ゼノンのいない絶望世界
――――お兄ちゃん
誰かの呼ぶ声がする。意識がもうろうとしていて、返事をすることができない。
―――にげて
逃げて……? どういうことだ……? それに、俺はいったい……。
「逃げてっ!」
今度はハッキリと聞こえた声に、俺は目を開けた。
「……うぐっ」
脇腹や、肩が激しく痛む。それらの痛みから無理やり意識を反らすと、俺はなんとか立ち上がった。
その横で、ポーラが心配そうに、俺の顔を覗きこんでいるのがうかがえた。
「ポーラ……! ……そうだ、俺は……」
「ああ、意識が戻ったんだね! ほらお兄ちゃん、早く逃げよう!」
そう言って、先ほどのように、俺の手を引く。だが、俺はそれに着いていくことはできなかった。
周囲から、聞いたこともないような絶叫が響き渡る。嫌でも視界にに映る、人間の形を失った、肉の塊。そこに、むせ返るような、何かが焼け焦げた臭い。
それらの光景は、一言で言えば、地獄そのものだった。
「……ポーラ、これって……」
「見ちゃダメ……私たちだけでも……行くの……!」
そう言って、さらに強く、俺の手を握る。この惨状の中、彼女はずっと、俺に呼び掛けてくれていたのだ。
「もう、みんなほとんど……やられちゃった……」
震える小さな手は、物事を割り切るには、まだ幼すぎて。
「……私……死にたくないよぉ」
振り返った彼女の顔は、直視できないほど、絶望と悲しみにまみれていた。
「ポーラ……」
そう呼び掛けたその時、俺はある違和感に気付いてしまった。
「……なぁ、ソフィアは……どこだ……?」
その違和感を拭おうとして、言ってはいけないであろう言葉が、口をついて出る。そして、そのことを後悔した時には、もう遅く。
「――――私を守って、死んじゃった」
ポーラの瞳が、さらに曇り、光が消えた。
なんでだよ。
なんでこうなるんだ。
チート武器も、チート属性も、チートスペックも付与されたはずなのに。
なんで…………絶望しなくちゃならないんだよ。
「なんなんだよ、これ……」
俺は、頭を掻きむしりたくなる衝動を、必死に抑えた。
気が狂いそうになる。さっきまで、楽しくパーティーをしていたはずじゃないか。
それが、なんでこんなことに?
「お兄ちゃん……」
その呼び掛けに、自分の頬を殴って、無理やり意識を正す。そうだ、今は逃げることだけに専念しろ。
逃げて、逃げて、逃げて。
どこか、絶望なんてない場所へ――――
「人の絶望って、見てると楽しいよなー」
俺の目の前を、一筋の光が通った。
「……は…………?」
やめろ。
もうやめてくれ。
もう……もう……。
「よーし、逃がしたガキも殺害完了っと」
悪魔のような声が、耳の奥で木霊する。
現実から目を背けたくとも、体が言うことをきかず、『それ』を無理やりに見せつけられる。
ポーラの体には、いくつもの穴が空いていた。虚ろげな目で俺を見るその表情からは、もう生気は感じられず―――
「……うっ、おぇっ……」
やがて、体のキャパシティを越え、俺は胃の中にあるものを、全てぶちまけた。
向こうで、転生者が、何かを言っている声がする。
だが、その声はやけに遠くに感じて。
あるのは、無惨な姿のポーラが、その光を失った目で、こちらを見る様子だけ。
「やめてくれ……そんな目で俺を見るな……!」
救えるなら、救いたかった。
だが、自分にはそれができるほどの力はなかった。
「お、俺じゃない……俺は……俺はっ……!」
救える力がなかったのだから、しょうがないじゃないか。
俺は悪くない。俺は悪くない。俺は悪くない。俺は悪くない。俺は悪くない。俺は悪くない。俺は悪くない。俺は悪く
「悪いのは、お前だ」
ふと聞こえたその声は、転生者のものではなく、けれど、どこかで聞いたはずの声。
「お前は、本来なら誰も救えていないんだ」
責めるように、心臓を抉るように、その言葉が、頭の中を駆けめぐる。
「違うっ!」
俺は振り払おうと、叫びながら、頭を振った。
「違わない。ほら、この光景を見てみろ」
それは、従うべきではなかった命令のはずなのに。
それに反して、俺の意識は、次に広がる光景を。
震えながら、頭を上げて、見てしまった。
そこは、聖域都市エファリスだった。夜ゆえに、辺りは暗く、その上空には、不気味なほどまでの、紅い月があり―――
人々は、血肉を撒き散らしながら、耳を塞ぎたくなるほどの悲鳴を上げて、何かから逃げていた。
「エファリスいたのは、なんだった?」
「っあ…………」
答えようとした口が、うまく動かない。
目の前に繰り広げられた惨劇から、目を反らせない。
エファリスの人々は、地上から湧いたアンデッドたちによって、その身を食い荒らされていた。
腸が地面に飛び散り、眼球が転がる。大人たちは発狂しながら逃げ惑い、子供たちは、為す術もなく、内臓を引きづり出されていた。
その惨劇に現れるヒーローの存在はなく。
聖域都市に響くのは、絶望にさらされた人々の絶叫のみ。
「これが、本来の世界である」
再び、あの声が聞こえた。そこからさらに、次々に絶望の高慶が繰り返される。
ヴァンの城で、串刺しになったルルカの死体。隕石の直撃で、焼け焦げ、炭と化した人々。
イスケの力で、心臓や首をかっ切られた状態で放置されたままの、ケティや観客たち。
アリスに太刀打ちできず、そのまま跪き、最後には無惨に殺されていく、松田さん。
邪神に為す術もなく殺され、アンデッド化したまま、暗い地下水道をさまよい続けるノアとリンファ。
そんな、絶望世界が、延々と、目の前に繰り広げられた。
「ヒーローなんてどこにもいない。お前の仲間は惨たらしく殺され、この世界の住民は、理不尽な転生者の災禍に見舞われ……。お前の守りたかった人たちは、みな――――」
―――――『お前が救えなかったから、死んだんだ』――――――
「やめろ―――――っっ!!!」
頭が痛い。ひどく口の中が渇くのを感じる。
目からは涙が溢れでてきて、自分が、自分じゃないような感覚に襲われる。
俺が何をしたっていうんだ。
俺はただ、この世界を救いたいと思っていただけなのに。
みんなが幸せに過ごす世界を、見たかっただけなのに。
「俺が……何を……」
うずくまる自分が、ひどくちっぽけなものに感じられる。
結局、俺はどこまでいっても、ただの高校生に過ぎないんだ。
特別強いわけでもなければ、絶望に抗えるほどの心もない、普通の人間に過ぎないんだ。
その程度の人間に、絶望に堕ちた世界の命運なんて――――――
「…………お前はもう、二度と立ち上がれない」
そう囁く声は、ひどく、残酷なまでに優しく響いてきて。
「だって、立ち上がる必要なんて、ないのだから」
まるで、俺の全てを許してくれるような声で。
「もうお前は、諦めていいんだ」
その言葉は、俺をここから救い出してくれるような気がして。
――――気がして――
――――――
――――
―――
「……なにを、しているんだ?」
突然、その声が、不機嫌そうに響き渡った。
その不機嫌の理由は、考えるまでもなかった。
「なぜ、また立ち上がるんだ?」
俺は、うずくまった状態から、ゆっくりと、体を起こしていき。
涙に濡れた顔つきで、天を見上げた。
「なぜ、そんなことができる?」
不機嫌そうな声が、より一層、その感情を露にする。
なぜとか、どうしてとか、自分でも、よく分からない。
あれだけの絶望を目の当たりにして、自責の念に潰されて、無力さを再確認して。
心なんて、とっくに壊されていると思っていたのに。
なのに――――
「絶望なんて、くそくらえだ」
顔をぐしゃぐしゃにして、体から全ての水分が失われたかと思うほどに、俺は泣いているのに。
もう、守るべきものも何もかも、失ったあとだというのに。
どうして、俺はこんなことが言えてしまうのだろう。
「たとえ全てを失ったとしても、俺は立っている」
そんなつもりはないのに、いつの間にか、口が開いて、言葉がついて出る。
「この先に、まだ見ぬ希望があるなら、もう一度それらのために、俺は立ち上がるまでだ」
「やめろ。お前には不可能だ」
先ほどの囁き声が、怒気を含んで否定する。
確かに、無理なことなのかもしれない。
だが、できるできないなんて、もはやどうでもいい。
最期のその時まで、俺が俺らしくあればいい。
だから、こんなときでも、俺らしく返すのだ。
「うるせぇ、バーカっ!!」
『ほら、無駄だったでしょう。コータ君が、たったこの程度の絶望で、心が折れてしまうわけないじゃないですか』
どこかで、あいつの声が聞こえた気がした。
きっと俺は、この声の主に少なからず、影響を受けていて。
どんな状況でさえも、簡単に絶望をはね除ける、その姿を心が覚えていたから。
そんな立ち振舞いに、憧れていたから。
だから俺は――――
――――――――――――――
「…………っだっはあぁっ!!」
勢いよく起き上がると、そこは、アペルデゼスがいた空間だった。
「なんて起き上がり方してるんですか君は。雑魚な君は寝起きまで雑魚なんですか?」
横で、クスクスと笑い出す、相変わらず憎たらしい、高次元の悪魔。
「雑魚雑魚うるせぇぞお前! こっちは危うく精神が乗っ取られそうになってたってのによ!」
めちゃくちゃ頑張ったんだぞ!……と、掴みかかる勢いでゼノンに抗議するも、あいつは「はいはい」と感情のない声で受け流してきた。
ちくしょう、やっぱこいつ殴りたい!
そう思っていると、アペルデゼスがクククと笑い始めた。
「そうだ……お前はそうやって、前も我に挑んできたんだ」




