シロツメクサ
今日もよろしくお願いします!
心臓が勝手に反応してしまう。
聞き慣れた声、懐かしい口調。
ゆっくりと扉が開かれていく。
彼は――ギルディオ・レディラムは、あの頃のままだった。
少し癖のある黒髪に、精悍な顔立ちの中でもひときわ目を惹く澄んだ碧眼。
尖った耳もふっさりとした黒い尾も全く変わらない。国王らしいゆったりとした装束だけは見慣れないものの、褐色の肌にしっくりと馴染んでいる印象だった。
カトレアは最上級の礼をとった。
「このたびはお目にかかることができ光栄です、陛下。カトレア・セフィルスと申します」
ここに至るまで、様々な復讐計画を考えていた。
相手の身分があるため、下手なことをすれば物理的に首が飛ぶ。狡猾で、簡単には罪に問えない手段を用いなければならない。
まずは直接的なものではなく、罪に問えないほど婉曲な皮肉や嫌がらせを。
そうして頭の中で思い描いていた作戦が、顔を上げた瞬間に消し飛んでしまった。
国王ギルディオの見開いた瞳から、一筋の涙が流れ落ちたからだ。
そこからは堰を切ったようだった。流れる涙は止めどなく彼の顔を濡らし、昂ぶる感情に唇は震えている。そしてついには耐えきれなくなったのか、ぐしゃりと膝から崩れ落ちた。
一連の流れを、カトレアは呆然と眺めているしかなかった。
まさに想定外。
前世で家族を殺した相手が、絨毯にすがり付いて苦しそうに嗚咽をこぼしている。
それもカトレアの目の前で泣いているので、傍から見ればこちらが加害者として映るだろう。
復讐を遂げるつもりで来たものの、誓ってまだ何もしていない。
王女カトレアと寸分違わぬ顔のせいで罪悪感に駆られているのだろうか。だとしたらいい気味だと思いながらも、心の片隅では動揺している。
誰かこの状況をどうにかしてほしい。
「うぐぅ、カトレア様……カトレア様。本当に、本物のっ、カトレア様だ……」
「え……あの……」
彼はよろよろ体を起こすと、カトレアの前で騎士の礼をとった。
「あぁ、俺は本当にどうしようもない……。あなたに……会うわけにはいかないと思っておりました。近付くことすら許されないと……それなのに、この心はこんなにも湧き立っている……」
大きな体躯を丸め、ギルディオが手を伸ばす。
カトレアの頬に触れそうになったところで、彼は我に返った様子で体ごと引いた。
そういえば、王女と騎士という関係だった頃、どれほど親しげに接していても、ギルディオがカトレアに触れることは決してなかった。
生真面目なリューリですら時々頭を撫でてくれたので、いつも不思議に思っていたのだ。
もう王女でも騎士でもないのに……浮かびかけた感情を、見ないふりをする。
復讐を誓ったのだ、認めるわけにはいかない。
王女と騎士ではなくなっても、国王と子爵家の養女。しかも養護院に捨てられていた子ども。生まれ変わったところで二人の線が交わることなどなかった。
「あなたにまた会えるなんて、夢のようだ……」
ギルディオが泣き濡れた顔のまま、笑みを浮かべる。切なげで、無理のある笑み。
……昔の彼は太陽のように笑っていたのに。
歳月が変えたのはリューリだけではないらしい。
王女だった頃、カトレアは彼らを太陽と月のようだと思っていた。
精悍な容貌ながら明るい笑顔で誰をも分け隔てなく照らすギルディオと、静謐な美貌で一見近寄りがたくも情に厚いリューリと。
それなのに今の彼らは、どちらもどこか歪だ。
違和感を覚えつつも、カトレアは気持ちを切り替えるために深呼吸をした。
前世の記憶があることに気付かれては、復讐を果たす前から警戒されてしまう。
カトレアは素知らぬ顔で口を開いた。
「……私は、どなたかに似ていますか?」
問いかけに、なぜかギルディオは衝撃を受けたかのように動かなくなってしまった。
落ち着きかけていた涙が再び噴き出し、胸を押さえてうずくまる。
「あぁ、カトレア様が……カトレア様が俺ごときに敬語を使うなんて、そんなこと絶対に許されない……」
涙が血の色に変わりそうな形相で、彼はカトレアを凝視していた。一切距離を詰めることなく、瞬きさえもせず。
カトレアは恐ろしさに硬直した。
視線に宿る熱量に萎縮してしまうのは、猫獣人としての本能だった。このままでは黒い狼に食べられてしまいそうだ。
すっかり青ざめていたカトレアを守るように立ちはだかったのは、養父の背中だった。
「――陛下、心していただきたい。彼女はカトレア・セフィルス。私の大切な娘です」
リューリの声音は、国王に向けるものとは到底思えないほど冷え切っている。
ギルディオの尻尾が即座に縮み上がった。
「わ、悪い。ちょっと錯乱した」
「おや、喋り方がなっておりませんね。国王として接することができないのなら、我々は暇を……」
「――すまぬ! これよりは気を付ける、絶対に気を付けるから!」
国王と宰相という立場になっても、彼らの力関係は変わっていないらしい。
ふっと気が抜け、カトレアは息を吐いた。
気の置けないやり取りはいつもすぐ側にあったものだ。それが懐かしくもあり、苦しい。
カトレアは無意識の内に、ドレスの胸元を握り締めていた。子どもに戻ったせいなのか、感情が上手く制御できない。
冷静であろうと努めて部屋の中を観察していたカトレアは――それを見つけてしまった。
ギルディオの私的な空間は、本棚と書机、応接用のテーブルのみと無駄な装飾がない。ポツリと室内を彩っているのは、ただ一つ、小さな白い花が寄り集まった鉢植えのみ。
それは、可憐なシロツメクサの花だった。