幸せになれるはずがない
いつもありがとうございます!
ファナがテーブルに置いたのは、紅茶ではなくホットミルク。
湯気と共にふわりと甘い香りが漂い、知らず緊張していた全身から力が抜けた。
「最近、疲れた顔をしていらっしゃいますね」
飲み頃の温度のミルクに口を付けていると、彼女の指先が目元をなぞった。
最近はよく眠れなくなっているから、くまでもできているのかもしれない。鏡を確認することさえ億劫で気付かなかった。
珈琲の一件以来、邸内でのカトレアを取り巻く空気は、以前にも増して冷え込んでいる。無言で責め続けられる状況は針のむしろで、城でも屋敷でも気の休まる時がなかった。
ルピナの小言だけは厄介だけれど、この森小屋が唯一の避難場所だった。
ファナはそういった事情も見抜いた上で、ホットミルクを作ってくれたのだろう。
「お嬢様は城内でのことをあまり話してくださいませんが……何か苦労をなさっていることくらい、一緒にいれば分かるのですよ」
ファナは視線を合わせるために膝をつき、微笑んだ。母親が聞き分けのない子どもをあやすように、優しい声音を紡いでいく。
「我慢強く、弱音を吐かないお嬢様を、私は尊敬しております。ですが――どうか、ご自分を大切になさってください。我々家族は、いつだってお嬢様を思っておりますから」
彼女の手が、カトレアの手を包み込んだ。
じんわりと伝わる温度は心地よく、握り返してよいものかと迷う。
自身を顧みていないように見えるのは当然だ。
先ほどのファナの質問に答えるとしたら、『はじめから幸せになろうと思っていない』としか返せないのだから。
ずっと復讐のことだけを考えて生きてきたから、その先に何があるのか問われても分からない。
復讐だけが全て。それ以外何も必要ない。
だって、そう言い聞かせ続けないと、見ないふりをしていた感情に気付いてしまう。心がくじけてしまう。
甘えるわけにはいかないのに。
カトレアとファナをハラハラしながら見守っているルピナといい、この家の人達はなぜこんなにも温かいのだろう。愛想もなく、彼らが敬愛する養父への復讐を企てている、嫌な子どもだろうに。
「……ありがとう、ファナ」
彼女の言うことに素直に頷けないのだから、笑みを作り、ありきたりな感謝の言葉を告げるくらいしか、カトレアに返せるものはなかった。
しんみりとした空気を壊すためにルピナへと視線を向ける。
「それと一応、ルピナもありがとう」
「い、一応は余計ですー! いつお嬢様が大罪を犯し処刑されてしまうかと、こんなにも憂いているのは私ぐらいのものなんですからね!」
彼女の明るさにカトレアが救われている一方、ファナは単純明快すぎる娘の先行きが幾分か不安になったようだ。
「ルピナったら……。申し訳ございませんね、カトレア様。思い込みの激しいうちの子が、いつもご迷惑をおかけいたします」
「ちょっと待って、お母さん! 傍迷惑なのはお嬢様の方でしょ!?」
「あら、ルピナ。主家の者に対してずいぶんな口の利き方ね」
「お嬢様が都合のいい時だけ主人面するー!」
軽口を叩き合っていると、本当に気分が上向いていくから不思議だ。
カトレアがようやく少し笑顔になったところで、突然無粋なすすり泣きが割り込んでくる。
どうせ常に気持ちの悪いリューリに決まっていると半眼で振り返れば、なぜか彼女達の父親グルまでもが、物陰から顔を出して泣いていた。
体格のいい男性が並んで小さくなり滂沱と涙を流しているのだから、はっきり言って異様な光景だ。
「可愛い……うちの子達が地上で一番可愛い……」
「カトレア様はあなたの子ではありませんよ、グル」
「ご主人様には、あの家族の温かな絆が見えませんか……?」
「黙りなさい。カトレア様は私の可愛い娘です」
当主の登場に動揺するルピナとファナは、無礼な発言を連発するグルのせいで『おかえりなさい』も忘れて青ざめている。
カトレアは、萎縮しきった親子を守るよう、ずいと進み出た。
「お父様、ルピナ達の嫌がる顔が見えませんか? 当主が使用人の家を訪ねるなんて非常識ですし、迷惑です。さっさとお帰りください」
「あぁ、カトレア様がご自身の立場を棚上げに私を見下している……胸がいっぱいです……」
そこは胸が痛いでなくていいのか。リューリを連れて帰って来たグルは、自分に向けられた糾弾でもないのに真っ当に傷付いているが。
「お父様、なぜこちらに来たのです?」
「お宅訪問に決まっています。あなたが入り浸る家がどれほど居心地よいものか偵察し、本邸に反映させるつもりですから」
呆れて黙り込むと、彼はさらに滔々と語る。
「あなたがこの森小屋に閉じ籠もってばかりいるから、いつも苦悩しておりました。私の側にありながら、カトレア様は居心地の悪い思いをされている」
森小屋の住環境を反映させたところで、カトレアを取り巻く状況が改善するわけではない。
それくらい彼も承知しているだろうに、無駄な努力をしたがるものだ。
「仕事帰りのお父様は、思考力が低下しているせいか輪をかけて気持ちが悪いですね」
皮肉を言えば、傍で聞いていたルピナ達の方が震え上がった。大して衝撃を受けていないリューリ本人よりも辛そうなので、彼女達のためにも今日のところは引き下がった方がよさそうだ。
悔しさを堪えるカトレアの前に、グルが一抱えほどの麻袋を置いた。そのまま紐を解くと、何とも言えない香ばしい匂いが漂ってくる。
なるほど。こちらが本題だったようだ。
「今朝、ようやく届きましたよ」
リューリが袋から摘まみ出したのは、暗褐色の豆の粒。珈琲の原料となるものだ。
「思っていたより、かかりましたね」
「アイルガーデン王国の王女殿下が愛飲しているもの、と指定がありましたから。まずは王女殿下の周辺から聞き込みをはじめねばならなかったとか」
彼は手の中で弄んでいた珈琲豆に歯を立てた。カリ、と軽い音を立てた豆から、さらに強く芳醇な香りが立ち上る。
口内に広がる苦みを思い出し、カトレアは自然と渋面を作った。
「私にはまだ苦くて飲めませんので、いりません」
「ちょっ、お嬢様!?」
ルピナがぎょっとして叫ぶ。
「待ってくださいよ! お嬢様が気に入ったから取り寄せたんだって聞いてますけど!?」
思わず口を挟まずにいられなかった娘にファナの顔色は悪くなる一方だけれど、カトレアはあえて気にしない素振りで答えた。
「珈琲の入手経路が分かれば十分ですから」
「お嬢様、その一袋でいくらするのかちゃんと分かってます!? その発言を聞いたら、ますます使用人達から嫌われますって!」
「もちろん無駄にする気はありません。お父様なら飲めるでしょうし」
視線を送れば、リューリは頬を上気させた。
「カトレア様が初めてのおねだりを……あぁ、世界が薔薇色に見える……父親になってよかった……」
「お願いではなく、利用されているだけでは……」
控えめに指摘するルピナの口を、ファナは青ざめたままの笑顔で塞いだ。
そのまま、抵抗する娘をグルと協力して奥へと引きずっていったので、手狭な森小屋のリビングにはカトレアとリューリしかいなくなってしまった。




