「何がです?」
メルルはレトの隣に立って尋ねると、レトはメルルの顔に紐を近づけた。
「この紐は血で汚れている。もともと、どこにでもある紐で、所有者をたぐっても犯人が割り出せないのだろうね。それで、血がついた紐を現場に残して立ち去った。血のついた紐を手元に置いていたほうが、犯行がばれる危険は高いからね。そして、そのほかに犯人が残したものは見当たらない。犯人は思っていた以上に慎重で用心深かったようだ」
「それが、どうしたんです?」
「だからこそだよ」
レトはメルルに顔を向けた。
「ここまで慎重なのに、この犯人はなぜ、火事騒ぎを起こすという危険を冒したのだろう?」
33
「改めて、あの火事騒ぎを考えると……」
レトは話し始めた。駐屯本部に向かう馬車の中である。ふたりは犯行現場の宿を後にして、駐屯本部へ戻ることにした。そこにはアリスやレイラだけでなく、事件の関係者がすべて留め置かれている。もともと、杖の鑑定で集まっていたのだが、事件の報せを受けて、全員そこからの退出を禁じられているのだ。ふたりは事件の報告と事件当夜の事情を聴取するべく、駐屯本部へ向かうのだ。その途中で、レトはメルルを相手に事件の分析を始めたのである。
「犯人があの騒ぎを起こした必然性が感じられない。あんな騒ぎを起こして、犯人に利するところは全然ないんだよ」
「全然ありませんか?」
メルルは不思議そうに尋ねた。レトがあまりに断定口調でいうからだ。
「あの行為で犯人にあるのは誰かに目撃されるという危険だけだ。もし、誰にも見とがめられずにベネディクト氏を殺害するなら、みんなが寝静まったころを見計らって宿に侵入したらいい。あるいはあらかじめこっそり忍び込んだらいい」
「あの騒ぎでこっそり忍び込んだというのは考えられませんか?」
「こっそり? 宿の正面から?」
メルルはうなずいた。
「宿の受付が終わってからでは、宿の侵入ができないと犯人は思ったのではないでしょうか? 普通、営業を終了したら、どこでも戸締りはするものでしょう?」
「通常ならね。でも、裏手の扉はカギがかかっていなかった。肝心のかんぬきが壊れて施錠できない状態だったのを覚えているかい? あそこからならいつでも宿に侵入はできたんだ」
「裏手の扉がいつでも開けられると知らなかったからでしょ。誰だって、裏手の扉が壊れていたなんて思いもしませんでしょうし」
「犯人は裏手で焚火を起こすことをしでかしている。もし、犯人がこっそり忍び込むための陽動を考えて裏手へ回ったのであれば、念のため、裏手の扉を調べただろう。扉をちょっと動かして、開くかどうか確認するだけでいい。簡単に侵入できることがわかれば、騒ぎを起こしてまで目撃される危険を冒したりはしない」
「犯人は裏手の扉を調べなかった?」
レトは首を横に振った。
「そんなうっかりした犯人だったら、あらかじめ足のつかない紐を用意したり、それ以外の証拠を残さないように行動したりはしないだろう。宿でいったように、犯人は慎重で用心深い。そんな犯人が危険を減らす事前確認を怠ったりするだろうか?」
メルルはいい返せなくなった。
「でも、陽動という考えは正しいと思う。あの騒ぎで宿の主人は受付から離れて宿の裏手へ回ったわけだから。でも、わざわざ正面から侵入する必要はあったのかな?」
レトはひとり言のようにつぶやいて腕を組んだ。
「上の階へ昇る階段は受付から丸見えでした。宿の主人の目を階段からそらすためでは?」
「裏から侵入できることがわかれば、そっと忍び込んで主人が受付から離れる機会を待つという手がある。階段の下は物置になっていた。そこにまぎれて隠れていれば、いずれ、宿の主人は便所に行くか、あるいは受付時間を終了して、受付から離れるだろう。その隙に階上へ上がればいいんだ」
「でも、正面から侵入する利点はあると思いますよ」
「どんなところ?」
「宿の裏手の扉は全面板張りで外から中の様子は見えません。ですが、おもての扉は大きなガラス窓がはめこまれて、中の様子が見て取れます。宿に入りやすくするための工夫だと思いますが、そのおかげで、宿の主人の行動が外から把握できます」
「なるほど。裏手からだと、万が一、扉を開けた瞬間に誰かと鉢合わせになるかもしれないが、おもてからだとその心配はない、と」
「どうです? この考え」
「宿のおもてではなく、裏手で火を起こしたことの理由にもなるか。おもてで火を起こす準備をしていると、宿の主人に見とがめられてしまう。裏手であれば、全面板張りだから、見とがめられる心配もない」
「でしょでしょ!」
メルルは勢いづく。
「でも、やっぱりおかしいんだよなぁ」
レトの鈍い反応に、メルルはがっくりと肩を落とした。
「何なんですか、そのおかしいところって……」
「やっぱり見つかる危険は残るんだよ。宿の主人をやり過ごして侵入できても、宿のおかみさんや宿泊客が1階に現れて、自分の姿を見られるかもしれないんだ。誰にも目撃されず宿に侵入する方法としては、犯人はあまりに危険を負い過ぎている」
「犯人は慎重で用心深いとおっしゃいましたよね?」
レトはメルルに顔を向けた。「ああ。いったよ」
「こうは考えられませんか? 犯人は宿に侵入するのは危険だと思った。そこで火事騒ぎを起こして、ベネディクトさんを含め、宿の客たちを外へおびき出そうとした。犯人はベネディクトさんを外で殺そうと考えたのではないでしょうか?」
「侵入のための陽動ではなく、被害者をおびき出すための罠だったということか」
メルルはうなずいた。
「ところが、その騒ぎは思っていた効果が出なかった。宿の主人以外、宿から飛び出さなかったんです。ただ、犯人はどうしてもベネディクトさんを殺しておきたかった。だから、今度は危険を承知で宿に侵入してベネディクトさんを殺害したんです」
メルルの説明を聞き終えると、レトは「うーん」とうなった。この説にも納得がいかない様子だ。
「どこか問題でも?」
「君の推理にはいくつか弱いところがある。それは、犯人が宿に直接火を点けなかったということだ。もし、犯人がみんなを外へ追い出そうとするために火を点けるなら、裏手の空き地ではなく、宿に直接火を点けるだろう。そのほうが確実に客は外へ逃げ出してくれる。それと、客全員が外へ逃げ出すとなったら、ベネディクトさんはひとりきりにならない。まさか大勢の見ている前で殺害しようとはしないだろう。外へおびき出せても、目撃者のいないところへベネディクトさんだけを連れ出すことは難しいじゃないか。結局、失敗の危険がかなり高いんだ」
メルルはへこんでうなだれた。「そうですよね……」
「でも、犯人はかなりの危険を冒して犯行に及んだのは間違いない。犯人の行動の理由は、これまで考えてきた事情より、もっと切羽詰まったものがあったんじゃないかな」
「切羽詰まったもの?」
レトはうなずいた。「そうでなきゃ、犯人の行動はただの自己破滅型としかいいようがない」
34
駐屯本部に着いたとき、メルルは嫌な予感がしていた。事件の一報を聞いたとき、とにかく現場へ急行することだけを考えて飛び出してしまったので、残された者たちへの配慮などまるで段取りしていなかった。レトがすばやく対応して、彼らを事件関係者として、別室で待機してもらうよう手配していた。アリスたちは事実上、駐屯本部に軟禁されているも同然だったのだ。放っておくつもりはなかったが、数時間部屋に押し込められたままの状態は気を悪くしても不思議ではない。
はたして、彼らの松部屋に入るなり、「遅い!」と雷が落ちてきた。ヒース・ブッチャーが顔を真っ赤にして立ちはだかっている。
「いったい、何をしてきたんだ? 我々をこんなに留め置く理由はあるのかね!」
「今回ばかりは、私もこの男に同意見だ」
ジャック・ペンドルトン卿がヒースを横目で見ながら前へ進み出た。
「ケン・ベネディクトが殺された事件と、我々がどう関係していると疑っているのだ? 私たちはあの男のことをほとんど知らないんだぞ!」
「よく知らない相手を殺す事件は珍しいものではありません」
レトは落ち着いた声で応じた。ふたりの剣幕にもどこ吹く風だ。
「よくあるものでは行きずりの強盗事件。刃物の切れ味を試したいだけで起きる辻斬り事件もそうです。ひとは恨みをつのらせてのみ殺人に及ぶわけではありません」
「そういうのは屁理屈というものだ」ヒースの顔からは怒りの表情が失せ、今は苦い表情だ。自分がどう怒ろうとも、あるいは凄もうとも、レトには通じないことをようやく思い知ったようだ。
「ところで、事件のことはわかりましたか?」
ダドリーが暗い表情で声をはさんだ。彼はメルルが戻って来る前から沈痛な様子だ。
「どうやら、ベネディクト氏は何者かに狙われて殺害されたものと思われます」
レトは丁寧な口調で告げた。周囲は同時に息をのみ、メルルは思わずレトを振り返った。事件について詳細を教えるのは、容疑者に情報を与えることになりかねない。そのため、捜査情報の開示については慎重であるよう教えられている。レトは、そのことをメルルに教えた張本人だった。まさか、レト自身が捜査情報を漏らすと思わなかったのだ。
「皆さんにこれまでお待ちいただいたのは、これから個別に事件のことをお尋ねするためです。申し訳ありませんが、あともうしばらくお付き合い願いたいと思います」
ヒースは完全に主導権を握られたようで、彼の口から抗議の声はなかった。しかし、ジャックだけは別だったようで、レトの前に詰め寄って来た。
「いったい、それが何だというんだ? ケン・ベネディクトが誰かに狙われていた。だから、我々に事情を聴きたい? さっきいったばかりだろう。我々はあの男のことなぞ、ほとんど知らないのだ。恨みを持っていなくても人殺しは起こるという話はわかるが、それと私には何の関係もない。私にはあの男を殺す理由がないのだ。強盗? あいにくだが、そこまで金銭的に窮しちゃいない。剣の試し切り? 見てのとおり私は丸腰だ。剣など握ったこともない。辻斬りなんて事件も起こしようがない。わかるか? 私はその事件とは無関係なのだ!」
「あいにくですが」
レトはあくまで冷静だ。凄んでくるジャックの目をまっすぐ見返している。
「あなたに理由がなかろうと関係ないのです」
「な……」ジャックは口を半分開いた。
「たとえば殺人現場にあなたと被害者のふたりしかおらず、あなた以外に犯行のできる者がいなければ、僕たちはあなたを被疑者として逮捕します。その場合、殺害の動機なんて二の次です」
「そ、それはあまりに乱暴な考えだろう!」
「だから、乱暴なことにしないため、誰かを特別扱いなどせず慎重に捜査を行うのです。事件に関係があるのか、ないのか、本人の主張だけでなく、きちんと裏付けをとって、客観的な観点でその判別をしていくのです。すみやかに捜査が進めば、事件に関係のない方はすぐ解放されます。どうか、すみやかな捜査にご協力いただけませんか?」
「ジャック……」
ダドリーが弟の肩に手を置いた。驚いたように振り返るジャックに、ダドリーは目を閉じてうなずいてみせた。ジャックの全身から怒りの気配が消え、ジャックは近くの椅子に力なく腰を下ろした。
「話はまとまったみたいだね」
ヒースは感情のない目でジャックを見つめてつぶやいた。「では、事情聴取を始めてくれんかね?」
それから、関係者を個室へひとりひとり呼んでの事情聴取が始まった。こういう場合、アルキオネは別室で待機だ。状況を察することができるらしく、アルキオネはレトの泊まる部屋でおとなしく羽繕いをしていた。
それぞれ、昨夜の行動について説明はあったが、複数からの裏付けが取れたのは一緒に過ごしたアリスとレイラぐらいだった。あの夜はレイラの母親もいたが、念のための警護についた駐屯兵もふたりが事件に無関係であると証言したのだ。
ほかの者たちは、ひとりで夜を過ごしたと答えた。「誰にも邪魔されず、夜を過ごしたいのは普通のことだろう?」ヒースは不機嫌な声で尋問の不満を漏らした。「真夜中に自分の行動が第三者に証明できるほうが珍しいだろうが」
残る3人はヒースほど不満の声はあげず、おとなしく質問に答えていた。とはいっても、その答えはヒースと大した違いはなかった。ダドリーは「早い時間に部屋に入り、そのまま眠ってしまった」、ジャックは「演説の原稿の推敲をしていた。1時ごろには眠った」、ピッチは「ベッドで本を読んでいた。いつの間にか眠っていた」とのことだ。いずれも宿の者から裏付けの証言は得られず、また、宿からこっそりと抜け出すことも可能だった。4人とも、ベネディクトと同じような安い宿を利用していた。ひとの出入りを細かく管理する高級宿に泊まっていなかったのだ。
「ペンドルトンのひとたちって倹約家なんですね」
退出するジャックを見送った後、メルルはつぶやいた。貴族というのは、見栄を張るのが商売というように、贅沢な宿に泊まるものだと考えていたのだ。
「この国には貴族税というのがある」
レトはメルルの疑問に答えるように話し始めた。
「僕たち一般市民は市民税だけ課されているけど、商人は『商人税』、貴族には『貴族税』が加算されているんだ。商人も貴族も、なにかと特権が認められているからね。その代価のようなものだ。もし、この税が払えなくなると商人や貴族は特権だけでなく、その地位を失うことになる。没落した貴族が下級市民になることだってあるんだ。荘園の収入が少ない貴族はその地位を守るのに必死だよ。ペンドルトン家もそのひとつなのだろう」
「貴族の地位を守るために倹約しているんですか? 高い税を払うために」
「ひとにはそれぞれ守りたいものがある。家族だったり、恋人だったり……。家柄の誇りというのもそうなんだろうね」
最後の部分はひとり言に近い気がした。メルルは「レトさんの守りたいものは何ですか?」と聞きかけたが、それは思いとどまった。レトはいろいろな質問に快く答えてくれるが、自分自身のこととなると急に口が重くなるのだ。
関係者から順番に話を聴き、最後のピッチの事情聴取でも大して情報は引き出せない。メルルは聞き取った内容をノートに書きとりながら気分が重くなっていた。
レトの表情に疲れは見えなかったが、収穫のなさに多少は失望しているようだ。心なしか少し肩を落としているようでもある。
「聞きたいことは以上ですかね?」
ピッチはそわそわした様子で聞いてきた。気持ちはわかるが、一刻も早く解放してほしいのだろう。その感情を隠そうとしない。
「そうですね……」
レトがいいかけたときである。急に扉が開かれ、ひとりの兵士が現れた。メルルはその兵士に見覚えがあった。昨日、本部へ帰る馬車の中で、レトと話していた若い兵長だ。
「ちょっといいですか?」
兵長はレトの耳元に口を寄せると、何か耳打ちした。そのとき、一瞬だが、兵長はちらりとピッチの顔に視線を向けていた。レトと少し離れた場所に座っていたメルルには、兵長が何を囁いているのか聞こえなかった。
レトは無言でうなずいて聞いていたが、兵長が話しを終えると、ピッチに顔を向けた。
「マローンさん。あなたは『魔法研究家』だとおっしゃっていますが、どの研究会に所属されていますか?」
レトの質問に、ピッチの背筋が伸びた。「え、え、何ですって?」
「あなたはどこの研究会の所属ですか?」
レトは質問を繰り返した。
「コ、コリント魔法研究会……です……。最初、尋問されたときに答えましたでしょ?」
ピッチが弱々しく答えると、レトは身を乗り出した。ふたりは机をはさんで向かい合って座っているのだ。レトの圧力に押されるように、ピッチは身体をのけぞらせた。
「本当ですか? 本当にコリント魔法研究会に所属されていると?」
「な、何ですか、急に。う、嘘だと思うのなら、け、研究会に問い合わせていただいたらいいじゃないですか」
レトは姿勢を戻した。「もう問い合わせしました」
「え?」ピッチだけでなく、メルルも同じ声をあげていた。
「こちらはザック兵長です」
レトはかたわらに控えて立っている兵長を紹介した。兵長はまっすぐ前を向いたままの直立姿勢で、ふたりを見ようともしない。
「僕は一昨日、ザック兵長にあなたの身元の裏付け確認を依頼しました。ここカージナル市の駐屯軍とコリント市の駐屯軍は伝書鳩で通信のやりとりが行われています。そこで、コリント魔法研究会という団体、あるいはそれに近い組織が存在するか確認してもらうとともに、そこにピッチ・マローンなる人物が所属しているか確認していただいたのです。さきほど、その返事が兵長のもとへ届き、その内容を僕に報せてくれたのです」
レトはまっすぐな視線をピッチに向けた。「報せによれば、コリント魔法研究会なる団体は存在しませんでした。非公認の団体も含めて調べていただきましたが、そこにもありませんでした。まぁ、コリントは商業都市です。あの街に魔法研究家はあまりいないでしょうね」
捜査の基本は丁寧な裏付け確認の積み重ねだ。メルルはレトからその心得を教えられていた。そう教えるだけあって、レトは基本に忠実な捜査活動をしていたのだ。メルルは内心「さすが」と思った。しかも、その段取りが抜け目ない。
「そ、その報せは、ま、間違いだ。ぼ、僕はたしかにコリントの魔法研究会に所属している!」
「『コリントの』、『魔法研究会』、ですか? 『コリント魔法研究会』ではなく?」
ピッチは急に黙り込んだ。目は左右に泳ぎまくっている。額からは大粒の汗が浮かび上がり、こめかみあたりにひと筋の汗が流れ出した。
「僕は同時にケルン市である確認をしました。あなたの風貌をひそかにスケッチさせていただき、ある人物に見ていただいたのです。アル・ベントさんという方です。ご存じですか?」
ピッチは目だけでなく、口も大きく開いた。「し、知らない! 知っているはずがない!」
「そうですか。ですが、アル・ベントさんはあなたの似顔絵を指さし、こうおっしゃったそうです。『オプティマス・ケイマーに間違いない』と」
次の瞬間、メルルには何が起こったのかわからなかった。このとき、メルルはノートにこのやりとりを記入しているところだったが、ノートに黒い影がさしたと思うと、いきなり口を押さえられて後ろへ引きずられたのである。
「ケイマー!」レトの叫び声が響く。
「動くな! そこの兵士も!」
見ると、レトが中腰でこちらをにらんでいる。かたわらに立っていたザック兵長は、腰の剣を抜きかけた格好で静止していた。ここで、自分がピッチに囚われた状態にあることを知った。
「いいか、よく見ろ」
メルルの前に指輪をはめた左手が伸びてきた。
「これは炎系の術式が組み込まれた魔法の指輪だ。ひとこと、魔名を唱えるだけでこの娘は焼き焦げになる。そうさせたくなかったらおとなしくするんだ!」
ピッチは指輪をちらつかせながら物騒なことをいい出した。
「ふんぐ!」
メルルは抵抗しようと声をあげかけたが、ピッチの手がそれをさせない。
「お前もおとなしくしろ! この指輪は本物だぞ!」
メルルはピッチの腕をつかんでいたが、その力をゆるめた。
「ふたりとも、そこから離れて壁ぎわへ向かえ。今すぐ!」ピッチは大きくはないが鋭い声で命じた。これまでとはまるでひとが変わったような猛々しさだ。
レトはそろそろと立ち上がり、数歩あとずさった。つられるようにザック兵長もあとずさる。
「そうだ。そのまま両手をあげて、壁に向かうんだ。早く!」
「その指輪はアル・ベントさんが所有していた『ウェルタの指輪』ですか?」
レトは立ち止まると、静かな口調で尋ねた。すると、メルルの頭の上でピッチが荒い息を吐くのが聞こえた。
「本物だっていっただろ? そうだよ。これが『ウェルタの指輪』だ。そうとわかれば威力も知っているよな? 僕が指輪に命じたら、この部屋の人間すべてを消し炭にできるってことを!」
「兵長。ケイマーのいっていることは本当です。このピッチ・マローンは、ケルン市でオプティマス・ケイマーと名乗り、魔法道具商のアル・ベント氏からあれをだまし取りました。僕はもともとケイマーを追って、この街にやって来たのです」
「ケルンでひと仕事を終えて、今度はカージナル市の博物館を狙った、ということか」
ザック兵長は抜きかけた剣の柄を握ったままつぶやいた。
「黙れ! 今、そんなことを話すつもりはない。さっさと向こうを向け!」
ピッチはじりじりと少しずつ動きながら苛立った声をあげる。ピッチの向かう先は、この部屋にひとつしかない扉だ。レトや兵長を扉から遠ざけて逃げ出すつもりなのだろう。そのとき、自分はどうなるんだろう。解放してくれるのだろうか。メルルはずるずると引きずられながら思った。これまでのピッチは、ずいぶんとひ弱な印象だったが、思っていた以上に腕力がある。ピッチの腕から逃れようと抵抗を試みているのだが、ピッチの腕は少しもゆるまない。
「メルル」
レトはメルルに話しかけた。メルルは口を押さえられたままレトを見つめる。
「思い切りしゃがむんだ」
メルルはいわれた瞬間に行動していた。つかんでいたピッチの腕を跳ね上げるようにすると、そのまま床に伏せる。レトはまっすぐにピッチに向かって飛び出していた。
「こ、この!」
ピッチは指輪をはめた手をレトに向けた。「火炎剛球!」
ピッチが魔名を告げた瞬間、指輪から真っ赤な炎が噴き出してレトに襲いかかった。
レトは鎧を着けた左手を炎に向ける。炎はそのままレトの全身を覆った。
「レトさん!」床に伏せたままメルルは叫んだ。
ピッチが放った炎はレトの全身を包んだが、それは一瞬のことだった。炎はあっという間にレトの左手に吸い込まれていく。ピッチはもちろん、メルルも目を丸くしてその光景を見つめた。
「ば、バカな!」
動揺したピッチは、続けて魔名を唱えられなかった。次の瞬間にはレトの左手はピッチの手をつかんでいた。魔法の指輪をはめた手である。
ぐしゃりという音が聞こえ、続けてピッチの悲鳴が起こった。メルルが床に伏せたまま振り返ると、レトはピッチの左手をつかんだままピッチを壁に押し付けていた。レトはうめき声をあげているピッチにかまわず、その手から指輪を抜き取った。レトは指輪を駆けつけた兵長に向かって放り投げる。兵長は慌てて指輪を受け止めた。
「すみません。その指輪を預かってもらえますか」レトはピッチを床に押さえつけながらいうと、
「そういうのは投げる前にいってください」
兵長は苦い表情で返した。危険な炎を噴き出した指輪は、兵長の手の中で穏やかな光を放っているだけだった。
35
「本当に食えないんですから、レトさんって!」
メルルはぷりぷりしながら声を吐き出した。『憤懣やるかたない』とは、こういう場合のことだろうか。メルルは腹立たしさが抑えられなかった。
「ごめんよ。でも、あの状況じゃ、打ち合わせなんてできなかったじゃないか」
レトはなだめるように詫びるが、そんなことでは収まらない。メルルは怒りの目をレトに向けた。「ほんとに怖かったんですから、私は!」
レトは困ったように苦笑を浮かべるだけだ。
ふたりは先ほどと同じ部屋にいた。ピッチは騒ぎに気づいて駆けつけたほかの兵士と兵長に引っ立てられて、ここにはいない。医療班の兵士が駆けつけてきたが、ふたりとも大してケガを負っていないことを確認すると、ふたりを残して立ち去ったばかりだった。
「質問、いいですか?」
これ以上は怒っていても仕方がない。メルルはむくれた表情ながらも気持ちを切り替えることにした。
「質問? 何だい?」
「レトさんは、私たちの応援に来てくれたんじゃなかったんですか?」
「もちろん、そうだよ。もっとも、僕が担当している事件の容疑者がこの街に潜入したことは知っていたから、そちらの捜査もするつもりだったけど」
「で、自分の用事を先に片づけた、と」
「結果的に、そうかな」
再び腹が立ってきたが、メルルはぐっとこらえた。
「まぁ、レトさんの機転でケガをせずにすみました。ありがとうございました」
メルルは頭を下げた。レトはそれを見て、自分も頭を下げる。
「こちらこそ怖い思いをさせてすまなかった。改めて申し訳ない」
「もういいです、それは」
メルルはレトの顔を見上げた。「あと少し、質問、いいですか?」
「いいよ」
メルルはレトの左手を指さした。ごつい金属の鎧で覆われた左手は、鈍い光を放っている。
「この鎧は何ですか? 以前、魔力が込められていると聞きましたが」
「ああ、これか」
レトは左手をあげると、それをカチャカチャと音を鳴らした。
「前にも話したとおり、これには魔力が封じ込められている。詳しい理由は省略するけど、そのことでさまざまな術式を仕込むことができるんだ」
理由は教えられない、ということか。メルルは話を合わせながら質問を続けることにした。
「で、さっきの炎を打ち消す術式も仕込んでおいた、ということですか」
「たまたま昨夜にね」
レトの答えに、メルルは眉をひそめた。「たまたま? 昨夜に?」
「定時連絡で、ヴィクトリアさんにある術式について教えてもらったんだ。それが、さっきのものだ。試しに術式を仕込める道具が手近になかったんで、この鎧に仕込んでみたんだ」
「それが、『たまたま』という話ですか」
レトはうなずいた。
「よく、そんな偶然があるもんですねぇ」
「皮肉みたいにいうなよ。仕込んだのは本当に偶然だけど、ただ偶然だったわけじゃない」
「どういうことです?」
そこへ兵長が現れて、ふたりの話は中断された。
「ピッチ・マローンこと、オプティマス・ケイマーは留置所に放り込みました。あの男、ほかにもいろいろ隠し持っていたので、念のため拘束具で身動きできないようにしています」
兵長は敬礼もそこそこに報告を始めた。
「あの指輪以外にもいろいろですか?」
メルルは不安そうな表情を浮かべた。炎を噴き出す指輪だけでも危険なのに、さらに凶悪なアイテムを隠し持ってなどされたらたまらない。
「ほかには麻痺薬、離脱魔法の術式が施された護符、それと、即死性の高い毒針です」
本当に物騒だった。メルルの顔から血の気が引いた。下手をすれば、毒針の餌食にされたかもしれないのだ。
「自分の身ひとつで、人殺しができるというわけだ」
レトは冷静な様子だ。
「興奮状態が続いており、こちらの尋問にまともに答えられる状態ではありません。尋問には時間を置いたほうが良いと思います」
「そうですね。ありがとうございます」
「それと、別室で控えてもらっているほかの方たちはどうしますか? さらに尋問を行いますか?」
「それはもういいでしょう」
レトは立ち上がった。
「今日は引き止め過ぎました。事情を説明した後に、お帰りいただきましょう」
レトはそういうと、すたすたと歩いていく。メルルも立ち上がるとレトに続いた。
控えの部屋として用意されている会議室には、アリスたち全員が待っていた。もっとも、おとなしく待っていたというわけでなく、ヒース・ブッチャーは見張りの兵士に抗議している最中だった。
「あ、やっと来たか」
ヒースはレトを見るなり大声をあげた。ようやく解放された見張りの兵士はかたわらで深い息を吐く。
「皆さん、お待たせして申し訳ありません」
レトはその場で頭を下げた。ジャックは不機嫌な顔で座っていたが、ゆっくりと立ち上がった。
「その様子では、もう引き揚げさせていただいてもかまわない、ということだろうね?」
口調は穏やかだが、有無をいわせない強いものを感じさせた。
「ええ、お引き取りいただいてかまいません。ただ、今回は事件が事件です。こちらに許可なく街を離れないでください。また、急にこちらまでお出でいただくこともあるかと思います。そのときにはご協力のほどお願いします」
「それはいつまでの話だ? 私は、選挙活動のある身だ。支持者集めや演説のために街を離れる必要だってある。君のいう『お願い』はあくまで『お願い』であって、強制ではないね?」
ここでもジャックは穏やかながら、強い口調で迫ってくる。レトは小さくうなずいた。「もちろんです」
「では、私はすぐにでも失礼させていただく。すでに約束の時間を過ぎているから急がなければならん」
ジャックはそういうとダドリーに顔を向けた。
「そういうわけだ、兄さん。悪いがもう行くよ。昨夜はせっかくふたりきりになったのに、ゆっくり話すことができず申し訳ない。だが今日も、ふたりでゆっくり話す時間が取れそうにないんだ」
ダドリーは静かに首を振った。「いいんだ、ジャック。大したことじゃない」
ジャックが立ち去ると、それを合図とするようにほかの者も次々と部屋を出ていった。最後にアリスとレイラが残ったが、彼女たちも頭を下げて部屋を出ていきかけた。しかし、レトがふたりを呼び止めた。「どうか、お待ちいただけませんか?」
ふたりは足を止めると、互いを見やってから振り返った。「何でしょうか?」
「これをご覧いただきたいのです」
レトはポケットに手を突っ込むと、ふたりの前に何かを握った手を差し出した。ふたりが寄ると、レトは手を開いてみせた。
「ここへ入る前に、駐屯兵の方から渡されたものです。ピッチ・マローンことオプティマス・ケイマーが隠し持っていました」
「これは……何です?」
レイラが首をひねりながら尋ねた。それは小さな黒い塊だった。メルルには金属製の、何かの部品のように思えた。さらに、紫色をした丸い石も載せられている。
「黒い塊は、おそらく銀のインゴットです。で、丸い石のように見えるのはガラス玉ですね」
レトは簡単に説明した。アリスはレトの手から視線をあげた。「これが、どうかしましたか?」
「オプティマス・ケイマーはある目的のために博物館に現れたと思われます。その目的を、あの男はまだ白状していません。ですが、これを手にしていたので、ある推測ができたのです。あの男はこれらの材料を使って、博物館のある品の偽物を造っていたのではないか。真の目的は、もちろん、魔法の杖の解析などではなく、高価な品を偽物にすり替えることだったのではないか……」
「銀に、紫の石って、まさか!」
メルルが思わず声をあげると、ふたりも同時に気がついたようだった。
「『呪いの指輪』!」
36
博物館に残っている『呪いの指輪』は果たして本物なのか……。
レトはアリスたちとともに博物館へ向かっていた。火事の現場検証時には、展示品の紛失がないことは確かめられたが、偽物にすり替えられたかどうかまでは確認していない。ケイマーの手元にあったのが、偽物を造る前の材料なのか、完成後に余ったものなのか、あれらだけを元に判断するのは不可能だ。そこで、直接確かめることになったのだ。
彼らが乗っているのは軍用の馬車である。乗合馬車と違い快適さは劣るが、足は非常に速い。馬車はガラガラと大きな音を立てながら疾駆していた。
「ケイマーを締め上げて白状させたほうが早いのでは?」
出発前にメルルはそう発言したが、「ケイマーが嘘をいう可能性がある。実際に確かめる以外の手はない」というレトの意見に、あえなく撃沈させられた。たとえ、ケイマーが指輪に手を出していないと答えたとしても、それが真実か誰も保証できないのである。
「おふたりは指輪の真贋は見極めできそうですか?」
馬車の中でレトはアリスに尋ねると、アリスはあいまいなうなずき方をした。
「たぶん……、わかると思います。もちろん、彼女も一緒なので、大丈夫だと思っていますが」
アリスはレイラに顔を向けると、レイラは無言でうなずいた。緊張した面持ちだった。
「よりにもよって、『呪いの指輪』を狙うなんて……」
メルルが呆れたようにつぶやくと、
「しかし、あの指輪に使われている宝石は高価なものです。呪いの術式さえ解いてしまえば、金目のものとして売り払うことができるでしょう。あれは呪いさえなければ、数百万リユーの値打ちがあるのです」
レイラが解説するように答えた。レイラの言葉に、アリスが不安そうな表情を見せた。
「術式を解くなんてこと、ケイマーはするでしょうか? 術式を解こうとすると、その施術者に危害を加えるものがあると聞きます。そんな危険など冒さず、そのまま売り払ってしまうのでは?」
そうなると、あの危険なアイテムが知らず知らずのうちに人々の命を奪ってしまう。それだけはあってはならないことだ。
「だからこそ確かめる必要があるのです」
短くつぶやくレトの表情も緊張で引き締まっていた。それからは誰もが無言だった。
彼らを乗せた馬車はたちまち博物館の前に到着した。
レトたちは飛び降りるように馬車から降りると、真っ先に展示室へ向かった。警備している兵士の脇をすり抜けると、そのまま『呪いの指輪』が展示されている台へと向かう。
『呪いの指輪』は、メルルが初めて目にしたときと同じ場所で静かに光を放っていた。
レイラが指輪を覆うガラスケースを取り外すと、アリスがそっと指輪を取り上げた。ふたりは指輪の向きをいろいろ変えながら確認をはじめた。このことではレトたちは門外漢だ。アリスたちの後ろでおとなしく立っているほかなかった。
やがて、レイラがレトたちに振り返った。「本物です」
「良かった。すり替えられてはいなかったんですね」
レトの顔が安堵の笑みでゆるんだ。それを見て、メルルは「そんな顔もするんだ」と思った。
「こちらもホッとしました」
レイラも安堵した様子だ。アリスはケースを元の位置へ慎重に戻した。
「結果として、お騒がせした形になりました」
レトが詫びると、アリスは手を振った。
「とんでもありません。こちらこそ危険を知らせていただき、ありがとうございました。今後は、このことも踏まえ、展示品の管理について考えてまいります」
「博物館はお続けなさるんですね」
メルルが気がついたように声をあげると、アリスは困惑した表情でレイラと顔を見合わせた。
「実は……、昨夜、彼女とも話したのですが、今後のことは決まっていません。この博物館は父の夢と情熱の結晶でした。どちらかというと、私は、そんな父を支えてきたにすぎません。ただ、博物館を続けるにしろ、閉鎖するにしろ、展示品の管理はこれまで以上に慎重であるべきだと話していたのです」
「私は、館長の遺志を継いで博物館を続けたいと考えております。魔法道具史は、世間で注目されない学問です。ですが、この博物館の存在は、その学問に光を照らす一助になるかもしれないのです。館長亡き今は、非常に困難であるかもしれませんが……」
アリスとレイラは、それぞれぽつりぽつりと語った。語られた内容に統一感はなかったが、それだけにふたりの複雑な心情が表れているとメルルは感じた。
レイラの家まではそれほど遠くないので、と、アリスたちふたりはそのまま博物館を後にした。レイラは日ごろ、博物館へは徒歩で通勤していたのだ。ふたりは何度も頭を下げながら去っていった。メルルはふたりが見えなくなるまで手を振った。
アリスたちは去ったが、レトたちは捜査を続けるため博物館に残った。「現場百回って言葉があるからね」レトは先に立って歩きながらいった。
「百回現場を見れば、何かの霊感が湧くという話ですか?」
メルルが尋ねると、レトは苦笑した。
「霊感とは違うね。調べ尽くしたと思っていても、何かの見落としに気がついたり、新しい発見があるかもしれないって話だよ」
「意外と単純な話でしたか」
「前にもいったけど、捜査って地味な作業の繰り返しなんだ。何でも快刀乱麻を断つってことにはならないよ」
レトさんって、その「快刀乱麻を断つ」ってのを、ずいぶんなさってますけどね……。メルルはそう思いながらも口には出さなかった。
レトは放火現場の研究室をあらためた。あれから時間が経ったが、焦げ臭い匂いはまだ残っている。メルルはよくやけどもせずにすんだと身体を震わせながら思った。
レトはメルルが倒れていた床を調べている。何かに納得したらしく、強くうなずいた。
「何かわかりましたか?」
メルルはレトの肩越しに話しかけた。
「わかった、というより、確認できた、だね。燃え残っている床を見てごらん」
レトは床を指さした。
「焼き焦げている箇所と焦げていない箇所の境い目がはっきりしている。一定の距離から、炎が近づかなくなっているんだ」
「改めて見ると、そうですね」
メルルは同意した。
「実験の必要はあるけど、ほぼ確信できたね。あの魔法の杖の正体が」
「え? レトさん、わかったんですか? あの杖の正体」
「さっきいったとおりだけど、『ほぼ』、だよ」
「何なのですか、あの杖は?」
レトはメルルに説明した。答えを聞いて、メルルの表情は困惑に近いものになっていた。
「……それが、あの杖の正体……」
「それを証明しないといけないけどね」
レトは研究室を出て、ホールに向かって歩き出した。メルルは置いてきぼりになるまいと後を追う。
しかし、廊下へ出たところでメルルの足が止まった。たしか、以前もここで何かを感じて立ち止まったのだ。
何だろう。何が自分の足を止めたのだろう。メルルは泥とがれきにまみれた廊下を見渡した。
時刻は夕方となり、西日が廊下突き当りの窓から差し込んでいた。その光が、まだ乾いていない廊下を赤く照らす。廊下はところどころできらきらと小さな光を反射していた。
「あれ?」
メルルの視線の先に、ひときわ大きな光が目に入ってきた。近くに寄ってみると、土の塊から光を放つものがある。廊下に置かれていた鉢植えの残骸だ。火を消した大量の水に押し流されて、ホールへの戸口で壊れてしまったのだろう。メルルはその残骸から光るものを取り上げた。
「これ……」
それは銀色に光るロケットだった。蓋を開いてみると見覚えのある肖像画がはめ込まれていた。アリスの母親の肖像画だ。
「無事だったんだ、これ」
廊下の壁にフックをつけてかけられたものだ。あの水は鉢植えだけでなく、ロケットも流してしまっていたのだ。しかし、壊れた鉢植えが館の外へ押し流すのを留めたようだ。そうでなければ、このロケットは永遠に失われていたかもしれない。
ロケットは腕のいい職人の手によって造られたようだった。中身の肖像画は水に濡れた様子もなく、破損している箇所も見当たらなかった。
メルルはそれをポケットにしまおうとしたが、全身が凍りついたようになって動きが止まった。
……どういうこと?
メルルは再びロケットを手に見つめなおす。ロケットに異常は見当たらない。しかし、メルルはそのロケットを恐怖に近い表情で見つめていた。まるで怖いものを見ているようだ。
……まさか、そんなことが……。
メルルの中に灯った疑問符がみるみる大きくなっていく。しかし、メルルはそれをどう扱えばいいかわからなくなっていた。
「メルル?」
メルルを呼びかけるレトの声が聞こえる。
メルルはロケットをポケットへすべりこませると、レトのいるホールへ駆け足で向かった。
「呼びましたか? レトさん」
「この間はうっかり調べ忘れていたけど、この部屋は何だい?」
レトは展示室の脇の扉をコンコンと叩く。メルルは思い出そうとしながら答えた。
「たしか……、保管室です」
「展示品以外の物がしまってあるのかい?」
「たしか……、そうです」
「はっきりしないなぁ」
レトは少しあきれた様子で扉を見つめる。「まぁ、これが現場百回ということさ。調査の抜けがわかったわけだ」
「すみません、気づいてなくて。そこはあまり話題にもならなかった場所だったので」
「あまり……? 少しは話題になった、ということ?」
メルルはうなずいた。
「館長さんが、魔法の杖は保管室にしまっていると発言されていたんです。でも、それはブッチャーさんたちを追い返すためについた嘘だったんですけど」
レトはゆっくりとメルルに振り返った。「何だって?」
「いえ、ですから、魔法の杖はそこにある、と館長さんはおっしゃっていたんですけど、それは嘘だった、という話で、実際、杖はほら、あの研究室に置いたままだったじゃないですか」
レトは身体ごとメルルに向けた。「悪いが、その話を詳しく説明してくれないか?」
メルルはそこで、レトに事件前日の出来事を詳しく説明することになった。病室で行なった説明は簡単なものだったので、あのときの出来事は省略していたのである。
「で、館長は『誰にも手を出せませんよ』と、強くいわれた、と……」
メルルの説明を聞きながら、レトは小さくつぶやいた。
「杖を持ち出させるのは難しいと思わせるための嘘だったと思います。あの場にいたひとたちは杖をもう一度見たがっていたようでしたし」
レトは口に手をやって沈黙していた。レトが沈思黙考するときの姿勢だ。メルルはあっけにとられるようにレトを見つめていた。さっきの話のどこに重要な部分があったのか、メルルに見当がつかなかったのだ。
「そうか……、僕はとんでもない思い違いをしていた。わかってしまえば明白なことだったんだ……」
レトのつぶやきにメルルは目を丸くした。「わかったんですか?」
「ああ」
レトの答えは短かった。メルルはレトのすぐ目の前まで詰め寄った。
「いったい、何です? この事件の真相は?」
「慌てるなよ」
レトはのけぞりながら両手を前にした。メルルを押し返そうとするようだ。
「まずは駐屯本部に戻って準備を始めよう。それから、家に戻って間もないところだけど、アリスさんたちにもお出でいただこう。もちろん、ほかの皆さんにも。杖の正体を確認する実験と一緒に、事件の真相についても聞いてもらうんだ」
「杖の正体を暴くんですね?」
レトは強くうなずいた。
「もちろんさ。そして、すべてに決着をつけよう」
次章へ進む前に、ここで事件について推理してみてください。
この物語にはいくつか謎が示されています。
「魔法の杖の正体は何か?」
「サマセット・チェンジャーを死に至らしめ、ケン・ベネディクトを殺害したのは誰か?」
「探偵事務所を巻き込んだ『ダーク・クロウ』はこの事件のどこに関わっているのか?」
Chapter1から6までに、これらの謎について論理的に解明できる手がかりは提示されています。
「何でもありのファンタジー世界に論理的解明はありえない」と思われるかもしれません。
少なくとも、現実世界の常識で解き明かすことは可能です。※魔法の杖の正体は現実世界ではありえないものですが、それでも予測可能な真相であると考えています。
ヤマ勘でも犯人は当てられますが、できれば推理の力で真相を導き出してください。