向き合う
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誰かの涙だろうか、いつの間にか天候は悪化し、暗闇をなぎ払うような暴風雨が王都を襲っていた。
城壁に打ち付ける雨の音が騒がしく、遠くでは雷鳴も聞こえている。
リリアンネの暴挙によって夜会は即座に中止となったが、事態の収拾が終わる頃、時刻は既に深夜を回っていた。
国王から役職のない文官まで駆けずり回った結果、とりあえず今だけは睡眠時間という名の休憩が与えられている状況。
もちろん、何の肩書きもない上まだ幼いカトレアがすることなど、本来ないはずなのだが。
「あの……眠いのですが」
七歳の体は当たり前に休息を欲していて、目蓋が重い。いつ睡魔に屈してもおかしくない状態だというのに、なぜまだ王城にいるのか。
それは、泣きべそをかく皇帝と宰相が、しがみついて離してくれないからだ。
「がどれあざば……じ、じんで、じまうがど……」
「ううぅぅぅ……がどれあざま……いい香り……肌の匂いも髪の匂いも何と芳しいことか……」
「陛下は何を言っているのか全く分かりませんし、お父様はこの状況に便乗しているだけのような気がしてなりませんし」
まさか大の大人に泣き付かれるとは思わず、カトレアは途方に暮れている。長椅子で両側から挟まれているから動こうにも動けない。
実は嘘泣きだろうリューリに思うところがないわけではないが、心配させたのも事実なので今回だけは大目にみることにしていた。
カトレアは暇を持て余し、窓の外にぽつりと灯る哨戒の炎をぼんやりと眺める。
騒ぎがあったから今夜は警戒を高めているだろうが、大雨のせいで明かり自体が少なかった。
空に稲妻が走り、雷鳴を轟かせる。
反射的に身をすくませたカトレアに気付いたギルディオが、のそりと身を起こした。
「空は……寝かす気がないのかもしれませんね」
涙を拭きながらうそぶいたあと、彼は暗闇の中でそっと笑った。
「……怖いですか?」
見透かされ、すぐには返事ができなかった。
事実、怖いのだ。
横殴りの雨。心臓に響く激しい雷鳴。
雷は嫌いだ。革命が起きた日を――家族が死に、裏切りに傷付いて自ら命を絶った日のことを、嫌でも思い出してしまう。
カトレアの震える指先を、大きな手が握った。
けれど力強いその手も、かすかに震えている。
ギルディオがまた笑った。
「実は、俺もです。……もう、失いたくない」
カトレア・セフィルスが雷を怖がる理由を、彼は知っている。カトレア・セフィルスではない誰かと重ね合わせて、喪失の痛みを味わっている。
カトレアは小さく息を吐いた。
もうこれ以上、逃げることはできない。
「――やはり、気付いていたのですね」
長椅子の反対側に腰かけていたリューリが身じろいだので、カトレアはまず彼に問いかけてみる。
「リューリ。あなたははじめから、私に前世の記憶があると?」
裏切りに遭った記憶が、今世でのカトレアを荒ませていた。
慰安のためたまたま養護院に訪れていたをリューリと初めて会った時も、ひどい態度だったはずだ。ボサボサの髪の隙間から彼を睨み、罵倒をぶつけないまいと唇を噛み締めるので精いっぱいだった。
無愛想で、嫌な目付きの子ども。
貧しくとも健やかに過ごしていた養護院の仲間に比べれば、可愛げなどないも同然だった。それなのに彼は、カトレアの前に膝をついて微笑んだのだ。
『私と……来てくださいますか?』
王女だった頃と変わらない口調で語りかけるから、当初はひどく驚いたものだ。今では彼の変態行為と共に、すっかり慣れてしまった。
珍しく返答を躊躇う養父が、やがて口を開いた。
「はじめはただ……償いのつもりでした。独りよがりな懺悔に近い。ですが……すぐにあなただと、分かりましたよ」
リューリの手が、そっと頬に触れる。
「話し方も、ふとした仕草も、優しい心根も全て――生涯忘れ得ぬ方、そのものでしたから」
眼鏡の奥で、琥珀色の瞳が切なげに細められる。
獣人の性能は、時として厄介だ。
どれほど暗くても、養父の慈愛に満ちた眼差しに気付いてしまうのだから。
「……ならば、ギルディオもリューリから聞かされ、私のことを知っていたのね」
反対側を振り返れば、ギルディオの尖った耳がしょんぼりと垂れ下がった。
「……リューリからあなたのことを聞かされた時、本当は会わないつもりでいました。今の俺は、あなたの信頼を裏切って玉座に君臨している。合わせる顔なんてなかった」
慣れない環境に馴染もうと奮闘していると聞かされ、一年目は満足していた。
次第にリューリの話はただののろ気になっていき、それに耐える二年目。
今日は朝食を共にした、エントランスで出迎えてくれるようになった。一生懸命勉強をしていて、新しい知識を得る時は瞳がきらきらと輝いている。
甘いものが好きなところは変わっておらず、こっそり幸せそうに噛み締める様が可愛い。
可愛い可愛い可愛い。リューリののろ気話は時をかけて過熱していく――。
「正直、耐えがたかった。俺は欲深い男です……」
「ちょっと待ってください。その話を今聞かされている、私の方が耐えがたいのですが」
非難を籠めて養父を睨めば、彼は罪悪感など欠片もなさそうな笑顔を返してきた。この人はもう本当に何もかもが駄目だ。
ギルディオは、深刻そうなため息を腹の底から吐き出した。
「ただ一目、あなたの元気なお姿を見られればよかった。最初で最後でいい、この目にしかと焼き付ければ、それで十分だと……なのに、歯止めが利かなくなった」
そうして初めて面会をしたのが、リューリに話を聞いてから三年後。彼に引き取られたカトレアが、七歳になった頃だった。
けれど目が合えば、言葉を交わせば、一度では足りなくなってくる。
国王の前だからと取り澄ました顔ではなく、できることなら笑顔が見たい。色々なカトレアを、誰よりも近くで。
「……許されるはずがない。あなたの家族は、俺が殺したようなものだ。裏切り者だ。民のため、レディラム王国をより豊かにすることだけが俺にできる償いだった。あなたのあとを追えないことが――俺に与えられた罰なのだと」
ぽたぽた、ぽたぽた。
とめどない涙が布張りの長椅子に吸い込まれる。
あの日、またたびで朦朧としていた夜のことを思い出す。枕元で泣きじゃくるギルディオと、握らされた短剣の重み。
きっと彼はあの時も、苦しんで泣いていたのだ。
裏切りの重さと、革命を主導した責任や使命感との板挟みで。
「……あなたの忠義は、十分理解していたわ」
カトレアは、できる限りの優しい声を意識した。
そっと手を取ると、ギルディオの肩が揺れる。




