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「お帰りやす、お兄さま!」

 弾けるような笑顔で、アイリス加藤は来店した客に声をかけた。来店したのはいかにもオタクっぽい外見の男性客で、アイリスの姿に一瞬立ち止まりドギマギした様子を示した。

「あかん! ご主人さまやった!」

 アイリスはペロッと舌を出して肩をすくめた。

 アイリスに「お兄様!」と間違えて呼びかけられた客は、それでもニンマリとだらしのない笑顔を浮かべた。

「いやいや……中々、〝萌える〟間違いですぞ!」

 アイリスは肩をすくめた。

「ほな、お入りな! お一人、ご案内やで~!」

 アイリスは男性客の背中を押すように、店内に押しやった。

 フリルのついたエプロンに、メイド服。

 アイリス加藤は来日して、メイド喫茶のメイドとして働いていた。

 ここは西荻窪にあるメイド喫茶「スチームパンク」の店内だ。人気ゲーム「蒸汽帝国」の世界観を再現したデザインで、店の天井や壁には幾本もの蒸汽パイプがうねうねと這いまわっている。家具は十九世紀ころのイギリス風で、来店する客は大半がゲームのプレイヤーだった。

 明らかにアフリカ系とわかるアイリスが、流ちょうな日本語、それも大阪弁で話すため話題となって店内は賑わっていた。

「アイリスちゃん。どうして〝ご主人様〟じゃなく〝お兄様〟なの?」

 同僚のメイドが、アイリスを店の隅に引っ張って尋ねた。アイリスはちょっと首を傾げ答えた。

「なんでやろ? ともかくお客はんを迎えるとつい出るんや」

 オタク禁止法が施行されて以降、メイド喫茶は次々と閉店したが、それでも熱心な客にささえられ、細々とだが数店は営業を続けていた。この「スチームパンク」もその一つだ。

 アイリスは崎本美登里のスタジオ兼自宅に同居し、美登里のマンガの英訳を担当している。それだけでなく、こうしてメイド喫茶に入店して、日本の生活を満喫していた。

 来店している客は、男性と女性が半々ほどだ。ぽっちゃり、ガリガリと体型も年齢もまちまちだが、共通しているのは全員「ヲ」マークのバッジを胸に着けている。接客するメイドたちは、テーブル間を忙しく往復し、客たちを飽きさせないようにこまめに動いていた。

「イッツ、ショータイム!」

 メイドの一人が甲高い声を上げて宣言すると、客たちが一斉に拍手をした。

 店内の一角にステージが設置されていて、アイリスは立ち上がると小走りに駆け上がった。

 アイリスをセンターに、数人のメイドが並んで踊りと歌のサービスを始める。

 歌が佳境に入ると、ステージのあちらこちらから水蒸気が濛々と上がった。店のコンセプトはゲーム「蒸汽帝国」の世界観だから、水蒸気はショーの効果として必須だ。

 ショータイムが終わり、アイリスは汗を拭うため出演者控室に引っ込んだ。

 着替えていると、中年の女性が部屋に入ってきた。喫茶店のオーナーで、普段はオーナー室に引っ込んでいる。

 アイリスは「珍しいこともあるもんだ」と思っていた。オーナーと顔を合わせるのは、開店前と閉店後の僅かの間だ。

 同時にオーナーの顔に浮かんだ暗い表情に、アイリスはなぜか緊張をおぼえた。

「アイリスちゃん。ちょっと……」

 オーナーは右手を上げアイリスに向けて「おいでおいで」の仕草をした。日本人の「おいでおいで」のジェスチャーは、アメリカ人と真逆である。アメリカでは日本人の「おいでおいで」の仕草は、「あっちいけ」の意味になる。

 アイリスはそんなこと百も承知なので、オーナーに近づいた。

「何か?」

「〝憲兵〟が来ているわよ」

 オーナーのひそめた声に、アイリスはひやりとした予感を感じた。

「何ですのん、それ?」

 オーナーはちょっとアイリスから身を離し、眉をひそめた。

「アイリスちゃん、知らないの? 突撃隊の憲兵よ!」

 オーナーの言葉に、アイリスはゴクリと唾を呑み込んだ。

 突撃隊憲兵部隊!

 最近新設された青少年健全育成突撃隊の一部隊で、警察権を付与されオタクたちからは死神のように恐れられていた。

 憲兵部隊は捜査令状なしの強制捜査が可能で、予告なしで容疑者の家宅捜査ができる。さらに裁判権も持たされ、容疑者は即日判決が申し渡されることもあった。戦前の特別高等警察、いわゆる〝特高〟のようなものだが、権限はさらに強化されていた。

 ロリコンオタク容疑においては、公訴権は存在せず、弁護士をつける権利も認められていない。憲兵隊に「こいつはロリコンだ!」と断定されれば、即座に強制収容所の「ガッツ島」送りとなる。

 アイリスはオーナーと事務所に移動した。事務所は喫茶店の入っているビルの窓側にあり、外部の様子がうかがえる。窓にはブラインドが下ろされていて、二人はブラインドの隙間を広げて恐る恐る、外を覗きこんだ。

 窓下は歩道に面している。

 歩道近くの車道に、灰色のワゴンが停車していた。車体の横腹には「憲兵隊」の文字が見えた。車体の側に、軍服を身に着けた数人が周囲を警戒していた。

「憲兵よ……」

 オーナーが小声でささやいた。恐れで声が震えていた。

 アイリスはふと、疑問が浮かんだ。

「何で気づきましたんや?」

「電話があったの」

「電話?」

「ええ、ここで書類を整理していたらそこの電話が鳴って……」

 とオーナーは机の固定電話を指さした。

「外を見なさいと、女の声で。で、窓を見たら憲兵がいたのよ」

「その電話してきたんは、誰ですのん?」

 オーナーはぶるっと首を振った。

「知らない声だったわ。若い娘っぽかったけど……」

 ふうん、とアイリスは窓外に注意を戻した。

 歩道にたむろしている憲兵たちの視線は、明らかにビルの出入り口を向いている。

 アイリスを向いたオーナーの顔色は真っ青だった。メイド喫茶は憲兵隊にとって、常に監視対象になっていた。しかし、実際に憲兵隊が出張ってくるのは滅多になかった。

「どうしよう」

 アイリスは一瞬に決断した。

「まずはお客はんたちを、何とかせんとアカンのちゃいまっか?」

「そうだわね!」

 オーナーはアイリスの言葉に、はっと目覚めたようになった。

 二人はバタバタと慌ただしく控室に戻ると、休憩しているメイドたちに早口に事情を説明した。

「憲兵」の言葉に、メイドたちは一斉に立ち上がり、アイリスはテキパキと指示を下した。

「みんな! お客はんたちを逃がさあかんで! 裏口を開けるんや! はよ、行きや!」

 アイリスの言葉が終わるとすぐに、店の出入り口の外から数人の靴音が近づき、ドアをガンガンと荒っぽく乱打する音が響いた。

「ここにオタクたちがいることは判っている! すぐ開けるのだ!」

 横柄な命令口調が聞こえ、店内の客たちは蒼白な顔になって飛び上がった。

「皆さん、こっちへ!」

 メイドたちが客たちに呼びかけ、裏口へ誘導していった。

 どかん! どかん! と、ドアの方向から重々しい打撃音が続いた。みしみしみし……と、外側からドアが異常な力を加えられ、見る見るたわむのがアイリスの目に入った。

 アイリスは脱兎のごとく裏口へと急いだ。

 裏口のドアを開こうとするが──。

 開かない!

 しまった!

 あの混乱の中、裏口のカギをかけたまま閉めてしまったのだ!

 アイリスは閉じ込められたことを知った。

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