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僕はじりじりと後じさった。
朱美は大口を開け喚いた。
「裸になるんだ、流可男! これはオイラの命令だ!」
「い……嫌だ……冗談じゃない!」
さらに迫る朱美から逃れるように、僕は後じさり、ドアに近づいた。朱美に視線を当てたまま、後ろ手でドアノブを探る。
指先がドアノブを探り当て、僕はぐっと握りしめるとノブを回した。
開かない!
朱美はニヤリと笑いを浮かべた。
「諦めろ、オイラが鍵を掛けておいたからな。流可男が逃げ出せないようにな!」
いつの間に……?
「な……何で僕が裸にならないといけないんだ? そっ、そんな趣味があったとは知らなかった……」
朱美は「フン!」と鼻で笑った。
「あの時、流可男は風邪をひいていた。オイラは風邪なんか一度もひいたことはない。それが違いなんだ!」
僕はポカンと口を開いた。
朱美は続けた。
「だからあの時と同じ状況を作り出すため、流可男は裸にならなければならない。風邪をひくためにな! オイラは流可男の風邪のウイルスを研究して、変身の秘密を探り当てる! さあ、素っ裸になれ!」
僕は猛烈に首を振って、拒否の意思を示した。
「嫌だ! 何で僕がわざわざ風邪をひかなければならないんだ!」
朱美は薄ら笑いを浮かべた。
「そうか……そんなに嫌か?」
「当たり前だ!」
「それなら、仕方ないな!」
朱美は言うなり、素早く動いて、部屋の壁のスイッチに手を触れた。
途端に「ごうん……」という重々しい音とともに、巨大なエアコンのコンプレッサーの音が響いた。同時にエアコンの送風口から冷風が吹き付けてくる。
朱美は極端な暑がりで、真冬でさえエアコンの冷房をつけっぱなしにする。そのため朱美の研究室に据えられているエアコンは、業務用の、肉や魚を冷凍する冷凍機と同じものだ。
冷風が吹き付けると、朱美はさらにホースを取り出した。ホースの先は真鍮製の、消防署で使われている消防ホースだ。朱美が放水口のレバーをぐいっと捻ると、筒先から水が勢いよく迸り始めた。
消防ホースの放水は、大の大人でも扱いに慎重にならざるを得ない、危険な代物だ。うっかり放水すると、場合によってはホースが奔馬のように暴れ出し、持ち手に大けがを負わせる危険がある。
だが朱美は放水ホースを楽々と扱い、飛沫を上げる水流をあろうことか、僕に向けてきた。
「わぁっ!」
僕は悲鳴を上げて床に叩きつけられた。
消防ホースの水流は、薄い壁なら突き抜けるほどの威力がある。火災の際、窓ガラスを破って、家の中に水流を送り込まなければならないので、水流の勢いは物凄いものがあった。
「わははははは! そら、流可男、服を脱がいないからこういうことになる! 大人しく裸になっていれば良かったのにな!」
朱美は大口を開け、哄笑しながら僕に向けて放水を続けた。
僕は何とか朱美の放水から逃れようと、研究室の中を右往左往したが、朱美は一瞬も途切れることなく、僕の全身に水流を的中させていた。
のたうち回る僕を見る朱美の両目は、キラキラと輝いていた。
他人が苦痛に悶えたり、すっ転んだりするさまを見るのが、朱美には堪らないほどの娯楽となる。
ただしいわゆるテレビの「ドッキリ」番組は見ない。朱美曰く、「あれはヤラセ」だからだそうだ。
放水を浴びながら、僕はガタガタと震え始めた。
水流は氷のようだし、さらに送風口からは真冬のブリザードのような強烈な冷風が吹き付けてくる。冷風は風速、三十メートルは軽く超えているのではないか。
水流と、冷風が僕の体温を容赦なく奪い、僕は意識が朦朧としてきた。
このままでは凍え死ぬ!
死の恐怖の咢が、僕の心をがっちりと咥えていた。
ふと気づくと、あれほど僕を一瞬も離さなかった水流が途絶えていた。
どうしたのか? と朱美を見ると、相変わらずホースの筒先を抱えるようにしている。
しかし筒先からは水流が迸ってはいない。
いや、ボタボタと筒先から水流は送り出されているが、様相が変わっていた。
今や筒先からは、シャーベットのような氷交じりの水が垂れていた。その氷交じりの水が、さらに氷だけになり、とうとう詰まってしまった。
ガタン! と朱美の手からホースが床に落ちて、金属の筒先が派手な音を立てた。
「さ……寒い……!」
朱美はブルブルガタガタと大げさに震えながら、床に膝をついてしまっている。
嘘だろう……?
僕は朱美が寒さに震える姿を、初めて目撃した。
何しろ、真冬の雪原でさえ、高校の夏服で平気で過ごすくらいだ。北極熊ほど寒さには耐性があるはずだ。
しかし現に朱美は寒さに震えている。
そうか!
体重が半分以下になり、分厚い皮下脂肪がなくなって、朱美は初めて寒さを感じ始めているのだ……。
「朱美、大丈夫か?」
僕は朱美に近づこうと、一歩前へ足を踏み出した。
途端にバリバリと、足元で何かが砕ける音がした。
慌てて足元に目をやると、床一面が氷に覆われ、僕の足裏は氷漬けになっていた。歩き出そうと足を上げたので、靴の裏に貼り付いた氷が砕けたのだ。
シャリシャリ……という音が肩先で響いた。
驚くことに、僕の制服もまた、氷漬けになっていた。動き出したので、表面の氷がひび割れ、一斉に無数の破片になって落ちていく。
うわあ……。
ここはまるで、エベレストの頂上と同じくらい……いや南極か、北極と同じくらい凍り付いていた。
慌てて頭に手をやると、髪の毛もまた氷漬けになっていて、ぶるんと顔を掌で拭うと眉毛、睫毛の氷がパリパリと手のひらに当たっていた。
これでは凍死する!
エアコンだ!
エアコンを一刻も停止させないと……。
僕は床をガシャガシャと音を立て砕きつつ、エアコンのスイッチに近づいた。
震える指先で停止スイッチを押す。
しかしエアコンは停止する様子を見せない。
相変わらず重々しいコンプレッサーの音を響かせ、送風口からは容赦ない冷風が室内を凍り付かせていた。
僕は朱美に顔を捻じ曲げ、叫んだ。
「朱美! エアコンが停まらない! このままじゃ、二人とも氷漬けだぞ!」
だが朱美は床にうずくまったまま、返答をしなかった。
僕は大急ぎで朱美の側に近づき、跪いて顔を覗きこんだ。
今まで見たことのないような青白い顔色だ。
朱美の目の前で手をひらひらさせたが、反応がない。
完全に意識を喪失している。
「朱美、しっかりしてくれ!」
僕は朱美の両肩を掴み、揺さぶった。
チャリン……、と金属質の音が鳴り響いた。
見ると床に、小さな鍵が転がっている。
多分、研究室の鍵だ。
僕は鍵を拾い上げ、ついでに朱美の身体を担ぎ上げた。
以前の朱美だったら、こんな真似は絶対に不可能だろう。今の朱美なら、体重は四十キロ以下なので軽々と担ぎ上げることが出来た。
僕は朱美を肩に担ぎつつ、一歩一歩、研究室のドアに近づいた。
もう全身が冷凍マグロのようになっていて、一歩前へ足を踏み出すのさえ、全身の力を振り絞る必要があった。
喘ぎ声を上げ、僕は遥か彼方に存在するようなドアを霞む目を擦りつつ前進した。この時の努力はほとんど、急峻な崖路を登攀するのと同じほどの力が必要だった。
びしっ!
ぱしんっ!
奇妙な音に天井を振り仰ぐと、研究室の照明から周囲に紫電が放たれていた。
後で聞いたが、あまりの低温に、温度はほとんど絶対零度近くに下がり、局地的に超電導が起きていたのだそうだ。そのため超電導状態の大電流が流れ、スパークが起きていたらしい。
ようやくドアの前へ辿り着いた……。
僕は震える指先で朱美の鍵を握りしめ、ドアの鍵穴を必死に探っていた。寒さが僕の指先を勝手に踊り出させ、苛立たしい思いで僕は鍵穴に鍵を突っ込んだ。
がちっ!
鍵穴は僕の鍵を拒否した!
目を近づけると、鍵穴自体が凍り付き、氷の蓋になっていた。
「何でだよお……」
僕は鼻水をすすり上げ、半泣きになっていた。
次に僕の取った行動は、馬鹿としか言いようがなかった。
僕は素手で凍り付いたドアノブを握りしめていたのである。
「うぎゃああっ!」
苦痛が手のひらから伝わり、僕はもぎ取るようにしてドアノブから手を離した。
ばりっ!
嫌な音が僕の手のひらから伝わった。
何だろうと僕は目の前に手のひらを広げると、皮膚が一面ベロンと剥けて真っ赤な真皮が剥き出しになっていた。
氷点下の金属に素手で触れるという、一切言い訳ができない阿呆な真似を僕は仕出かしたのである。一瞬で皮膚は凍り付き、無理やりはがした途端、皮下脂肪ごと持っていかれたのだ。
「もう駄目だ……僕らはここで死ぬんだ……」
真っ暗な絶望感が、僕を押しつぶした。
すすり泣き、僕はボロボロと涙をこぼした。しかし涙は溢れる先から凍り付き、僕の目は厚い氷に覆われてしまった。
──お兄様……諦めては駄目です──
不意に聞こえた奇妙な声に、僕はギクリと背筋を伸ばした。
何だ、今の声は?
朱美ではない。
朱美は僕の肩でグッタリと意識をなくしている。
今の声は、別の個所から聞こえていた。
それは僕の内側からだった。
──あなたの力を解放なさい──
「僕の力? そりゃ、何だ?」
正体不明の声に、僕は必死に叫んでいた。
妙なことに、声にはどこか懐かしい響きがあった。いつか、どこかで僕はあの声に聞き覚えがある!
不思議なことに、声を聴いてから僕はパニックを克服していた。
もう絶望感は欠片も存在しなかった。
僕は赤剥けになった自分の手のひらに意識を集中させた。
すると……何ということだ! 見る見る僕の手のひらは治癒を開始し、真っ赤な真皮には脂肪が盛り上がり、薄皮が張り始めたではないか。
あっという間に僕の手のひらは、健康そうな皮膚を取り戻していた。
気が付くと今にも冷凍マグロになって横たわりそうなほどの寒さが、僕の全身からは消え去っていた。
逆に体の芯からジンジンと熱さが湧き上がり、もう一瞬も寒さは感じない。
シュウシュウと音を立て、僕の制服からは真っ白な水蒸気が噴き出していた。僕の体温が、濡れそぼった制服から水分を蒸発させていたのだ。
ぼぼぼぼぼ……と身動きのたびに、僕の周囲に炎の列が出現した。
あまりの低温と僕の放つ高温の空気が、温度境界で逆転層を作り出し、空気が燃え上がったのだ。もっともこれは、後で朱美が解説してくれたことだ。説明されても僕には珍紛漢紛だったが。
僕は凍り付いたドアノブを睨みつけた。
一瞬前には手のひらに噛みついた猛獣のようなドアノブに対し、僕は今ではまったく恐怖を感じない。
僕はぐっとドアノブを握りしめた。
じゅーっ! と音を立て、握りしめたドアノブから盛んに蒸気が吹き上げた。
ぽたぽたと握りしめたドアノブから水が垂れている。
僕はドアの鍵穴に鍵を挿し入れた。
もう鍵穴は凍り付いていなかった。
がちゃり……と鍵が解除される音がして、僕はドアノブをくるりと回し、ドアを開いた。




