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魔法の杖は真実を語らない 4

Chapter 4


21


――事件の発生までおよそ10分――


 今夜は、ここ数日で一番冷え込んだ夜だった。

 この日もコーデリアが先に見張りを務め、メルルは2時から交代することになった。

 「今度は大丈夫?」コーデリアは短くメルルに尋ねた。

 「え?」メルルが思わず聞き返すと、コーデリアは振り返った。何の感情も見えない静かな目だ。「同じ失敗はしないこと」

 「も、もちろんです……」メルルはどぎまぎしながら答えた。コーデリアの不意打ちは本当に心臓に悪い。

 こうして、メルルは仮眠をとるため寝台に潜り込んだが、足元が冷えてなかなか寝付けない。

……まずい。このまま睡眠できないと、昨夜のように途中で居眠りしてしまう……。

 昨夜は奇妙な緊張感のせいで寝付けなかったが、今夜は寒さのせいで寝付きが悪い。アリスが「今夜は冷えそうだから毛布を出しましょうか?」と申し出てくれたのを遠慮して断ってしまったのが悔やまれる。厚意はありがたいが、こちらが勝手に押しかけて来たのだという負い目が断らせてしまったのだ。

 メルルは薄い毛布を頭まで覆うと、身体を小さくして息を吐いた。自分の息で温まるとは思えないが、それでも寒さが和らいだ心地がした。同時に頭の中をからっぽにして何も考えないように努めたおかげで、いつの間にかメルルは眠りに落ちていた。

 やがて、肩をゆすられる感触でメルルは目を覚ました。毛布から頭をのぞかせると、コーデリアが見下ろしている。交代を告げに来たのだ。

 「交代」

 コーデリアが短く告げる。メルルは無言でうなずいた。床に足を下すと、ひんやりとした感触でメルルは「冷た!」と、思わず声に出してしまった。

 「今夜は冷える。気をつけて」

 コーデリアは短く告げると自分の部屋へ向かってしまった。メルルはランプと杖を手にすると、階段へ急いだ。

 階段を下りる手前で、メルルの足が止まった。階下は深い闇に沈んでいる。ここを下りるのは、まるで黄泉の世界に向かうようで足がすくんでしまったのだ。

――怖い……。

 理屈でない恐怖心で背中がこわばる。本能が耳元で「そこへ行ってはいけない」と囁いていた。

 メルルはぶんぶんと頭を振ると、ランプを握りなおした。怖がっている場合ではない。昨日は緊張のあまり大失敗をしでかした。コーデリアに厳しく叱られこそしなかったが、反省しなくてもいいわけがない。『同じ失敗は繰り返さない』。メリヴェール王立探偵事務所の不文律だ。

 メルルは大きく深呼吸をすると、階段へ足を踏み入れた。ランプは構造上、真下を明るく照らしてくれない。メルルは一歩一歩、足元に気をつけながら階段を下りていった。

 1階に到着して、メルルは再び大きく息を吐いた。階段を下りるにつれて、昨日感じた緊張感がぶり返してきたのだ。

……やっぱり、苦手なものは苦手ですぅ……。

 メルルはこわごわと辺りに目をやりながら思った。博物館の外からは強い風が吹きつける『ごおう』という音が聞こえてくる。外には誰もいないはずだが、自然の力がそこで暴れまわって存在感を見せつけていた。とても、ひとの気配など感じ取れるものではない。

 もともとそういうわけではないのだが、メルルは休息をとる前にいくつか仕掛けをほどこしていた。侵入者を探知して通知する魔法陣である。魔法陣の円内に何者かが足を踏み入れれば、メルルが手にしている杖を光らせて報せてくれる。一応、コーデリアの指輪にも明かりが灯るようにした。鋭敏なコーデリアであれば、たとえ就寝中であっても目を覚ますはずである。音声で報せる仕掛けにしなかったのは、侵入者に逃げられる可能性が高いことと、2階のチェンジャー父娘おやこの眠りを妨げたくないからである。

 杖はメルルの手の中で光ることなく沈黙している。メルルは玄関まで歩くと、床にしゃがみこんだ。そこにひとつ目の魔法陣が仕掛けてあるのだ。

 メルルが仕掛けた魔法陣に異常は見られなかった。静かに役目を務めている。メルルは自分の手を魔法陣のなかへ差し入れることでそれを確かめた。メルルが手を入れると同時に杖の先端が灯り、侵入を報せたのである。

 メルルはほっと小さく息を吐いて立ち上がった。さきほどは緊張感からだが、今回は安堵のため息だ。少なくとも、今のところは何も起きていないということがわかったのだ。

 気持ちが落ち着くと足も動くようになる。メルルは左棟の扉を開けた。展示室とは逆であるが、メルルは真っ先に確かめたいことがあったのだ。

 昼間は薄暗かった廊下は完全に闇の中だった。メルルがランプを差し入れると、すぐかたわらの鉢植えが黒々とした影を描いた。まるで人影のようでメルルは不気味に感じたが、ぐっとこらえて廊下へ足を踏み入れた。

 暗い廊下を進み、研究室の前に立つ。コーデリアとの引継ぎで預かった鍵束を取り出すと、そこから研究室の鍵を取り出して鍵穴に差し入れる。

 扉から錠の外れる『カチリ』という音が小さく響き、メルルは扉を開いた。メルルはおそるおそるランプを掲げて室内をのぞく。

 「やっぱり……」

 研究室には大きなテーブルが据えられていたが、その上にあの「マーリンの杖」の箱が置いてあったのである。メルルは箱のそばに寄って蓋を開いてみた。思った通りだ。「マーリンの杖」は白い布に包まれて静かに横たわっている。

……あのとき、話していたのはやっぱり嘘だったんだ……。

 サマセットは昨日の昼頃、集まった者たちに杖は保管室に移してあると説明していた。いかにも管理が厳重そうな雰囲気で。あれは、これ以上杖に関わらせたくないという気持ちからついた嘘なのだろう。メルルはサマセットの嘘をそのように推察した。

 しかし、肝心のところがずさんだ。このテーブルの上に置きっぱなしでは、窓からのぞけばすぐ目についてしまう。何のためについた嘘なのか。本当に保管室にしまい込んだほうがいい。誰かがこの部屋をのぞき込んだりなどしたら……。

 メルルは慌てて窓に目を向けた。ふいに誰かにのぞかれている心地になったからだ。しかし、窓には何者かがのぞいている様子はない。ランプの明かりに照らされたメルルの不安に満ちた表情が映っているだけである。メルルはおそるおそる窓ぎわに歩み寄ると、そっと外をのぞいてみた。

 窓の外は月明りもなく、真っ暗だ。メルルがあちこちにランプの明かりを向けてみるが、見えるのは草木ばかりである。生き物の姿はまるでない。ただ、風に揺れる草木が、どことなく異形の生き物のように見えて不気味だった。

……たしか、『魔の森』には樹人って魔物がいるんだっけ……。

 ここより東へ遠く離れた地に、『ミュルクヴィズの森』と呼ばれる深い森が存在する。ギデオンフェル王国と魔族の国マイグランを分断するように横たわっており、事実上の国境線となっている。別名『魔の森』。王国内には存在しない異形の動植物が生息しており、一般人はもちろん、魔族にとっても危険な森といわれている。この森の分断によって、王国は魔族の侵入がある程度防がれているのだ。一応、森に立ち入るのは禁じられているが、向こう見ずな冒険者にとっては最上級の冒険の舞台だ。

 樹人は、そこから生還した者たちが伝える魔物の一種である。人間のように二足歩行ができ、胴が口のように開いて生き物を食べるという。実際、森で命を落とした者は、一般の樹と気づかずに樹人に近づいて襲われたとのことだった。魔の森には想像もつかない危険に満ちているのだ。勇者リオンが魔候アルタイルと戦ったのは、魔の森奥にそびえる謎の城だったと聞く。魔候を倒すという目的があったとはいえ、よくそんな森に足を踏み入れられたものだとメルルは思った。

 窓の外で、樹々はあいかわらず身をくねらせ続けている。風のせいとはいえ、まるで樹人がうごめいているようだ。メルルは気味が悪くなって窓から離れた。

 部屋から立ち去ろうと研究室の扉に手をかけたところで、メルルは「あ、そうだ」とつぶやいて振り返った。この部屋にも例の魔法陣を仕掛けておこう。杖の安全をはかるのであれば、ここから杖を運び出して、自分の手元で守るほうがいい。しかし、それを判断することなどはできない。もし、勝手な行動で杖を紛失したりすれば大問題だ。せめて、侵入者を探知する魔法陣を仕掛けるのが、メルルにできる最善の手だった。

 メルルは窓際まで戻ると、その床に魔法陣を仕込み始めた。円内に入ったものを感知して報せるだけのものだ。魔法陣としては構造が単純で、短時間で完成できた。メルルは自分の手を魔法陣に差し入れて、魔法陣が問題なく機能することを確かめて立ち上がった。

 ひと仕事を終えて廊下へ出ると、その廊下の雰囲気が違うことにメルルは気づいた。これまで不安や緊張感で廊下の壁にすら圧迫感を抱いていたのが、今はまるで感じない。いや、あいかわらず薄暗い廊下は怖いのだが、その度合いが和らいでいるのだ。この状況に慣れてきているのだろうか。

 メルルは玄関のホールまで戻ると、今度は展示室の扉を開いた。この部屋もやはり不気味だ。昼間とは違う表情を見せている。昼間はただ置かれていただけにしか思えなかった魔法道具たちが、夜中になると生きているのではと感じてしまうのだ。彼らはじっとメルルを見つめている……。メルルはそんなことを想像して身をすくませた。ようやく怖い気持ちを抑えられたと思ったのに、それがぶり返した気持ちだ。メルルは自分を奮い立たせようと頭をぶんぶんと振ると奥へ進むことにした。

 おおよそ展示室のなかを見回ったころである。メルルは急に足を止めた。何かこれまでと違う音を耳にした気がしたのだ。じっと耳をすませるが、聞こえてくるのは風の音だけだ。何が聞こえたのだろうと、メルルはランプを高く掲げてあたりを見渡した。

 展示室に異常は見られない。何かが動いた様子もない。メルルは気のせいかと安堵しながらランプを下げた。そのとき、ちかちかする光が手元から顔に当たっていることに気づいた。

 「え、まさか……!」

 メルルの杖の先端がまたたいていた。何者かが侵入したことを報せる魔法陣の光が。

 メルルは口元を引き締めてあたりを見渡した。展示室に異変は見られない。だとすれば、この光は玄関ホールなど、ほかのところでの反応ということだ。

 メルルは足音を忍ばせて展示室の扉に近づいた。そっと少しだけ開いて玄関ホールをのぞく。誰もいない。異常は見られない。メルルは扉を大きく開いて展示室を出た。

 すると、目の前に大きな影が立ちふさがっていた。メルルは息をのむと、その場で凍りついた。

 「メルル君、私だ」

 影の主はサマセットだった。寝間着にガウンを羽織った姿だ。緊張が解けてメルルは大きな息を吐いた。「お、驚かせないでください」

 「すまない。ふいに目が覚めてね。なんとなくだが、階下で何かが壊れる音を聞いた気がしたのだよ」

 「それで玄関ホールまで下りてらっしゃったんですか?」

 さきほど杖が反応したのは、サマセットに対してかもしれない。メルルはそうであれば安心だと思いながら尋ねた。

 「まぁ、そうだが。君は何かに気づかなかったかね?」

 「……何か物音がした気はするのですが、はっきりしたことは。侵入者を報せる杖に反応があったので、ホールまで出てみたところで……」

 「私に出くわした、ということか」

 サマセットはメルルが手にする杖に目をやった。侵入者を感知する魔法陣のことはメルルから説明は受けていた。それを館内に仕掛けることを、サマセットは許可していたのだ。

 「杖が光っているのは何者かが侵入したということではないかね? それとも、私が知らないうちに魔法陣に触れてしまったのかな?」

 サマセットの質問に、メルルは首を振った。

 「わかりません。館長さんは玄関に近づきましたか?」

 「いや。階段を下りる途中で展示室の扉が動いているのが見えたので、そちらに近づいたのだよ」

 そうであれば玄関ホールの魔法陣には触れていない。メルルの表情に緊張が戻った。

 「研究室を確かめましょう」

 メルルの声の調子に、サマセットの表情が変わった。彼にも非常事態が起きているらしいとわかったのだ。

 「君はそこにも魔法陣を?」

 サマセットの質問は短かったが、メルルは無言でうなずいた。サマセットの口元が緊張で引き締まる。

 「すぐに行こう」

 「ええ。ですが、お静かに。賊と出くわすかもしれません」

 メルルは先に立って歩きながらささやいた。メルルの考えを理解したらしく、サマセットは無言で続いた。

 メルルは扉をそっと開いて廊下をのぞきこんだ。廊下は明かりがないせいで真っ暗だ。いくら目をこらしても様子はうかがえない。やむなく、メルルはランプを廊下に向けて照らしてみた。侵入者に気づかれるだろうが仕方がない。

 ランプに照らされた廊下は無人だった。メルルはほっとしながらも油断なく耳をすませながら廊下を歩いた。その後ろをサマセットが無言のまま続く。

 メルルたちが研究室前の扉に着いたとき、異変に気づいたのはメルルだった。

……ここだけ風の音が違う……。

 それぞれ部屋の前を通り過ぎたとき、そこから漏れ聞こえる風の音はややくぐもったものだった。扉と窓のふたつに隔てられて、風の音が弱まっているからだ。

 しかし、研究室から漏れ聞こえる風の音は、ほかの部屋よりも大きく、そして明確に聞こえる。おそらく窓が開いているのだ。誰かが入ってきた? それは簡単なことではない。窓には頑丈な鉄格子がはめ込まれているのだから。何が起きたのかはわからないが、窓が開放されるような事態が起きたのは間違いない。

 ぐずぐずはしていられないが、メルルは慎重にゆっくりと扉を開いた。どんな異変が起きたのか確かめるべく、顔だけをのぞきこませる。

 「あっ!」

 メルルの口から小さな叫びが漏れた。

 部屋には誰の姿も見えない。しかし、何ごとも起きていなかったわけではなかった。

 研究室の窓は無残に割られて、ガラスの破片が床に散らばっていた。それら破片を赤く染めるように、そこから炎が燃えあがっていたのである。


22


 メルルは大きく扉を押し開いた。それで、背後に立っていたサマセットにも部屋の様子は見てとれた。大まかに事態をのみこめたサマセットは顔を引きつらせた。

 「な、なんということだ!」

 サマセットはメルルを押しのけると炎に向かって駆け出していた。メルルは大きくよろめいたが、どうにか転ばないように踏ん張った。

 「き、気をつけてください。館長さん! むやみに炎へ近づいたら……」

 「わかっている! だが、これを火事で失うわけにいかないのだ!」

 サマセットはテーブルに駆け寄ると、「マーリンの杖」の箱を取り上げた。彼は振り向きざまにメルルへ箱を投げて寄越した。メルルは慌てて箱を受け止める。

 「君はそれを持って避難を!」サマセットは大声で叫んだ。

 「え? で、でも……。いえ、それより館長さんはどうするのです?」

 「火事を消す。無理なら、資料だけでもここから運び出す!」

 「む、無茶いわないでください! まずは身の安全を……」

 メルルがサマセットに取りすがろうとしたが、彼はその手を払いのけた。

 「邪魔をしないでくれ! こんな炎は大したことない。すぐ消すことができる!」

 サマセットは大声を上げると、炎を何度も踏みつけた。炎を踏み消すつもりだ。炎は大きいものではなかったが消える様子はない。炎のそばに割れたランプが倒れていた。ランプからは油が漏れだし、炎はその油の上で燃え盛っていた。

 「ええい、いまいましい! なんで消えないのだ!」

 サマセットは苛立った声をあげる。炎は消えるどころか勢いを増していた。炎はサマセットのズボンのすそに燃え移り、そこから小さな炎と煙をあげはじめていた。

 「いかん!」

 サマセットは慌ててズボンの炎を払いのけた。

 部屋はメルルのランプではなく、床から燃え上がる炎で明るく照らされている。高く昇った炎はテーブルの上も照らすようになり、そこに小さなビンが横たわっているのが見えた。

 小ビンの存在に気づいたのはサマセットだった。

 「何だ、これは?」

 ほとんど反射的な行動だったといえる。サマセットはその小ビンを手に取った。メルルはそれを目にして表情を変えた。

 「館長さん、それに触れては!」

 メルルは大声を出した。

――なかった! さっき、このテーブルの上を見たときに小ビンなんてなかった……。

 考えられるのは火事が起きたときと同時に、この小ビンも現れたということだ。それは床で燃え上がっているランプと同様に、何者かによって放り込まれたに違いない。小ビンは横倒しになったときに中の液体がこぼれだしていた。サマセットが小ビンを持ち上げたとき、小ビンからはなおも液体がしたたっていた。小ビンの液体はテーブルの上を這いながら床へ落ち、そこに小さな水たまりをつくっていた。水たまりは少しずつ床を広がり、それは床の炎に触れた。


 この瞬間、部屋は光でいっぱいになった。小ビンの液体が爆発的に燃え上がったのである。その勢いはすさまじく、サマセットの全身は一瞬で炎に包まれた。メルルは弾き飛ばされるように床へ倒れこんだ。激しい衝撃で息がつまる。サマセットが断末魔の叫び声をあげた。メルルにとって、サマセットの悲鳴があのとき最後の記憶である。メルルはそのまま意識を失ってしまった。


23


 コーデリアはゆっくりと扉を開いて廊下に視線を向けた。どんなに深く眠っていても、異変を感じたらすぐ目が覚める性分だ。コーデリアはついさきほどまで死んでいるかのように眠っていた。しかし、コーデリアは急にぱちりと目を開くと、すばやくベッドから降りてあたりの警戒を始めた。事態はのみ込めていない。ただ、本能が何らかの危機を察して自分を起こした……。コーデリアは確信していた。

 廊下は明かりがなくて暗い。コーデリアはベッドの脇まで戻ると、魔法ランプを手にとって明かりを灯した。弱々しいオレンジ色の光が部屋を照らす。

 明かりを手に、コーデリアは再び廊下に顔を出した。ランプを持つ手だけを廊下に出して周囲を照らす。ランプの弱い明かりは、様子がうかがえる程度には廊下を照らし出してくれた。廊下には誰の姿もないことを確認して、コーデリアはようやく廊下へ踏み出した。五感をすまして、何が自分を起こしたのかを探る。そこで、コーデリアは鼻腔にある匂いを感じた。

……焦げる匂い? ……火事?

 そのとき、男の悲鳴が聞こえた。くぐもった響きから同じ階ではなさそうだ。

……階下で何か起こった?

 コーデリアは階段まで走ると、ほぼ飛び降りる勢いで階下まで駆け下りた。1階に着くと、展示室に目を向ける。展示室の扉が少しだけ開いていたからだ。

……でも、違う。あの匂いはここからじゃない。

 コーデリアは展示室とは反対側――左棟に身体を向けた。そちらの扉は閉まっているが、鼻腔をくすぐった焦げ臭い匂いはこちらから漂っている。

 コーデリアはそっとだが素早くその扉を開いた。そして、すぐに閉める。廊下はコーデリアのランプを必要としないほど明るかった。真っ赤な炎が廊下を染めるように燃え上がっていたのである。

 コーデリアは扉のノブを抑えたまま、頭の中を整理しようとうつむき気味の姿勢で考えた。

……おそらく、悲鳴はここから聞こえた。でも、絶対じゃない。こんな不確かな状況で、炎の中を探索に向かうわけにいかない。

 それに、まずするべきことがあった。今、燃え上がっているのはサマセットやアリスの寝室の下だ。もし、今もふたりが2階にいるのであれば、階下から昇る煙にまかれるかもしれない。火事で怖いのは炎だけではない。人体に有害な煙を吸って命を落とすこともあるのだ。すぐにでも2階へ戻って、ふたりを避難させなければならない。

 コーデリアははじかれるように扉から離れると、一気に階段を駆け上った。廊下へ飛び出そうとすると、そこに人影が現れてコーデリアの足が止まった。

 「あっ、コーデリアさん……!」

 現れたのはアリスだった。ガウンを羽織った寝間着姿で立っている。ガウンを羽織って、すぐに廊下へ出たのだろう。髪は乱れたままで、丸い眼鏡は鼻からずり落ちかけている。

 「階下で火事」

 コーデリアは短く伝えた。アリスの目が眼鏡の奥で丸くなる。

 「館長さんはどこ? 一緒じゃないの?」

 コーデリアはアリスの背後に目をやりながら尋ねた。アリスは首を横に振ると、不安そうな表情でこぶしを口に当てた。「一緒じゃないわ。自信ないけど、階下から父の悲鳴を聞いたような気がして……」

 コーデリアはうなずいた。「私も聞いた。あれは館長さんの声だった?」

 アリスは再び首を横に振る。「絶対にそうだとは……」

 コーデリアはアリスの脇をすり抜けると、廊下の奥へ走り出した。廊下は焦げ臭い匂いが強くなり、コーデリアは走りながら自分の口と鼻を布で覆った。向かうのはもちろんサマセットの寝室である。コーデリアは勢いよく扉を引いて開いた。扉にカギはかかっていなかった。簡単に開く。

 サマセットのベッドは空だった。ただ、そこでサマセットが寝ていた痕跡は残っている。ベッドには少しへこみがあり、その上に毛布がくしゃくしゃの塊になって横たわっていたのだ。

 コーデリアはサマセットの部屋を出ると、今度はメルルの部屋に向かった。念のための確認だ。メルルも部屋にいなかった。メルルもまた階下にいるはずだ。しかし、メルルが急を報せに2階へ上がる様子がない。メルルもサマセットも階下の炎の中にいると見て間違いない。

 コーデリアはアリスのもとへ駆け戻った。そのころ、アリスは床にはいつくばって、苦しそうに肩で息をしていた。

……もしかして……煙を吸った?

 コーデリアは半ば反射的に自分の布をアリスの口に押し当てた。コーデリアの意図がわかったのか、アリスはうなずきながら布で口を押さえた。だが、自力で立ち上がれるようには見えない。コーデリアはアリスに肩を貸して立ち上がらせた。アリスはどうにか立ち上がったが、足元がふらふらとおぼつかない。コーデリアはアリスを引きずるように階段を降り始めた。

 「え、え? こ、コーデリアさん……」

 火事だと聞いてはいるが、状況がまだ正確にのみ込めていないのだろう。アリスは戸惑った声をあげた。

 「ここからすぐ避難する。煙に気をつけて」

 コーデリアは早口で指示をする。ここでぐずぐず説明しているわけにいかない。とにかくアリスを外へ連れ出して、メルルたちの救助に戻らなければならないのだ。

 階段を降りると、まっすぐ玄関へ向かう。右手の扉から灰色の煙が漏れだしている。展示室とは反対側の左棟からだ。さきほどのぞいたときよりも煙の量が増えている。すでに一刻の猶予もない状況だ。コーデリアはアリスの手を引いて玄関へ急いだ。しかし、アリスはその手を引いてコーデリアの足を止める。

 「ま、待ってください、コーデリアさん……!」

 振り返ると、アリスは蒼ざめた様子で階段を指さしていた。口を覆っていた布はすでに見当たらない。

 「ち、父は2階にいなかったのですか? ど、どうして、父も一緒に連れていってくれないんですか?」

 階下から館長の声を聞いた気がするといっていたのはアリスだったはずだ。煙に影響を受けたのか、それとも混乱状況で頭の中の整理がついていないのか。コーデリアは不安そうな表情のアリスにかまわず、玄関の扉を押し開いた。瞬間、強い風がふたりの顔に襲いかかる。ふたりは思わず手をかざして風を防いだ。

 「コーデリアさん!」

 アリスが大声をあげる。コーデリアはアリスの手を放すまいとしっかりと握ったまま屋敷の外へと踏み出した。ふたりはよろめきながらも丘を下る坂道の手前まで進んだ。コーデリアはそこでようやくアリスの手を放した。アリスは両手を地面につけると、肩で大きく息を吐く。コーデリアも大きく息を吐いて呼吸を整えた。煙を吸うまいと、階下からここまで息を止めていたのだ。

 コーデリアは屋敷を振り返り、状況の再確認を試みた。屋敷の左手から炎のあかあかとした光が見える。かつては召使たちが使っていた部屋の窓からだ。昼間、見回ったときに、この部屋はよく見ている。火元になりそうなものは見当たらなかった。現在、窓に破られた様子も見えない。おそらく、火事はその部屋とは別のところで発生し、そこまで火の手が伸びてきたのだろう。火事が起きたのは、あの部屋の向かいにあたる研究室からか。そこまで考えたところで窓の割れる音が響き、そこから炎が噴き出した。炎の熱が窓ガラスを破壊したのだ。

 そのとき、アリスがコーデリアの脇をふらふらと通り抜けた。そのまま屋敷へ戻ろうとする。コーデリアは慌ててアリスを羽交い絞めにした。

 「お父さん!」

 コーデリアを振り払おうとしながらアリスは叫んだ。乱れた長い髪が顔の半分を隠し、眼鏡は煤で曇って視界を悪いものにしているが、それを気にする様子はない。まるで炎をつかもうとするように、さきほど炎が噴き出した窓に向かって腕を伸ばしている。

 「だめ! 近づいちゃ! 今、とっても危険な状態!」

 コーデリアは必死で声をあげた。

 「あなたがじっとしてくれないと私が動けない! ここは私に任せて!」

 アリスはコーデリアの声が聞こえないように前へ進もうとする。さきほどまで弱々しかったのが信じられないほどの力だ。

 「いや! コーデリアさん放して!」

 アリスはコーデリアの腕を振り払おうと必死にあがく。コーデリアは決してアリスを放すまいと、両腕に力を込めて坂道までアリスを引きずった。アリスはなおも抵抗しようとする。コーデリアはアリスの耳元で大声をあげた。

 「放せるわけ、ない!」

 コーデリアはアリスの足を引っかけると、そのまま地面に押し倒した。アリスは倒された衝撃で息が詰まって抵抗が弱まった。コーデリアはそんなアリスを容赦なく上から押さえつける。さすがに、コーデリアからも焦りの表情が浮かんだ。その表情のまま屋敷へ目をやる。

……早く助けに戻らないと。屋敷にはこのひとの父親だけじゃない。メルルもまだ……。

 だが、屋敷へ戻ってどうする? 無策で炎の中へ飛び込んでも、自分が焼け死ぬだけだ。そうだ、屋敷の裏手には大きな池があった。そこから水を汲んで……。

 いや、たとえ池に大量の水があっても、そこから火を消すほどの水をどうやって運ぶ? 今の自分にはバケツひとつさえ持っていないのだ……。

 コーデリアが焦りながらも考えを巡らせているときだった。

 窓から勢いよく大きな炎が噴き上がり、屋敷を見つめるふたりを強く照らした。爆炎といっていいほどの勢いだ。コーデリアは頭の中が真っ白になって立ち尽くした。アリスもコーデリアと同様に呆然とした表情でその大きな炎を見つめるだけだった。


24


――絶望。


 この状況を端的に表すなら、この言葉しかないだろう。しかし、コーデリアはすぐ我に返ると、地面を蹴って駆け出した。コーデリアに『絶望』という概念はなかったのである。もう猶予はない。とにかく、炎の中へ飛び込まなければならない。アリスを連れて外へ出るまで、それなりに時間がかかっている。その間、メルルもサマセットも屋敷から脱出した様子がなかった。さっきは確信が持てなかったが、今はほぼ確信していた。ふたりとも屋敷の中だ。そして、あの燃え盛る炎にまかれて逃げ出せない状況なのだと。

 コーデリアは屋敷に飛び込むと、袖で自分の口を押さえながら展示室に向かって走り出した。展示室の扉にカギが掛かっていないことは、最初に階下へ降りたときに気づいている。たとえ、扉が堅く閉じられていたとしても、コーデリアは容赦なく蹴破るつもりだったが。

 コーデリアは展示室に入ると、すばやく左右に目をやった。

……たしか、あれは……。

 コーデリアは記憶をたぐって目的の品を探した。この状況を一変させる、起死回生のアイテムを。

 「あった!」

 コーデリアはひとつの壺へ駆け寄った。白地に藍色で波のような模様が描かれている。メルルが「残念」と評した、あの『魔法の水がめ』だ。コーデリアは壺を覆うガラスの囲いをとりはらうと、壺を小脇に抱えて奥へと向かった。その先には屋敷の裏手へ出る扉がある。

 かんぬきを外して裏手へ出ると、屋敷の裏手は昼間のように明るかった。コーデリアは明るさの元へ視線を向けて顔をしかめた。

 ひとつの窓から大きな炎が吹きあがっている。屋敷の裏手を明るく照らしていたのはそれだった。

……あの窓は研究室の……。

 コーデリアは瞬時に場所を把握した。コーデリアは顔を池へ向けるとまっすぐ走り出し、ほとんど投げるように壺を池に沈めた。壺はぶくぶくといいながら沈んでいく。

 「早く、早く池の水を飲んで!」

 逸る気持ちを抑えながら、メルルは池の中へ声をかけた。本当はすぐにでも壺を引き上げて走り出したいところなのだ。

 少しの間、池の水に大きな変化は見られなかった。コーデリアが屋敷の炎と池を交互に見ているうちに、池に変化が起きた。

 池のほとりに小さな渦が生じたのだ。ちょうど、コーデリアが壺を沈めたあたりである。渦はやがて大きくなり、音を立てて回るようになった。池の水位はみるみる下がって、沈めた壺が姿をのぞかせた。そのころには池の水位は下がる様子を見せなくなった。壺の口が水面の上に出てしまったからだろう。コーデリアは池に足を踏み入れると、濡れて滑りやすくなった壺を慎重に抱え上げた。

 「思っていたより軽い」

 コーデリアの口から思わず言葉が漏れた。魔法道具として失敗作と評されていたが、使い道が検討されていなかっただけで、本当は有効なアイテムだったのではないか……。コーデリアは屋敷に向かって駆けながら思った。

 まず向かったのは火元と思われる研究室の窓だ。

 コーデリアが思い切り壺を振ると、壺の見た目からは想像つかないほど大量の水が研究室の窓にかかった。

 「くぅっ!」

 コーデリアは顔をしかめた。壺からは期待した大量の水が出る。しかし、せっかくの水は窓の周囲を濡らすだけで、火元まで届いていなかったのだ。外からではダメだ。屋敷の内側から放水しなければ。

 コーデリアは壺を自分の頭上に掲げると、ざぶりと水をかぶった。すぐさま壺を小脇に抱えて裏手の戸に駆け戻った。

 展示室に戻ると、焦げ臭い匂いはここまで漂うほどになっていた。コーデリアは口を袖で押さえると、左棟へ急いだ。

 左棟の扉は炎が広がるのを食い止めていた。しかし、扉のふちから炎がちろちろと小さな顔をのぞかせている。扉が燃えるのも時間の問題だ。

 コーデリアは扉に水をかけると、扉から「ジュッ」と音が聞こえた。扉はかなり熱くなっているかもしれない。しかし、コーデリアは躊躇することなく扉を開け放った。真っ赤な炎が廊下から吹きあがり、コーデリアの顔に襲いかかる。コーデリアは振り払うように炎を避けると、そのまま廊下へ飛び込んだ。廊下の真ん中あたりに、扉が開け放たれた部屋が見える。その下に誰かが倒れていた。黒いとんがり帽子に魔法使いのローブ姿。メルルだ。

 「メルル!」

 コーデリアは廊下に水をまき散らしながらメルルに駆け寄った。メルルは細長い箱を抱えたままの姿で横たわっている。コーデリアが少し肩をゆすっても目を開ける様子がない。意識を失っているのだ。

……このままではいけない!

 コーデリアは部屋の奥に目をこらした。近くにサマセットがいないか探すためだ。研究室は完全に火の海と化していて、テーブルはすでに真っ黒になって燃えている。炎の勢いは強く、このままでは目が焼けてしまうのでは思うほど顔が熱い。コーデリアは炎から顔をそむけた。

 「早く消えちゃえ!」

 コーデリアは壺を振りかざして、部屋中に水をまいた。一気に水をまこうと勢いよく振り回した結果ではあるが、そのとき、手が滑って壺が飛んでしまった。

 「あっ!」

 壺は天井に衝突すると、音を立てて砕けた。魔法の壺から解放された池の水は巨大な塊となって天井から床へ落ちていく。コーデリアはとっさにメルルに覆いかぶさった。

 池の水は一瞬で部屋を満たすと、戸口で横たわっているコーデリアたちを廊下へ押し流した。コーデリアは全身を水に覆われながらも、メルルの頭を自分の胸元に引き寄せた。

 ふたりは小さな塊となって、そのまま左棟の出入り口まで押し流されたのだった。


 屋敷の外では、アリスが呆然としたまま膝をついていた。屋敷から吹き上げた炎を見てから、ずっと思考停止していたようだった。しかし、その窓から大量の水が噴き出すと、アリスは我に返った。目を丸くして、流れ出す水を見つめる。大量の水は屋敷の中のものを次々と流している。同時に火事そのものも洗い流したらしい。屋敷から真っ赤な炎が姿を消し、屋敷はもとのように静かにたたずんでいた。あたりを照らした炎が消えたことで、屋敷はまっくらになっている。

 「な、何が……」

 アリスはふらふらと立ち上がると、屋敷に向かって歩き始めた。


25


 メルルが目を開いたとき、まず目についたのは白い天井だった。記憶にない天井だ。チェンジャー家の屋敷の天井は昔ながらの木の天井だった。だから、ここはチェンジャー家の屋敷ではない……。

 メルルはぼんやりとした頭をめぐらせてあたりに目をやった。思考がまとまらず、どこかけだるい感じだ。

 部屋は天井だけでなく壁紙も白で、こざっぱりとした清潔な印象だ。すぐ左手にある窓からは、柔らかな陽光が白いレースのカーテンを揺らしていた。その窓を背にして、ひとりの若者が腰かけている。黒い髪に黒い瞳。左腕に体つきからは似つかわしくないほど大きな鎧を着けており、その肩には一羽のカラスがとまっている。

 「気分はどうだい?」

 若者は穏やかな声で話しかけた。

 「レトさん!」

 メルルは先ほどまでのけだるさを忘れたかのように身体を起こした。そんなメルルをレトは中腰になって制する。

 「急に起きないほうがいい。君は昨日から一日中意識を失っていたのだから」

 「……一日中……」

 メルルはぼんやりとレトの言葉を繰り返すと、改めてあたりを見渡した。自分が横になっていたのは、どこかの病院の一室らしい。意識がはっきりするにつれて、病院らしい消毒液の匂いが漂っていることに気づいた。

 「ここは病院なのですね?」

 メルルの問いに、レトはゆっくりとうなずいた。「博物館から一番近くの病院だ」

 「私はどうなったのですか?」

 この質問に、レトは首を横に振って答えた。「詳しくは。君は意識を失って倒れているところを助け出されたんだ」

 メルルはふいに記憶がよみがえった。顔色を変えるとレトに向かって身を乗り出す。

 「か、館長さんは? アリスさんは? コーデリアさんは無事なのですか?」

 レトは落ち着かせるようにメルルの身体を押し戻した。「慌てなくていい。それより先に僕の質問からだ。気分はどうなんだい? どこか痛いところは感じていないか?」

 「だ、大丈夫です。少しふわふわした感じはありますけど平気です!」

 「平気かどうかを決めるのはお医者さんだよ」

 レトは立ち上がると、メルルをゆっくりベッドに寝かせた。「すぐに戻る」

 レトの肩に乗っていたカラスはひらりとメルルの枕元に飛び降りて、メルルの耳元で「かあ」と鳴いた。

 「アルキオネ。彼女が無理をしないよう見張っててくれ」

 レトはカラスに声をかけると、メルルを置いて部屋から出ていった。メルルが頭を動かしかけると、アルキオネはメルルの額をくちばしで鋭くつついた。

 「痛い! 痛いってアルキオネちゃん! 大丈夫、無理に起きようとしないって!」

 メルルは自分の頭をかばいながら大声をあげた。

 アルキオネは執拗につついてくる。まるで、「お前のいうことは信用できない」といわんばかりだ。

 「ほんと、本当だから!」

 メルルはシーツで頭を覆うと、アルキオネはようやくおとなしくなった。すでに興味をなくしたかのようにメルルの胸の上で毛づくろいを始めている。メルルはシーツの下でため息を吐いた。

 レトはすぐに医者を連れて戻ってきた。医者は熟練らしい年配の男だった。

 「運が良かったですねぇ」

 診察を終えると、医者はしみじみと話し出した。

 「状況からみて、あなたがまったくの無事というのは考えにくいのですが、やけどはもちろん、大きなケガもしていないし、煙の毒を吸った様子もないようです。まぁ、意識を失って、ずっと床に倒れていたから煙を吸わずに済んだのでしょうが。まぁ、煙というのは高いほうへ流れるものですから、煙の毒を吸わないようにするのは床に伏せているのが一番なんです」

 最後のあたりは説明口調だ。

 「問題ございませんか」念を押すようにレトが尋ねた。

 「床に倒れたとき、頭を強く打っていますが、こぶができた程度のようです。まぁ、もちろん、経過について注意は必要でしょうが……」

 話のふしぶしに「まぁ」を入れるのが、この医者の口癖らしい。

 「では、事件について話をしても……」

 「まぁ、問題ないでしょう」医者はうなずいた。

 このやりとりで、メルルはレトが思いのほか自分を気遣っていたのだとわかった。おそらく、さきほどのメルルの質問には残酷な答えが返ってくるのだろう。メルルの心がそれに耐えられるのか、レトは心配したのだ。メルルは自分にかけられたシーツをぎゅっと握りしめた。

 医者が立ち去るのを見送ると、メルルはレトに真剣な目を向けた。

 「レトさん、教えてください。皆さんは無事なのですか?」

 「コーデリアさん、アリス・チェンジャーさんは、ここ、同じ病院で治療中だ。ふたりとも命に別状はない」

 レトはそこで言葉を切った。メルルは先をうながすようにうなずく。「良かったです。で、館長さんは?」

 レトは首を横に振った。「お亡くなりになった。僕が着いたときにはすでにね」

 予想はしていたが、事実を知らされるとやはりこたえる。メルルはシーツを握りしめたまま視線を落とした。「そうですか……」

 しかし、メルルはうつむいた顔をすぐにあげた。つらい気持ちに変わりはないが、知りたいことは山ほどあるのだ。

 「レトさんが駆けつけてくれたのですか?」

 「昨日の朝早く、博物館に到着した。カージナル市に着いたのはその前夜だけど、深夜だったこともあって、博物館には翌朝向かうことにしたんだ。着いてみて驚いたよ。博物館は焼き焦げているし、玄関には君たち3人が倒れていたのだから」

 「火事は収まっていたのですね?」

 「コーデリアさんが機転を利かせて、博物館の魔法道具を利用したんだ。そうでなければ完全に焼け落ちていただろう」

 「魔法道具で火事を?」

 「『魔法の水がめ』だよ」

 大量に水をためる魔法の壺。メルルはすぐに思い出した。「ああ、あれで……」

 そこで、すぐに気がついた。

 「レトさん。あの魔法の壺を知っているのですか?」

 「『エリファス・レヴィの箱』事件から、魔法道具についての知識は必要だと思ってね。個人的に博物館とか回っていたんだ。まぁ、出張の合間にだけど」

 「それじゃあ、館長さんとは……」

 「博物館の皆さんとは多少、顔見知りではあったね。もっとも、僕は自分が探偵であることは教えていなかった。チェンジャーさんは僕のことを魔法研究家のひとりとでも思ったんじゃないかな。魔法道具研究の意義について熱心に語っていただいた。この研究の意義は世間でまだ確立していないから、チェンジャーさんの研究は先駆的なものになるかもしれなかった。惜しい方を亡くしたよ」

 これまで、レトはうつむいた姿勢で話していたが、おもむろにメルルへ顔を向けた。

 「そろそろ教えてくれないかな。あの夜に起きたことを」


 それから、メルルはあの夜のことを思い出せるかぎり正確に話した。レトはほんのときおり質問することはあったが、ほとんどメルルが話すに任せていた。

 「私が最後に覚えているのは、館長さんが炎に包まれながら悲鳴をあげられたところまでです。私は炎が燃え上がった勢いで倒れて、そのまま気を失いました」

 メルルが話を締めくくると、レトはしばらく無言で考え込んだ。今度はメルルがじっとする番だ。しかし、アルキオネはおとなしくじっとしていられないらしく、レトの肩に飛び乗ると、レトの髪にくちばしを差し込むようにしてつつき始めた。メルルが不思議に思うのは、アルキオネがすることにレトが怒らないことだ。このときも、レトはアルキオネにされるがままだった。

 「事件の状況は放火であることを示している。犯人はあの夜、研究室の窓に寄ると、窓を割って液体の入った小ビンを投げ入れた。小ビンには燃焼性の高いもの……、おそらくエタノールだと思う……、が入っていた。犯人は液体に火をつけようとしたが、なかなかうまくいかなかった」

 レトはメルルに話すとなく話し出した。メルルに説明するというより、自分自身に説明しているようだ。しかし、メルルはレトに質問した。「うまくいかなかったってどういうことです?」

 レトはメルルに視線を向けた。

 「窓の下にはマッチの燃えカスが何本も散乱していたのさ。犯人はマッチで火をつけようとしたが、あの夜は風が強く吹いていた。おかげでマッチは風で吹き消されるか、すぐ燃え尽きてしまったわけだ」

 いわれてみれば、あの夜は風の音が大きかった。相当な風が吹いていたはずである。強い風にあおられる状況では、マッチに火を点けるだけでも一苦労だっただろう。だが、犯人は諦めなかった。犯人の手にはランプがあったのだ。

 「床で燃えていたランプは、犯人が用意したものというより、やむをえず使用したということなんですね?」

 「おそらく。当夜は曇り空だったけど多少は月明かりがあったから、ランプの光がなくても帰りの道を歩くことはできる。犯人としては不本意だが、どうしても火を放ちたかった、ということなんだろう」

 「レトさん。それがわからないところなんですが、犯人はどうして研究室に火を放とうとしたのでしょうか?」

 「放火の動機か」

 「ええ」

 メルルたちが博物館に向かったのは、怪盗ダーク・クロウが『マーリンの杖』を盗み出すのを阻止するためだ。ダーク・クロウの件と今回の放火の件は、まるでかみ合っていない。

 「犯人はあの魔法の杖を狙っていた。盗むためではなく、燃やすために」

 「どうしてです? どうして、あの杖を燃やそうとするのです? 意味がわかりません!」

 結果的に、サマセットが命を落とすことになったのだ。メルルは感情的になって声をあげたが、そこで思い出して顔色を変えた。

 「杖……。そうです、あの杖! レトさん、あの杖はどうなりましたか? 気を失うまで私が抱えていたはずなんです!」

 「大丈夫だ。杖は駐屯軍に預かってもらっている。君が抱えていた箱に収まった状態でね」

 レトは安心させるように穏やかな声で答えた。

 「良かったです……。あ、でも、中身は無事なんですか? 焦げちゃったりしていませんか?」

 「一応、中身はあらためた。焦げ跡どころか、傷ひとつなかったよ」

 そこまで聞いて、メルルは安心したようにほっと息を吐いた。

 「君は意識を失っても、これだけは守ろうと無意識で思ったんだろうね。僕が君を見つけたときもしっかりと抱きかかえていたよ」

 「そ、そうでしたか……」そういわれると、なんとなく恥ずかしい。

 「そ、それはそうと、レ、レトさんはどうして、あの杖が放火犯に狙われたと考えたんです? たしかに、杖は研究室にありましたが、それは偶然で、犯人は別の目的で研究室に火を放ったとも考えられるじゃないですか」

 自分の感情をごまかすつもりはなかったが、メルルはややしどろもどろになって尋ねた。

 「たしかに、狙われたのがあの杖だと断定するのは早いかもしれない。ただ、君が意識を失っている間に、僕は今回の件に関りがありそうなひとたちとひと通り事情を聴いたんだ」

 「ほかの皆さんと話したんですか?」

 「簡単じゃなかったけどね」

 レトはうなずいた。

 「僕が博物館に着いて間もなく、レイラ・ロスさんが出勤してきた。彼女は事態がのみ込めていなかったが、気を失っている君たち3人を介抱している僕を見つけて、すぐ手を貸してくれた。彼女とも面識があったので、変な誤解はされずにすんだよ。そこへヒース・ブッチャー氏がピッチ・マローン氏と乗合馬車でやってきた。僕もロスさんも徒歩で来たものだから、馬車の到着はありがたかった。すぐ、馭者に頼んで君たちを馬車に乗せ、ロスさんの付き添いで病院まで送ってもらったんだ。ついでに、博物館まで駐屯軍を呼んでもらうことも頼んでね。杖の入った箱は僕が預かることにして、僕は館長の捜索で博物館に残った。館長は研究室で倒壊したテーブルの下で見つけた。遺体の運び出しには人手が必要だった。博物館の表に戻ると、ダドリー・ペンドルトン卿とジャック・ペンドルトン卿の兄弟が、ブッチャー氏と言い争っている場面に出くわした。マローン氏は離れたところでオロオロしているだけだった。僕は身分を明かして言い争いをやめさせ、館長が亡くなっていることを告げた。4人は演技でもなく驚いたようだった。彼らの熱が冷めたころにロスさんが駐屯軍を連れて戻ってきた」

 レトは両手を広げてみせた。

 「こういうわけで現場はバタバタでね。詳しい事情が聴けたのは、もう日が暮れかかってきたころだった。混乱状態の中ではあったけど、この事件の背景については、おおよそ把握できたと思う」

 自分が気を失っている間に起きたことも教えるつもりなのだろう。メルルはレトの丁寧すぎるほど詳細な説明を聞きながら思った。

 「ロスさんの説明では、研究室には未整理のファイルのほか、特別なものは無かったとのことだ。あの杖を除いてはね。そんな部屋をあえて狙う理由は、ほかに考えられなかった。なにせ、屋敷に火を点けるのが目的だったら、燃えるものがあまり見当たらない研究室ではなく、応接室とか、ほかの部屋のほうがましだからだ。応接室だったら床は絨毯が敷いてあったし、テーブルにも燃えやすいレースがかけられていた。一方、研究室は床がむき出しの板張りで、テーブルに可燃性のものは置かれていなかった。放火のしやすさで考えれば、研究室はまず選ばないだろう」

 レトはわずか一日で事件の概略を調べ上げたようだ。このあたりの要領の良さというか仕事の速さはさすがというところだ。

 「レトさんは、もうおおよそ事件についてわかってらっしゃるんですね」

 メルルは少しむくれぎみにつぶやいた。自分がふがいなくて腹立たしいのだが、やつあたりでレトにむくれてみせたのだ。レトはメルルの態度に気を悪くすることもなく、静かに首を振った。

 「とんでもない。状況のひとつひとつは説明できるけど、放火犯の正体を含め、事件そのものについてはさっぱりだ。なにせ、火事の発生から事件の推移を見ていたのは君だけだ。コーデリアさんも、アリスさんも、体調の問題だけでなく、火事についての詳しい説明は難しいようなんだ。かろうじて聞き出せたのは、火事から避難するか消火するかの話だけだった。つまり、君からの説明があってようやく、事件の真相に近づけるんだよ」

 レトの姿勢は一貫して丁寧だ。レトは真剣に事件の解明を進めている。それが実感できて、メルルのむくれていた気持ちが自己嫌悪に変わった。感情的になった自分が恥ずかしい。

 「すみません。変に突っかかったりして。私も事件の解明に力を入れます」

 「よくわからないけど頼む。さっそくだが、君から見た事件関係者の話が聴きたい」

 しらばっくれているのか、レトの反応はこんなものだ。しかし、それでもメルルの顔に笑顔が戻った。

 「はいっ!」


26


 「本当に大丈夫なのかい? コーデリアさんだって、しばらく安静しなければならないのに」

 病院の外でレトはメルルに話しかけた。メルルは目覚めて間もなく、自ら退院するといって病院から出ていったのだ。コーデリアはまだ病院にいる。コーデリアはあのとき、壊れた魔法の水がめからあふれ出した水に流された。メルルをかばっていたせいもあったが、頑丈な柱などに頭を打ち付けてしまったのだ。レトがメルルたち3人を見つけたとき、一番の重傷者がコーデリアだった。レトが見つけたとき、彼女は脳震盪を起こして意識を失っていたのだ。

 「大丈夫ですよ。あの先生だって、請け合ってくれたじゃないですか」

 メルルは両腕に力こぶをつくるような姿勢で答えた。レトは呆れたように息を吐く。

 「首をひねりながらだけどね」

 医者も最初は退院については慎重だった。しかし、再診察でメルルに異常はみられなかったので退院を許可したのだ。その際、「業火にまかれてやけどひとつないのが不思議なんですけどね」とつぶやいていた。煙の毒にやられなかっただけでなく、やけどさえも負わなかった強運ぶりに驚いているようだった。

 「とにかく、無茶はしなくていい。気分が悪くなったりしたら、遠慮なく申し出るんだ」

 「了解です」

 ふたりは乗合馬車に乗り込んだ。レトはアルキオネを肩に乗せたままだったが、馭者は何もいわない。こういう客に慣れているようだ。病院前には退院した者や帰りの見舞客のために、何台もの乗合馬車が客を待っていた。順番を待つこともなく、ふたりは馬車に乗ることができたのだ。馬車はガラガラと音を立てながら走り出した。向かうは事件現場となった博物館である。

 「とはいえ、君だけでも現場検証に立ち会えってもらえるのは助かる。そうでなければ事件の捜査はどんどん遅れていっただろうから……」

 レトはいくぶん申し訳なさそうにつぶやいた。コーデリアだけでなく、アリスも安静が必要な状態だった。彼女に大きなケガはなかったが、父が焼死した報せに衝撃を受け、寝込んでしまったのだ。コーデリアは危険な状態を脱したようだが、満足に口の利ける状態でなかった。そういうわけで、レトは今朝まで、事件の詳細についての証言を当事者から得られていなかったのだ。レトはメルルから事情の説明だけ聴ければよいと考えていたようだが、メルルが現場で説明することを望んだ。メルルには事件の記憶であいまいな部分がある。現場を前にすれば、細かな点について思い出せることがあるのではと考えたからだ。

 それに……。

 メルルはかつての師、カーラ・ボノフを失った事件を思い出していた。あのとき心に抱いたのは、喪失感、哀しみ、そして悔しいという感情だった。今のメルルにも同じような感情が沸き上がっている。サマセットやアリスとは、ほんの短い時間のつながりではあったが、それでもメルルにとっては大事なつながりだった。それを無残に踏みにじった事件に対する憤りで、メルルは病室で寝ていられない気持ちなのだ。

 「変に気を遣わないでください、レトさん。これは私の意志ですることです。以前、私がいったことを覚えていますか?」

 メルルは真剣なまなざしをレトに向けた。レトはメルルの強い意志が宿った目をまぶしそうに見つめ返した。「以前、いったこと……?」

 「私は、自分の『やりたい』に責任を持ちたいんです。これは私のやりたいことなんです」

 それを聞いて、レトは顔を横に向けた。目をそむけたというより正面を向いたようだ。

 「ケルンの事件のときにいっていたことだね。覚えているよ。君はあいかわらずだな」

 そして、再びメルルに視線を向ける。「そして、あいかわらず強情だ」

 「苦言ですか?」

 少し意地を張る気持ちでメルルは語気を強めた。レトは苦笑を浮かべた。「いや、頼もしいって思ったよ」

 レトの笑みは柔らかく、優しいものでもあった。メルルはどきんとして正面を向いた。

 「そ、そう思うんでしたら、た、頼りにしてください!」

 それから、馬車の中は静かになった。


 ふたりを乗せた馬車が博物館の前に着いたのは、だいぶ日が高く昇ったころだった。レトは馬車を降りると顔をしかめた。

 「……まったく、熱心なことだ」

 メルルも馬車から降り立つと、レトが視線を向けている先に目をやった。そこにはヒース・ブッチャーとピッチ・マローンの姿が見える。そこにいるのはふたりだけではない。現場の保管と見張りを兼ねて数名の駐屯兵が博物館で警備についていた。彼らはふたりの前にたちはだかっていた。彼らを挟むようにジャック・ペンドルトン卿が険しい顔つきで立っている。駐屯兵たちはその間に割って入っている様子だった。ヒースたちとジャックのいさかいに、駐屯兵が仲裁をしているらしい。

 「君たちの行動を看過できるわけがないだろう! こういうのを『火事場泥棒』というのだ!」

 ジャックは駐屯兵越しに大声をあげる。ヒースは不快そうな表情で首を振った。

 「泥棒なんてとんでもない。私はここの後片付けに来ただけです。無知な方たちがここを踏み荒らすことで、貴重な魔法道具を壊されでもしたら大変ですからな。私だって商人としての矜持がある。ほしいものが目の前にあっても、正当な手続きを経ずに持ち出そうなどしませんぞ!」

 「信用できるか! 相手を出し抜くのは商人の本質だろうが!」

 「ぼ、僕は研究家であって、しょ、商人じゃありません……」

 ピッチがヒースの背後から弱々しく抗議する。ヒースはじろりと背後に目をやった。

 「あなたは余計なことをいわんでよろしい」

 ヒースの表情に大して凄みがあったわけではないが、ピッチはおびえた表情になって縮こまった。

 「何の騒ぎですか、これは?」

 レトは駐屯兵のひとりに声をかけた。アルキオネは邪魔にならないようにと考えたのか、レトの肩から屋敷の屋根へ向かって飛び立った。兵士はレトに救いを求める目を向けた。

 「あ、探偵さん! このひとたちが博物館に踏み込もうとしていたのですよ。我々が対応しているうちに、今度はこちらの……」

 兵士はジャックに目を向けた。

 「こちらの方が現れて、このふたりを目にして詰め寄ってきたんですよ」

 「おい、探偵! こいつらを逮捕しろ。盗みを企てた不埒者だ」

 ジャックが兵士の声にかぶせるように大声をあげた。兵士は困ったように顔をしかめる。レトはヒースたちに目を向けた。

 「おふたりは博物館に入ろうとしたのですか?」

 ふたりはあいまいにうなずく。

 「ここは関係者以外立ち入り禁止です。昨日、そう説明しましたよね?」

 「だが、しかし!」

 ヒースは両腕を振り回して大声をあげた。

 「見たまえ、このありさまを! 魔法道具の知識のかけらもない兵どもが、無遠慮に屋敷へ踏みこんでいる。このままでは火事の騒ぎで散乱した魔法道具を踏み壊しかねない。彼らは貴重な魔法道具とがらくたの区別などつかないんだ。誰かが安全な場所に移してあげなければ……」

 「どこに移すというのです?」

 感情的なヒースに対して、レトはあくまで冷静だった。

 「た、たとえば私の宿に……」ヒースは言いよどんだ。

 「それを火事場泥棒というのだ!」

 ジャックがわめき声をあげる。いい方はともかく、『そうだな』とメルルは思った。

 「ところで、ペンドルトン卿はどうしてこちらへ?」

 レトはジャックに視線を移した。ジャックは胸元のネクタイに手をかけて位置を整えると、「こちらの職員さんにアリスさんの入院先を尋ねに来たのだ。今回の件のお見舞いをお伝えしようと思ってね」と答えた。

 「ロスさんに会いに来られたのですか?」

 「こんな奴らと同じ目的だと思わんでくれ」

 ジャックはヒースたちを指さした。ヒースは皮肉そうな笑みを口元に浮かべた。

 「さすが、議員さんはこういうときによく動くものですな。こうやって自分の評判を高めようとするわけですな」

 「何をいう!」

 「知っていますよ、ジャック卿。間もなく、次の貴族院議員の選挙が始まります。あなたも出馬されるそうだが、今回は苦戦なさっていると。最近、勢いを増した貴族連合に押されているそうじゃないですか。面白いものですな。同じ貴族なのに、連合とそうでない派で分かれているとは」

 「最近の政治は貴族の権利を縮小するものばかりで、そのことに私は反対だ。しかし、貴族連合のように前時代的な政治にまで戻そうと思わんのだ。それに、彼らはさらに過激なことを口にしている。現在の情勢を冷静にみれば、改革は国家の安定が担保された形で行われるべきなのだ。彼らと道をたがえるのは当然のことだ。最近、彼らの力が増しているのは認めるが、だからといって、選挙対策でこんな行動をするわけではない!」

 「どうだか」ヒースはせせら笑った。ジャックの顔色が真っ赤になる。憤怒の表情だ。

 このままではジャックが「決闘だ!」といい出しかねない。メルルもこのいさかいを止めるべきだと思って一歩前へ踏み出した。

 「何ごとです?」

 柔らかな声が聞こえて、その場にいた者はそちらに顔を向けた。レイラ・ロスが不安そうな顔で立っていた。博物館にやってきたところでこの光景を目にして困惑しているらしい。

 「大したことではございません」

 ヒースが代表するように答えた。「ただ、こちらの紳士が我々のことを誤解してですな、こう荒れておられるのですよ」

 「誤解はしていないだろ!」

 ジャックが噛みつく。

 レイラは助けを求めるようにメルルに顔を向けた。メルルはレイラに事の次第を伝えると、レイラの表情が変わった。

 レイラはヒースに向かってつかつかと歩み寄ると、

 「お引き取りください」

 と、これまでメルルが聞いたことがないほどの冷たい声で言い放った。ヒースは怒りの表情を浮かべてレイラの顔を見返したが、その気迫に押されたのか、弱々しいものへと変わっていった。

 「し、しかし、このまま兵たちが館内をうろつくと……」

 「展示品については、私が責任をもって管理いたします。お引き取りを」

 レイラは毅然とした姿勢で繰り返した。この状態になると、さすがにヒースも無理をいわなくなった。ただ、「わ、私はただ、善意でだな……」と、口の中で言い訳めいたことをつぶやいていた。

 メルルが呆れた表情でながめていると、背後からガラガラと音を立てて、1台の馬車が坂を上ってきた。街の乗合馬車だ。馬車はメルルのすぐそばで停止した。

 馬車の扉が開くと、ひとりの女性が降りて来た。その姿を見て、メルルは目を丸くした。「アリスさん!」

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