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魔法の杖は真実を語らない 3

Chapter 3


16


 「本当に、誰かが来ていたのですか?」

 アリスは呆然とした表情でつぶやいた。メルルはコーデリアとともに、食堂でサマセットとアリスに状況の報告をしているところだ。アリスはメルルの報告を聞くと、自分の両肩を抱くような姿勢でうつむいている。恐ろしさで身体が震えているのだ。メルルは報告のせいでアリスを怖がらせてしまったことを後悔した。メルルはアリスを安心させようと、アリスの腕に手を置いて話しかけた。

 「でも、安心してください。その何者かは結局、この屋敷に立ち入ることはしませんでした。ただ、このあたりを歩いていただけです」

 「研究室が無事だったのはいいが……」

 アリスのかたわらで話を聞いていたサマセットはしかめつらだ。メルルの言葉に安心などできなかったらしい。

 「たしかに『良かった』ですませていい話ではありません。夜中に、ここへ立ち寄った人物が何者か、何の目的だったのか、それを確かめなくてはならないと思っています」

 「何者かの『あたり』もついていないのかね?」

 サマセットの問いに、メルルは首を振るしかなかった。「今のところはまったく」

 「やれやれだね」

 サマセットも首を振ると、その場を立ち去った。食堂には朝食のために来ていたのだが、どうも食欲が失せたらしい。テーブルに並べられたパンに見向きもしなかった。

 「すみません。気分を害す話をしてしまって……」

 メルルは申し訳なく思って頭を下げた。始め、メルルは自分が寝入ってしまっている間、誰も侵入しなかったと安心してしまった。それが自分勝手な感情だと思い知ったのだ。当事者からすれば、何者かが屋敷に忍び寄ってきただけでも気持ちのいい話ではないのだ。

 「頭を上げてください。おふたりは、事件を未然に防ぐためにわざわざ王都から来てくださったんじゃないですか。おふたりに感謝の気持ちこそあれ、責める気持ちなんて少しもありません」

 今度はアリスがメルルの手を取って話しかけた。メルルは顔を上げると、弱々しい笑みを浮かべた。「ありがとうございます、アリスさん」

 「とんでもないです、メルルさん。もし、捜査のことでご協力できる話があれば、私に何でもお尋ねください」

 メルルはアリスの手を取って礼を繰り返した。「ありがとうございます」

 コーデリアは少し離れたところで、これまでのやりとりを静かに見つめていたが、すっと一歩前に出るとメルルに話しかけた。

 「メルル。あれについて聞いてみて」

 「『あれ』?」

 アリスが首をかしげると、メルルは腰のポケットに手を突っ込んで長いものを引っ張り出した。それは銀色の鎖につながれたロケットペンダントだった。

 「アリスさん。これに見覚えはございませんか?」

 アリスは目の前にぶら下げられたロケットを見ると目を丸くした。かなり驚いたらしい。アリスはメルルからロケットを受け取ると、蓋を開いて中をあらためた。

 「間違いない……。メルルさん、これをどこで?」

 「ご存知ですか?」

 アリスはうなずいた。

 「もちろんです。これは私のものです。最近失くしてしまったと思っていたものです」

 メルルはコーデリアと顔を見合わせた。アリスは大切そうにロケットを胸に抱きしめている。

 「良かった……。二度と見つからないと思っていたのに……」

 アリスはメルルに目を向けた。「いったい、これはどこに?」

 「研究室の窓の下に。少し茂った草むらの中に隠れるように落ちていました」

 メルルたちが、ほかに手掛かりはないかと足跡付近を調べたときに見つけたのだ。メルルからの説明を聞くと、アリスは納得したようにうなずいた。

 「どうやら、私は何かの拍子に自室の窓から落としてしまったようですね。私の部屋は研究室の上にあるのです」

 そのロケットは足跡の主が落としたものではないかと期待したのだが、どうやら空振りだったようだ。そのことは残念だが、アリスにとっては良かった。メルルはそう思って微笑んだ。

 「失くしたものが見つかって良かったです」

 アリスはじっとロケットの蓋を開いて中を見つめている。メルルはアリスの表情が気になった。「どうかしましたか?」

 「メルルさん。あなたはこの中を見ました?」

 アリスはロケットをメルルに向けて尋ねた。ロケットの中身は、それを見つけたときに蓋を開いて確かめている。メルルはゆっくりとうなずいた。「ええ」

 「どう思いました?」

 メルルはアリスの質問の意図がわからず戸惑った。しかし、ごまかすような話でもない。メルルは思ったことを素直に口にした。

 「すごくきれいなひとだな、と……」

 「私の母の肖像画です」

 アリスはロケットを見つめながら答えた。

 「母は、私が幼いときに亡くなりました。母の記憶は乏しいのですが、このロケットのおかげで母の顔だけは忘れずにいられます。このロケットは本当に大切なものなのです」

 ロケットを目にしたアリスの反応が気になったが、その話で理解できた。

 「そうでしたか」

 「母の肖像画を描いた方は腕のいい肖像画家さんで、母をありのままに描いてくれました。これを見ると、生前の母の顔が鮮やかに蘇ってきます」

 アリスは顔を上げると、苦笑いを浮かべた。

 「母は本当に美しかったのに、私がまったく似てなくて……。これじゃ、肖像画家さんが母を美化して描いたと思われてしまいますよね?」

 アリスは垂れた目やだんご鼻の形など、顔のどの部分を取っても父親のサマセットと瓜二つだ。舞台女優のような美人ではないかもしれないが、性格の穏やかさが滲み出ているような顔立ちである。メルルはアリスの顔を優しくて可愛らしいと思っていた。

 「私はアリスさんを可愛らしい方だと思っています」

 素直な気持ちだった。

 アリスは、「ありがとうございます」と少し笑みを浮かべた。さきほどの苦笑いよりは素直な笑みに見える。

……そんなに容姿のこと気にしなくていいのに。

 アリスの表情を見ながらメルルは思った。しかし、一方で自分自身のことで思い出すことがある。それは故郷にいる姉のことだ。姉は村で一番の美人と評判で、縁談の話がしきりだった。縁談話が持ち上がるたび、「お姉さんは美人だからね」という声を聞いてきた。メルルはそれを聞くのが嫌だった。「お姉さんは」の「は」が、「妹はそうでもない」というように聞こえたからだ。もちろん、姉は美しいと思うし、見た目がまるで子どものままの自分を美人だとは思えない。村人の表現に悪意などないと思うが、姉のことをあまり美人だといってほしくない。姉との差を思い知らされてしまうからだ。

 アリスの複雑な笑みは、自分が姉について抱く感情と重なる部分があるのではないか。メルルはそんなことを考えた。

 「今度はなくさないようにします。改めてありがとうございました」

 アリスはロケットを首にかけると頭を下げた。メルルは顔を真っ赤にして首をぶんぶんと振る。

 「いいんです、礼なんて」

 屋敷を徘徊していた者の手掛かりではと考えていた自分が恥ずかしくなったのだ。

 しかし、これで足跡の主につながる手掛かりは残っていないとわかった。正直なところ、がっかりしてしまう。

 「メルルさん」

 アリスに声をかけられ、メルルは我に返った。「何です、アリスさん」

 アリスは食卓を指さした。

 「朝食になさいません?」


17


――事件の発生までおよそ17時間――


 朝食を終えると、メルルは博物館の周囲を見回ろうと思い立って外へ出た。コーデリアが屋敷内の異常を確かめようと動いたせいもある。外と内の両方から調べようという考えだ。コーデリアは必要最低限の指示しか出さない。メリヴェール王立探偵事務所では、指示を待つだけの姿勢では仕事にならないのだ。

 昨夜、博物館の正面をコーデリアがならしていたため、玄関前の地面にはメルルたちの足跡しか見えない。招かれざる訪問者の足跡は見当たらなかった。メルルは地面にしゃがみこんで、あらためてそれを確認した。

……ここへ来た誰かは、博物館の正面を通らずに応接室から研究室のほうへ向かったんだ……。

 メルルは立ち上がると心の内でつぶやいた。以前、レトから聞いた言葉を思い出す。


 「手掛かりっていうのは、痕跡のことすべてを指すんじゃないよ。『痕跡がない』という事実も手掛かりになるんだ。なぜ、あるはずの痕跡が残っていないのか。その理由を明らかにすることが事件の真相につながることもあるんだ」


 メルルは目を閉じると、今確認した事実をレトの言葉で当てはめて考えはじめる。玄関に近づかなかったということは、訪問者は博物館に入ろうと考えていなかった、ということだろうか。

 メルルは博物館の裏手へ回って、研究室の窓があるところまで歩いた。足元を注意しながら歩いたが、例の足跡が丘の草むらから突然現れたこと以外の事実はつかめられなかった。訪問者は博物館の正面へ向かう道をはずれて、草が茂る丘を登っていた。足跡は玄関左手の応接室の窓の手前に現れ、順番に室内をのぞいていたようだ。それというのも、残されている足跡は少なくとも一度は壁の正面に並んで向いていたからだ。それは、その人物が窓の正面に立っていたことを示している。その人物の目的は何であったのか。メルルは研究室の窓枠に手をかけると、うんと伸びをして室内をのぞきこんだ。彼女の身長では目の高さが部屋の奥まで届かないのだ。

 研究室は真ん中に大きなテーブルが据えられて、その上に見覚えのある箱があった。『マーリン』のサインが書かれた、例の杖が収められた箱だ。

……訪問者は杖の置き場所を確認したんだろう。でも、昨夜は忍び込んで盗み出そうとまでは考えなかったのかな。

 足跡は研究室の前で最後だった。この人物は研究室から離れると、残りの窓には近づかずに立ち去っていたのだ。コーデリアが確かめていたが、メルルが改めて調べても訪問者が侵入を試みた形跡は見られなかった。

 研究室の窓は頑丈な鉄格子で覆われている。この鉄格子をどうにかしなければ窓からの侵入は不可能だ。相手はそれで侵入を諦めたのかもしれない。少なくとも昨夜に関しては。

 さらに訪問者の行動から、杖を収められている箱の形状を知っていることがうかがえる。訪問者は箱のことを知っているからこそ、夜間に危険を冒して杖の所在を確認しに来たのだ。杖が収められている箱の形状や特徴などを知らなければ、博物館に忍び寄ったところで杖の所在を確かめるのは難しい。

……もし、私が杖を盗もうと考えるなら、こんな出たとこ勝負のようなことをしてまで杖の在りかを探らない。なんとか博物館に潜入する手段を見つけて、内部から杖の在りかを確かめる。下手をすれば捕まってしまうし、そうでなくてもこちらの動きがバレて相手に警戒されてしまいかねないんだから……。

 昨夜、この博物館に忍び寄ったのは、おそらく昨日ここに集まった者たちの誰かに違いない。訪問者は、博物館が思いのほか忍び込むのが難しいことを悟って、それ以上の行動を起こさなかったのだ。

 メルルはあごに手をかけた考え込む姿勢のまま、くるりと後ろを向いた。すると、メルルのすぐそばで誰かがしゃがみこんでいたのに気づいて飛び上がった。

 「え! だ、誰?」

 しゃがんでいた人物は顔を上げた。メルルはその顔を見て胸を撫でおろした。

 「な、なんだ……。ええっと、ジョナサン君、だったかな?」

 メルルを見上げたのはジョナサン・ウォールの顔だった。彼は無言で立ち上がると、メルルの隣で博物館を見上げた。どうも、彼も地面を調べていたらしい。

 「どうしたの、ジョナサン君。今日は何で来たの?」

 「来ちゃいけなかった?」

 彼の返事にメルルは戸惑った。彼の声はあどけなさの残る少年のものだが、静かで、大人以上に落ち着いたものに聞こえたのだ。それに、メルルの質問に質問で返しているところは老獪ささえも感じる。

 「う、ううん。そうじゃないけど……」

……これじゃ、こっちのほうが子どものようじゃない。いや、たしかに未成年だけど。

 メルルは胸の内でつぶやく。

 「お姉さんは何か大変そうだね」

 さらに労いの言葉をかけられてメルルは苦笑した。本当にどっちが年上だか。

 「そういうあなたはどうなの? 今日は学校あるんじゃないの? さぼり?」

 「まだ学校の時間じゃないよ」

 メルルたちが朝食を摂ったのは、朝7時前ころだ。ここにはすぐ調べにやって来たから、今は7時半あたりだろうか。たしかに学校が始まる前だ。

 「登校前に来たの?」

 「そうだよ」

 返事は簡潔そのものだった。メルルは少し呆れて少年の横顔を見つめた。どこかあしらわれている気分だ。

 「お姉さんは何を調べているの?」

 不意の質問にメルルは狼狽した。さすがに博物館が盗賊に狙われている話などできない。どう答えたものかまごまごしていると、急に目の前の窓が開いた。

 「メルルさん、こちらでしたか。あら、ジョナサンじゃない」

 顔をのぞかせたのはアリスだった。少年はアリスに向かって頭を下げる。「こんにちは」

 「こんにちは、ジョナサン。今朝も魔法道具鑑賞?」

 アリスの質問に少年は、はにかんだ笑みを浮かべた。そういうことか。メルルは少年がやってきた理由がわかった。

 「飽きないわね、あなたも。うちの入館料は高くないのだから、きちんとお金を払って入ればいいのよ」

 「お金が溜まれば……」

 少年は言葉を濁すように答えた。家が裕福でないということか。メルルは少年の家庭の事情を推し量った。メルルは彼がどんな表情なのか気になって少年の顔を見ると、彼はアリスの顔を正面からじっと見つめていた。真剣なまなざしだ。

……あれ……?

 メルルが見直そうとすると、少年は身体の向きを変えて歩き出した。まるで用が済んだといわんばかりの様子だ。突然の行動にメルルは目を丸くした。

 「もう行くの?」

 アリスは少年の背中に声をかけた。少年は建物の角で立ち止まると振り返った。

 「今度は玄関から入るようにするよ。それじゃ」

 少年は角へ曲がって姿を消した。メルルはあっけに取られて様子を見ていたが、不意に頭の中にいろいろな考えが浮かんできた。魔法道具など何度も見たいとは思えない。それを飽きずに見に来ていたのは、目的が魔法道具ではなかったからではないのか。たとえば誰かの顔を見たい一心で訪れていたのだとすれば……。

 メルルは顔を横に向けた。そこには身体を少し乗り出して、少年の立ち去る背中を見送っていたアリスの姿がある。

……そういうこと?

 メルルは自分の想像で顔を赤くした。想像でしかないが、何か重要な事実をつかんだような不思議な高揚感が湧き上がってきたのだ。

 「どうかしましたか?」

 もじもじしているメルルの顔を、アリスは不思議そうな表情でのぞき込んでいる。メルルは慌てて顔をぶんぶんと振った。

 「なななな、なんでもありません!」

 メルルの顔は真っ赤だ。そんなメルルの顔を見つめながら、アリスは首をかしげた。


 博物館の表へ戻ってみると、見覚えのある馬車が停まっていた。一人乗りの小さな馬車。ダドリー・ペンドルトンの馬車だ。

 「ダドリーさん、もう来たんだ」

 メルルは思わずつぶやいた。

 玄関へ通りがてら馬車をのぞいてみると、馬は馬車につながれたままおとなしく立っている。馬の首からはうっすらと蒸気が昇っているので、ついさっきまで走っていたようだ。

 メルルはそっとその場を離れると博物館の中へ入った。

 博物館を訪れていたのはダドリーだけではなかった。

 「おや、昨日のお嬢さんじゃないか」

 ヒース・ブッチャーが振り向きざまに驚いたような声をあげた。ホールにはヒースだけでなく、ダドリーやピッチの姿もある。皆ホールでたたずんでいた様子だ。メルルはヒースに向かって丁寧にお辞儀した。

 「おはようございます、ブッチャーさん」

 「ああ、おはよう。君は王都へ戻らなかったんだね?」

 ホールの姿にコーデリアの姿はない。そのせいかメルルたちは昨日のうちに王都へ帰ったと思っていたようだ。

 「調べごとが片付かなかったので」

 メルルは言葉少なに答えた。メルルの心の内にはもやもやとしたものが淀んでいる。この中に、今朝調べた足跡の主がいるのかもしれないのだ。その人物は昨夜ここを密かに訪れていたことなど、決して口にしないだろう。

 ダドリーはちらりとメルルの顔を見ただけで、すぐ顔の向きを戻した。目の前のピッチと会話を続けている。杖をめぐって対立する関係だと思うが、険悪な雰囲気は感じられない。もっとも、互いに何の感情も見られない素の表情なので、友好的でもないようだが。

 「ここに集まって何かあるのですか?」

 メルルはヒースに尋ねると、ヒースは苦笑いを浮かべて首を振った。

 「ここで待たされているんだよ」

 どういうことだろうと思っていると、階段からサマセットがレイラとコーデリアをともなって降りてきた。レイラはメルルが外へ出ている間に出勤してきたらしい。

 「皆さん、お待たせしました」

 サマセットの口調は穏やかだが、表情は浮かない様子だ。譲る気のない杖のことで改めて話をしなければならないからだろう。

 「昨日は譲渡の条件を提示できなかった。いや、交渉をするのであれば、先に話しておくべきだったと後悔している。だから、今日は私にその誠意を示させてもらえないかね? この博物館を維持していくのに苦労されておられるはずだ。私も経済的に苦しかった時代を経験しているから、その辛さは身に染みてわかっている。どうだろう。博物館を守っていく手助けを私にさせてもらえないか?」

 ダドリーはサマセットの前に進んで申し出た。サマセットの浮かない表情がいっそう渋いものに変わる。明らかに不快そうな表情だ。

 「申し出はありがたいのですが、その引き換えに魔法の杖を譲れというのは筋が違います。あの杖は、すでにこの博物館の一部なのですから。その杖をよこせというのは博物館の支援と矛盾する話です」

 サマセットの口調は丁寧だが、ダドリーは殴られたような表情になった。ヒースはダドリーを押しのけるように前へ進み出ると、自らの胸に手を当てた。

 「どうも貴族様は交渉とは何かご理解されていないようですな。私はそんな建前など振りかざしませんぞ。率直に申し上げよう。私はあの杖に非常に興味がある。ただし、私はむやみにほしいわけでもない。あの杖が真に何であるか見極めたい。今は、その願望を叶えたいがためにここにいるわけです。杖の価値を見極めもせずにほしがる手合いなど相手にしないで、冷静な者たちで杖の行く末を考えていこうじゃありませんか」

 昨日は何が何でも手に入れたいと発言していたのに、呆れるほどの手のひら返しだ。あの杖がペンドルトン家から出たというだけで執着心を見せていた昨日とは別人のようだ。

 さすがにサマセットも心を動かされなかったようで、

 「お気持ちだけ感謝申し上げます」

 とだけ応えた。婉曲的な断り文句に、今度はヒースが渋い表情になった。

 「つ、杖の能力を、し、知ることは大切です。い、今、杖はどこにしまっているのでしょう?」

 ピッチがどもりながら口をはさんできた。

 「あの杖は保管室に戻しました。この博物館は古いだけにしっかりと施錠するのが難しいですが、保管室はしっかりとした場所です。誰も手は出せませんよ」

 サマセットの目は展示室に向けられていた。正確には展示室の隣の扉に向けられている。昨日、メルルたちがアリスに博物館の案内されたとき、この部屋は『保管室』とだけ教えられて、室内までは案内されなかった。主に研究途中のアイテムが収蔵されているそうで、単なる保管というより簡単に手を触れさせないための隔離的意味合いのほうが強いとのことだった。たしかに、何の能力か不明で、さらにどうすれば安全に使用できるかわからないアイテムを誰もが手に触れられる状態にしておくのは危険だ。あの『マーリンの杖』も、同じ理由で『隔離』されても不思議はない。

 しかし、メルルは杖が今朝の時点で研究室にあったことを確かめている。サマセットは相手を牽制するために嘘を教えているのだと思った。

 「やれやれ、取りつく島もない、というところですか」

 ヒースは首を振りながらつぶやいた。ため息交じりで、「つぶやき」というより「ぼやき」に近い。

 「こういっては何ですが、この博物館の台所事情は知っているつもりですよ。こちらの貴族様の言い分に乗っかるつもりはありませんが、どこかに支援いただかないと立ち行かなくなるのが目に見えます。あまり頑なな態度は控えたほうがよいと思いますよ」

 「お話しが以上であれば、どうぞお引き取りを」

 サマセットは厳しい表情でいい放った。ヒースの渋い表情が皮肉なものへと変わる。

 「……そうですか。そういう態度で臨むのであれば仕方ありませんな。本日はこれで退散するとしましょう。では、皆さんごきげんよう」

 ヒースは軽く会釈すると、身体の向きを玄関に向けて歩き出した。ヒースはそのまま扉を開けて出ていってしまった。あまりにあっさりとした退場に、メルルだけでなく周りの者たちもあっけに取られていた。閉まった扉がすぐに開くと、入れ替わるようにジャックが入ってくる。

 ジャックは入ってきた扉とホールの人びとを交互に見やった。どこか不審そうな顔つきだ。

 「……今のは昨日失礼な態度を働いた商人だったな。兄さん、あいつはまた何か失礼なことでも口にしましたか? すれ違いざま、私の顔を見て笑っていましたよ」

……笑っていた?

 今日も交渉は不首尾で終わったから笑顔でいられないはずだ。それなのに、去り際のヒースは笑顔だったというのだ。メルルは心の内で首をかしげた。

 「いやらしい奴だ」

 誰かが小声でつぶやくのが聞こえ、メルルは声のしたほうに顔を向けた。そこにはダドリーが苦虫を嚙みつぶしたような表情で立っていた。


 その後、杖の鑑定を申し出たピッチはすげなく断られて、全員、博物館から出ていくことになった。

 「明日、ここに専門の鑑定家が来ますので」

 サマセットはその場にいる者全員に聞こえる声で説明した。

 「鑑定って、杖の術式を調べられるんですか?」

 メルルが尋ねると、サマセットは軽く首を振った。

 「杖の術式を調べるのは難しい話です。ひとまず、箱に書かれたサインを鑑定するのです」

 「箱のサインですか」

 メルルは箱に『マーリン』とサインがあったことを思い出した。

 「ひと言でマーリンといっても、三代、つまり3人いるわけです。一世のものなのか、二世のものなのか、あるいは三世のものなのか。そのあたりは解明可能な問題というわけです」

 「あの杖の作者が三世である可能性はないでしょう?」

 ピッチが手を挙げて発言した。メルルに顔を向けられると、ピッチは動揺したように顔を少しうつむかせた。

 「え、ええっと、マーリン一世や二世は優れた魔導士でしたが、三世はまるで魔法の素養がなく、生涯を実業家として過ごしたと聞いています。ただの実業家が魔法の杖をこしらえるのはできないでしょう?」

 「マーリン三世が魔法を扱えなかったという記録は残っていません。ただ、優れた素養が見出せなかったとあります。つまり、祖父や父ほどではなかったにしても魔法が扱えた可能性はあるのです」

 答えたのはレイラ・ロスだ。彼女は昨日と同じ黒色のスーツ姿だった。

 「ある記録によりますと、祖父や父が魔導士として偉大過ぎたために、三世は自身が魔導士であることに見切りをつけ、魔法学院を大きくする実業家として力を尽くしたといわれています。あの杖の真贋はともかく、もし、本物であればマーリン三世の手による可能性もあるのです」

 「もし、三世のものだったら、杖の価値はどうなるのですか? やっぱり一世や二世より下がってしまうのですか?」

 メルルには、あの杖が盗賊に狙われる理由が量りきれていない。それだけに、あの杖の価値は気になるところだ。

 「率直に申して、ひとによりけりですね」

 レイラの答えにメルルは首をかしげた。「ひとによりけり?」

 「本来であれば、一世や二世が遺したものは貴重かつ値打ちの高いものです。三世は事業で大きな功績を残していますが、魔法そのものに関しての功績は皆無です。もし、三世が魔法に関して何か遺したものがあっても、その質において祖父や父を超えたものではないでしょう。あの杖が三世の手によるものであれば、その意味で価値は非常に低いものとみられます。ですが、現時点で三世が魔法に関わる何かを残した記録はございません。そうなると、史上初めての発見になります。希少性という意味では一世や二世を超えてしまいますね。その場合、あの杖にどれほどの値がつけられるか、正直なところ見当がつきません」

 自分の世界を広げるため故郷を出たのだが、自分の知らないこと、わからないことは今でも多すぎる。メルルはレイラの話を聞きながら、そんなことを思っていた。物の値段が上下することは知っている。彼女の故郷では特産のお茶だけでなく、さまざまな野菜なども育てていた。作物は、その出来ばえなどで価格が変わる。相場の仕組みに通じているわけではないが、事実としては知っていた。しかし、状況によって、あるいはそれを手に入れたい者の思惑によって、杖一本の値打ちが変わってしまう……。メルルにとって理解の難しい話だった。

 「つまり……、それが本来の貨幣価値では低いものであっても、ひとによってはそれより高値をつけるということですか?」

 メルルはおそるおそる尋ねてみた。周囲はあっさりと流している雰囲気の中で質問するのが恐かったのである。

 「そんな当たり前のことを……」

 恐れていたとおり、ジャックが呆れた表情でメルルを見下ろした。メルルは思わず縮こまってしまう。

 「お嬢さん」

 ダドリーは穏やかな声でメルルに話しかけた。

 「お嬢さんにとっては、あの杖は何の価値も見出せないものかもしれないね。だが、私は名誉を守るために必要なのだよ。それこそ大金を積んででも手に入れたいほどに」

 メルルはもう何もいえなくなった。


 ダドリー、ジャック、ピッチの3人も博物館から去り、ホールにはサマセットたち博物館関係者と王立探偵事務所のふたりが残った。

 「難しい顔をしていますね」

 アリスがメルルの顔をのぞき込むようにして話しかけると、メルルは困惑したような顔を向けた。

 「アリスさん。よくわかっていないのですが、もし、あの杖が偽物だったら事態はどうなるんですか? 値打ちはまったくなくなってしまうものなのですか?」

 アリスは苦笑いの表情で首を振った。

 「メルルさん。歴史的遺物には偽物が混じることはよくあることです。たとえば、歴史的有名画家を偽って別人が描いた絵画など、明らかにひとをだます目的でこしらえられたものとかです。そういうものは悪質で言語道断ですが、だます意図のない偽物も存在するのです」

 「だます意図のない偽物?」

 アリスはうなずいた。

 「たとえば、誤って別の人物の作品として伝わってしまったもの。その場合、古文書の読み違い、記録が間違っていたとかもあります。記録の間違いでいえば、単純に作者名を書き損ねて偶然別人の名前になってしまったなんてこともあります。いずれも悪意のない話で仕方がない場合です」

 たしかに、そういうことは起こりそうだ。

 「特に伝承というのは、資料的に一級ではございません。事実の一端を伝えているかもしれませんが、まぎれもない事実であるという客観性が担保されていないからです。あの『マーリンの杖』も伝承の一種に数えられるでしょう。『マーリンの杖』であるというのは、マーリンと強い所縁ゆかりのあるペンドルトン家から見つかったこと、箱書きに『マーリン』とサインがあるという点しかないのです。それは根拠としては絶対性がないので、だます意図のない偽物の可能性だってある、ということなんです」

 いわゆる勘違いということか。メルルは大まかに理解した。

 「杖に埋め込まれた魔法の術式は何であるか、その解明はできなくとも杖の身元を確かめる方法はある、ということ。うまくいけば明日、それが明らかになるかもしれないのだよ」

 サマセットが娘の話を引き継ぐように続けた。

 「私が、杖の正体を追究するのは、杖の価値を見定めるためではないよ。研究とは何ごとも不明の部分を明らかにすることだ。私がしているのは、ただそれだけのことなんだよ。杖に値段をつけるためではないんだ」

 メルルはまだ難しい表情だ。サマセットはメルルの表情に苦笑を浮かべた。

 「研究者はね、他人にとってどうでもいいことが気になって仕方がない生き物なんだよ。あの杖が誰の手によるものなのかなんて、君には意味も意義も見いだせないかもしれないね。でも、こうした些細な問題をひとつひとつ追究することによって、我々はいずれ到達できるかもしれないんだ」

 「到達って、どこへです?」

 「学問の深淵。真理だよ」

 メルルにはサマセットのいう意味が理解できなかった。それでも、ひとが何を差し置いてでも大事にしたいものがあるのだと部分的には理解できたので、メルルは小さくうなずいた。

 メルルが質問している間、コーデリアは会話に混ざらず、窓の外に視線を向けている。話に興味を示していないというより、外に気になることがあるような真剣なまなざしだった。


18


 「連絡が遅くなってすみません。なかなか落ち着いて連絡を取る状態にならなくて」

 レトは深く頭を下げた。

 とある宿屋の一室。レトはその床に魔法陣をふたつ展開して、そのひとつの上に立っていた。もうひとつの魔法陣からはヴィクトリアの姿が浮かび上がっている。実際のヴィクトリアがいるのは王都メリヴェールにある探偵事務所だ。彼女は、そこから通信用の魔法陣を展開して、遠く離れたレトにつないでいたのだ。

 「何かあったの、レトちゃん? あなたが定時連絡をすっぽかすなんて、本当に行方不明になったのかと心配したわよ」

 ヴィクトリアは腕を組んで少しあきれた表情だ。通信魔法は相手の位置座標を把握していないと通信が結べない。移動を続けるレトと連絡するには、レトから接触してもらわないといけないのだ。事務所側の魔法陣は位置が固定されているので位置座標は変わらない。レトから位置情報をもらわないと、ヴィクトリアからは連絡したくてもできないのである。

 「今まで宿が取れなかったので、魔法陣が展開できませんでした。申し訳ありません」

 レトは再び頭を下げる。ヴィクトリアは片手をあげてひらひらと振った。

 「もういいわよ。で、どうなの? あれから進展はあったの?」

 レトは魔法道具がからむ詐欺事件を捜査していた。事件の容疑者が王都を離れた可能性があり、レトが追跡していたのである。

 「容疑者オプティマス・ケイマーと酷似した男が、ここ、ケルンの街に現れたという情報を得て、その確認をしていました。残念ながら、その男はすでに街を離れて、見つかりませんでした。現在はカージナル市に潜伏していると思われます」

 ヴィクトリアは頬に手を当てて話を聞いていたが、「あら」と短い声をあげて手を離した。

 「何です?」

 「カージナル市にはメルちゃんがいるのよ。コーデリアも一緒よ」

 レトの眉がぴくりと動いた。「事件ですか?」

 「事件……なのかな。レトちゃんは知らないかもしれないけど、『ダーク・クロウ事件』を追っているの。ダーク・クロウが魔法博物館所蔵の品を狙っているかもしれないので、ふたりが調べているのよ」

 「ダーク・クロウ……。新聞で読みました。不可解な魔法を使う怪盗だとか」

 「捜査情報を完全に公開するわけにいかないから、そんな表現になっちゃっているけど。でも、不可解なというのは、それほど外れた話でもないのよ」

 ヴィクトリアの説明にレトは首を傾げた。「どういうことです?」

 そこでヴィクトリアは事件のあらましをレトに話した。レトは口を挟まず、おとなしい表情で聞いていたが、最後のほうではレトの表情は険しいものに変わっていた。ヴィクトリアはレトの表情に違和感を抱いた。

 「何? レトちゃん。今の話に気になるところでも?」

 「ヴィクトリアさんに思い当たるところはないのですか? ダーク・クロウの正体に」

 今度はヴィクトリアの表情が険しくなった。「レトちゃんの考えを聞かせてくれる?」

 レトは首を振った。

 「ヴィクトリアさんの話だと、その賊は全力で走りながら難度の高い魔法の呪文を詠唱したということになります。しかもかなりの短時間で詠唱を終えたわけです。そんなこと、一般の魔法使いに可能でしょうか?」

 「普通なら不可能ね」

 「それを可能にするには方法はふたつです。まずは幻惑魔法が仕込まれた魔法道具を使用する、です。あいにく、そんな道具が存在するか知りませんので、そんな道具が実現可能なのかわかりませんが」

 「さすがレトちゃんねぇ。いいところ突いているわ。たしかに、理論的には幻惑魔法の術式を仕込んだ道具は作成可能だわ。でも、今のところ実現できていないわね」

 「実現できないわけでもあるのですか?」

 「魔法道具は良くも悪くも力の調整ができない。つねに一定。私が自分で発動する雷系魔法は、その出力を自分で調整できる。強くも弱くもできるってこと。ちなみに雷系魔法を放つ魔法道具は存在するけど、その出力や射程範囲は一定の値で固定されている。呪文の詠唱を必要としない代わり、調整が利かないから魔法の威力や範囲を大きくするなんてできない。雷系のように実際的な魔法でも、それだけ使い勝手が悪いの。ましてや相手によって効き目が変わる幻惑魔法は、魔力や効果範囲が調整できないとまるで使えない。この問題を解決しないかぎり、幻惑魔法の道具化は不可能ね」

 「そういうことですか」

 「ところで、さっき『ふたつ』って、いってたと思うけど、もうひとつの可能性って?」

 「ヴィクトリアさんならもう考えがついているんじゃないですか?」

 ヴィクトリアは表情を動かさなかった。「レトちゃんから聞きたいのよ」

 レトは小さくため息をつくと口を開いた。「ダーク・クロウがハイクラスである場合」

 レトの答えは意外でもなかったらしい。ヴィクトリアは少し顔を伏せただけだった。

 「レトちゃんの見立てもそうなるのね」

――ハイクラス――。

 この世界にはさまざまな魔族が存在する。ゴブリン、オーク、リザードマンなど、その種類は多い。人間とは種として異なるだけでなく、見た目も大きく異なる。しかし、『ハイクラス』と呼ばれる魔族だけ、ほかと違って見た目は人間とほとんど変わらないといわれる。「いわれる」と表現されるのは、人間のほとんどがハイクラスを目撃しておらず、その実態も謎であるからだ。2年前の『討伐戦争』では、『勇者の団』がハイクラスである魔候アルタイルとその嫡子ガニメデスと対決した。ふたりを直接目にした者たちは、彼らが当たり前の人間と姿が変わらなかったと証言している。『勇者の団』に所属していたレトもまた、ハイクラスを直接目にした者のひとりで、王国内でも希少な『ハイクラスを知る者』である。

 ハイクラスは現在、魔族最強とされる。事実、魔族の国マイグランの王はハイクラスのシリウスだ。見た目が人間と変わらないハイクラスがほかの魔族を上回る理由は、身体能力の高さでなく、魔法を自在に操る知性の高さにあるとされる。魔法について、人間はかなり通じてはいるが、「自在に操る」という面では魔族と比べて不利である。人間は魔法を行使するのに呪文の詠唱を必要としている。そうしなければ魔の領域から力を引き出すことができないのだ。人間は魔法陣や術式の具現化で、その問題を大きく改善したが完全でもなく、詠唱時間というスキの大きさは魔族との戦いにおいても最大の課題となっている。一方、魔族はもともと魔の領域の存在なので、呪文の詠唱を必要とせず、魔法が行使できるのだ。ただ、これは人間にとって幸いといえるのだが、魔法を扱えるほど知性の高い魔族は少数で、大部分は魔法での脅威とならなかった。

 しかし、ハイクラスは呪文の詠唱を必要とせずに魔法が行使できる。魔法を扱うものにとって、詠唱時間という最大の弱点が存在しないのだ。それがハイクラスを魔族最強たらしめている理由である。

 メルルに幻惑魔法を使ったダーク・クロウは、おそらく呪文の詠唱なしで魔法を行使している。そうであるならばダーク・クロウの正体はハイクラスである……。レトとヴィクトリアがそう考えたのも自然であった。

 「ダーク・クロウがハイクラスかもしれないのに、メルルをその捜査にあたらせたのですか?」

 レトの声には抗議の調子を含んでいた。

 「ハイクラスであるかどうかは想像に過ぎない話でしょ?」

 ヴィクトリアはレトの抗議を気にしない様子で片手をひらひら振った。

 「想像というにはかなり現実味はありますが」

 「レトちゃんはあの子をいつまで未熟者扱いするつもり?」

 ヴィクトリアの問いに、レトは開きかけた口を閉じた。

 「レトちゃんにとっては『まだ半年』かもしれない。でも、メルちゃんにとっては『もう半年』かもしれないわよ。あの子はこの短期間でいろんな経験を積んできた。ひどい現場も目にしたし、つらい思いもした。でも、あの子は全然へこたれずに乗り切ったじゃない。あの子を『助手見習い』にしているのは所長の配慮であって、本当は立派な『探偵』よ」

 「僕は探偵として未熟だといっているんじゃありません。ハイクラスを相手にするというのは、これまでのような盗賊に対するのとわけが違うといっているのです。彼女が使える魔法では、ハイクラスに歯が立たないんです」

 「そういうのは前の戦争でハイクラスと戦った経験から?」

 レトは再び口をつぐんだ。自分がどこでどう戦っていたのか、具体的な話は誰にもしてこなかった。あの戦争の記憶には触れてほしくない部分もあるのだ。

 「ごめんなさいね。レトちゃんが戦争で経験したことに触れられたくないのは感じていたけど、私たちの仲間を信じていないような発言をするから」

 「僕が仲間を信じていない……」

 「あそこにはメルちゃんだけでなくコーデリアもいるの。たしかにレトちゃんは事務所で一番強いかもしれない。でも、コーデリアだって王国一の強者つわものだったのよ。彼女と一緒であれば、そうやすやすとやられたりしないわ。それに、ダーク・クロウがハイクラスだとして、あいつはそれほど危険でないように思えるの」

 「その根拠は何ですか?」

 「自分の正体を匂わせたりしているからよ。王国内に魔族が……、それもハイクラスなんて大物が侵入したなんて話になったら国中大騒ぎよ。でも、あいつは確信がもてない程度に行動して、こちらの反応をうかがっている。こちらに害をなそうとする者の行動じゃないでしょ? 少なくとも相手の生命を奪おうとする悪意は感じられないわ」

 「……所長は、そこまで考えたうえで、ダーク・クロウの事件を追っているのですか?」

 ヴィクトリアはうなずいた。

 「報道関係にも、さっきの話は伏せているわ。まぁ、そのせいで記事の内容はあいまいなものになっちゃってるけどね」

 レトはしばらく沈黙した。視線をやや斜め下に向けて考え込んでいる。やがて、顔をあげると視線をヴィクトリアに向けた。

 「ところで、僕はこれからカージナル市に向かおうと思っているのですけど、メルルたちと合流してもいいですか?」

 レトは話題を変えてきた。どうやら、レトの中で情報や優先事項の整理がついたようだ。

 「あら、メルちゃんに助太刀してくれるの?」

 「ふたりより三人でかかったほうがいいかと。それに、こっちの事件にも助っ人がほしいところなので」

 「お互い協力してそれぞれの事件を解決しようってこと?」

 ヴィクトリアはにこにこしながら尋ねる。レトは少し表情を曇らせた。「ええ、まぁ……」

 そこへ、ヒルディー所長の顔がヴィクトリアの横からふいに現れた。レトは驚いて思わず姿勢を正した。「あ、所長……」

 「すぐ近くで話は聞いていた」

 ヒルディーは表情を変えずにいった。

 「レト。君はカージナル市の魔法博物館に向かい、コーデリアたちと合流してくれ。詐欺事件はダーク・クロウの件が片付いてからでかまわない。その際にはコーデリアたちを使うといい」

 「あ、ありがとうございます」

 「合流できたら連絡をくれ。私は引き続き王都での線を追うつもりだ。彼女たちのことを頼むぞ」

 「了解しました」

 レトの目の前からふたりの姿が消えた。ヴィクトリアが通信を切ったのだ。レトは光の消えた魔法陣を見つめながら深いため息をついた。


 「心臓に悪い」


19


 王都メリヴェール、ディクスン城。その城の高層に王太子ルチウスの執務室がある。

 城はもともと都市の中心部にある高台に築かれて視界を遮るものはほとんどない。大聖堂の尖塔が細長くそびえ立っているだけで、街の光景はすべて眼下に広がっている。

 ルチウスは窓辺に立って、その眼下の景色を眺めていた。見下ろしているという感覚はない。今立っているのは遠くまで見通せる『位置』でしかない。彼はそう考えていた。この国に君臨している意識は持っていない。彼はすでに王国の……、封建主義的な王政の限界を悟っていた。王に威厳はあれど、政治的に立場が弱く、王自らの意見を通すのが難しい。王を支えるはずの貴族たちは自領の利益のみを考え、国益のために働かない。2年前の戦争で、戦場へと馳せ参じた貴族は皆無だった。この国の弱体化は隠しようがない。ただ、彼は王族であり、次代の王としての責務がある。それに何百年も続いた王政を自分の手で終わらせるのはためらわれた。だが、このまま惰性で王政を続けても王国は終わってしまう。反乱、革命。いずれかの形で王国は終焉を迎える。それが自分の代か、以降の代か。違いはそれぐらいだ。

……それでも俺は王族の務めを投げ出すことはできない。

 ルチウスは眼下に広がる街並みを見つめながら思った。ここからでは見えないが、眼下には多くの民衆が今日という日を過ごしている。明日を迎えるために。ただそれだけのことに国はどれほどのことを国民にしてあげられたのだろう。少なくとも命を守ることには積極的ではなかった。

 『討伐戦争』が起こったとき、王国は迫る魔候軍に対して消極的な防衛策しかとらなかった。いわゆる焦土作戦と呼ばれるものだ。敵に攻めるだけ攻めさせて疲弊するのを待つ。その間、民は逃げ惑うことしかできなかった。国民に多大な犠牲を払わせて、王国は身を守ろうとしたのである。ルチウスは王族こそが国のために戦わねばという思いから、身分を偽って『勇者の団』に加わった。レトを知ったのはそのときである。レトとともに戦場をめぐり、彼は思い知った。王国には多くの騎士団が存在している。騎士団を保有しているのは王国だけではない。各地を治める貴族たちも同様である。しかし、この国難に対し、貴族は自国の騎士団を参戦させなかった。最大戦力を保有していたはずの王国でさえ、魔候軍に差し向けたのはのべ10万ほどだった。保有する戦力の半数以下である。支配階級に国を本気で守ろうとする考えがなかったのだ。

 結局、魔候軍を退け、魔候を倒したのは冒険者や義勇兵として参加した市民たちが中心だった。今、国は穏やかであるが、国民の心も穏やかであるとはかぎらない。無用の犠牲を払わせた王国に恨みを抱く者も少なからずいるはずだ。彼らの怨悪えんおの情は代々引き継がれるかもしれないし、それが積もり積もればその結末は明らかだ。

……だからこそ、緩やかに王政を民主制に移行する方法を模索している。立憲君主制……。隣国のトランボ王国がその実現に取り組んでいる。この国も同様に行動を起こさなければ、内乱が起きるかもしれないのだ……。

 その危険は少しずつだが姿を見せ始めている。貴族連合の台頭もそのひとつだ。王の威光がすでに曇っていることを思い知らされる。議会では市民階級と貴族階級の対立が激化して、まとまる話もまとまらない状態だ。これまでも国民によかれと考えた法案が何度も廃案になる憂き目に遭ってきた。政治は遅々として進まず、王国は国民からの信頼をどんどん失っている。貴族たちはそのことに気づいてすらいない。自分の保身につながることしか主張しないのだ。彼らは荘園から領民の脱走が続いていることを訴えている。まるで自分には落ち度はないというふうに、自分の被害だけをまくしたてていた。原因は自分にあると理解できないのか。ルチウスは額に手を当ててため息をつくしかなかった。

 気をつけなければならないのは国内だけのことではない。魔候は倒したが、魔王シリウスをはじめとする魔国マイグランは健在だ。彼らがこちらの動揺につけこんで攻め込んでこない保障などない。魔候を倒したとき、魔王軍も近くにいたそうだが、彼らは魔候を倒した『勇者の団』と事を構えず撤退した。あまりにあっさりした行動だけにかえって気味が悪い。何か裏があるのではと思ってしまう。魔王軍が撤退したのは、王国が主力を温存した状態で魔候軍を倒したことを過剰に警戒したのかもしれない。ただ、真意がつかめないだけに安心などできないのだ。

 先月、王国の資料室に侵入した賊はまだ捕まっていない。手掛かりひとつつかめないままだ。小さな事件といえば小さな事件なのだが、もし、この背後にマイグランがからんでいたら……。とてつもなく大きな事件の火種になりかねない。

……こういうのを『内憂外患』っていうんだろうな……。

 ルチウスは心のうちでひとりごちた。そのとき、執務室の扉を叩く音が室内に響いた。

 「ライアンです」

 外から宰相の声が聞こえた。

 「リシュリューか、入れ」

 扉が開くと、背の高い青年が姿を見せた。若くして宰相の地位に就いたライアン・リシュリューである。先代のヘンリー・リシュリューの甥で、宰相秘書を務めていた。卓越した手腕の持ち主で、前宰相が急病で倒れたとき、事態を冷静に収めてみせた。そんな彼の宰相就任に反対する者などおらず、彼は30代の若さで宰相になったのだった。実際のところ、混迷する議会に対し、彼の采配は的確で、王国が今以上に混乱しないのは彼の力に負うところが大きい。

 リシュリューは大股でルチウスのそばに近づくと、ルチウスと同様に外の景色に目をやった。落ち着いた表情である。ルチウスは王国一の美女と讃えられた王妃譲りの美貌の持ち主だが、リシュリューも大人の落ち着きと高い知性を感じさせる美男子だ。ふたりの美形が窓辺に並び立つと、それだけで絵になった。

 「どうした?」ルチウスは眼下の景色から視線をそらさずに尋ねた。

 「これを」

 リシュリューは1枚の紙を渡した。ルチウスは紙を受け取るとすばやく目を通した。

 「四候にアンタレスが就いたとあるが、このアンタレスとは何者だ?」

 リシュリューがもたらしたのは魔国マイグランの人事の情報だ。チェンがひそかにレトに伝えたものと同じである。

 「『アンタレス』は『シリウス』と同様、彼らの神話に連なる名前です。おそらく上級のハイクラスではないかと」宰相は落ち着いた声で答えた。

 「ほかに情報はないのか?」

 「分析を進めさせていますが、判明しているのはそれぐらいです」

 ルチウスは身体ごと若き宰相に向けた。「変に隠し立てするな、リシュリュー」

 宰相もルチウスに顔を向けた。「どういう意味ですか、殿下」

 「この程度の情報でわざわざ執務室に来たりはしないだろう。お前は無駄なことが嫌いだからな。さっさと真意を話せ。ここは思っている通り誰もいない」

 宰相の口もとに小さく笑みが浮かんだ。「さすがですね、殿下」

 ルチウスは再び窓の外に顔を向けた。「世辞はいい」

 「資料室の侵入事件について、賊は名簿のほかに手を付けたものがないか調べていましたが、名簿のほかに1冊、賊が手を付けたものが判明しました」

 「それは何だ?」

 「小口の出金簿です」

 ルチウスの顔に困惑の表情が広がった。「小口の出金簿だぁ?」

 「これでございます」

 宰相は黒い表紙の帳簿を取り出して渡した。帳簿には記録された年度が書かれている。ルチウスは表紙の数字を見ると顔を上げた。

 「……おい、これは『討伐戦争』時の帳簿だな。賊は何でこんなものを……」

 「意図はわかりません。この帳簿にあるのは貼付された領収書や納品書、そして、担当者の氏名ぐらいです」

 「……リシュリュー。君はこの帳簿を調べたのか?」

 「ひととおりは」

 「では、ここにある名前にも気づいているわけだな」

 ルチウスはページのひとつを指さしながら尋ねた。宰相はゆっくりとうなずいた。

 「もちろんでございます、殿下」

 「ヘンリー・リシュリュー。君の伯父の名だ。前宰相は小口の出金も自ら手配していたのか?」

 「そうみたいですね」

 ルチウスは帳簿に視線を戻した。

 「領収書や納品書に不審な点はない。まめな性格だと思っていたが、こんな少額の案件にも自ら動いていたなんてな。思っていた以上に金銭に細かいんだな。それとも……」

 ルチウスは宰相の目を見つめた。「これに何かあるのかな?」

 「金銭的に不審な点はございません。殿下があらためたとおりでございます。仮に不正があったとして、あの伯父がこんな少額で横領を企てていたなど考えられませんね。ただ、気になるのはお金の流れではなく、使い道のほうで」

 「使い道?」

 ルチウスは再び帳簿に視線を戻した。「目立つのは習字用紙と切手の購入だな。しかし、習字用紙とは……」

 「伯父は現在、まったく口が利けない状態です」

 宰相が話し出すと、わかっているという意味でルチウスはうなずいた。前宰相のヘンリー・リシュリューは脳内出血により倒れ、それ以来、身体の自由が利かず、会話もできない状態だと聞いている。

「ですから真相を聞き出すのは不可能なのですが、ひとつの推論を立てることはできます」

 「いいだろう、聞かせてくれ」

 「宰相にかぎらず、宮中にいる者は皆、あることを厳しく管理されています。それは紙の使用数であります」

 「すまない、そんな仕組みは初耳だ」

 「殿下にはそんな制約はないので、ご存じなくて当然です。この決まりは、誰かが宮中の情報を他所に流すのを防ぐためのものです。宰相を含め、大臣、官僚は月ごとに書類用紙を支給され、何に使ったのか申告することになっています。申告した枚数と内容が一致すれば問題ないのですが、不一致の場合、その理由を明らかにしなければなりません」

 「機密文書などを書き写して、外部にもらしていないか確認するためだな。機密文書流出の、さらにいえば、その事前防止策というわけだ。さらに、密書のやりとりを防ぐこともできる」

 宰相はうなずいた。「そのとおりでございます」

 「だが、前宰相はひそかに紙を手に入れていた。個人で手に入れた紙など、当然、国側は把握していなかったんだよな?」

 宰相はうなずいた。「まことにおっしゃるとおりでございます」

 ルチウスは帳簿を閉じると宰相の胸に押し付けた。「いいのか、君は?」

 「何がです?」

 「これは身内の不正を告発する証拠だ。前宰相はどこかへ密書を頻繁に送っていたことを示唆している。疑いたくはないが、前宰相が国益を損ねる情報を流していたと受け取れるんだぞ」

 「そうでしょうか?」

 宰相は落ち着いた態度を崩さない。

 「あの伯父のことですから密書を頻繁に送っていたのは間違いないでしょう。ですが、もし、国を裏切るつもりなら、こんな証拠を残すようなヘマをあの伯父がしたでしょうか? 伯父が油断ならない性格だったのは殿下もご存じのはず。むしろ、国益を守ることではあるが、公けにできない裏工作の指示などにこうしたことをしていたのではないかと推察しています。たとえば敵に誤った情報を流す、といったこととか。いかがでしょうか、殿下?」

 「つじつまは合うな」ルチウスはうなずいた。前宰相のヘンリーは腹の底が読めないと評判の策士だった。彼ならやりかねない、というより、それが真相だろう。

 「ただ、伯父が隠れて何かしていたのは事実です。賊は伯父の醜聞スキャンダルを探していたのかもしれませんね。ただ、この帳簿が示す事実に気づかず、これを持ち去らなかったのだと思われます」

 「そうだとすると、賊の正体は伯父と連なる君の失脚を狙う者……、たとえば貴族連合あたりの者、ということか?」

 「その可能性がある、ということです」

 ルチウスは首を振った。「やれやれだ。俺はとんだ勘違いをしていたのかもしれない」

 これがこの事件の真相だとすれば、ダーク・クロウとはつながっていないだろう。ダーク・クロウはお宝を狙う盗賊なのだから。ヒルディーが知ったら嫌味でもいわれそうだな。

 「何を勘違いしたと?」

 ルチウスは手を振った。「いいんだ。こっちのことだ」

 「今後、このことで何か動きがあったとしても……」

 「わかっている。もう惑わされたりしない」

 ルチウスは面倒くさそうに手をひらひらと振る。それを見て、宰相は静かに頭を下げると執務室から出ていった。

 残されたルチウスは眼下の景色に視線を戻した。しかし、これまでとは違い、その表情は苦々しいものだった。

 「貴族連合め……」

 ルチウスの口から思わず声がこぼれた。


 宰相は廊下を歩いていた。手にはあの帳簿がある。宰相は感情のない目で帳簿を持ち上げた。

……これで殿下も余計な行動はされないでしょう。資料室の一件で、あの探偵事務所にこれ以上首を突っ込まれても面倒ですからね……。

 賊が資料室で探っていたのはあの名簿だけだった。だが、この帳簿も「混ぜる」ことでルチウスの考えを違う方向に誘導することができた。伯父の行動は事実だが、その事実を明らかにしたところでこちらに何の悪影響もない。実際、そのような結果になった。だが……。

……ダーク・クロウ……。こんな面倒ごとをさせた報い、いずれきっちりと受けてもらいます……。

 宰相の帳簿を握る手に力がこもった。その表情はこれまでの冷静さと違い、苦々しさがありありと浮かんだものだった。


20


――事件の発生までおよそ10時間――


 夕暮れが迫っている。

 空は燃えるような色を雲に映し、時とともにその色を濃くしていく。

 メルルはふと窓の外に目をやり、その光景にしばらく見とれていた。自分の仕事も忘れ、時間もそのまま置き去りにしているかのように。

 この日は、メルルたちとって地味だが忙しい一日だった。彼女たちは博物館の周囲を調べ、何者かの侵入痕がないか、あるいはその工作の跡が残っていないか確認した。結果、なにも見つからなかったが、安心できる話ではない。そのまま見回りを続けるなど、気を張ったまま過ごすことになったのだ。

 夕刻に至ってメルルの集中力が途切れたとしても、誰が責められるというのだろう。事実、メルルを探していたコーデリアは、メルルの様子を見ると無言できびすを返したのだった。

 「メルルさん」

 背後からの声にメルルは我に返った。慌てて振り返るとアリスが立っていた。彼女の眼鏡が外の景色を反射して光っているせいで表情がよくわからない。しかし、声の調子で穏やかな様子なのはわかった。

 「アリスさん……。あ、すみません。私、ボーとしちゃって……」

 「いいえ。メルルさんもコーデリアさんも、こんな博物館のために一生懸命動いてくださって、本当に感謝しています。私たち、こういう危機管理的なことって、これまでまったくしてこなかったので、まるで勝手がわからないんです。ですから、おふたりにすべてお任せするしかなくて心苦しいです」

 アリスは申し訳なさそうに頭を下げる。メルルはぶるぶると両手を振った。

 「と、と、とんでもないです、アリスさん。こちらこそいきなり押しかけて、不安をあおるような話を持ってきて申し訳ないです。大した事件にもならない『もしも』の話なのに」

 アリスは少し首をかしげると、口元ににこっと笑みを浮かべた。

 「その『もしも』で、ここまでしてくださっているから感謝しているんですよ」

 メルルは顔を赤らめて頭をかいた。自分の仕事でここまで感謝されたことがなかったので、完全に照れてしまっているのだ。レトから「探偵は感謝される仕事じゃない」といわれてきたせいもある。意外なのだ。

 「ところでアリスさん。ここへは何の用事で?」

 メルルがいるのは2階の廊下の突き当りだ。このあたりはメルルたちが泊っている客室のほかには清掃道具をしまう簡素な物置しかない。

 「メルルさんを探しに来たのです。夕食の準備をしましたので、そのお知らせに」

 アリスの答えに、メルルはますます恐縮した。

 「そんな……、わざわざすみません」

 「いいんです。夕食はたいてい父とふたりで。ときどきはレイラさんも一緒ですけど、みなさんと囲む夕食はもっと華やかになってうれしいですから」

 そういってもらえると助かる。メルルもうれしくなって、大きくお辞儀をした。

 「ありがとうございます」

 「では行きましょう」

 アリスはくるりと向きを変えると先に立って歩きだす。メルルも遅れまいと後を追った。

 1階の左翼側に入ると、その奥が食堂だ。そこへ入るやアリスが立ち止まった。メルルも慌てて立ち止まると、アリスはメルルに振り返った。戸惑うメルルに、アリスは穏やかな笑みを浮かべたまま壁にひとさし指を向ける。

 「メルルさん、これ」

 アリスが指さすほうへ視線を向けると、壁にはフックが取り付けられ、銀色に光るものがぶら下がっていた。それはメルルが館の外で見つけたロケットだった。

 「ああ、これ……」

 「私ったら、こんなに大事なものを簡単に失くしてしまうから、いっそ身に着けないで飾っておこうと思ったんです。それにこうしておけば、父も母を思い出すことができるだろうと気づいたので」

 ロケットにはアリスの母の肖像画がはめ込まれている。つまり、サマセットの妻でもある。

 「父は母を喪ったことで何か口にするわけではありません。でも、やはり寂しいはずなんです。父はあえて母を思い出すものを残さなかったけど、ひょっとしたら後悔しているかもしれません。このロケットをここにかけておけば、父も気軽に母を思い出すことができるでしょう?」

 いい考えだと思った。男というものは相当に強情っぱりだが、一方でけっこう弱いところもある。たとえば、メルルの父親がそうだ。サマセットもアリスの目がないときに、そっとロケットを開いて妻のことを偲ぶことがあるかもしれない。いや、むしろ、そうあってくれればと思う。

 「そうですね。これはここにかけておくのがいいと思います」

 ふたりはにっこりと微笑みあうと、再び食堂へ向かった。


 メルルたちはこの日の夕食も招待された。今夜もレイラと食卓を囲んでにぎやかな晩餐にしたいとのことだ。世話になりっぱなしではあるが、メルルにとって楽しいひとときとなった。

 メルルはアリスとすっかり打ち解けて、食事中にもかかわらず会話を弾ませていた。かなりかしましい様子だったろうが、サマセットがそれを気にするそぶりは見せなかった。むしろ、サマセットでさえ陽気な調子で会話に交ざるほどだ。レイラは口数が少なく、あまり会話に入ることはなかったが、それでもはた目に楽しげな様子で食事を続けていた。コーデリアだけがひとり、黙々と食事をしていたぐらいである。もっとも、彼女は機嫌のよいときでさえ無口で無表情なので、どんな気持ちでいるのかわからない。不機嫌なときは辛辣な言葉をはさむことがあるので、それが機嫌をはかる目安になるのだが、このときはまるで無口だったのだ。

 「いやぁ、今夜は久しぶりに楽しい食事だった。こんなに長い時間、おしゃべりしながら食事をしたのは久しぶりだ」

 ナプキンで口を拭いながら、サマセットはしみじみと感想を口にした。それを聞いてメルルは恐縮したように縮こまる。

 「す、すみません。すっかりはしゃいじゃって……」

 「いいんだよ、メルルさん。君の話は実に楽しい。すっかり時間を忘れたぐらいだ。普段は実に静かというか、暗い食事だったよ。それが当たり前だと思っていた。でも、君のおかげで食事はこうしてとるものだと思い出させてもらえたよ」

 サマセットの言葉に、メルルはますます恐縮する。さすがに褒めすぎだ。

 「そんな……。こっちは押しかけて来た側ですから、こんなに歓待されて恐縮です、ほんと」そういいながらメルルが手を振ると、サマセットの顔が真顔に戻った。

 「そうでしたな、メルルさん。実際のところ、どうなのです? やはり、何者かが魔法の杖を狙っているのですか?」

 サマセットの言葉に、場の空気が一変するのをメルルは感じた。さきほどまで朗らかだったアリスやレイラさえも真顔になってメルルの顔を見つめているのだ。やぶ蛇だった……。メルルが後悔交じりの視線をコーデリアに向けると、彼女は素知らぬ顔でティーカップに口をつけている。助け舟を出してくれるつもりはなさそうだ。

 「……実のところ、確信は持っていません。ただ、怪しい痕跡はいくつか見つけています。それがダーク・クロウによるものなのか断定はできませんが……」

 メルルの答えに、サマセットが失望した様子は見せなかった。ただ、小さくため息をつくと、口元に苦笑いを浮かべた。

 「まぁ、怪盗に狙われていなくても、あの杖を狙う者がほかにおりますからな。疑い始めたら何もかもが胡乱うろんに見えてしまいますね」

 メルルは力なくうなだれた。サマセットが理解ある態度だったので、かえって申し訳ない気持ちがつのってしまったのだ。

 「明日になれば、警備体制を改めるか判断できる」

 うなだれたメルルの耳に、コーデリアの声が聞こえた。顔を上げると、コーデリアは飲み干したカップをテーブルに戻したところだった。

 「警備体制……、判断……。何です?」メルルは少し戸惑った声をあげた。

 「明日になれば、杖がマーリンの手によるものか鑑定される。もし、マーリンの物でなかったら、誰もあの杖をほしがらない。たぶん、あのペンドルトンって貴族のひとも」

 コーデリアの説明は正しいように思える。しかし……。メルルは首をかしげた。

 「ペンドルトンさんはやっぱりほしいというんじゃないでしょうか。ペンドルトンさんは杖を手放した過去を後悔していたわけだし」

 「あれが本当の家宝であれば、何としても買い戻したいかも。でも、違うとなったら? 来歴不明な物に、お金を出してまで取り戻したいと思う?」

 ふいに、メルルはダドリーの馬車を思い出した。30年過ぎてもなお使い続けている小さな古い馬車。愛着があって使い続けているだけかもしれないが、ダドリーの経済状況はそれほど豊かでないように思える。かつての繁栄を取り戻しているのであれば、馭者が運転する豪華な馬車に乗ってきただろう。弟のジャックも乗合の馬車だった。ふたりとも貴族であるにもかかわらず、だいぶ庶民じみている。着ている服も贅沢さは感じられなかった。見栄を張ることなく倹約に努めているのがうかがえられる。そんなダドリーが無価値の品を買い戻したがるだろうか? メルルはわからなくなった。

 「コーデリアさんのいうとおりかもしれませんが……」煮え切らない言葉しか出てこない。

 「いいかえれば、あれがマーリンの手によるものだと確定すると、狙われる危険がかなり高まってくる、ということなんですね」

 レイラは少しうつむき気味でつぶやいた。そうだ。問題は、もし、あれが本物と確定した場合だ。今のようなあいまいな警戒態勢では、とても杖を守ることなどできない。しかるべきところに要請を出して、この博物館を守らなければならない。事態としては、そっちの場合が深刻だ。

 「まぁまぁ、レイラ君。今は『もしも』の話で気をもんでも仕方がない。何にしても、すべては明日になればはっきりする」

 サマセットは穏やかな口調でこの話題を打ち切った。

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