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夜の闇の中、陸地に無数の人家の明かりが波の向こうに見え、僕は潜望鏡を戻して振り返った。
「着いたようだ。陸地が見える」
発令室に詰めかけているオタクたちは、僕の言葉にほっと安堵の吐息をついた。潜水艦アヴァロンでガッツ島から逃走し、本土に辿り着くまでずっと、緊張を強いられてきたのだ。突撃隊の攻撃が今来るか、明日来るかと怯えていたのが、こうやって本土が目と鼻の先に来て、ようやく希望が湧いてきた。
「迎えは来るんだろうな?」
仲間のオタクの一人が、心配そうな口調で訊ねて来たので、僕は発令室の隅で座っている釜飯屋に顔を向けた。釜飯屋は僕の気配に、サングラスの顔を上げ、にっこりと笑った。
「大丈夫だ。萩野谷は仲間を集めて、迎えに来ている」
釜飯屋は以前、事故で失明したと聞いているが、普段の身動きはまったく視力の不便を感じさせない。杖を持っているがそれはむしろ武器として使っていて、彼が目が不自由だとはだれも思わないだろう。釜飯屋の話に出た「萩野谷」というのが桃華の知り合いのオタクの一人らしく、僕はまだ顔を合わせていない。
僕は発令室を出て、個室が並んでいる通路に出た。
通路では檸檬と蜜柑の双子が、せっせと掃き掃除を続けていた。双子の手により、潜水艦内部のあちこちはピカピカに磨き上げられている。蜜柑は僕を認めると、輝くような笑顔になったが、檸檬は僕のことを完全に無視して掃除を続けていた。
気まずい気持ちで、僕は檸檬の横を通り過ぎた。
まあ、時間が解決するさ……。
個室の一つのドアをノックすると、すぐ応答があって、僕はドアを開け中に入った。
「もうすぐ上陸だよ」
個室の中は女の子で一杯だ。
部屋の主になっているのは崎本美登里。美登里は会食用の大テーブルを使って、一心不乱にマンガの原稿に向かい合っていた。その周りにいるのは、ナデシコ島で収容されていた女のオタクたちだ。彼女たちは、美登里が描くマンガのアシスタントとして、原稿制作の手伝いをしていた。
もともとナデシコ島に収容されていた女オタクたちはBLものの同人誌とか、マンガを描くことが趣味で、それで突撃隊に「異常嗜好違反」の罪を着せられ、収容されていたのだ。だからマンガを描くことは半分、プロといってもよく、美登里が船内でマンガを描き始めるとさっそくアシスタントして手伝い始めていた。
何しろ美登里は少年マックスに連載を抱えているマンガ家だ。ガッツ島から帰還する間も締め切りが迫っていて、船内でマンガを描かなくてならない。
美登里は僕の顔を見上げ、微笑んだ。
「やっとですね。これで連載に穴を開けなくてもすむ……」
美登里は本土に帰還すれば、この女オタクたちを大勢、アシスタントとして雇い入れる計画だ。
少し離れた場所に小さな机があり、そちらではアイリスが端末装置に向かい合い、入力を続けていた。
アイリスは美登里のマンガの英訳担当で、今描いている連載分のネームを英語に翻訳している。アイリスは入力の手をとめ、僕に向かって笑顔になった。
僕が入室したのを見て、アシスタントの一人が口を開いた。アシスタントの目は、爛々と光っている。
「ねえ、流可男ちゃん。これでお別れなんだから、ガッツ島のこと詳しく聞かせてよ!」
ヤバい!
彼女は言うまでもなくBL趣味の女オタク、いわゆる「腐女子」の一人だ。
男オタクだけのガッツ島は、彼女たちにとって格好の妄想の標的になっていて、本土に帰還したらさっそくガッツ島での男同士の愛の物語を同人誌で描きたいという野望を持っている。
もちろん主役は僕になっていて、何と僕と、ガッツ島の管理者になっていた赤田斗紀雄とのラブラブストーリーになる予定らしい。
冗談じゃない!
「どうかなあ……流可男ちゃんが〝受け〟というのは当たり前すぎるから、赤田が流可男ちゃんに告白するストーリーにしようかな」
「ねえ、それより赤田斗紀雄が〝総受け〟ってのはどう?」
「あっ、それ面白い!」
彼女たちはアシスタントの仕事そっちのけで、勝手に盛り上がっている。
堪らず、美登里が声を張り上げた。
「みんな、あたしのアシスタントをやるんだったら、そういうことは仕事が終わってからにしてよ! 上陸まで一本、仕上げなきゃならないんだから!」
「はーい……!」
美登里の叱声に、全員しゅんとなって素直に返事をした。
僕は早々に美登里のマンガ部屋を退出し、隣の部屋に向かった。
ノックして入室すると、朱美が僕に背中を向け、机に向って何かやっている。恐る恐る近づき、手元を覗きこむと、何やら複雑な装置を組み上げているようだ。朱美の架けているピンク縁の眼鏡からは、細いレーザービームが放たれ、装置の細かい部分に何度も走査して眼鏡のレンズに結果を表示していた。朱美の両目は真剣な光を湛え、僕にまったく気づかないようだった。
「あのう……もうすぐ上陸なんだけど」
「うるさいっ! 今忙しいっ!」
朱美は僕に顔を向けず、手元に視線を固定したまま怒鳴った。
僕が急いで部屋を出ようとすると、朱美は手元に集中したまま声を掛けた。
「待て、流可男。お前に話がある」
僕の足はピタリと止まった。
「な、なんだい?」
僕は朱美に向かって、作り笑いで答えた。今でも僕は、朱美と向かい合うと恐怖の感情が支配する。
朱美はそれまで熱心に作業を続けていた装置を手に、椅子から立ち上がり僕に近づいた。
「こいつをお前に渡しておく」
手渡された装置は煙草の箱ほどの大きさで、ずっしりと重い。表面は滑らかな金属製で、たった一つだけ、ボタンがついていた。
「これは?」
朱美はなぜか、ニヤッと笑った。
「いつかこれが役に立つ。大事に持っているんだ。決してなくすなよ」
僕は当然の質問を投げ掛けた。
「だから何の役に立つんだ?」
朱美は肩をすくめた。
「お前が絶体絶命の危機に陥った時、もう駄目だと思ったその時、このボタンを押すんだ。それでなにもかも上手くいく」
「へえ……」
僕はまじまじと装置を見詰めた。
まるっきり装置の役目を推測する何の手掛かりもなく、たった一つのボタンだけが存在を主張していた。
朱美は説明する気はないようだ。
僕は渋々と、装置をポケットに収めた。もし「こんなのいらない」と突き返したら、朱美は烈火のごとく怒り出すだろう。
僕がポケットに装置を入れるのを見て、朱美は満足したようだった。
でも朱美の言う「絶体絶命の危機」とは何のことだろう?




