高校
好きなものは?と尋ねられると何も言えなくなってしまう子供だった。明確に嫌いなものと、そこまで嫌いでもないけれど、かといって思い入れもないものばかりが、俺の世界を造っていた。
南波市下田区高校、通称波下高は、その蔑称が非常に的を射ているどうしようもない高校だった。いわゆる地域の底辺高校。四則計算ができない、あるいは四則計算という四字熟語の示す所の意味も知らないような生徒の集まる吹き溜まりだった。こういう所に通う生徒はだいたい三つに分かれる。
最も多いのはヤンキーとその取り巻きたち。高校を遊園地か何かと勘違いしている節があり、授業中か否かに関わらず常に騒がしく、バットの届く範囲のものすべてを壊してしまったり、うっかり先生と援助交際してしまったり、その時の写真をネタに教師を脅してしまったり、時々二階の窓から度胸試しで飛び降りたりしている。
次に多いのが無気力型。騒がしくない分ヤンキー達より幾分かマシだが、学校にいる間はほぼずっと机に突っ伏しているか、ラノベを読んでいるか、ヤンキーにたかられてパシリにされている。大抵はヤンキー達より成績が悪い。時々思い詰めて屋上から飛び降りたりする。大騒ぎになるが、何度市の要請を受けて屋上を封鎖しても、ヤンキー達が鍵を破壊してしまうので意味がない。
最後は、数えるほどしかいない二次募集合格者。私立の高校を受験していなかったり、受験しても受かってなかったり、そして公立高校の入試本番でも失敗し、仕方なくほぼ毎年定員割れしているこの高校に流れてきた人たちだ。周囲の余りの意識の低さに愕然とし、中途半端なプライドのせいで朱に交わる事もできず、孤立する。無気力型はまだ仲間がいるから良いが、この手のタイプは本当に孤独で惨めだ。
そして本当に残念な事に、俺はその一番最悪なタイプだった。元々優秀すぎる他の兄弟姉妹に比べて出来が悪かった俺にはは、悲しいかな運もなかった。高校受験のちょうどその時、妹のインフルエンザを貰ってしまい、当日は40度を超えながらテストを受けた。地域では一番の高校だったが、本来ならば余裕で合格圏だったのに、無残な結果に終わった。
「たかが40度で9割も取れなくなるのか」
という長男の和人の言葉をよく覚えている。元々仲が悪かったのだ。言い返す術など何もなかった。両親は何も言わなかった。父は忙しかったし、母は俺がどこに通うかなんて心底どうでも良さそうで、次男の幸人の大学生活のための家探しの方が100倍大事なようだった。
家には居場所が無いが、学校にもそんなもの無かった。仲良くしたいと思えるような相手は見つからなかった。授業は基本的に成立していないので、その間は自習か寝るかしかない。ガリ勉は絡まれやすいような気がしたから、単語帳にわざわざブックカバーをかけてこそこそと読み、放課後は一目散に家に帰って、部屋に籠って教科書や参考書を進めた。本当は塾や予備校に通いたかったけど、そんな事を両親に相談する勇気はなかった。空虚な毎日だった。問題が解ければ楽しい、参考書が一冊終われば嬉しい、模試で良い点が取れれば幸せだ。そんなことだけを支えにしながら、ただ繰り返して、消費するだけの日々だった。
何が言いたいか、というだ。この世界にごまんとある嫌いなものの中でも、俺はとりわけ学校が大嫌いだった。息遣いが聞こえるほどの距離に沢山の人がいて、それでも彼らと自分には断絶があるのが分かるから、嫌いだった。
そんな俺がその日だけは、まだ微睡んでいる街を駆け抜け、早朝に校門の前に立っていた。星原彗月を待っていたのだ。彼女がいつ来るかなんて知らない。始業チャイムを気にするタイプだったのか、それとも平気で遅刻してくる人なのかも知らない。知ろうとしてこなかったからだ。吐く息も微かに白い十一月の空気は、じわじわと身体に染みていた。立ち止まっていると脚の痛みがまたぶり返してきた。校庭の時計によればまだ7時前だった。冷静に考えてみれば、こんな時間に星原がやってくるはずが無かった。一旦コンビニにでも入って暖をとろうと動き始めた時だった。校門に続く長い坂道を登ってくる人影が見えた。自分の視力を呪いながら、俺は懸命に目を凝らした、その姿はやがて挨拶のように手を挙げた。
「おはよー」
彼女の呑気な声が、静かな坂道を滑るように通り抜けていった。俺も手を挙げようとして、なんだか気が引けて、胸のあたりで小さく手を振った。
「おは、よう」
絶対に彼女には届かないか細い声だった。体が震えた。小学校の先生が、やたら挨拶挨拶とうるさかった理由がわかった気がした。それは俺にとって実にほぼ一年ぶりの、朝の挨拶だった。
俺が変な事に感動している間に、星原は坂を登り終えた。学校指定のジャージに、ブレザーの上からパーカーという出で立ちだった。夢、と言っていいのか分からないあの世界で見たのと、確かに同一人物だったけれど、こっちの世界では、周りの家のごちゃごちゃとした庭とか車とか信号機とか配達のバイクとか、そんなもの達に色彩を奪われて、少しやつれて見えた。
「めっちゃ早いね。アタシ待っててあげるつもりだったのに」
そう言いながら、ポケットから携帯を取り出して驚いた顔をする。
「まだ7時じゃん、焦りすぎでしょ」
呆れているのか、面白がっているのか判然としない笑みを俺に向けて、彼女はこっち、と指で指して横道に向かって歩き出した。
「どこに?」
追いかけながら尋ねる。
「カラオケ。聞かれちゃまずい話をするには一番良いんだよ。あと普通に歌いたい」
彼女は手で輪っかを作ってエアマイクを持ってハミングした。
「こんな時間に、やってるの。カラオケって」
俺は息切れしながら答えた。彼女はかなり歩くのが早くて、その上学校に来るまでの無理がたたって、脚がズキズキと痛み出していた。俺の様子がおかしいのに気づいたのか、彼女は急停止した。
「あ、ごめん。怪我してるんだったね。流石にこっちでは肩は貸せないかな、悪いけどね。代わりにコンビニ寄って冷やすものとか買ってきたげるから、先歩いてて」
言うが早いか、彼女はもう最寄りのコンビニに向かってずんずん歩き出していた。仕方ないので俺もなんとか彼女に着いていった。カラオケなんて行ったことが無かったから、場所も分からなかったのだ。
「ここら辺でカラオケって言ったら招き犬のことなの!キミ頭いいんでしょ?なんで知らないの?」
勉強ができる事と実生活で豊富な知識を持っている事とは違うと反駁しかけたけれど、やめておいた。そもそもその勉強だって、家では落ちこぼれじゃないか、と内心こぼしていた。
彼女は手際よく二人分のドリンクバーを頼んで、すぐに部屋に案内された。意外にもこの時間にも人は居て、しかも年配の集団だったのがさらに驚きだった。
知らない事は沢山あった。例えばドリンクバーなのに、ポップコーンやアイスも食べ放題だとか、星原彗月は歌がとても上手だと言うこと。彼女は俺に何度かマイクを振ったが、その度に俺は丁重に断った。
六曲続けざまに歌ってから、彼女はホッと一息ついてマイクを置いた。
「ちょい休憩、というか、本題に移るってやつ?それで?」
俺がきょとんとしているのを見て、彼女は眉を寄せた。
「だから、それで、聞きたい事とか、なんかないの?まさかまだ昨日のは夢だったんじゃないかなんて思ってる?」
俺は慌てて首を振った。
「いや、そんな事は。傷も残ってたし。ただいきなりで、何から聞けばいいのかなって思って」
彼女はマイクを弄びながら、ふーん、と返事にならない返事をした。目だけがこっちをじっと見つめていた。俺は困りながらも、聞きたい事は山ほどあったのだと思い出した。
「ええっと、じゃあ、まず星原はなんであの世界にいたの?あの世界はいったいなんなんだ?なんで俺はあの世界にいたんだ?」
彼女はフッと強く息を吹いた。垂れた前髪がふっと持ち上がって、また落ちた。
「一気にいっぱい聞くのはマナー違反じゃない?まあいいけど。一日我慢してもらったしね。できる限りでは答えてあげる。まず、なんでアタシがあの世界にいたのか。うん、わからない。多分キミも同じなんじゃない?ある日気づいたら向こうにいた。それだけ。次の日はこの世界に戻ってきてた。次の日は向こう。それがずっと繰り返してるの。多分夜の12時なんじゃないかな。それくらいを境にどうしても眠くなっちゃって、眠ると世界が入れ替わるの」
彼女は一気に喋り、自分のコップに入ったメロンソーダをグッと飲んだ。
「二つ目の質問の返事。向こうの世界が何なのか。これも正直わかんない。ちょっと、そんな顔で見ないでよ。アタシだってキミとそんなに境遇は変わらないんだよ?ただ少し早かっただけ。でも分かってることがあるの。向こうの世界で怪我したら、こっちでもその怪我は残ってる。向こうで死んだら、こっちでも死ぬの」
彼女は、死ぬという言葉を発した時、ひどく悲しそうな顔をした。聞かない方がいいのかもしれないと思いながらも、問わずにはいられなかった。
「なんで、向こうで死んだらこっちでも死ぬって、知ってるんだ」
案の定、彼女は打ちのめされたようだったが、しばしの沈黙の後、決心したように話はじめた。
「日立君って、覚えてる。日立亮君」
その名前には、聞き覚えがあった。記憶をたどっていると、さまよう視線が、星原の潤んだ瞳にぶつかった。頭に電流が走ったかのように、急に記憶が蘇ってきた。
「あ……。あの、半年くらい前の飛び降り自殺……」
俺がまさか、という顔をしていたのだろう。彼女は悲しそうに頷きながら言った。
「彼も半年前まで向こうの世界にいたの。そして、彼が崖から落とされて、その次の日だったの。……彼の『自殺』は」
向こうの世界では転落死、そしてこちらの世界でも死因は転落死。冗談では済まなそうだった。右脚の痛みは、確かに残っていたままだった。ズキズキと、新しくそこに心臓ができたかのように、規則正しく疼いている気がした。