知らない世界
激しい揺れで目が覚めた。眼を擦ろうとして、手が何かに抑え付けられていて全く動かない事に気が付いた。急速に眠気が引いていくのを感じた。周囲には沢山の人の気配がしている、薄暗がりの中で、すすり泣きやため息、嗚咽が響いていた。目がだんだんと暗闇に順応していき、俺は漸く自分の置かれている状況を理解した。俺は檻の中にいた。
手には鉄の塊のようなごつい枷が嵌められていた。警察が使うような手錠とは全然違った。もう一度腕に力を込めてみると、ほんの少しだけ持ち上がったが、それだけだった。足も同じような状態だった。周りの人達の手足にも同じ、不恰好な拘束具が噛み付いている。檻ごとどこかに運ばれていて、そのせいで激しく揺れているのだ。
ここは、どこだ。どうしてこんな所にいるんだ。さっきまで俺は何をしてた?そうだ、布団に入って単語帳開いてて……で、眠くなって、電気消して、そうだ、寝た、眠ったんだ。という事はこれは夢か。
そう思うと少しだけ気分が落ち着いた。これが明晰夢という奴なのだろうか。だがまあどうせすぐに眼が覚めるだろう。それにしてもこの恐ろしい内容の夢は一体どこからやって来たのか、日頃のストレスがこんな形で現れたのだろうか、などと呑気な事を考えていると、檻の揺れが突然収まった。鎖同士がぶつかり合う音が消えて、檻の中は急に静かになった。そのせいすすり泣きがより酷く鮮明に耳に刺さった。嫌な夢だ。きっと朝起きたら汗を沢山かいていて気分が悪いだろうと思った。
分厚い布の擦れる音がして、目に光が飛び込んできた。檻の覆いが取り外されたようだった。眩しさに顔をしかめながらも、外の様子に眼を凝らした。周りの光景が見えてきて唖然とした。檻の中には、思ったよりたくさんの人が閉じ込められていた。八畳程の広さの中に、二十人ほど。ぼろ布のようなフードを被って俯いているので顔はあまり見えないが、体格からして男も女も混ざっているようだった。檻はいくつも有って、それが一列に並べられていた。檻から少し距離を置いて、見物人だろうか、見慣れない格好の人が大勢集まっていた。
檻が設置されたのは広場のような場所で、目の前には環状に、得体の知れない黄色い材料でできた、台形の家が建ち並んでいた。ちょうど色も形もプリンに良く似ていた。明らかに日本の街では無かった。必死に記憶を辿っても、こんな街の写真やテレビ番組など見た事が無かった。ここは明らかに、俺が全く知らない場所だった。
激しく金属がぶつかる音がして、混乱したまま音の方に顔を向けると、檻の扉が開いていた。入り口には背が2メートルもありそうで、筋骨隆々な屈強そうな男が鎖の束をぶら下げて立っていた。ヨーロッパ人らしい彫りの深い顔付きをしていた。それが流暢な日本語を話した時には驚いた。
「一人づつ、列になって出てこい」
低い、冷たい声だったが、外国人の話す英語という感じはしなかった。捕らえられた者達の動きは鈍かった。すぐに二度目の罵声が飛んできて、ようやくひとり、またひとりと枷のついた腕をほとんど引きずりながら進み始める。俺は、比較的奥の方に居たので、少し考える時間ができた。
やはりこれは間違いなく夢だ。さっきの明らかに外国人の男が流暢な日本語を話したのもその証拠だ。英語すら簡単なリスニング程度しか出来ないのだから、夢の中で使用される言語だって日本語に決まっている。
虜囚たちは次々と檻の外に出て行き、俺の番になった。さっきは全く持ち上がらなかった腕が、なぜか少し軽くなり、俺はびっこを引きながら出口に向かった。この都合の良さも夢だからか。そんな事を考えながら出口の敷居を跨ごうとした時だった。檻の外に立っていた看守がいきなり怒鳴った。
「おい、お前。なぜ上衣を着ていない」
心臓が跳び上がった。今ので眼が覚めてもおかしくは無いはずだった。なのに、一度目を閉じて、開いても、網膜に映る映像は変化していなかった。自分が怒られているのだと気付くまでに数秒かかり、それから自分が腰蓑一つしか身につけていないと認識するのにまた数秒かかった。気まずい沈黙を取り返そうと、俺は慌てて弁明しようとした。
「あの、初めからそんなもの着てなくて、で、あのすいませんでした。うっかりしてただけなんです」
話せば話すほど、男の機嫌は悪くなっているようだった。舌打ちが聞こえ、男の肩の筋肉が盛り上がったような気がした。夢の中とはいえ殴られるのはごめんだ。とにかくこいつから離れた方が良さそうだった。
「そうだ、もしかしたら中に忘れてきちゃったのかも。ちょっと戻って確認してきますね」
そう言って檻の中にUターンしようとした俺の肩が、万力のような力で抑え付けられた。男の腕が肩にかけられていて、そのまま俺は再び外に向き直らされて、強引に引きずり出され、地面に投げ出されて無様にうつ伏せで転がった。俺は広場の石畳にしたたかに肘を打ち、思わず情けないうめき声が口から漏れた。見物人の集団から嘲笑が起こった。俺は一体このふざけた夢はいつ終わるんだと、辟易していた。
なんとか仰向けになろうと芋虫のように体を捻っていると、男が手に持っていた鎖を振り上げているのが辛うじて見えた。その時、嫌な汗がどっと噴き出してきた。もしかしてあれが鞭のつもりか?冗談じゃない、あんなもので殴られたら骨折しかねない。当たりどころが悪かったら死ぬかもしれない。もしこれが夢じゃなく、現実だったらどうするんだ。俺は慌てふためいて必死に逃げようとしたが、間に合うはずもなく、鎖が振り下ろされた。
ビリビリと、布を裂いたような音がした。皮膚が破壊された音だった。右の太腿だけが熱くて、体の他の部分は凍えるほど寒かった。それから、信じられない程の痛みが襲ってきた。どくどくと、血が湧き流れているのを感じた。俺は絶叫した。嘘だ、嘘だ、助けて。意味不明な言葉が口から溢れ出てきた。まだ目は覚めてくれなかった。どう考えてもこれは現実の痛みだった。俺はのたうち回った。回転する視界に、無慈悲にももう一度鞭を振り上げている筋肉野郎の姿が映った。だめだ、今度こそ頭か、首か、その辺に当たって、殺される。だめだ、だめだ、そう叫ぼうとしても、獣のような唸り声しか出てこない。
「やめなさい」
騒ついた空気が一瞬で張り詰めた。そうさせるほどの圧力を持った声だった。男は鞭をゆっくりと降ろした。声の主は僕の後ろに立っていた。たった今檻から出てきた所だった。重いはずの手枷を引きずらずに、真っ直ぐ背筋を伸ばして立っていた。
「我がエルネカの民にこのような横暴は許しません。打つなら私を」
気品のある声だが、恐怖が微かに声音を揺らしていた。顔はフードに阻まれて見えないが、背丈や声から察するに、俺と年齢はあまり変わらなそうだった。エルネカ、という国は聞いた事が無かった。痛みのせいで思考は途切れ途切れになり、ますます訳が分からなくなった。
鞭男は最初戸惑っていたが、すぐににやりといやらしい笑みを浮かべた。
「これは、これは、失礼いたしました。元女王エルネ24世」
男は煽るように、元、の部分を殊更に強調した。
「貴女は今はこんな下賤の者にかまけている場合ではないのでは?すぐに大変なお仕事が待っているのですよ。元女王ともなればしばらく客は途切れないでしょうねぇ」
男の笑みはさらに気持ち悪く歪み、ジャラジャラと鞭を弄びながら嘲りの言葉を吐き続けた。俺を助けてくれた人は、それを無視して屈み込み、俺の傷にそっと触れ、囁いた。
「今は傷を塞いで血を止めることしかできません。私が不甲斐ないばかりに。申し訳ありません」
傷に触れた手が、触れるか触れないかの所をすーっとなぞっていった。どくどくと脈打つような傷口の感覚が引いていった。
「あ、ありがとう」
なんとか礼の言葉を絞り出すと、相変わらず顔は見えないままだったが、フードの奥で彼女が、こんな状況にも関わらずフッと優しく笑った気がした。
「当然です。私はあなたたちの為にあるのだから」
彼女がまた立ち上がると、男は話をやめて、馬鹿にするように言った。
「そんな事をしても無駄だというのに、愚かな人だ。ヴィットランでは丁度農繁期が終わった所です。この時期大飯を食うだけの男の奴隷に買い手はつかない。もちろん国の事業もない。もう馬鹿なお姫様でも分かるでしょう」
男は興奮気味に続けた。
「エルネカの男は皆殺しだ!エルネカ王国はお前の代で滅亡するんだ!」
そして男は鼻息も荒く俺の方を向いた。
「手始めにこいつだ。死なない程度に何発か遊んでから殺そうと思ってたが、考えてみりゃ掃いて捨てるほど打たれ役はいるんだ。妙に手間取らせやがったがさっさと殺してやる」
俺はまた怯えて、無様にもがいた。女王様とやらが間に割って入ったが、今度は男の太い腕で脇になぎ倒されてしまった。男は嗜虐の悦びに眼を輝かせ鎖を再度持ち上げた。今度こそ死ぬ。その時に目が覚めれば問題はない。だが、本当に殺される、これは夢じゃないと、そう本能が叫んでいた。男は雄叫びを上げた。その腕の筋肉の繊維一本一本までが見えるような気がした。確かにその瞬間は、死に直面していた。その時だった。見物の集団の方から鋭い声がした。
「待って」
二度も妨害を食らった男は、相当苛立ったようで、檻の角を足で蹴り上げた。中に残っている囚人たちは恐怖で縮み上がった。
たたたっと軽快な足音が聞こえて、女の子が男の前に立った。
「この人、買います。いくらですか」
男はその子をじっと値踏みしてから返事をした。
「10万だ」
それが法外な額だというのは、周囲の雰囲気からなんとなく分かった。男はだいぶふっかけて、これでも払うと踏んだのだ。女の子はため息を吐いてから、仕方ないか、というふうに肩をすくめて言った。
「取引成立、です」
男は金貨で膨らんだ袋の中身を数え終えると、俺の枷を外し、女の子に向かってバンッと突き飛ばした。まだ右脚の痛む俺は、そのまま彼女に抱きとめられた。
「うわっ、汗やば」
ごめんなさい、とぼそぼそ呟きながらなるべく左脚に体重をかけて、なんとか自分の体を支える。その時ようやく俺は自分を救ってくれた恩人の顔を見て、驚きに顔を引きつらせた。
「なにその顔」
少し呆れたような顔で、彼女は俺を見ていた。
「ほし……はら?」
彼女の名前は星原彗月。俺の高校のクラスメイトだった。
最後まで読んでくださり本当にありがとうございました。一話目から長くてすいません。二話はなんとか現実世界に戻るとこまで書きたいなと思ってます。感想や意見、評価をいただけると励みになります。よろしければお願いします。それでは、また次の更新で。