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魔法の杖は真実を語らない 5

Chapter 5


27


 アリスの登場はその場にいる誰にとっても意外なものだった。アリスはあたりを見渡すと、すたすたと歩いてメルルに近づいた。これまでと同じような愛嬌を感じさせる丸眼鏡の姿だが、この日は口元が引き締まって、どこか厳しい感じがする。

 「ア、アリスさん……」

 心に深手を負っていると聞いていたので、アリスとは面会せずに病院を出たのだ。まさか、自分たちが病院を出たあとすぐに彼女も退院するとは思ってもみなかった。

 アリスはメルルの前に立ち止まると、深々と頭を下げた。「ご心配をおかけしました」

 メルルは両手をぱたぱたと振りながら首も振った。「い、いえいえ、とんでもない! それより、もう退院して大丈夫なのですか? お医者様からはすぐに起き上がれない様子だったと……」

 アリスは首を横に振った。

 「私は皆さんのおかげで大したケガもせずにすみました。父を喪ったことでしばらく呆然としてしまいましたが、すぐ自分を取り戻しました。気持ちが落ち着くと、博物館をそのままにしていることが気になります。こうしてはおられないと、ここへ戻ることにしたのです」

 アリスの声は凛として、強い決意をにじませていた。アリスはレイラたちに振り返ると、再び頭を下げた。

 「レイラさんにもご迷惑をおかけしました」

 今度はレイラが首を横に振った。「アリスさん、頭をあげてください。迷惑だなんて思ってもいませんから」

 アリスは顔をあげるとレトに視線を移した。レトの話では面識があるとのことだったが、彼女のほうでは記憶にないのかもしれない。レトを見つめるその目に感情をうかがわせるものが見られないからだ。レトは進み出ると頭を下げた。

 「半年も前のことでご記憶にないかもしれませんが、僕は一度、この博物館を訪れていました。レト・カーペンターと申します。こちらのメルルと同じく、メリヴェール王立探偵事務所の探偵です」

 それを聞いて、アリスは「まぁ」という表情になって口を押さえた。「そうでしたか。これは失礼をいたしました」

 「どうぞ、お気になさらず。それより、メルルも心配していましたが、体調の具合は本当によろしいのですか?」

 「本当に大丈夫です。私の場合、自分の気の持ちようの問題なのですから……」

 アリスは伏し目がちに答えた。強い意志をもって戻ってきたのだろうが、やはり、心が完全に落ち着いたわけではないらしい。それは当然のことだ。この若い女性は、たったひとりの肉親を失ったばかりなのだから。レトはそれ以上触れないでおこうと考えたらしい。「わかりました。でも、無理はなさらないでください」とだけいった。

 「ありがとうございます」

 アリスはレトに頭を下げるとレイラたちのほうへ歩み寄った。「ところで、これは何の集まりなのですか?」問いただす風でもなく尋ねる。

 「ああ、これは、その、ブッチャー様とマローン様が、この博物館に入ろうとしたのです。火事の後片付けをするためとかおっしゃって」

 レイラが説明すると、アリスはヒースに顔を向けた。「そうなのですか?」

 ヒースは顔の横を指でかきながら視線をそらした。「ま、まぁ、そのつもりなのだが……」

 「杖の行方が気になってらっしゃるのですね?」

 アリスは核心をついてきた。ヒースは慌てて首を振る。

 「あ、いや。た、たしかに、杖が無事なのか気になる。気にはなるが、それを持ちだそうと考えたわけではないぞ」

 「杖は大丈夫です。僕が見つけて、ここから別のところに保管しています」

 レトが教えると、ヒースは驚いた顔になった。

 「なに! あ、あなたが。あなたが杖を持ち出したのか!」

 ヒースは抗議するような口ぶりでレトを指さした。

 「僕はメルルの応援でここに来ました。目的はダーク・クロウに狙われていると思われる杖の保護。およびダーク・クロウの発見と確保です。この博物館には、ほかに貴重な品もありますが、ひとまず杖の保護を優先して、市の駐屯基地で預かってもらうことにしたのです。詳しい保管場所についてはお答えできません」

 「そ、そうか……。杖は無事か……」

 ヒースは安心したように胸をなでおろした。

 「で、でも、杖が無事って、本当ですか? あ、あの火事にまかれていたのでしょう?」

 ピッチは眼鏡をかけなおしながらレトに話しかけた。

 「本当です。箱を開けて中をあらためました。もともと古びて経年劣化している部分はありますが、それ以外は傷ひとつついていない状態です」

 「傷ひとつついていない? あんな火事に遭って?」

 ピッチは博物館を指さした。火事は左棟で発生したものだったが、右棟にも影響を与えていた。展示室側の壁も焦げ跡があり、一部は燃えていたのだとわかる。ピッチはその展示室の方角を指さしていた。

 「火事は主に左棟で燃えていました。展示室側は壁など一部燃えましたが、室内に火が回らなかったので展示の品々が燃えることはありませんでした。ただ、魔法の水がめは壊れてしまいましたが……」

 「魔法の水がめ? ああ、ただ水を飲みこんで貯めるだけの……」

 ヒースは大したことがないようにつぶやいた。ヒースもまた、あの壺が『残念な』魔法道具であると認識していたらしい。

 「ですが、それのおかげで火事を消すことができたのです。アリスさん、申し訳ありません。このことは誰よりも真っ先にあなたへお知らせしなければならなかったのですが」

 レトはヒースに、そして、アリスに向かって説明すると頭を下げた。

 「お気になさらないでください。あの道具がお役に立ててよかったと思っています」

 アリスはゆっくりと手を左右に振った。かすかな笑みさえ浮かべている。それを見て、メルルは心が痛くなった。コーデリアはたったひとりで火事を消すという難事をやってのけたが、博物館にとって貴重な品を失ってしまったのだから。だが、この犠牲がなければ、火事の被害は壺ひとつでは治まらなかったはずだ。あの夜はかなり風が強かった。火が屋敷の外まで回り出したら、博物館はあっという間に業火に包まれ焼け落ちていただろう。展示品のほとんどが無事だったのは、むしろ奇跡的なことなのだ。

 「おい、君たちは魔法道具を破損させてしまったのかね? 火事を消すために?」

 ヒースがレトに詰め寄ってきた。その後をピッチも続く。

 「そのとおりです。今、アリスさんに謝罪したとおりです」

 レトは認めた。

 「おい、チェンジャーさん!」

 ヒースはレトを指さしながらアリスに振り返った。

 「こんなやつに杖の管理を任せていいのかね? 軍に保管してもらっているというが、その保管方法に問題がないか知れたもんじゃないか!」

 「いいのです」

 アリスは静かに答えた。ヒースがあぜんとした表情で固まる。

 「大きく破損した博物館では保管室に入れておくのも心もとないでしょう。どこかに預けるよりほかはないです。その点で、市の駐屯本部は堅牢で安心できます。ここの受け入れ態勢が整うまで預かっていただきたいと思います」

 アリスの態度に迷いがまったく見られない。これまでおとなしい印象ばかりが目についていたが、この非常事態の中で自分のとるべき行動をはっきり認識しているようだ。ある意味、『腹をくくっている』のだろう。メルルはそう感じた。

 一方、アリスの態度が予想外だったヒースは、たじろいだように数歩あとずさった。強気の態度で自分の思いどおりに事を運ぼうとしたのだろうが、今のところ、思惑からことごとく外れてしまっているのだ。

 「とにかく、ここは許可のない者の立ち入りは禁止だ。皆さんここから立ち去ってください」

 ずっと主導権を握られっぱなしだった駐屯兵がようやく話の中に加わった。兵士のひとりがヒースの腕をとり、屋敷から遠ざけようとする。ヒースは腕を振り払おうと抵抗した。

 「は、放したまえ! 私は良識ある一般市民だ。もう博物館へ立ち入ろうとはしない!」

 「ぼ、僕だって、い、一緒です!」

 別の兵士に捕まっているピッチも抗議の声をあげた。アリスはその兵士に近寄り、肩に手を置いた。

 「どうか放してあげてください。もう大丈夫でしょうから」

 兵士はじろりとアリスをにらんだが、無言でピッチを解放した。ピッチはつかまれていた自分の手首をさすりながら大きく息を吐いた。

 ヒースも同様に解放されて、ふたりは坂道に停められた馬車のかたわらに立った。アリスを送ってきた馬車がまだ残っていたのだ。馭者はカンがいいらしく、帰りに客を乗せることができると踏んだようだ。

 「仕方がない。今日はここで引き上げるとしよう」

 ヒースはため息交じりにつぶやくと、馭者に顔を向けた。乗せてもらうよう話すつもりだ。

 「あれ、また、誰か来るみたいです」

 メルルは坂の下に目をやって声をあげた。

 全員がメルルと同じ方角へ目を向けると、坂道の下を1台の馬車が上ってくるところだった。こちらもアリスが乗っていたのと同じ型の乗合馬車だ。

 「また、誰か来たのか」

 ジャックが少しうんざりしたような声でつぶやく。

 「そちらのお兄様じゃないのですか?」

 ヒースが皮肉な口調で話しかけた。ジャックは不快そうに顔をしかめる。

 「あれは兄の馬車ではない」

 そんなやりとりの間に、馬車は博物館の前に到着した。

 「もう、野次馬はかんべんだよ」

 駐屯兵のひとりが頭をかく。メルルは少し緊張しながら馬車を見つめていた。レトは何の感情も顔に浮かべず見つめている。

 注目を集めている中、馬車からひとりの男が姿を現した。白い口髭をたくわえ、50歳を過ぎたあたりだろうか。背の高いシルクハットをかぶり、高級そうな背広で身を包んでいた。これまで見たことのない人物だ。

 男は馬車から降り立つと、あたりをゆったりと眺めた。メルルはそのしぐさに優雅なものを感じ、どこかの貴族だろうかとぼんやり考えた。

 「よかった。今日は兵隊さん以外の方がおられる」

 男はレイラたちが立っているほうへ歩み寄りながらつぶやいた。どこかほっとしたような調子だ。

 「……どちらさまでしょうか?」

 レイラは困惑した様子で問いかけた。見れば誰もが似た表情だ。メルルだけでなく、彼らにとっても未知の人物が現れたようだ。

 男はシルクハットを持ち上げて会釈した。

 「皆さん、初めまして。私はケン・ベネディクトと申します」


28


 ベネディクトは丁寧な口調で名乗ったが、周囲の者たちはぽかんとしている。名前を聞いても誰なのか認識できない様子だ。

 「失礼ですが、どういったご用件でございますか?」

 レイラがおずおずと尋ねる。ベネディクトはにこやかな笑みを浮かべた。

 「私はチェンジャー氏の依頼を受けて参りました。骨董品の鑑定士です」

 それを聞いて、レイラは思い出したように背筋を伸ばした。

 「あ、あなたが、チェンジャーさんがお呼びした鑑定士さんですか!」

 レイラだけでなく、メルルも思い出した。たしか、サマセットは事件の前日、鑑定士が来ることになっていると話していた。今、目の前にいるベネディクトがそうなのだ。

 「いやぁ、実は昨日もお昼ごろに来ていたのですが、ここが火事に遭ったとのことで立ち入りを駐屯兵の皆さんに止められましてね。事情のわかる方とお話しをさせていただきたかったのですが、どなたもおられないとのことで、昨日はやむなく引き上げました。今日は事情の話せる方と、どうにかお会いしたいと思ってやって来たのです」

 「ベネディクトさんとおっしゃいましたね? ここで何が起こったか詳しくご存じないのですか?」

 レトが進み出てベネディクトに尋ねた。

 「ええ。ここで火事があったとしか。サマセットさんやご家族の方はご無事なのですか?」

 ベネディクトの問いに、レトは首を横に振った。

 「残念ながら、館長さんはお亡くなりになりました。唯一の身内である、ご息女のアリスさんはご無事でした」

 レトは右手でアリスを指し示しながら答えると、ベネディクトの表情から笑みが消えた。

 「……それは、なんともおいたわしいかぎりです」

 ベネディクトはアリスのそばまで進むと頭を下げた。

 「月並みな言葉で恐縮ですが、心よりお悔やみ申し上げます」

 「ご丁寧にありがとうございます」

 アリスも頭を下げて応じた。

 「チェンジャー氏とは、これまでも魔法道具の鑑定で何度も一緒に仕事をした間柄です。今回、ご家族の方と初めてお会いできたわけですが、こんな形とは残念です」

 「そうですね」

 「チェンジャー氏はご家族のことをあまりお話しにならなかったので、あなたのような娘さんがおられたことは知りませんでした。あなたのお母さまはさぞお美しい方だったのでしょうね」

 「父にとって自慢の母でした」

 アリスは首を少し傾けながら笑みを浮かべた。

 「ところで、チェンジャー氏はマーリンの手によるとされる魔法の杖の鑑定を私に依頼されました。私としては氏の依頼を果たしたいと考えていますが、お許しいただけますかな?」

 お悔やみをいったそばからこうか。メルルはベネディクトの態度に少し不快感を抱いた。

 「お急ぎでいらっしゃいますか?」

 アリスも同じ気持ちなのか、表情を曇らせて尋ね返した。

 「私は隣国のトランボ王国から参ったのです。今回、鑑定をしないで戻ると、次はいつここを訪れることができるかわかりません。隣国とはいえ、こことはずいぶん離れておりますからな」

 トランボ王国はギデオンフェル王国の西隣に接した国だ。ここからは馬車を乗り継いで5日はかかるだろう。たしかに、気軽に行き来できるものではない。ベネディクトが事を性急に進めようとする心情の理解はできる。メルルはベネディクトの横顔を眺めながら思った。

 「事情はわかりました。ですが、私は今、その杖を持っていないのです」

 アリスは申し訳なさそうに答えると、周囲を見回した。そして、レトの姿を見つけると、ベネディクトに紹介するようにレトを手でさし示した。

 「依頼の杖は、こちらの方によって市の駐屯本部に預けられています。誰からも狙われないようにするためです」

 ベネディクトはレトに視線を向けた。「そのお話は本当ですかな?」

 レトはうなずいて認めた。「事実です。僕はメリヴェール王立探偵事務所のレトと申します。この事件の捜査を担当しますが、その一環として杖を本部で保護しているのです」

 「困りましたな。杖の鑑定は難しいというわけですか」

 ベネディクトは自分の口髭のはしをつまみながら困り顔を見せる。アリスはレトの腕に手をかけた。

 「ベネディクトさんに杖を見てもらうことはできませんか? もちろん、事件の証拠として簡単に持ち出せないだろうとは思います。ですが……」

 レトは頭をかいた。「うーん、できないことはないですが、今すぐというわけにはいかないですね……」

 ベネディクトの顔が明るくなった。「できるのですね?」

 レトはうなずいた。

 「きちんと申請書を提出して、駐屯軍司令から許可の印を押していただくと杖の鑑定はできるでしょう。ただし、『駐屯基地内で』という条件はつくでしょうが」

 「その許可はいついただけますか?」

 「今日中には」

 「では、明日、私は駐屯基地にうかがうとしましょう。なに、鑑定に時間がかかる可能性も考えて、あと二三日は滞在する予定でしたから、明日であれば問題ありません」

 「わかりました。許可については僕が手続きいたしましょう」

 「よろしくお願いします」

 ベネディクトは再びシルクハットを持ち上げて会釈すると、その姿勢のままアリスに身体を向けた。

 「では、私はこれで失礼することにいたしましょう。よろしければ、皆さんも明日、駐屯基地で落ち合いませんか。鑑定した結果をその場でお教えできると思います」

 「お帰りになるのですか? どちらへ?」

 レイラがベネディクトの背中に声をかけた。ベネディクトは少しだけ顔をレイラに向ける。

 「この市の郊外にある宿ですよ。名前は『馬追い亭』といいましたな。そこの3階の1号室です。もし、お急ぎの用事などがあれば、そこへお訪ねください」

 ベネディクトはそう答えると、馬車に乗り込もうとした。そこへガラガラと音が響いて、皆、音の聞こえるほうへ視線を向けた。音が聞こえたのは皆がやってきた坂道からだ。

 「また客か」駐屯兵のひとりがため息交じりにつぶやく。同時に坂の上へ1台の小さな馬車が姿を現した。今度は誰の馬車かすぐにわかった。見覚えのある小さな馬車で、馭者台に乗っていたのはダドリー・ペンドルトン卿だった。

 「兄さん」ジャックは馬車へ駆け寄った。

 「なんだ、みんな勢ぞろいじゃないか」

 ダドリーは御者台の上からつぶやいた。呆れたような口調だ。

 「遅いじゃないか、兄さん。いったい、どうしたというんだ」

 弟は馬の首をなでながら兄に問いかけた。兄のダドリーは手綱を操りながら、馬を落ち着かせる。

 「すまない、ジャック。だが、ここへ向かう前に急な客が私の宿にやってきてな」

 「兄さんに客?」

 ダドリーは首を横に振った。

 「私にではない。その客はお前に会いに来たのだ。私もペンドルトンだから、その客は勘違いして私に面会を求めて来たのだ」

 「いったい、誰です。それは?」

 「相手はコーネルと名乗った。知っているか?」

 ジャックの表情に大きな変化が起きた。誰の目にわかるほど、緊張で引き締まったのだ。

 「ええ、知っています。で、今、彼はどこに?」

 ダドリーは首を振った。

 「いや、その人物はすぐにいなくなった。ずいぶんと焦っている様子で、非常に急ぎの用事でここを離れなければならないといっていたよ。お前に伝言があるなら預かると私がいうと、彼はこの手紙を私に預けた」

 ダドリーは胸ポケットから一通の封筒を取り出すと、そのまま弟に手渡した。ジャックは封筒を受け取ると、急いで封を破いて中から手紙を引き出した。手紙は1枚だけのようだ。ジャックは手紙にすばやく目を通した。

 「くっ! やはりそうか!」

 手紙を読むなり、ジャックは大声をあげた。ダドリーは御者台の上から心配そうに弟を見下ろしている。「悪い報せか?」

 ジャックはすぐ答えず、手紙をくしゃくしゃにしながらポケットに突っ込んだ。慌てた様子であたりに目をやると、ベネディクトが乗り込もうとしているのとは別の馬車に駆け寄った。

 「お、おい、ジャック……」

 ダドリーは困惑した声で呼びかける。ジャックは半分だけ顔を兄に向けた。

 「兄さん、すまない。私は急ぎ、ある場所へ向かわなければならない。緊急事態なんだ」

 「選挙に関わる話か?」

 ダドリーは心配顔だ。その表情を見たジャックは立ち止まると、兄に振り返った。

 「急いでいるので詳しくは話せない。だけど心配はいらない。私が直接そこへ向かえばすむ話だから」

 ジャックはそういうと、今度はアリスに身体を向けた。

 「チェンジャーさん。本当はきちんとお悔やみ申し上げるつもりだったのだが、非常に失礼をする。いずれ、きちんとご挨拶にうかがうつもりだ」

 「どうぞ、お気になさらず」

 アリスは淡々とした口調で会釈した。ジャックは小さくうなずくと、今度は誰とも顔を合わせずに馬車へ駆け寄っていった。

 ジャックを乗せた馬車が走り去ると、そこには呆然とした表情のひとびとが残された。あまりの急な展開に、誰もついてこられなかった様子だ。

 「なんだい、ありゃ」

 ヒースが小さくなる馬車を見つめながらつぶやいた。

 「先に失礼するはずが、先を越されてしまいましたね」

 ベネディクトが苦笑を浮かべている。彼もまた急な展開に困惑して馬車に乗り損ねたのだ。とはいえ、彼が乗る馬車はまだ残っているので問題はないのだが。

 「アリスさん。もう出てきて大丈夫なのかね?」

 ダドリーはジャックを見送ることもなくアリスに声をかけた。

 「あなたのことを心配して訪ねようと考えていたのだ」

 ダドリーは御者台から飛び降りるように降り立つと、急ぎ足でアリスのそばへ寄った。

 「月並みないい方だが……、心よりお悔やみ申し上げる」

 ダドリーはいかにも沈痛そうな表情を浮かべながら胸に手を当てた。貴族らしい弔意の示し方だ。

 「どうも、ご丁寧に」

 アリスは落ち着いた様子で頭を下げた。

 「なにか、その……、私にしてやれることはないかね? 私にできることであれば、いや、難しいことであっても申し出てほしい」

 ダドリーの口調はいかにも相手を心配するものだった。下心があるように見えないが、ヒースの例もあるので見た目どおりに受け取るのは難しい。メルルはそんなことを思う自分に顔をしかめてしまった。

 「ご心配いただき恐縮いたします。博物館の今後についてはいろいろと考えて参りますが、今はひとまず心を落ち着かせてからと思います。そちらも杖の件は心配でございましょう? 杖が無事だったことはご存じでいらっしゃいますか?」

 アリスの口調は丁寧だが、「杖の件」といわれてダドリーの表情が曇った。「え、いや、初めて耳にしたが……」

 「この探偵さんが見つけたのだそうだ。箱を開けて中をちゃんとあらためたって」

 ヒースがつまらなそうにレトを指しながら教える。ダドリーの目が大きく見開かれた。「そうなのか?」

 レトはうなずいた。「たしかです。箱にさえ焦げ跡ひとつついていませんでした」

 ダドリーの口から「ほう」と大きな息がもれた。

 「あなたも明日、市の駐屯本部に参りませんか?」

 ベネディクトが乗り込んでいる馬車から半身を外に出して声をかけてきた。ダドリーはベネディクトに視線を向ける。「あなたは?」

 「私はケン・ベネディクト。魔法道具の鑑定士をしています。チェンジャー氏の依頼で参りました。そちらの皆さんに杖の鑑定の立ち合いをお誘いしたところです。あなたも杖の正体に興味がおありなのでしたら、ご一緒にいかがですか?」

 「あなたが……チェンジャー氏が話していた……」

 ダドリーはやや口ごもるようにつぶやく。ベネディクトは力強くうなずいた。

 「そのとおりです。では、明日」

 ベネディクトはそういうと馬車に戻りかけたが、ピッチが大声で呼び止めた。

 「あ、あの、ベネディクトさん! 明日とおっしゃいますが、明日の何時に行けばいいのですか?」

 それを聞いて、ベネディクトはシルクハットのふちをポンと叩いた。自分の額を叩こうとしたらしい。

 「これはうっかりしていました。ええっと探偵さん、我々は何時に参ればよいでしょうか?」

 「そうですね……。9時でいかがでしょう? 一般事務の始業時間であれば問題ないかと思います」

 レトは少し考え込むようなしぐさを見せながら答えた。

 「9時ですね、了解しました。では、皆さん、ごきげんよう」

 ベネディクトはシルクハットを少し持ち上げてみせると馬車に戻った。馬車はがらがらと音を立てながら去っていった。

 「明日落ち合うって……。じゃあ、彼は今どこに向かっているんだ?」

 ダドリーがつぶやくと、ピッチがダドリーのそばに近寄った。

 「たぶん宿に戻るのでしょう。昨日から泊っているようですし」

 「『馬追い亭』といったな。私が泊まっている宿とは違うが」

 ヒースが教えるともなくいった。いや、そんな情報、教えてくれなくていいですから! メルルは心の中でつっこんだ。

 「しかし……、いいのかね? 館長の葬儀すら終わらないうちにこんなことをして……」

 ダドリーはアリスの顔を不安げに見つめながら尋ねた。誰に尋ねたというより、ひとり言に近いようだ。

 「いいのです。ベネディクトさんは、こちらを訪れるのになかなか都合のつかない方ですし、父を見送るときに杖の報告ができたほうが父の魂も喜ぶでしょう」

 アリスは穏やかな声で答えた。それを聞くと、ダドリーは小さくうなずいた。

 「なるほど。あなたがそうおっしゃるのであれば、私もお付き合いさせていただこう」

 ダドリーは身体の向きを変えると、自分の馬車に向かって歩き出した。

 「お帰りですか?」

 ピッチが尋ねると、ダドリーは背を向けたまま首を振った。

 「弟の宿に寄るつもりだ。弟に会えないかもしれないが、鑑定の立ち合いのこと、伝言だけでも頼もうと思ってね。弟は立ち合いの場所は知っていても、集合時間については知らないからね」

 「そうですね」レトはうなずいた。

 ダドリーの馬車が去っていくと、博物館の周囲はだいぶ寂しくなってきた。とはいっても、見張りの兵士も含め、ここには10名ほどの人間が残っている。火事が起きる前よりひとが多いぐらいだ。

 「さて、ここにいてもできることがない。私も引き上げるとしよう」

 ヒースは自分のカバンを持ち直すと、坂道を下り始めた。ここには馬車が1台も残っていない。徒歩で宿まで帰るつもりなのだろう。ヒースの行動を見て、ピッチも続いた。

 「ぼ、僕も失礼します……」

 「ちょっと、お待ちください。マローンさん」

 立ち去りかけたピッチにレトが声をかけた。ピッチは驚いたような表情で振り返る。

 「な、何です……?」

 「昨日うかがった話では、あなたは『魔法研究家』ということでした。あなた自身は魔法を扱うことはできるのですか?」

 質問されたピッチはやや戸惑った表情を浮かべた。

 「え、ええ。まぁ、少し。ほんの少しですが……」

 「扱える魔法に鑑定魔法は含まれていますか?」

 「そ、そちらも少しだけです……」

 「そうですか。お引止めしてすみません」

 レトは頭を下げた。ピッチはあいまいにうなずくと、そのまま坂を下って姿が見えなくなった。

 メルルはレトが何を考えて質問しているのか気になったが、ここで聞くのは控えた。アリスたちがいる前で、レトが答えてくれるとは思えないからだ。

 「さて、と……」

 ピッチを見送ると、レトは博物館に、続けてメルルに顔を向けた。


 「現場検証を始めるか」


29


 放火事件の現場検証には、アリスとレイラも立ち会うことになった。アリスの状態をみんな心配したのだが、アリスは「ぜひ、立ち会わせてください」と譲らなかったのだ。屋敷に入るとすぐ、メルルは前を歩くレトに話しかけた。

 「レトさんは、ひと通り現場は見たのですよね? 昨日のうちに」

 「意識を取り戻したとはいえ、コーデリアさんは事件のことについて詳細は説明できなかった。彼女が目を覚ましたときには、すでに事件が起こっていたのだからね。僕は彼女の目を通して聞いた出来事しかつかんでいないんだ」

 レトはアリスに目を向けた。「アリスさん。コーデリアさんとほぼ一緒だったあなたが無理して立ち会う必要はないのですよ。必要な証言は彼女から得ていますから」

 「私も事件について有益な情報を持っているとは思っていません。ですが、私自身が知りたいのです。ここで何が起きて、父が命を落としたのかということを」

 アリスの声は意志の強さを感じさせる、はっきりとしたものだった。レトはこれ以上アリスに無理をするなといわず、黙って左棟の廊下へ足を踏み入れた。メルルはレトの後ろからおそるおそると廊下をのぞき込む。あの火事で現場がどうなったかを知るのは、やはり怖いのだ。

 水がめからあふれ出た大量の水は、火事とともにいろいろと押し流していた。廊下に置かれていた鉢植えは左棟の出入り口まで押し流されて粉々に砕けていた。名前の知れない植物は破片にまぎれ、くしゃくしゃになっていた。すっかり緑を失い、すでに枯れ始めている。

 「まだ水浸しなんですね」

 レイラが足元を見つめながらつぶやいた。廊下のところどころで水がしたたっている。日の差さない場所だけに、一昼夜程度では乾かないようだ。

 「池の水の大半を使いましたからね。今、裏手の池はほとんど空になっています」

 レトは簡単に説明した。やがて、4人は研究室の前で立ち止まった。研究室の扉は部屋側に開くものだったが、水の力で逆の廊下側に開いている。扉の上部分は蝶番からはずれて、今にも倒れそうな雰囲気だ。

 「この扉といい、いろいろと壊れかけています。決して周りに触れないよう気をつけてください。今のところ倒壊の危険はありませんが、絶対ではないのです」

 レトが注意すると、アリスとレイラだけでなく、メルルもうなずいた。レト達に続き、メルルは緊張した面持ちで研究室へ入っていった。

 部屋を一望してメルルは目を見張った。研究室はメルルの記憶とかけ離れた場所に変貌していた。

 研究室の中心を占領していた大きな机が消えている。正確には脚が折れるなどして倒壊したらしい。ぺしゃんことなった机が窓際の床に横たわっていた。

 「チェンジャー氏はこの机の下から見つかりました」

 レトが教えると、アリスとレイラは机の残骸に向かって両手を組んだ。静かに黙とうを始める。メルルも倣うように両手を組んで瞑目した。チェンジャーの死は、あまりに残酷なものだった。せめて、あまり苦しまなかったと思いたかった。メルルは心から祈った。

 メルルは目を開けると、自分が倒れていた場所を思い出そうと部屋を見渡した。自分は扉付近で倒れていたはずだ。見ると、扉付近でまるで燃えていない場所があった。メルルが倒れていた場所だ。

 「私、たぶん、ここで倒れていました」

 メルルが場所を指さすと、レトはメルルの示した場所に膝をついた。そのあたりも水で濡れていたが、レトは濡れるのも構わずに床を調べ始める。

 「本当にここなのかい?」レトが念を押すように尋ねる。メルルはうなずいた。

 「ええ、そうです。何かおかしいのですか?」

 「少し、ね」

 レトは立ち上がって、部屋全体を見渡した。

 「見てのとおり、この部屋全体はほぼ黒焦げだ。天井の一部は燃え落ちているし、相当火が回っているのがわかる。でも、この一角だけ、火が回っていないんだ」

 レトが指さしたあたりは、水で含んで黒ずんでいるものの、どこにも焼き焦げた形跡が見られなかった。まるで、そこだけ火事がなかったようだ。

 「私の身体が盾替わりになって焼けていないのでは?」

 メルルが考えをいうと、レトは首を振った。

 「君の身体程度で炎は防げないよ。燃えていない範囲が君の身体より大きいし、君自身がやけどを負っていないんだ。まるで、炎が君の周りだけ避けたみたいだ」

 「私にそんな超常の力はありませんよ。レトさんだって知っているでしょ?」

 「たしかにそうなんだが。だけど、ここで起きたのは、まさにその超常としかいいようのないことだよ」

 「そんなこといわれても……。あ、まさか……」

 メルルは思い出したように顔をあげた。「魔法の杖!」

 「あれか」レトがつぶやくと、メルルは大きくうなずいた。

 「あのとき、私はチェンジャーさんから魔法の杖を渡されて、両腕で抱えていました。炎が燃え上がったとき、私はその姿勢のまま倒れて気を失ったんです」

 「君を見つけたときも杖の入った箱を抱えたままだった。君がずっと杖を守っていたと思っていたけど、逆に杖に守られていた?」

 「杖がメルルさんを守った?」

 レイラが不思議そうな声をあげた。「そんな……、信じられない……」

 メルルはレイラに顔を向けた。「でも、そう考えるしか……」

 「実際、あの杖の正体は何なのでしょうね。この事件の原因も、あの杖なのでしょうか?」

 アリスは小さな声でつぶやいた。メルルはハッとして口をつぐんだ。サマセットの命を奪った火事は、明らかに放火によるものだ。事件の原因があの魔法の杖の正体にあるのだとすれば、サマセットの死はとんだ皮肉とも受け取れる。杖によってメルルは火事から守られ、杖を遠ざけたサマセットが命を落としたのだから。ふいに思いついたといえ、アリスの前で口にするべきでなかった。

 「レイラさんにお聞きしましたが、当時、この部屋にはあの杖以外、重要な品は置いていなかったんですね? 壁にはいろいろなファイルが並べられていたそうですが、その多くは魔法道具の観察記録といったもので、大半は論文としてまとめられていたものだったと」

 レトがアリスに尋ねると、アリスは壁を見つめてうなずいた。そこは、かつて棚が並んでいた場所だったが、今は大部分が焼き崩れて棚だったとは思えない。かろうじて燃え残ったところに、黒焦げとなったファイルらしきものが見えていた。

 「ファイルは大切な資料ですが、これが無くなっても重大な損失になりません。おっしゃるとおり、ファイルにまとめられた大部分は論文として世に出ていますし、出ていないのは出す価値がなかったわけですし」

 「犯人に狙われる道理がないと」

 「改めてそう思います」レイラが口をはさむように答えた。

 「アリスさんも同意見ですか?」

 レトに話を向けられると、アリスはうなずいた。「ええ」

 「それって、やっぱり……」

 メルルがいいかけるのをレトは無言で制した。メルルが思わずレトの目を見つめると、レトの目は、『まだ、いうべきではない』というように閉じられた。

 メルルは『放火犯は魔法の杖を燃やそうとして火を点けたんですね』という言葉を飲み込んだ。アリスとレイラは暗い表情で炭と化した壁を見つめている。ふたりの口元はきつく締められ、声を発しまいとしているようだ。ふたりはすでに放火犯の意図を察しているが、あえて言葉にすまいと決意しているのかもしれない。

 「ここはもういいでしょう。ほかを当たりましょうか」

 レトが発言し、4人は研究室を出ることになった。

 3人は黙ってレトの後ろをついていく。廊下に散乱した何かの残骸を目にしながら、メルルはふと違和感を抱いた。

……何だろう?

 立ち止まって、ぐるりと廊下を見渡す。しかし、違和感の正体に気づくことができなかった。

 「どうかしたのかい?」

 レトの声が飛んできて、メルルは振り返った。左棟の戸口で、レトがアリスたちの肩越しからこちらを見ている。

 メルルは首を振った。「何でもありません」

 メルルは急いで3人の後を追った。


30


 研究室を後にしてから、レトは屋敷の中を順に歩き回った。

 展示室では、魔法の水がめ以外で紛失したものがなかったか確認された。強い意志で臨んでいるはずだが、アリスは自ら発言しようとしなかった。レトの質問には、主にレイラが答え、アリスはその答えを肯定するばかりである。メルルはアリスの状態が心配になった。そんなメルルの表情に気づいたのか、アリスは「大丈夫ですよ」と笑みを見せたが、メルルには無理をしているようにしか思えなかった。

 屋敷の周囲も調べ、レトたちは屋敷の玄関まで戻ってきていた。あたりは夕焼けで赤く染まり、ホールではひとりの兵士がたたずんでいる。現場保全として任務に就いているわけだが、やはり所在なさげに見えた。

 「おふたりのおかげで、この事件について多くのことが把握できました。ありがとうございます」

 レトはアリスたちに礼をいうと、アリスは静かに首を振った。

 「いいえ。そちらこそ、真摯に取り組んでいただき、ありがとうございます。今後の捜査が進みますことをお祈りいたします」

 アリスが深々と頭を下げると、レイラも頭を下げる。メルルは慌てて両手を振った。

 「や、やめてください。頭を下げるなんて! 私たちはするべきことをしているだけなんですから!」

 「メルルのいうとおりです。僕たちにそんなお気遣いは不要なのです」

 レトは丁寧な口調でメルルに続いた。

 「それより、お疲れになったでしょう。ちょうど馬車がやってきました。今日はここで引き揚げましょう」

 レトは玄関から外に視線を向ける。メルルがつられるように見ると、坂の下から1台の馬車がガラガラと音を立てながら姿を現した。黒塗りの2頭立て馬車だ。

 「あれは……?」

 「見張りの交代を乗せた駐屯軍の馬車だ。あれに便乗させてもらおう」

 やってきた馬車はレトのいうとおり軍の馬車だった。レトが馭者に声をかけると、話はすでに通っていたらしく、馭者は踏み台を手に馬車から降りた。レトが外へ姿を見せたからだろう。アルキオネが屋根からレトの肩へ飛んで戻ってきた。引き揚げどきだと気づいたようだ。

 「ですが、ここは私の家です。私もここから離れなくてはならないのですか?」

 アリスが進み出て尋ねた。レトはすまなさそうに首を振る。

 「アリスさんの部屋は研究室の真上でした。さきほどご覧になったように天井の一部が焼け落ちています。つまり、あなたの部屋の床の一部が崩落しているのです。屋敷全体の倒壊の危険はないと申しましたが、あの部屋については崩落の危険があるのです。ほかの部屋についても万全を期して近づかないほうがいいでしょう。屋敷の補修が終わるまで、屋敷で暮らすのはご遠慮願いたいのです」

 「そうですか……。では、私はどこに……」アリスは肩を落としてつぶやいた。

 「しばらく、私の家でどうです?」

 レイラがアリスの肩に手を置いた。アリスは顔をあげると、レイラの顔を見つめた。

 「あなたの……?」

 「今は母と二人暮らしです。アリスさんおひとりをお泊めするのは問題ありません。むしろ、母はあなたを歓迎することでしょう。もう、何年も会えていませんから……」

 アリスは弱々しげな笑みを浮かべた。「お母さまは私の顔を覚えていらっしゃるかしら?」

 「大丈夫ですよ。ときおり、あなたのことを尋ねるんです。元気でいるか、とか」

 レイラが請け合うと、アリスはうなずいた。「ご厚意に甘えさせていただきます」

 「では、レイラさんのご自宅に寄ってもらうようお願いしてみます」

 レトはそういうと、馬車から降りた兵士のひとりに向かって歩き始めた。


 兵士たちが交代の引継ぎをしている間に、4人は馬車に乗り込んだ。

 「いろいろご配慮いただき、ありがとうございます」

 レイラはレトに礼をいった。レトはゆっくりと首を振る。

 「こんな事態とはいえ、こちらでどんどん話を進めてしまって申し訳ありません。これからもできうる限りの配慮を尽くしたいと思います」

 「お任せします」アリスは穏やかな表情だ。ときおり見せた厳しい表情は姿を消している。メルルは、なんとなくほっとした。

 「では、明日9時、駐屯本部で」

 「明日もよろしくお願いします」

 レイラの家の近くであいさつを交わすと、アリスはレイラとともに馬車を降りた。メルルは馬車の窓から手を振ると、アリスはそっと手をあげて応えてくれた。

 ふたりが見えなくなってメルルが馬車の中へ視線を戻すと、レトは屋敷の見取り図を手に、兵士のひとりと話し込んでいた。聞き耳を立ててみると、駐屯軍の調査結果を尋ねているようだ。放火事件について、レトだけでなく駐屯軍も現場検証を行なっていたのだ。さらに、明日、杖の鑑定を駐屯本部で行ないたいので、その便宜を図ってほしいことも頼んでいる。メルルには若い兵士にしか見えなかったが、どうやら現場を指揮する士官だったようだ。士官は強くうなずいて手配すると答えた。

 駐屯本部に着くと、レトはすぐ近くの宿へメルルを案内した。市の中心にある、大きな宿だ。

 「今夜はここに泊まるよ」

 メルルはおとなしくうなずいた。サマセットたちの厚意がなければ、もともと泊る予定の宿だった。

 日はすっかり落ちてあたりは暗くなっていたが、サマセットの屋敷と違い、街灯があたりを照らしている。ほんの数里ほどの距離であるが、まるで雰囲気が違うとメルルは思った。

 身体つきに似合わない大きな鎧を左腕だけ装備し、その肩にカラスを乗せたレトの姿は奇異であるが、宿の受付担当者は何の反応も見せなかった。淡々と宿帳の記入など自分の職務を行なっている。メルルは「これが本当の職人魂だ」などと勝手なことを思った。

 夕食をすませ、少し落ち着いてくると、メルルはレトの部屋を訪ねた。もちろん、事件の検証をするためである。

 「犯人の目的が魔法の杖だと改めて確認できた」

 レトは自分のベッドに腰を下ろして話し始めた。メルルは向かいあう形で椅子に座った。アルキオネは部屋の片隅の洋服掛けの上で羽を休めている。もう眠っているようだ。

 「でも、その動機がわかりません」

 メルルは暗い表情でつぶやいた。

 「実は、いろんな方と話したんです。杖がもし偽物であったら、どれだけ問題になるのかと」

 「それで?」レトは続きを促した。

 「杖が偽物であっても、それで困るひとはいないというのが結論になるのです」

 「元の持ち主であるダドリー卿はどうだい? 自分の家から偽物を出したとなれば、家の評判を落とすことにならないかい?」

 「骨董品というのは、誤った情報などが伝わって、ある作品が別のひとの作品と間違われることはよくあるそうなんです。あのマーリンの杖だって、ただそう伝わっているだけであって、事実がそうでなかったとわかっても、そのことでペンドルトン家が責められることはないです。たしかに、ちょっと具合の悪い話にはなるでしょうが」

 「たしか、弟のジャック卿は貴族院の選挙を控えていて、そうしたことが悪評となるのを恐れる可能性はあるのじゃないかな?」

 メルルは首を振った。

 「そこのところはわかりません。たしかに今日だって、お兄さんから受け取った手紙を見て、ジャック卿は慌てて去っていきました。ジャック卿にとって、選挙に関わることは非常に繊細な問題なのかもしれません。ですが、ジャック卿の資質と直接関係のない話題が、選挙にどれだけ悪影響を及ぼすのでしょうか?」

 逆に問い返されて、レトは腕を組んだ。「正直、わからないな」

 メルルは少し前のめりになった。

 「ジャック卿が杖を燃やして真贋がわからないようにした。レトさんはそう考えるのですか?」

 レトはそれにはすぐ答えず、「そう考えるにはいくつか確認すべき事項がある」と考えながらつぶやいた。

 「それは何です?」

 「まずは、あの杖が『偽物』であると仮定してみよう」

 レトは人差し指を立てて説明を始めた。

 「ダドリー卿の話では、あの杖を手放したのは、ダドリー卿が跡を継いで間もない17歳のころだったんだよね? 弟のジャック卿は当時12歳。そのころ手放した杖が本物か偽物かということをダドリー卿はもちろん、当時幼かったジャック卿が知っていただろうか? もし、後年、杖が偽物だと知ったとして、僕だったら杖のことなんて放っておくかな。変に騒ぎ立てて注目を集めるのは得策ではないし、選挙後であったら、杖のことでとやかくいわれることがあっても知らぬ存ぜぬで通すだけだよ」

 今度はメルルが考え込んだ。メルルが見るかぎり、ダドリーとジャックのふたりとも知性ある人物だと思えた。いわゆる常識人である。それは、今日の博物館前であった出来事を思い出してみてもそう思える。杖が偽物であることを隠そうと、放火まで犯そうとするように思えない。

 「その点ではレトさんのいうとおりですね」

 「ブッチャー氏の場合は、私設博物館のためという目的が嘘で、投機目的という可能性がある。一応、商人だからね。でも、そもそも偽物であるなら、それを仕入れなければいいだけで、偽物であることがブッチャー氏の直接的な不利益にはならない。君が考えたのはそうなんだよね?」

 メルルはうなずいた。「そのとおりです。同様に、マローンさんの場合も同じことがいえるかと」

 「彼の目的は杖の研究に関わって、そのことで名声を得ようという話だったね? 杖が初めから偽物だとわかってしまえば、その研究から手を引くだけでいい。なにせ、まだ取り掛かってもいないのだから。そのことで被害を受けることは現時点で存在しない。結論として、杖が偽物であることで不利益を被るものはひとりもいないので、誰も放火事件の加害者となりえない。そう考えるわけだ」

 「そうです」メルルはうなずいた。

 「では、逆の場合。杖が本物だとすれば、どういうことが考えられる?」

 「ペンドルトン卿兄弟の場合、大発見のお宝の出所が自分の家だと評判になります。さすがかつての名家だ、みたいな」

 「ご兄弟に不利益は生じない?」

 「……と、思います」

 「では、ブッチャー氏の場合は?」

 「ブッチャーさんは杖の取得がさらに困難になりますね。杖の値打ちが上がり、手の出せないぐらいの金額まで値段が吊り上がるかもしれません」

 「そうだね」レトは同意した。

 「でも、だからといって、杖を燃やす動機にはなりません。肝心の杖が失われてしまったら、元も子もないじゃないですか」

 「まったく君のいうとおりだ」

 「マローンさんの場合は、最初から関係ありません。調べる前に結論が先に出てしまった……、それだけです」

 「最後は容赦なく斬って捨てたね」

 レトは面白そうに感想をもらした。

 「つまるところ、誰も杖が失われて得をする者はいないんです。杖が本物であろうと、偽物であろうと、です。そもそも、こんな事件、起きようがなかったんです」

 「でも、君たちは事件が起きる前から博物館にいた。それはなぜだい?」

 「それは怪盗ダーク・クロウが魔法の杖に関する新聞記事を残していたから……。ダーク・クロウ……。あれが、この事件の犯人なのですか?」

 メルルはレトに問いかけた。レトは「うーん」と天井を見上げた。

 「話題を振っておいてなんだけど、ダーク・クロウの犯行である可能性は低いと思う」

 「根拠はあるのですか?」

 「ダーク・クロウの行動は意味不明ではあるが、その行動に意図と計算を感じる。自分の次の標的が、魔法の杖であると匂わせたりしているからね。さすがに、あれはわざとらしすぎる。新聞記事の切り抜きを犯行現場に残すなんてね。そんな用意周到なダーク・クロウが、もし、放火をたくらむのであれば、窓を強引に割って、火の点いたマッチを投げ込もうなんて『ちゃち』な行動はとらないだろう。窓を割った音で誰かに見られる危険があるからね。それと、燃焼性の高い液体は扱いが難しい。本来は液体を室内にぶちまけてから火を放つのが確実だが、万一それを浴びると自分に着火する危険がある。犯人は犯行時になって、その危険に気がついたのだろう。液体の入った小ビンをそのまま部屋に投げ入れて、それに火を点けようとした。だけど、重みのあるランプは投げ込んだ小ビンのそばに届かず床へ落ちてしまった。そんな状態であるにもかかわらず、犯人は現場から立ち去ってしまっている。たぶん、廊下に通じる扉のすき間からランプの明かりが見えたんだろう。君は廊下の様子を見るためにランプで照らしたといっていたから。それで、それ以上、現場に留まるわけにいかなくなって犯人は逃走した。おそらく、一度も現場へ戻ることもなく」

 「現場に戻らなかったって、わかるんですか?」

 「杖が無事だったからさ。何が何でも杖を燃やそうと思っていたのに、杖が無事だったというのは、自分がやったことの結果を確かめなかったからさ。もし、戻ってきていたら、君の手にあった杖を奪っていったはずだ。そうだろ?」

 メルルはうなずいた。メルルの頭の中に、顔の見えない犯人が相当に慌てて行動した様子が浮かんでくる。しかし、その姿はメルルを王都で出し抜いたダーク・クロウのそれとまるで重ならなかった。あのときのダーク・クロウは、もっと狡猾で、冷静だった。

 「レトさんのいいたいことがわかりました。あの犯行は行き当たりばったりのものだったんですね?」

 「王都の事件と今回の事件。どちらも失敗に終わった事件だが、その内容があきらかに違う。前者はまるで阻止されることを前提とした犯行だったのに、後者は犯人の不手際のせいで失敗している。犯行の取り組み方ひとつとっても、同一犯とは思えないね」

 「ますますわからなくなってきました。じゃあ、あの事件はどうして起きたんです? そして、誰が起こしたんです?」

 「わからない」

 「……あっさり降参するんですね」

 レトの答えに、メルルはがっくりとうなだれた。

 「現時点で何か断定できるものはないよ。可能性はいくつか考えられても、それを肯定できる材料がそろっていないんだ」

 「……じゃあ、その可能性だけでも教えてください」

 「それは次回のお楽しみ」

 レトの答えはにべもない。メルルはじとっとした目でレトをにらんだ。

 「……何ですか、次回のお楽しみって……」

 「とにかく、明日になれば、杖の正体については何らかの結論が出る。いや、1日ぐらいで結果は難しいかもしれないが。でも、そこから捜査の突破口が開かれるかもしれないから、ひとまず、そこに期待しよう」

 レトは明るい声で話を締めくくった。どこかはぐらかされた感じだが、メルルは素直に従うことにして立ち上がった。夜もだいぶ更けて、正直なところ眠気もある。

 「わかりました。では、また明日。おやすみなさい、レトさん」

 メルルはレトにおやすみをいうと部屋から出ていった。そうだ。材料の少ない状態で何をいっても仕方がない。ベネディクトの鑑定で事件の捜査が進展することを願おう。メルルはあくびをしながら考えた。事件のことを考えるのはそれからだ。


――しかし――。


 メルルの考える『それから』は始まることがなかった。

 翌朝、駐屯本部に集まったメルルたちに急な報せが入った。『馬追い亭』の一室で、ケン・ベネディクトの遺体が発見されたというものだった。

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