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 崎本美登里は視界の隅に、アイリスの姿を認めた。

 何だかアイリスの様子が妙だ、と美登里は思った。

 元気がないようだ。

 いつもならスタジオ中に響き渡るような大声で「帰ったでえ!」と弾けるような大阪弁で報告するのに、今回は無言で入室してきた。

 ちょっと気になったが、美登里は現在抱えている仕事に集中していたので、すぐ脳裏からアイリスの存在を閉め出した。

 ここは大泉学園駅付近の一軒家で、美登里の自宅兼スタジオだ。近くには東映アニメのスタジオがある。西武線、中央線沿線にはアニメの関係者、スタジオ、マンガ家など日本のポップ・カルチャーの担い手が多く住んでいる。

 スタジオには常時、数人のスタッフが詰めていて、美登里の指揮下殺到する仕事をさばいていた。

 今週は締め切りが三本重なって、スタジオは天手古舞だった。

 美登里のマンガは、青少年健全育成突撃隊による規制で国内では連載ができなくなっていたが、ロボットや宇宙人などの設定に変えることにより、再び国内で掲載できるようになっていた。

 マンガ家、崎本美登里の復活だった。

 主な連載は集談館の週刊「少年マックス」とその月刊誌に掲載している。さらに描きおろしも依頼され、「少年マックス」の表紙、カラーページと立て続けに締め切りが重なっていた。

 美登里は昨日の昼頃からずーっと机に張り付き、ペンを走らせていた。当然、徹夜で一睡もしていない。風呂にも入らず(シャワーは浴びた)、歯も磨かず、髪も梳かしていない。化粧だってこの一週間、やっていない。

 スタジオでは美登里のアシスタントが、背景や群衆モブ、様々な効果線などの処理をしている。全員女性で、美登里に付き合い、徹夜続きだ。眼球は充血して真っ赤で、表情はどんよりとしている。

 どういうわけか、この中でもっとも元気なのが美登里だった。仕事量が多く、一番激務なのにかかわらず、ついさっき目が覚めたような、張りのある顔つきを保っていた。目の下に隈もなく、肌はつやつやとしていた。

 一種の特異体質だろう。

 ピンポーン、とドアのチャイムが鳴り響き、来客を報せてきた。アシスタントの一人が立ち上がり、ドアホンの画面を確認して美登里に声をかけた。

「神山さんだよ!」

 美登里のスタジオでは、全員ため口をきく。最初に美登里はアシスタントを雇用するとき、敬語は使わないよう厳命している。

 美登里は「うん」と返事をして立ち上がった。アシスタントの「神山さん」とは集談館の編集部員の名前だ。

 神山の用件は、今度美登里が集談館の月刊誌に掲載予定の、描きおろし読み切りマンガの打ち合わせに来たのだ。

 玄関に迎えに行くと、編集部員の神山がぺこりと頭を下げた。顔を上げて「お疲れさまっす!」と挨拶する。ずんぐりとした体つきで、顔もジャガイモに目鼻といった感じで人柄の良さが外見に出ていた。

 美登里は神山に向かって「まあ、どうぞ」と声をかけ、玄関側の小さな部屋へ案内した。ソファと腎臓型のテーブルがあって、簡単な来客用の部屋として使っている。二人が向かい合って座ると、アシスタントの一人がコーヒーを用意してテーブルに置いた。

 美登里のスタジオでは、コーヒーは本格的なドリップ式を奢っている。部屋に、コーヒーの香りが漂った。

 いつものように、神山は雑談抜きに本題に入った。

「先生、今回の描きおろしですが……題材についてちょっと注文があるんです」

 美登里は無言で、眉をちょっと上げて見せた。

 神山は一つ頷くと、先を続けた。

「〝銀河番長ガンガガン〟のサブ・キャラで〝リーム〟という宇宙人少女をご存知ですか?」

 知っているも何も、〝リーム〟の登場で美少女キャラでも宇宙人や、ロボットにすれば掲載できることになって、美登里は国内で復活できたのだ。

 その意味を告げると、神山は意を決したように口を開いた。

「それで今回、そのリームを主人公にした描きおろし読み切りをお願いしたいと……」

 最後まで言わせず、美登里は神山の言葉を押しとどめた。

「ちょっと待ってよ、神山さん。あたしに他人のキャラクターを使って、マンガを描けと言うの? そんなの、新人のマンガ家の仕事じゃないの!」

 美登里は一度たりとも、原作付きのマンガは描いたことはない。ましてや他人のマンガのキャラを使った、スピンアウトものは手掛けたことはなかった。

 ベテランマンガ家でも、こういったスピンアウトものを手掛けることはあるが、美登里はオリジナルにこだわっていて、他人の原作は手掛けないことは一種のプライドでもあった。

 神山は拝むように美登里に哀願した。

「お願いします! どうしても先生にリームを主人公にした読み切りを……読者の反応が良ければ連載も……」

「あたしにこれ以上、連載を増やせっていうの? 冗談じゃないわ、今だっていっぱいいっぱいだってのに」

「そこを何とか……」

 しつこく哀願を繰り返す神山を眺めているうち、美登里の胸に疑いがむくむくと黒雲のように湧き上がってきた。

「ねえ、その話、どこから来たの? 神山さんの独断じゃあないでしょう?」

 美登里の追及に、神山は一瞬絶句した。が、躊躇いがちに答えた。

「それは編集会議で……」

「嘘よ!」

 美登里は決めつけた。

「編集会議で決まったことなら、その場に編集長が居合わせたはずよね。編集長がそんな話を、会議で決めるわけないわ!」

 少年マックスの編集長には、美登里がデビュー当時から面倒を見て貰っている。いわば美登里の短所も長所も知り尽くしていて、編集長が原作付きの話を持ってくるわけがなかった。

 神山は観念したように大きく息を吸い込むと、冷静な表情で告げた。

「判りました、正直に言います。実はマックスの編集部から出た話ではないのです。集談館の幹部会で決まったことなのです」

 驚きに美登里は思わずのけ反っていた。

「ええ~っ! 信じられない! 集談館の幹部会って、つまり社長とか部長クラスが決めたってこと?」

 集談館は週刊誌、月刊誌、単行本、文庫本を手広く出版している総合出版社だ。少年マックスは集談館のごく一部の編集部に過ぎない。

 美登里の理解によれば、編集長を飛び越え、経営陣が直接企画を持ち込んだことになる。

 あり得ない話だ。

 神山は暗い顔になって美登里に話し掛けた。

「そうなんです。ですから編集長も断れない状況で、もし崎本先生がリームの描きおろしをどうしても断ることになれば、編集長は職を去らなければなりません。もちろん、僕も……」

 美登里の表情を見て、神山は慌てて言い添えた。

「良いんです! 編集長は先生が断ることも考え、覚悟を決めています。そうなったら僕も編集長についていきますから」

 美登里はゆっくりと頭を振って呟いた。

「そんなこと言わないでよ……。寝覚めが悪いじゃないの」

 神山の顔に小さな希望が燃え上がった。

「先生、それでは?」

 美登里がどう答えようかと逡巡していると、出し抜けに背後のドアが開きアイリスが姿を現した。

「美登里先生! その話、受けるべきや! リームの話、描いてや!」

 突然のアイリスの闖入に、美登里と神谷はあっけにとられていた。

 いや、美登里はアイリスの態度に戸惑っていた。

 今までアイリスは美登里のマンガの英訳に全面的に協力し、美登里の作品は英語圏に大きく広がることに貢献していた。

 しかしアイリスは一度たりとも、美登里のマンガについて「ああだこうだ」と意見を述べたことはない。完全に、翻訳者としての立場に徹底していた。

 今のアイリスは全身に決意を漲らせ、何としても美登里の意思を翻すことに熱意をこめていた。

 美登里は大きく息を吸い込み、神山を睨んだ。

「判ったわよ。やるかやらないか、今ここで決めるわけにはいかないけど、一つ条件があるわ」

 神山は上目がちになって、美登里に尋ねた。

「なんでしょう?」

「作者の紅蓮に会わせなさい。やる、やらないを決める前に、作者と直談判するのは当たり前のことでしょう?」

 神山は絶句した。

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