緑
縁側に降りた露。広くも狭くもない畳の部屋に胡坐をかいて、向こうをぼんやりと眺める男がいた。ここで長年過ごしたわけでもない。つい先日祖父の家が売られると聞いて、恋人を連れてやってきた。正方形の部屋に置かれた背の低い机に肘を置いて、頬杖をついて小さな庭を見つめていた。
朝日が昇る直前の時刻だった。冷え込んでいるのにも気づかないのか、それとも無視を決め込んでいるのか男は季節に不釣り合いなくらいの薄着で、暖房もつけずに外の空気に身体を浸していた。
「何してるの」
襖が開き、まだ少し寝ぼけた声が顔をだす。きっちりと着込んだ上に布団を頭から被り、冷え切った部屋の中で朝日を待つ男の影を見つける。
「おはよう」
「早すぎるでしょう。風邪を引くよ」
「馬鹿は風邪なんて引かないって、君が良く言うじゃないか」
「全く、これだから手のかかる…」
奥の部屋から毛布を引っ張ってきて、男に押し付ける。受け取るときに触れあった手が氷のように冷たくて、驚いて手を引く。
「何を考えていたの、今日は」
溜息に混ざった質問に、男は口角を上げて答える。
「自分と血のつながった他人が、この家でどんな風に死んでいったか」
「ご先祖様に怒られればいい」
はは、払うつもりで発した笑い声は掠れている。男の身体に無理やりぐるりと毛布を巻き付けて、抱きついた。
「他には?」
「自分が過去にここに来た記憶、その時に考えた空想」
男は抱きつかれたまま立ち上がる。腰に手を添えて、一緒に縁側の方へ歩いて行く。
「永遠に変わらないものなんてないと、分かってはいる」
縁側を目の前にして腰を下ろす。板の向こうで、小さく咲いた椿の花弁に雫が垂れる。
「きっと全て変わっているよ、ここの空気、温度、過ごしていた人間、匂い、植物、動物」
吐く息は透き通ることなく真っ白で、夜空に吸い込まれていく。
「それでも、人の考えや性根は、どうだろうね。死んだ人の残した言葉やら行動は永久に変わらない。形のない事実は歪めようもない。幼い日の自分の空想も想像も、一度ここで思い出してしまえば取り残されなかったものになる」
宙に延ばされた指の先は赤く、痺れている。感覚がとっくに消え去った鼻を啜る。
花弁から雫が落ちた。深緑をした庭の松の上の方が照らされて、黄とも橙ともつかない色に染められる。
「あの時は、寒さなんて感じなかった」
立ち上がって、向こうの部屋からティッシュを持ってくる。差し出すと男は素直に受け取って、一度だけ鼻をかんだ。
「誰だか忘れたけど、こうして抱き締めていてくれたんだ。だから寒くなかった」
「体長が逆転したみたい、力不足だったようで」
「最初から分かっていたよ、もし逆なら昨晩から頼んでた」
「馬鹿じゃないから助かった、この身長で」
「いじけないでくれ」、息に混ざって溶けていった。
男はすっかり赤く染まった人差し指で、目の前の露をなぞる。水滴たちが押しつぶされて、一本の水の通った線になる。
「その日もこうやって朝日が差し込んでくるのを見ていた。庭の草木に光が当たっていって、空は不思議な色をしていた」
その一言に見上げてみると、薄くて白にも見える青の上、様々な色が走っているのが見えた。夕焼けにも仕方ないが残れなかった色たちが、逃げ出すように、解き放たれるように走っていた。
「…本当だ」
「何も知らなくて、考えても分からなくて、根拠もなく恐ろしいと思った」
「…そう」
「ほら、例えば」
その指が、一筋の雲をなぞる。
「あの薄い緑に似た色が、空にあっていいはずがないと」
その声は嫌に響いて、畳に吸われていく。
「今はもう、つまらないことばかりだ。邪魔が多くて」
男は立ち上がって、奥の部屋へ入っていった。
「そうだね、あなたの話はつまんないや」
朝ごはんでも食べようか、まだ早すぎるけど。
ありがとうございました。では。