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だが朱美の反応の方が早かった。
逃げ出そうとした瞬間、朱美は目にもとまらぬ素早さで腕を伸ばし、僕の襟首を掴んだ。朱美の素早さは野生のチーターを凌ぐ。どこをどう掴まれたのか判らぬまま、僕は全身から力が抜けていた。おそらく、神経のどこかを圧迫されたのだろう。あっという間に僕の全身は拘束され、デスクの天板に横たわっていた。
朱美はかつて鍼灸術を学んでいる。その時、人間の経絡秘孔について膨大な知識を蓄えたというから、学んだ秘術を使って僕の行動の自由を封じたのだろう。
指一本動かせず、僕はデスクの表面に昆虫の標本のように横たわっていた。天井から垂れ下がる無影灯が、白々しい光をあたりに放ち、僕は全身を恐怖に硬直させたまま恐ろしい運命を待ち受けていた。
無影灯にぐっと朱美の巨大な顔面が突き出された。僕を見下ろす朱美は、満面に笑みを浮かべていた。朱美の笑みは、純粋な喜悦を顕わしている。
まさに悪魔の笑い。
開いたままの入り口から、雷鳴と稲光が室内を照らし出している。のしかかる朱美の背後から稲光が光り、強烈なシルエットとなっていた。
朱美は右手に巨大な注射器を握りしめていた。
注射器の太さは、牛乳瓶ほどはあった。さらに注射針は、鉛筆の芯くらいはある。注射針は無影灯の強烈な白光を受け、硬質な輝きを放っていた。注射器の中には何か得体のしれない、形容しがたい色合いの液体が詰まっていた。
朱美はもっともらしく、手にした注射器の胴をトントンと左手の指先で叩いた。すると注射器の液体にいくつもの気泡が現れ、まるでサイダーのようにボコボコと沸き立った。
朱美は無言で僕の腕の袖をまくった。
トントンと僕の腕を叩き、血管の位置を確認する。
「お前の血管は細いなあ……。おかげで静脈の位置が分かりづらい……。もっと栄養をつけ、運動をしないとだめだな……」
ぶつぶつと呟き、朱美は手慣れた仕草で僕の腕を撫でさすった。まるで熟練した医者のようだった。
僕は悲鳴を上げた。
どうやら声だけは出せるようだ。
「朱美、注射をした経験はあるのか?」
「ない!」
朱美は断固とした返事をした。
「しかし病院で何度もナースが注射したところをこの目で見ている。手順は暗記しているから大丈夫だ!」
「そんないい加減な……」
朱美は真剣な表情になり、僕の腕に注射針を突き刺そうと身構えた。
僕は慌てて叫んだ。
「消毒は? 消毒はしないのか?」
「うっるせえなあ! これでいいだろう?」
ペッ! と朱美は唾を吐き出すと、僕の腕に吐き掛けゴシゴシと擦った。
「消毒完了! さあ実験開始!」
とうとう僕は朱美の実験材料にされてしまった。
振り上げた朱美の注射器の注射針が邪悪な輝きを放っていた。
「いくぞ!」
朱美はぐっと注射針を僕の腕に近づけ、深々と注射針を僕の腕に突き刺した!
グーッと注射器のピストンが押し下げられ、内部の薬液が僕の腕に注射針を通じて流れ込んできた。
とうとう一滴残らず、朱美の薬液は僕の体内に注射されてしまった。
「どうだ、流可男。何か感じるか?」
両目をキラキラと輝かせ、朱美は性急に僕に問い掛けてきた。
僕は茫然と横たわっているだけだった。
相変わらず、指先一つ動かすことは出来ない。
ドッ、ドッ、ドッと、心臓が早鐘のように打っていることは意識できる。
何も感じない。
その時、僕は手足が自由に動かせることを感じた。
ふらりと起き上がり、僕は研究室を見回した。
朱美は期待をはらんだ目つきで、僕を観察していた。
「流可男、どうなんだ?」
僕は否定の意味でゆっくりと首を振った。
「何も……」
僕の答えに朱美は明らかにがっかりした表情になった。
「そんなはずはねえ……オイラの計算ではそろそろ効果が現れるはずだが……」
朱美の言葉が終わるか終わらないその時、僕に恐ろしい苦痛が襲い掛かった!




