真夏の白
その日も僕達は授業をサボり、そこで遊んでいた
まさか真夏の白昼にあんな恐怖を味わうとは、、
中学2年になると僕は塾に通い始めました。
もちろん自ら望んでそんな所に行くはずもなく、通わされていた というのが正しいのですが。
近所の幼なじみや同級生の多くが塾に通い始めた事もあり、その流れに乗り遅れないようにとほぼ強制的に通う事になったのです。
確かに、クラスの半数以上が塾や家庭教師をつけているというデータもあったので、当時の風潮というか世間一般の流れがそんな方向に向いていた時代なのかもしれません。
しかしながら当の本人に『いい高校を目指すぞ!』とか『将来こうなりたい!』 といった自覚や目標が全くないのでは、結果は目に見えています。
塾に通い始めて数ヶ月、少し慣れてきた僕は授業をサボる事を覚えました。
英語の先生は若くて面白い先生で、授業中にしょっちゅう話しが脱線してみんなを笑わせてくれました。
だからこの先生の授業をサボろうという気にはなりません。
数学の先生は、僕の頭の中にあるイメージ通りのいかにも数学の先生といった感じで、銀縁の眼鏡をかけていて厳しくて怖い先生でした。
これもサボれません。
そして国語の先生です。
何日も洗っていないようなボサボサの頭で、毎日同じグレーのブレザーを着ているその先生は、誰から見ても『冴えないおじさん』でした。
さらにその授業のやり方は、いつも先生が一方的に進めるだけで、読まされたり答えさせられたりする事がないのはいいのですが、とにかく退屈でした。
そしてなぜかこの先生だけは出欠すら取らないのです。
僕と国井君は国語の授業をサボる計画を立てて、そして実行しました。
国井君は塾で知り合った友達で、1つ隣の駅から同じ電車で通っていました。
僕が二中で国井君が三中、お互い本気で勉強をしにきていない辺りで変に気が合ったのかもしれません。
数学の授業が終わり最後の休憩時間になると、僕達は目配せをして、目立たないように鞄を小さく丸めて持ち、タイミングをずらして2人別々に教室から抜け出しました。
いつもは2人並んで授業を受けていたのですが、この日に限っては2つ並んで空席があると目立つかもしれないと考え、1時間目からわざと離れた席に座っていました。
脱出は大成功でした。
僕達はいつも寄り道をして遊んでいる所に行き、いつもより長くそこで遊ぶ事ができました。
そのたかだか1時間程度が僕達にはとても刺激的で、とても楽しい時間でした。
ただその日から数日の間は、サボった事がバレて家に連絡が来るんじゃないかと常にビクビクしていました。
家の電話がなる度にドキドキして、その話しに聞き耳を立てていました。
しかし1週間経っても塾からは何の連絡もありません。
成功を確信した僕達は、週3回の内1回ぐらいの割合で国語の授業をサボるようになりました。
最初のうちは2人が同時にいなくなっても目立たないようにと、わざと離れた席に座って細工をしたりしていましたが、だんだん慣れてくるとそれすらしなくなりました。
それどころか「国語なんか受けなくてもいいじゃん 」と、まるでそれがカッコいい事であるかのように他の生徒に言いながら、堂々とサボるようになっていったのです。
僕達が遊んでいたのは、塾とは線路の反対側にある10階建てマンションの1,2階を占めるジョイフィールドという商業施設で、僕達はジョイと呼んでいました。
1階が食料品を扱うスーパーで、2階には本屋や洋品店、おもちゃ屋などが入っていました。
そしてそのおもちゃ屋の店先に50円で遊べるビデオゲームが2台と、ハンディタイプのゲーム機の商品見本がチェーンで繋がれて置かれていました。
見本のゲーム機は誰でも自由に遊べるので、近所の子供達でいつも列ができていました。
1度遊んでゲームオーバーになったらまた列の後ろに並び直す、割り込みは禁止、ジュースを飲みながらやっちゃダメ、子供達だけで遊んでいる中にも、そこには秩序と暗黙のルールが存在していました。
そしてそこを仕切っていたのが、僕達より1学年下でみんなにヒロ君と呼ばれている男の子でした。
ヒロ君はジョイの上にあるマンションの5階に住んでいて、言わばその界隈のガキ大将のような存在でした。
何度か顔を合わせているうちに、とても人懐っこいヒロ君はよそ者である僕達も受け入れてくれて、すぐに仲良くなって一緒に遊ぶようになりました。
僕達が塾の帰りに寄り道をして、1回だけゲームをして大急ぎで帰っていくのを知っているヒロ君は、自分のゲームの順番を僕達に譲ってくれたりもしました。
いつもはたった数分しか遊べないのに、国語の授業をサボった日はその楽しみの時間が1時間近くあります。
授業をサボる事に対する罪悪感をすでに無くしていた僕達は、ジョイでのその1時間のためだけに塾に通っているような、そんな感覚にすらなっていました。
僕達はゲームだけでなく、ヒロ君に連れられて近所の駄菓子屋に行く事もありました。
3人で一緒に過ごす時間はとにかく楽しい時間でした。
夏休みに入ると、塾では夏期講習が始まりました。
もちろん僕と国井君は同じ日程で同じ時間帯の授業を選び、いつもと同じように国語の授業をサボり、いつもと同じようにヒロ君のいるジョイに遊びに行きました。
その日も僕達はジョイに着くと、正面玄関から入ってすぐの吹き抜けになった大きな螺旋階段を駆け上がり、おもちゃ屋を目指しました。
夏休みという事もあって店内は買い物客が多く、普段は遊んでいる子がほとんどいない50円のビデオゲームにも列が伸びていました。
「あれ? 今日ヒロ君いないね。」ゲームに並んでいる子達の顔ぶれを一通り見渡してから僕は言いました。
「あれ? 本当だ。来るって言ってたのになぁ、 まぁそのうち来んでしょ。それよりジュース飲まない? 喉カラカラだよ。」
僕達は薬局の横にある自動販売機でジュースを買い、黄緑色のソファに座りました。
2人ともほとんど一気に飲み干しました。
額の汗にクーラーの風が当たって心地よかったです。
「あと1回で夏期講習も終わりかぁ、そしたら学校が始まるまでここにも来られなくなっちゃうなぁ… 」
国井君がやたらしみじみと言うもんだから、なんだかおかしくて僕は吹き出してしまいました。
でも、僕もちょうど同じ事を考えていました。
「自殺! 自殺! 自殺! 自殺! 飛び降り! 飛び降り! 自殺! 自殺!」
のんびりと時間の流れるジョイの店内に、あまりにもそぐわない言葉を大声で叫びながら、すごい勢いでヒロ君が走ってきました。
周りにいた買い物客もぎょっとして、立ち止まってヒロ君を見ています。
「えっ! 何? どこで? 」
走ってきた勢いで僕達の周りを一周回ったヒロ君は、手招きをしながら既に今来た方に向かって走り出していました。
そっちはジョイからヒロ君の住むマンションに繋がる連絡通路です。
「早く早く! 飛び降りだって! こっちこっち! 早く!早く!」
僕達はその勢いに圧倒され、引っ張られるようにヒロ君の後について走り出しました。
駅前の一等地にあり10階建てであるにも関わらず、その建物の名前には『アパート』とついていました。
僕達はマンションと言っていましたが、実際にはまだマンションという言葉すら定着していない時代に建てられたとても古い建物でした。
日の光が一切入らないそのエレベーターホールは、ひんやりとしていてカビ臭く、やたらと薄暗かったです。
ジョイの店内が明るいので、余計にそう感じたのかもしれません。
コンクリートの壁に囲まれていて空気の流れがまるでなく、聞こえるのは3人の荒い息づかいだけでした。
「ねー ヒロ君、ほんと? 誰が飛び降りたの?」
国井君の質問に「わかんない、、でも多分、、ここからエレベーターで上に行けば、、見えるよ、、早く行ってみよう」と、ヒロ君は息を切らせて答えながら、エレベーターのボタンを押しました。
10階に停まっていたエレベーターがゆっくりと降りてきました。
「俺、自殺なんて見た事ないよ… ある?」
「あるわけないじゃん… 」
僕は国井君に答えながら、ちょっとだけ見てみたい好奇心と、怖くて見たくない恐怖心が自分の中にあるのを感じていました。
扉が開き僕達はエレベーターに乗り込みました。
「たぶん10階から飛び降りたんだ! だから10階に行くと警察とかがいるかもしれないから、9階から見てみよう!」そう言うとヒロ君は9階のボタンを押しました。
9階に着くまで僕達は無言でした。
扉が開くと左前方から一気に真夏の日差しが差し込んできました。
エレベーターを降りた正面には壁があり、通路は左右に延びていました。
左側はエレベーターと並んですぐに部屋の扉が続いていて、右側はエレベーターの隣に階段があって、その向こうから部屋の扉が続いていました。
「ここから 見てみよう」というヒロ君に続いて、僕達はフェンスの前に並びました。
落下防止のコンクリートのフェンスは、ちょうど僕達の肩下ぐらいの高さで厚みがあるので、僕達の身長ではそのまま下を覗き見る事はできませんでした。
「いくよ、せーの!」と掛け声をかけ、僕達は一斉にフェンスに飛びつきました。
フェンスにしがみついて下を覗き込むと、僕達のいる位置から右に10メートルぐらいのところで、警察らしき人達が何人も動き回っているのが見えました。
そこは1階ではなく、建物から張り出した3階くらいの高さにある屋上のような場所でした。
そして動き回る人達の中央にモスグリーンのシートが敷かれていました。
「あれかな? 」
「そうだよ、絶対あれだよ!」
「あれって多分みんな警察の人だよね?」
「すげー なんか事件 って感じ!」
「もうちょっとあっち行ってみる? そしたら真上だよ!」
そんな事を言いながら見ていた僕達に、その瞬間は唐突にやってきました。
「あっ!!!」
「うわっ!!」
警官の一人がそのモスグリーンのシートをめくったのです。
髪が長くて若い女の人が仰向けに倒れていました。
真っ白なワンピースを着ていて、服と同じくらいに顔や手足も真っ白でした。
腕が変な方向に曲がっていて、頭の周りには黒っぽい水溜まりがありました。
僕が1番最初にフェンスから降りました。
「もういいよ、 もう 戻ろう」
それ以上とても見続けてはいられませんでした。
僕と国井君がエレベーターの前まで来ても、ヒロ君はまだ下を見ながら興奮していました。
ちょっと苛立ちながら「先に戻るよ!」ともう一度声をかけると、やっとヒロ君もフェンスから下りて歩いてきました。
エレベーターは今度は1階に停まっていました。
ボタンを押してエレベーターを待つ間も、興奮したヒロ君は喋り続けていました。
「あれ、あそこだよ! ちょうどジョイの天井のあたり!」
僕も国井君も何も答えずに、階数表示のランプが上がって来るのをただじっと見ていました。
エレベーターに乗り、ボタンを押そうとして僕は戸惑いました。
何階のボタンを押せばいいのかわからなかったのです。
「あれ?何階だっけ? ジョイのおもちゃ屋のとこに戻るなら何階? 2階のボタンがないよ?」
「3階だよ!このエレベーターだと、ジョイの2階は3階なんだ。ジョイは普通の家より天井高いでしょ」
「へぇー そうなんだ」と3階のボタンを押そうと手を伸ばした時、ガクンとエレベーターが動き出しました。
「あーぁ 押すの遅いから10階で呼ばれちゃった」
「だってわかんなんいんだから、それならヒロ君が押してくれればよかったじゃん」
そんな言い合いをしている内にエレベーターは10階に着き扉が開きました。
「あれ? 誰もいないよ?」
「なんだよ、いたずらかよ! はい、3階押して」
ヒロ君に言われるままに僕は3階のボタンを押しました。
そして扉が半分閉まりかけた時、突然ガガガガガッと扉に何かが挟まったような変な振動と音がして再び扉が開きました。
「あれ?」
僕はもう一度『閉』のボタンを押しました。
再び扉が閉まりかけたけど、やはり半分までいくとゴガガガガッ と音がして扉が開いてしまいます。
「えっ? 何で何で?」
もう一度繰り返してもやはり ガガガガガッ と変な音がして再び扉が開きます。
僕達はちょっと気味が悪くなって、3人で『閉』のボタンを連打しました。
そして5回目に扉が開いた時、右の方から歩いてきた女の人がエレベーターに乗ってきました。
その人を見た瞬間に僕の全身には鳥肌が立ち、鼓動がどんどん激しくなりました。
僕は後退りをしてエレベーターの後ろの壁に張りつき、横目で国井君を見ると、国井君もやはり同じ態勢で目を見開いて女の人を見ていました。
僕の足はガクガクと震えていました。
女の人は髪が長くて真っ白なワンピースを着ていて、その顔や手足は透き通るように真っ白でした。
女の人が乗り込んだ後エレベーターの扉はスムーズに閉まり、女の人は9階のボタンを押しました。
「なんだぁ、びびったー やっと閉まったよ。エレベーターが壊れたのかと思った。あれ?何で9階なんて押したの?」
ヒロ君は明らかに僕に向かって話しかけていました。
『えっ!? もしかしてヒロ君にはこの女の人が見えていないのか?』
身体が硬直して動けない僕と国井君は、目だけを動かしてお互いの気持ちを確かめあいました。
国井君の歯がガチガチと音を立てて鳴っていました。
9階で女の人は降りていきました。
エレベーターを出たところで一瞬立ち止まり、そして右の方に歩いていきました。
「今日はもう帰るよ… 」
ゲームに誘うヒロ君に一言だけそう告げると、僕達はジョイを後にしました。
自動ドアを出るとすぐ、ギラギラとした真夏の日差しが照りつけてきました。
駅前のロータリーには救急車とパトカーが3台停まっていました。
僕達は一言の会話もないまま駅に向かい、電車に乗って並んで座りました。
しばらくして、僕は自分が力一杯拳を握り続けていた事に気がつきました。
ゆっくりと手を開くと、手のひらには汗がにじみ、爪の跡がついていました。
僕の降りる駅が近づいた所で国井君がポツリと言いました。
「あの人… だったよね… 」
「うん… 」
次の日の新聞で、ジョイの10階に住んでいた女の人が飛び降り自殺をした事を知りました。
会社の横領事件で自分が犯人に仕立てあげられ、それを苦にしての自殺だったそうです。
横領事件の真犯人はジョイの9階に住んでいる彼女の友人でした。
彼女は犯人の部屋の前に遺書を残して、そこから飛び降りたのです。
僕と国井君が見たのは飛び降りる直前の彼女の姿だったのでしょうか…
夏期講習の最終日、僕は頭痛がひどいからと嘘をついて休んでしまいました。
そして新学期に初めて塾に行った時、国井君が転校して塾を辞めてしまった事を知りました。
お互いの連絡先を知らなかったので、国井君とはそれから一度も会っていません。
僕は惰性でそのまま塾に通い続けましたが、あれから一度もジョイには行っていません。
女の人の倒れている姿を思い出したくなかったし…
あの女の人がまだそこにいるからです。
もしかすると今でも、あの女の人は何度も繰り返して飛び降りているのかもしれません。
一度だけ電車の中からジョイの方を眺めた時、僕はそれがマンションから落ちていくのを見たのです。
夕焼けで街全体が赤く染まるその景色の中…
赤く染まらない白を