在りし日の夢
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カトレアは、在りし日の夢を見ていた。
見下ろす自らの腕は枯れ枝のように細い。ほとんど日光を浴びたことがないと分かる、怖いほど透明な肌。――王女だった前世の夢だ。
真っ白い清潔なシーツと、ベッドの天蓋を飾る華やかな彫刻。手の届く範囲に置かれた絵本や愛らしいぬいぐるみ。
それらは世間を知ることすら望めなかった王女の心を慰めるためのものだが、実際は見るたび虚しい気持ちにさせられていた。
この狭い世界でしか生きられない、先のない王女に贈られた、真綿のような優しさ。
何かを学ぶことも、厳しいしつけも、必要ないからこそ幼子の頃のまま少しも変わらない、柔らかな牢獄じみた部屋。
血を吐きながら、高熱にうなされながら、何度虚弱な体を呪ったことか。
苦しい、痛い。体が熱い。
伸ばした手の先に、それを握り返してくれる人はいなかった。
両親や兄姉でさえも次第に足が遠のいていった。だるい体を抱え、いつだって一人ぼっちだった。誰にも気づかれないまま死ぬことを恐れていた。
そんな世界が、ある日劇的に変化した。
王女が療養する塔の警備を任された騎士が、その青年が連れてきた文官が、世界を鮮やかに塗り変えてくれたのだ。
それまでも時折話し相手をしてくれていた騎士は、咳き込む王女の許へ駆け付けたのをきっかけに、さらに親しくなった。
彼は、小さな白い花を摘んでは王女に届けてくれるようになった。その際の土産話である騎士団での厳しい訓練や、変わった同僚のこと。何もかもが新鮮だった。
文官は、騎士の青年に比べると素っ気ない印象を受けた。
闊達な騎士と、冷たく見える口数の少ない文官。
はじめは対照的な二人が親しくしていることを不思議に思っていたが、回を重ねる内に王女は理解した。どちらも、どこまでも愛情深いのだ。
見舞いにと文官が持ってきた絵本とぬいぐるみ。
きちんと笑顔で受け取ったつもりだったのに、次に彼が持って来たのは地形図だった。王女が今まで一度として見たことのない、広い世界。
文官は、王女が心の奥に秘めていた願望を見つけ出してくれたのだ。
優しい、優しい人達が、彩りを教えてくれた。
何より彼らがいるだけで、寒々しいばかりだった居室は明るく騒がしくなった。
けれど楽しい時には、いつだって終わりが来る。
『また、会いに来て』
ベッドを抜け出すことのできない王女の口癖。
必ず、と笑って頷いてくれる人ばかりだったけれど、この約束がどれほど適当なものか、王女自身よく分かっていた。肉親でさえそうだったのだから。
会いに来る回数がだんだんと減っていったとしても、責められない。
だって王女は、自分から会いに行くことができない。相手の厚意にすがるしかない。
仕方ない。寂しいけれど、王女だけに構っていることなど誰にもできない。
仕方ない。仕方ない。仕方ない。心に澱のように溜まっていく諦め――。
『カトレア様の顔を見るだけで、俺は何より元気をもらえるんですよ。無理して笑ってなくても、泣いてても怒ってても、カトレア様じゃないですか』
太陽のような笑顔と、目映い言葉。
『王女殿下――カトレア様。どうか、私達に願ってください。あなたはもっと大人を頼っていいし、我が儘を言って振り回してもいいのです』
怜悧な容貌が嘘のような、温かい思慮深さ。
彼らだけだった。
約束を決して違えることなく、王女の願いを叶え続けてくれたのは。
楽しい時間は終わってもまたやって来るのだと、信じさせてくれたのは――。
◇ ◆ ◇
ぽっかり目を覚ますと、なぜか眼前には、リューリの無駄に整った顔があった。
眼鏡の奥、酷薄そうにも見える切れ長の瞳が柔らかく細められているのも、あの頃と寸分変わらない。
今がいつなのか、にわかに分からなくなる。
「リューリ……」
頬に触れる感触にうっとりとすり寄る。
すると、激しい震動が伝わって来た。
次第に覚醒してきた頭で状況を分析し、恐る恐る顔を上げる。そこには、真っ赤な顔で全身を震わす養父の姿があった。
「尊い……寝ぼけているカトレア様……寝顔はもちろん寝息も寝言さえも愛らしいが、やはり潤んだ瑠璃色の瞳が私を映す瞬間は格別……」
生まれ変わった今のカトレアは、七歳の幼女だ。いたって健康で、やせ細った体に恐怖と孤独を抱えていた王女ではない。
一方リューリも転生したわけでも、誰かと人格が入れ替わったわけでもない。
それなのになぜ、彼はここまでの変態に仕上がっているのだろう。
眠っている養女の私室に忍び込み、寝顔を恍惚と眺めるような青年ではなかったはずなのに。七年という歳月で彼は手の施しようがないほどに変わってしまった。
距離をとるため素早く身を起こすと、肩を何かが滑り落ちていく。白いチーフだ。
カトレアはその時になってようやく、自分が泣いていたことに気付いた。リューリは、このチーフで涙を拭いていただけらしい。
夢心地で、頬を拭ってくれた丁寧な手付きを思い出し、ばつが悪くなった。
普段の素行に変態的な言動が目立つからといって、疑ってかかるのはよくない。実際にどれほど気持ちが悪くても、彼が優しさを欠いたことなどただの一度もないのだ。
謝罪のために口を開いたカトレアだったが、リューリの方がほんの少し早かった。
「はぁはぁ。カトレア様の可愛らしい唇からこぼれた吐息を私が肺いっぱいに吸い、私が吐いた息を再びカトレア様が吸い込む……この世の全ては素晴らしき循環で成り立っている……」
「本当にゾッとするほど気持ちが悪いです、お父様。最近より磨きがかかっているように感じます」
やはり彼は、朝から疑いようもなく変態だった。
よく考えなくても、寝ている隙に忍び込むなど、養父とはいえ問題行動だ。
「おはようございます、お父様。早朝からこれほどまでに人を不快にさせることができるというのも、一種の才能ですね」
「朝からひどい! そして何という冷たい眼差し! しかしそこがまたいい!」
怒っても嫌っても好意的に解釈されてしまうのだったら、もう放置するしかない。
カトレアはベッドの上で悶える養父を置き去りに、扉へと手をかけた。
「騒がないでください、お父様。二百五十三歳にもなって七歳の子どもを目の敵にしている家令に、これ以上嫌われたくありませんので」
「――おはようございます、お嬢様。大人げのないデモントにございます」
「あ」
もちろんカトレアのみが怒られたのは言うまでもないが、これに関しては自業自得と不満を呑み込むしかなかった。




