解放、疑問、帰還。
全く飲み込めない状況に、脳が完全にパンクしていた。星原彗月は、確かにクラスメイトではあるが、そんなに親しくはない。正直言って名前を覚えていたのが奇跡的なくらい、繋がりがない。その彼女が、突然俺の前に現れ、ペットショップでちょっと高級な熱帯魚を購入するくらいのノリで、俺を買った。起きる出来事の全てが脈絡などなく不可解で、右腿に残る痛みだけが確かだった。彼女は背負っていた袋の中から、囚人たちが着ている物よりだいぶ綺麗な服を取り出し、俺に放った。
「それ着て、ほら、行くよ。ここは目立ち過ぎるから」
彼女は頭をくいっと路地の方に向け、歩き出した。
「ちょ、ちょっと待って。何がどうなってるんだ?これは夢?あと、痛くてとても歩けない」
すでに数メートルほど俺から離れた所を歩いていた星原は、深い深いため息をついてから戻ってきた。
「肩貸すから。あんまりくっつかないで歩いて」
また、ごめん、と小声で謝って、肩に腕を回した。態度は冷たいが、俺のペースに合わせてゆっくりと歩いてくれた。
先程鞭男に倒されていた元女王の横を通る時、彼女は俺にしか聞こえないよう小声で囁いた。
「良かった。必ず生き延びてください」
どうしてそんなに俺の事を構ってくれるのだろうと思いながら、後ろめたさに後押しされて、小さく会釈した。落とした視線が彼女の瞳とぶつかった。こんな日には不釣り合いなほどに晴れ渡った、この空の色を塗りつけたような、綺麗な青だった。
肩を担がれたままのろのろと十分ほど見慣れない建造物の隙間を縫って歩いた。この世界では家は不規則に建ち並んでいるものらしく、家と家の間に道路や通りなどはなかった。その上地面はあまり整備が進んでおらず、歩きにくいことこの上なかった。肩を借りているとはいえ、脚の痛みは動かす度に酷くなり、ついに俺は音を上げた。
「少し休憩させて。痛くて。ごめん」
星原はまたため息をついて、立ち止まった。僕は地面にへたり込んだ。汗がポタポタと落ちて、凸凹の地面に染みを作った。
「傷、見せて」
そう彼女に促されて俺はうつ伏せになった。
「うわぁー……、これはこれは」
ご愁傷様という風に、星原は傷に向かって手を合わせた。
「でもまあ、血は止まってるし、死にはしないでしょ。それよりこれは明日が辛いねーたぶん」
血は止まっている、と聞いて、俺は傷を治療してくれた、女王様と呼ばれていた人の事を思い出した。急に彼女の事が心配になった。
「あそこにいた人達は、その、何なんだ?」
星原を質問攻めにしたい気持ちをぐっとこらえて、それだけ尋ねた。
「何って、捕虜?」
僕が全然分からないという顔をしていたからだろうか、彼女は説明を加えた。
「ここがヴィットランっていう国で、捕まってた人達はエルネカ王国の人たち。戦争で負けて捕まってるの」
そう言うと彼女は俺の事をじろじろと見た。
「ていうか、君は今自分の事を心配した方が良いんじゃないの?周くん」
急に自分の名前が呼ばれて、心臓がどくんと大きな音を立てた。
「やっぱり、俺のこと、知ってるんだ」
掠れた声で返す。
「あったりまえじゃん。知らない人を助ける為に10万も出す奴なんかいる訳ないでしょ」
彼女は口を尖らせながら、指先でぴんぴんと傷口を突いた。
「ちょ、痛い」
「こんくらい我慢して。今薬塗ってるから」
確かに、彼女の指が触れた場所が、冷んやりとと心地よくなっている。透き通った紫色の綺麗な軟膏が塗りつけられていた。
「アタシだって今最悪の気分なんだからね。ようやくお金貯まって、自分の家が買えるーって思ってたら君を見かけちゃったから。他人同然でも一応顔見知りのクラスメイトを見殺しにはできないじゃん?でも10万だよ?ひっどいよねー。ぼったくりだよ。あーあ。」
彼女は肩をすくめた。他人同然というのは、向こうにとっても同じことだったらしい。それにしても、と俺は周囲を見回した。周りにはプリンそっくりの黄色くて、不思議な形のつるつるとした家が乱立していた。
「そんなにこんな家が欲しいの?」
僕の言葉を聞くと、彼女は心底呆れた、という風に頭を振った。
「初めてこっちにきた時は私もそう思ってた。けどすぐにわかるよ。家が世界で一番欲しくなる。家さえあれば、こっちではとりあえずやっていけるから」
彼女の言わんとする事が全く理解できず、俺は説明してくれるよう頼もうとしたが、彼女に遮られてしまった。
「聞きたいことは山ほどあるだろうけど、それは全部、明日。安全な方の世界でね。はい、薬終わり。これも高いんだからねー」
そういうと彼女はぺちぺちっと傷の近くを叩いた。
「ほら、立つ。もう宿に行って寝るよ。」
俺は慌てて立ち上がりながら尋ねた。この様子ではまともな返事は期待できなさそうだったが、それでも口をついて出てくるのは疑問ばかりだった。
「ちょっとまってくれ、どういう事だよ。安全な世界ってなんだ?この世界は何なんだよ?これって夢じゃないのか?」
夢、という言葉に反応して、彼女は立ち止まった。振り返り、僕の傷にさっと手を伸ばし抓った。
「この痛みが、本物じゃない?」
俺は声にならない悲鳴を上げた。わかった、わかったから、と言いながら俺は身を捩った。彼女は十秒ほども経ってようやく手を離し、突き放すように言った。
「ここは、現実だよ。キミのこれまで生きてきた世界とはまた違う、でも、これは現実」
説明はまたしてもそれだけだった。以降は余計な事を言えばまたいたぶられるのではないかと思って、俺は何も言わずに彼女について行った。
それは明らかに宿などと大層な名前を名乗れるような代物ではなかった。なにせ俺たちが案内されたのは、屋内ですらなく、暖簾のようなペラペラの布一枚で外と仕切られた、壁に掘られた穴だったからだ。
「ほら、キミから入って」
と、星原が背中をぐいぐい押してくる。俺は必死に抵抗しながらわめき散らした。
「ちょ、ちょっと待ってくれ、これただの穴じゃん、こんなとこに二人も入って寝れないだろ」
星原の力は驚くほど強く、俺は言葉とは裏腹にほとんど上半身を穴の中に突っ込まれていた。
「しーかーたーないでしょー!誰を助けたせいでお金が無いと思ってんの?」
彼女は俺の膝を無理矢理抱え込んで押し込みながら叫んだ。
「いやでも、こんなもん寝てる途中に崩れたらどうすんだよ」
「はーああああ!?そんなわけないでしょ、隕石降ったって崩れないだから」
「は?何意味不明な事」
うるさい、という彼女の声と共に、俺の右脚の傷に鋭い痛みが走った。俺はあっさりと白旗を上げた。彼女は慣れた様子で穴に潜り込みながら言った。
「ほら、もっと奥に行って。じゃないと破片に当たって怪我が増えるよ」
何の破片だよ、と聞きたい気持ちはあったが、これ以上口ごたえしても酷い目に遭うだけか、と思ってやめた。
突き当たりまで這って進んで、俺は一息ついた。洞窟の中はなぜか少し明るかった。この世界の家や、この穴の壁の材料になっている、見たこともない黄色の物体は、昼間の日差しの下では気がつかなかったが、わずかに黄色の光を放っていた。俺が壁に見とれていると、彼女が隣にやってきた。
「綺麗でしょ。月の石って呼ばれてる。宇宙にある間ずっとずっと太陽の光を溜め込み続けて、地上に落ちてくるとその光を放つようになるんだって」
そう言って笑う彼女の顔があまりにも近くにあって、思わず息を呑んだ。彼女の顔を、初めてちゃんと見た気がした。目が大きく、表情が豊かでいかにも人好きしそうなタイプだった。髪は校則に抵触しないギリギリの茶髪だけれど、ピアスもしていないし、化粧もほとんどしていなさそうだった。
「なに、じろじろ見て、いやらしー」
俺の視線に気付いて、星原はぷいっと向こうを向いた。
「ちょっと、もっと離れてよ」
そう言われて俺は慌てて壁に張り付いた。それでも二人の間は30センチも無かった。彼女は向こうを向いたまま話し始めた。
「とにかく、色んな説明は明日学校でするから、どんなに脚が痛くても明日は休まない事、いい?わかった?」
俺は歯切れの悪い返事をしながら、今聞いた言葉に覚えた違和感の原因に行き当たった。
「学校で……って、明日は元の世界にもどってるのか?」
彼女は風船くらいなら破裂させられそうなほど長いため息をついた。
「説明は全部あ、し、た!今日はさっさと寝る。こっちでの傷はあっちにも残るけど、寝れば寝るほど良くなるから。明日ちゃんと学校に来て私と話ができるように今日は寝て」
有無を言わさぬ態度だった。仕方ない、と俺もため息をついて目を閉じた。思ったより疲れていたのか、まだ日は高かったのに、俺の意識はずぶずぶと硬い地面に沈み込んで行った。今度は夢を見なかった。
眼が覚めるとそこは、見慣れた自分の部屋だった。いつも通り、何も変わらない陰鬱な部屋だった。時計は五時半を指していた。
「夢か……」
そりゃそうだよな、と呟くと同時に、乾いた笑いが止まらなくなった。変な夢だった。それにしても星原彗月はあんなに可愛かっただろうか、今日確かめてみよう。そんな事を考えた。ひとしきり笑い終えて、立ち上がろうとした時、脚にナイフでえぐられたような痛みを感じた。背筋が凍るような気がした。恐る恐る指先を這わせると、昨日の傷のあたりに触れた瞬間、電流が流れたように痺れた。脚を引きずりながら慌てて洗面所に向かい、ズボンを脱いだ。鏡には無残に腫れ上がった太腿が映っていた。恐怖で叫びそうになるのを必死で堪えながら、夢の世界で、星原が言っていた言葉を反芻していた。
この痛みが本物じゃない? こっちでの傷はあっちにも残る。
これは現実。 説明は全部明日、学校で。
俺は部屋に駆け戻った。傷の痛みなどもう気にならなかった。制服をひっつかんで、震える手でボタンやベルトを締めた。怖くてたまらなかった。
これは現実。これは現実。これは現実。
その言葉が、耳にこだましてどうしても消えてくれなかった。
またすごく長くなってしまった。