愛の物語
何でもない、本当に只の
「日常」のはずだった。
食い潰され、消耗されていくだけの
何ら変わらない、人生の一ページどころか
一行にも満たないような。
そんな日のはずだった。
「あの日までは。」
序章「出会い」
今年の初夏は、例年よりも
肌寒く、もう五月も半ばだというのに
未だに曇りの日には厚着をしていなければ
風邪でも引いてしまいそうな、
冷えた空気に包まれていた。
そんな気候も手伝ってか、
「俺」こと千歳良太は、落ち込んでいた。
「はあ…どうしたもんかなあ…。」
午前0時、事務所の休憩室で
俺は、深々とため息をついていた。
と言うのも、俺には付き合って
もうすぐ2年半になる彼女が居るのだが、
そろそろ結婚を真剣に考えたいと
つい先日、唐突に切り出されたのである。
…嬉しい話ではあった。
彼女のことは、当然、愛していたし
向こうも俺のことを真剣に考えてくれる
真面目で優しい子なのだから。
とあることがきっかけで人間不信に
なっていた俺を救ってくれたのも
彼女の存在があったからこそである。
本当なら、明日、いや今日からでも
同棲でもして半年は様子見してみよう、と
提案したいくらいの心持ちではあった。
しかし、しかしだ。
俺には大きな壁があった。
現時点で、昼間はフリーター、
夜間も牛丼屋でバイトしながら、
その中で本業のバンド活動をしている。
それで、大体月の収入は20万ほど。
少々、先行きは不安だが、節制すれば
やっていける金額ではあると思う。
しかし元来の行き当たりばったりの性格が
仇となり、200万円ほどの
「借金」があったのだ。
勿論、彼女にはそのことは
一言だって言わなかった。
というよりは言えなかった
というのが正しいのか。
ちゃんとやっていますよと言わんばかりに
いつだって取り繕った笑顔で
いわゆる「普通の大人」を
必死に演じているような奴が
実のところは給料が出ても支払いやら
なんやらで手元には雀の涙ほどの
お金しか残らないことなど、
言える訳がなかった。
そんなこんなで、まだ結婚は早いよと
彼女を半ば強引に説得する形で
落ち着いたのがつい昨日のことである。
「はぁ~~~~……」
そんなことがあったから
本日何度目かのため息も
いつもの倍ほど深く、長い。
「よっ!…ってお前、
まだ落ち込んでんのかよ!!」
そう声をかけてきたのは、
同僚の福井である。
昼休憩の番が回ってきたらしい。
「そりゃ、落ち込むだろ…。
今回のことで彼女も珍しく怒ってたし、
もしかしたら、見切りつけられるかもだしさあ…。」
「だーかーらー。
お前、重く考え過ぎなんだって!
謝って、納得させたんだろ?
なら取り敢えずは大丈夫でしょ!
俺が女なら今のうじうじしたとこの方がよっぽどキモい!!!」
と、励ましてるのか貶してるのか
分からないいつもの福井スタイルに
少しだけ気持ちが楽になった。
「ほんっっっとにお前と同僚で
良かったっつーか、悪かったっつーか…
まぁ、ちょっと元気出たわ。
ありがとな。」
俺が感謝の意を素直(?)に述べると
福井は爆笑しながら、
「なんだよそれー!!!
良いに決まってんだろぉ!?
俺みたいな善良な一般市民、
どこ探したって居ないぜえ!?」
と、自信過剰すぎて、寧ろ気持ちいいほど
のポジティブ発言を爆発させた。
そのお陰か、故意に悩んでいることが馬鹿らしく思えて
「そーゆーとこに救われるよ」
と俺は少しだけ笑みを溢しながら
福井にそう告げて仕事に戻った。
その日は特に問題なく仕事を終え、
人通りの少ない、いつもの帰り道を
ぶらぶらと一人歩いていた。
今日は一杯だけ呑んで寝るかなあと
既に帰宅後のことを考えていたとき、
「もし。そこの若い御人。」
と幼い子供のような声が聞こえた。
最初は、まさか自分のことではあるまい、
随分古くさいしゃべり方してんなあと
お気楽なことを考えていたのだが、
「もし、貴方様のことですよ。
千歳良太様、24歳、(株)フリードアに勤められ、現在彼女と喧嘩の真っ最中の…」
と明らかに俺のことを指しているのに
気付いて
「え?」
と振り替えると…。
「やっと、気付いてくれましたか!
もう随分前から声をかけていたのですよ?」
と嬉しそうに微笑む、
見た感じ8歳くらいの少女がいた。
格好はというとこんな住宅街には
全くと言っていいほど
似つかわしくない和服姿で
まるでコスプレでもしているのでは
というような出で立ちだ。
そんな状況に呆気に取られていると
彼女は少しだけ乱れていた前髪を
丁寧に整えてから、こう続けた。
「お初にお目にかかります。
私、雅と申します。
突然のことで、理解していただくのは
難しいと思いますが、
どうしても貴方様にお伝えせねば
ならないことが御座いまして。」
と、これまたえらくかしこまった
物言いで語りながら
今度は神妙な面持ちでこちらを見つめる。
状況が一切理解出来ない俺は、
「え…?なんですか、これ?」
と、大雑把すぎる質問をするので
精一杯だった。
「いきなり、声を掛けられ
状況が分からないのも無理は
無いですよね。失礼しました。
話というのは、貴方様ご自身のことと、
これから行って頂きたいこと。
この2つについてなのです。」
と、これまた一切理解出来ない
語りが始まり、ドッキリ的な何かか?と
周囲を見渡す俺に、
「ドッキリ…などではありませんよ?
真剣、深刻かつ現実問題として
この世界で起こっていることです。」
と、変わらない冷静な面持ちで伝えられ、
「はぁ。」
と気の抜けた声で返すと
彼女はまた気を取り直したかのように
話し出した。
「まず貴方様について、から
お話させて頂きます。
貴方様は、ご自分では気付かれては
いないでしょうが、神に選ばれし者の
一人なのです。神に選ばれし者というのは…」
と、話を続けようとする彼女を背に俺は
歩きだし、こう言った。
「あ、そういう宗教的なの、
信じてないんで。」
そう言う俺に対し、彼女は
「そうですか…ならば仕方ありませんね」
と意味不明なことを言い、
続けざまに、呪文のようなものを
唱え始めた。
俺は
「なんか、ヤバイ!!!」
という感覚に襲われ、帰路に向かって
一目散に駆け出した。
後ろでは相変わらず
妙な呪文を唱えている。
どうにか撒こうと角を曲がろうとした、
その時だ。急に全身が熱くなった。
体に力が入らなくなり、そのまま
膝から崩れ落ちた。
後ろから、カランと下駄の音を
鳴らしながら雅が近づいて、
「今、貴方様の中に眠る、神心に
直接語りかけ、こうして力を封じさせて
頂きました。お話を聞いて頂くまでは
申し訳ありませんが、このままで
居ていただきます。」
と静かに語り、続けた。
「神に選ばれし者、についてですが。
遥か昔、神は宇宙空間を創造し、
この地球を創られました。
神はその際、地球の管理者として
自身の力を五つの魂に分け、
人間という器に込め、
神の分身とも云える存在を創られたのです。そのうちの一人が貴方様です。」
と彼女は
どこぞの少年マンガにでもありそうな
話を至って大真面目な顔で語った。
「かつて地球の管理者として生き
その名を現世まで残している方々として
かの、モーゼ殿
レオナルド・ダ・ヴィンチ殿
ナポレオン・ボナパルト殿
アルベルト・アインシュタイン殿
トーマス・エジソン殿、
日本ならば
卑弥呼殿、聖徳太子殿、織田信長殿
あの坂本龍馬殿もですね。」
と、涼やかな顔で語る彼女から出る名は
そうそうたる面々ばかりで
そんな中に、平凡な人間代表のような俺が
入れる訳がないだろと思いつつ、
少しだけそうであったらなと
馬鹿みたいな事も考えてしまっていた。
「いつの時代にも、この世を発展させる
為、神の申し子がおり、その力は
脈々と受け継がれ今に至る訳です。」
そして、と彼女はまだ続ける。
「なぜ貴方が選ばれたのかというと
ですが。
それは私にも実のところは
分からないのです。
私の一族は、神の伝令役として
代々、神の申し子の方々に仕えて
参りました。
故に未来が見える訳でもなく、
貴方様の力が何なのかを知っている訳でもないのです。
私の役目は貴方様が
神の申し子であるという事実と
これからの使命をお伝えしそのサポートすることだけ。基本的には貴方様次第ということになるのです。」
「はあ!?なにそれ!?
そんなの俺にどうしろっての?
こちとらそんな神通力みたいのが
あるなら世のためなんかじゃなく、
自分の為に使いたいんだけど!?
これが仮に本当の話だとして
今後の展開はどうせ
悪の大魔王みたいなのがいて
この世が終末を迎えそうだから
世界を救ってくれ!
…的な感じなんでしょ?
そんな現実味のない話信じられるワケ無いし、子供の妄想話としか
思えないんだけど!?」
と動揺から、半ばキレたように俺が返すと
彼女は意外にも
「いいえ」
とあっさり否定した。
「は?」
思わず口から溢れた。
そして続けざまに
「じゃ、マジでなんなの…?」
と言うと彼女は、
「これは行って頂きたいことの話にもなるのですが、別に貴方様の仰られるような、
悪の大魔王など一切居りませんし、
世界が滅亡するなどということも
今のところは仰せつかっておりません。
しかしながら、この世界が悪い方向に
向かっているというのは事実です。
人類は、発展し過ぎたのです。
そして、この世を発展させるために、
一番大事な事を忘れてしまったのです。
そう、愛を。
更に言えば世界中でもこの日本が
特に酷いのです。近年の少子高齢化など
特にその前兆とも言えるでしょう。
貴方様には、人類が愛を忘れて
いつしか途絶えてしまうかもしれない
という危機を未然に防いで頂きたいのです。
それが貴方様に与えられた使命なのです。」
『マジかよ…』
それがこのとき率直に頭に浮かんだ言葉だった。
そのあとの事はよく覚えていない。
話が一通り終わると、雅は
「それでは、何かありましたら
心の中で私をお呼び下さい。
すぐに駆けつけますので。」
と言い残し、すうっと、まるで
幽霊のように消えていった。
雅が居なくなって数分間は
放心状態になり、もう動けるという事実に気付いたのはそこからさらに10分後のことであった。
夢現の状態で、完全に疲弊した俺は、
何とか帰宅したのち、玄関で靴も脱がずに力尽きた。
そして、この夜が後々、
とんでもない人生のターニングポイントに
なることは、無論このときの俺は
知る由もない。