表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/1

第四章【己の道】


第四章【己の道】



陸拾『桜』


桜の下には死体が埋まっている、鬼が棲む。そんな言葉は、どこで聞いたのだったか。


賑やかな春の昼間、今は盛りと花開いている吉原の桜。桜と言えば先日死んだ姉女郎は毎年この景色を楽しみにしていたな、とこの間までは共に隣を歩いていた伊吹に浜木綿は思いを馳せる。伊吹と顔を会わせぬ日など一日と無かった吉原での生活、こうして湯屋へ往き来を共にするのも常だった。伊吹が居ない今どう暇を潰せば良いか見当もつかぬ、虚ろな自分を何かと気にかけてくる周りの女郎達に、湯屋にも共に行こうと誘われた。しかし、気を遣われれば尚更居心地が悪く感じる今の浜木綿は、誘いを断り殆どひとりで過ごすようになっていた。

誰とも関わらないほうが気が楽なのだ。

二人の姉が生きていれば、きっとそれぞれ好いた男とこの花を見上げていただろう。けれどひとり未だに生き残っている自分にとっては、なんの有り難みや感慨もなければ、詰まらない人間こそこの世に留まるものなのだろうか。そんな自分はこの場に相応しくないのだと桜から逃げるように、浜木綿は足早に煩わしい人波に紛れた。



陸拾壱『闇の声』


「また痩せたか、浜木綿」

酒気を帯びた暑苦しい息を女の腹に吐き、すっかり馴染み客となってしまった下らない男はまだ足りぬと女の肌を執拗に撫でる。


名もいちいち覚えてはいない男の言葉に何の反応も返さぬのは浜木綿にとっては常のことなれば、相変わらず何も言わない女に男も咎めることはない。八ツの拍子木(午前ニ時、営業終了の合図)が郭に鳴り渡るころ、漸く相手の男は何度目か果てた末に寝入った。身体は怠く疲れている筈なのに、今夜も浜木綿は暫く寝付ける気配もしないと煙管を手に部屋を出た。


郭の者すべてが寝静まり誰も通らない廊下、格子窓からは春の月が煌々と輝いていた。眠気が訪れるまでの一服と煙を深く吸い込むも、前にも増して味など何も感じない。先程客が言っていた己が痩せたという言葉に、何時からか飯も菓子も酒も喰らう量が減っていれば当然の変化だと思い至った。食が細くなったとはいえ、腹も空かねば自分には何の差し障りもないしどうでもいいことだ。


春とはいえ夜の空気は肌を冷やす。男の眠る床に戻ることも億劫ではあれど、気味の悪い静けさに長居も出来ぬと部屋に戻る。かつての伊吹の部屋を自分が使うようになって、もういくつ夜を過ごしたのか。まだ数える程ではあるものの、日に日に自室になって馴染んでいく空間に、襖を引く浜木綿の心持ちは自分で思うよりも重かった。




陸拾弐『いぶき』


桜の命は短いもので、やっと咲いた吉原の桜も、葉桜になった。


四ツ刻、二度寝起きの浜木綿が大階段を降りると、大部屋では既に女達が集まって朝飯を食っていた。

やや遅い浜木綿の登場に、伊織や初雪達は早くゆうも飯を食えと声をかけた。


「要らん、あたしの分はあげる」

「具合でも悪いのかい」


只でさえ女郎の飯は少なく質素なのに、その飯はおろかあんなに好きな菓子もあまり食べようとしない。一口二口食えばまだいいほうで、こうして腹が減らぬと断ることが増えた。近頃めっきり食が細くなった事は皆気づいていた。身体に悪いから食えと言っても、浜木綿は是とは言わない。結局今朝も、浜木綿は窓辺で煙管をくわえてぼんやりとしはじめる始末であった。


そんな浜木綿の小さい背を横目に、伊織は隣の初雪に心配だと溢す。


「伊吹が言ってたね、実の姉が死んでからゆうはあんまり食わないって」

「その姉さんに続いてあんなになついてた姉女郎まで死んじまったんじゃ、落ち込まないわけがないよね」


甘味でもいいから少しでも何か食わせるようにしないとあの娘まで死んじまうよ、と伊織の向かいで飯を食っていた吾妻と藤袴も、浜木綿に聞こえぬように話し合った。


賑やかな飯の時間も終わり、各々客に文を書いたり身仕度を整えたりとのんびり過ごし始めた頃。

浜木綿の妓楼にまたひとり幼い娘が女衒の男に連れられてやってきた。


楼主の妻が新人の顔合わせをと、大部屋の女達に注目を促し「この娘は朝陽(あさひ)だ、面倒みてやって」と紹介した。話によると、本名はお梅といって親孝行の為に自ら奉公を名乗り出てやってきたという。これから吉原で働くというのに、泣きわめきもせず落ち着いていて歳の割りに肝の据わった娘であった。


「これから朝陽には、禿として姉さんについて世話係しながら、稽古をつけていくからね」


楼主の妻はそう朝陽に告げると大部屋を出ていった。


「歳の頃も朝陽と近いし、これから稽古始めるんなら、猫にもいい同期が出来たじゃないか」


朝陽の指導を任されている遣り手婆が、姉女郎の吾妻に嫌々手習いを習っていた禿の猫柳に「これであんたも稽古に身が入るだろう」と言った。


皆が猫と呼ぶ禿の猫柳(ねこやなぎ)は、この妓楼で女郎をしていた松葉牡丹を母に持つ吉原産まれの娘である。母は既に亡く今は遣り手婆が主に母代わりに面倒を見ている。去年の秋頃からそろそろ頃合いと吾妻の禿になり稽古を始めたのだが、禿の中で一番幼く歳の近い娘が身近に居ないこともあり稽古もいまいち真剣に取り組もうとしていなかった。


さて、肝心の姉女郎は誰にしようかという話になり、遣り手婆が適任者を思案しているところへ、藤袴がゆうはどうかと提案してきた。


確かに浜木綿は部屋持ちになったし、姉女郎ももう居ない。少し時期尚早かとも考えたが、妓楼一の花魁である藤袴がいうなら説得力もある。何より一見あまり他人と関わらず冷めていると誤解されやすい浜木綿だが、そのじつ新入りだった伊織を気にかけていたり伊吹の為に客に手をあげたこともある女である。一度懐に入れた娘を悪いようにはしないであろうと想像出来れば、遣り手婆も女郎達も異存はなかった。


あからさまに他人事だと言わんばかりに新人の紹介だけ遠目から一瞥して、直ぐ様煙管を吸い直し格子の外に視線を戻していた浜木綿に、皆を代表して藤袴が朝陽を連れて声をかける。


「ゆう、あんたが今日から朝陽の姉さんだよ。この娘の面倒頼んだからね」


「なんであたしなん、面倒なんて見れんよ」


浜木綿は面倒事は御免だと、自室に向かう為腰をあげた。ちらりと見下ろした浜木綿の目に映ったのは、真っ直ぐ陰りのない目で自分を見上げてくる朝陽の姿だった。


初めて交わした視線なのに、苦手だ見るなと浜木綿は思い、足早に大部屋を後にした。


「大丈夫さ、今のゆうは少し落ち込んでいるだけだから、あんたの面倒もちゃんと見てくれる。思う存分頼りな」


問題ないと藤袴は小さい頭を撫でてやった。


その一部始終を見ていた女郎達も安心しなと笑いかけた。


「妹のあんたが強がりの浜木綿姉さんを元気にしてやらなきゃね」


大きく頷いた朝陽に、この娘ならば浜木綿の心の癒しにもなるかもしれないと藤袴は光を見出だした気がした。



陸拾参『戸惑い』


「浜木綿姉さん、待ってよ」「姉さん、あれは何」「姉さん、遊ぼうよ」

朝陽が郭に来てから半月。禿になった翌日から、早速朝陽は始終浜木綿に構い出した。

姉が湯屋に出掛ければ自分も行くから待ってくれと無理矢理着いていき、どれだけ冷たくあしらわれても諦めようとしない。


そんな朝陽の努力とは裏腹に、浜木綿は降ってわいた妹の存在にうんざりしていた。朝陽を嫌っているわけではないが、新しい日常を受け付けられないのである。まるで死人の事は早く忘れろ、姉はもう居ないのだと言われているような気がしてならない。

まして朝陽は放っておいて欲しい時こそ踏み込んでくる。浜木綿にとって朝陽は現実と未来を自分に突き付ける鑑であった。


今朝も食欲は欠片もわかず、飯だなんだと言われる前にさっさと郭を出てきた。湯屋に行くにはまだ早いし用事があるわけでもない。ぶらついて時間を潰す事に決めて、より人通りが少ない羅生門河岸の通りに足を向ける。もうじき梅雨になる曇天の空に溜め息をひとつ溢せば、背中越しにすっかり聞きなれた朝陽の自分を探す声が聞こえた。


「おねぇ、伊吹姉さん…」

二人が居ない世界ではもう先には進みたくはないとは、浜木綿のたったひとつの本心だった。



陸拾肆『異変』


「ねぇ、ゆうの顔色見たかい。あの娘最近殆ど一口も飯を食わなくなったんじゃないか」


激しい雨音が屋根を叩く日が続く、吉原の水無月半ば。


朝陽をはじめ皆が浜木綿に何とか飯を食わせようと苦心するも、日に日に食事の回数は減り近頃ではいよいよもって何も口にしなくなった。


どれだけ周りが食えといっても必要ないと拒否し続けており、当然の如く浜木綿の顔色は見るからに悪くなる一方であった。


事態を重くみた吾妻達はその晩、どうにかしてやらなければと遣り手婆に浜木綿のことを相談しに行き、これからは監視し無理矢理食べさせるように指導することに決まった。


翌朝、朝陽が浜木綿を強引に起こし、朝餉の席に座らせる。普段より多めに盛られた飯を差し出し、今日こそは食わなければならぬと女郎仲間達は促した。本当に食えぬのだと訴える浜木綿に、一口でもいいからと譲らない。


仕方なし一口だけは食ってやろうかと箸を持った浜木綿は、込み上げる吐き気を我慢して米を口にしたものの受け付けられずに吐いてしまった。胃の腑が悪いわけでも、何かの病でもないのに、自らの意思で食べ物を拒否していた浜木綿の身体は、いつの間にか食おうにも何も受け付けられぬ身体になってしまっていたのである。


嘔吐といっても出てくるのは胃液ばかり。その苦しさからか、哀しみの涙も見せぬ浜木綿の目は生理的な涙で濡れていた。


結局その場は、これ以上無理強いは出来ぬという結果に終わった。


それから数日後のある日。いつものように朝陽に叩き起こされた浜木綿を、起き上がろうにも身体が全く動かぬ程の怠さが襲った。夕べも泊まり客の相手をして疲れたとはいえ、風邪もひいていないのに腕を持ち上げることも酷く重く感じる。


姉の異常を知るや否や、朝陽は慌てて皆に知らせなければと悲壮な顔で大階段を駆け下りた。


「どうしたんだい、朝陽。朝からそんなに血相変えて」

「藤袴姉さん、浜木綿姉さんの様子がおかしいんだ」

藤袴と共に事情を聞いた遣り手婆も、早く様子を確かめねばと浜木綿の部屋を訪れた。



襖を開けた先には、床から起き上がれない癖に尚も大丈夫だと言い張ろうとする浜木綿がいた。


遣り手婆が痩せ細った浜木綿の白い手を取り脈を診ると、その命の鼓動は病人のように驚くほど弱々しかった。


この様子では客を取らせる訳にはいかない。酷い妓楼ならば死んでいなければ女郎を使い続けるところであろうが、遣り手婆は鬼になり浜木綿に鞭を打つような真似は出来なかった。


「楼主には浜木綿は行水になったと言っておくから、浜木綿はどれだけ時間かけてでも少しでも粥を食べな」


世話は朝陽に任せるから、そう指示を出し粥を作らせてくると部屋を出ていった。


「ゆう、良い機会だからゆっくり休みな。卵買ってきてやるから、卵粥でも卵酒でもして、ちゃんと栄養採らなきゃだめだよ」

朝陽の為にもね、と笑った藤袴は、浜木綿と傍でぼろぼろ泣いている朝陽の頭を順に撫でてやった。



陸拾伍『自傷』


粥が出来るまで一眠りするように言われた浜木綿は、二人の姉と共に過ごした懐かしき思い出の夢を見た。


夢の中では芙蓉も伊吹も幸せそうに笑っていて、その傍にいる自分もこのままで居たいと思っている。

伊吹が死んだ春から、もう何度同じ夢を見ただろう。そして夢から覚める度にどうしようもない虚しさが溢れ、胸が鋭利な刃物で深く抉られたように痛むのである。


一眠りした為か、身体の怠さは抜けぬもののゆっくりと上半身を起き上がらせることが出来た。

詳しい時間はわからぬが、換気の為に開けられた障子の向こうから覗く陽の高さから八ツ刻頃ではないかと察する。


胸の痛みを誤魔化したくて、浜木綿は襦袢を捲り白い腕に自ら爪を立てた。真っ赤になって血が滲んでも、蚯蚓のように腫れ上がってもやめようとは思わない。

この胸の痛みよりも、腕の痛みのほうが何倍もましだ。こういう方法しか、浜木綿は気を紛らわす術を知らない。痛みは確かに感じるのに、その痛みすら心地好く安心感を覚えるのである。この数ヵ月、夢を見る度に、姉達を思い出す度に、いつも浜木綿はこうして自分を傷付けていた。


暫く気がすむまでそうしていると、様子を見に来た藤袴が襖を開けた。


ぼんやりとした頭でなんだろうと浜木綿が顔をあげる前に、藤袴の手が浜木綿の頬を叩いていた。


「ゆう、何してんだ」


藤袴の怒声が飛ぶ。痛みを感じないなと来客を見上げた浜木綿は、怒りに反して泣いている藤袴の姿を見た。


もうこんな馬鹿な事は二度とするな、と自分を力強く抱き締める藤袴の腕の中で、やけに冷静だった浜木綿はいつか似たようなことがあったなと記憶を思い起こしていた。


あれは何時だったか。新造出しを迎え、水揚げをした翌朝の事だった。覚悟させられたとはいえ、初めて男に抱かれた浜木綿は、男の名残を執拗に洗い流しても尚虫酸が穢れが身体中を這いずり回っている感覚が抜けなかった。

ずっと我慢していた涙を流し、誰も居ない部屋で今のように肌に爪を立て態と血を流して蹲っていた。

そこへ、自分を探していた伊吹がその様を見て、同じように叱り抱き締めてきたのだ。


あの時の伊吹も、どんなことでも自分が一緒に苦しんでやるから二度と自分を傷付けるな約束しろと泣いていた。

伊吹に心を許し始めていた頃とはいえ、肝心な事は何も話していなかった浜木綿には、何故他人の伊吹がここまで自分の事を大切にするのか理解できなかった。


そんな妹女郎に、姉女郎は言った。


「ゆうは穢れてない。どれだけ客に抱かれても、女は自分を捨てちゃいけないよ」


そのときから浜木綿は、本当の意味で伊吹に心を許すようになったのである。

今でも鮮明に覚えている姉の声が、あの時のように浜木綿を優しく叱りたしなめる。


浜木綿は赤くなった腕を伸ばして、ごめんなさいと温かい藤袴の背を抱き返した。



陸拾陸『朝陽』


浜木綿が養生しはじめて三日が過ぎた。そろそろ行水という言い訳が出来なくなるなという吾妻に、じゃあ次は風邪を拗らせたとでも言っておこうと藤袴は笑った。


未だ完治とはいかぬ浜木綿の容態は心配ではあれど、朝陽の看病という名の監視のお陰か少しずつ飯を食うようになった。見舞いだと吾妻や初雪が饅頭を買ってきてやれば、食える頃合いを見てちゃんと食べている様子でひと安心といったところである。


暇潰しだと言い訳をして、伊織や他の女達も浜木綿の顔を毎日見に行っている。


湯屋にまだ行けぬ浜木綿の身体を、恥ずかしがって嫌がる本人を制して湯で濡らした手拭いで拭いてやるのも朝陽の仕事だ。


今日もこれから浜木綿のもとに行こうと、湯を桶に入れいた朝陽に、大変じゃないかと猫柳が声をかけてきた。


その問いに、朝陽は大好きな姉さんの世話が焼けることが嬉しいのだと答えた。


浜木綿姉さんも大変だから構うなと、自分に毎日言っているなと思い出す。

禿になって間もない頃、姉女郎との接し方に悩む朝陽に、伊織は浜木綿は優しいのだと言った。自分を大事にしない癖に、他人の事は気にかけるお人好しの天の邪鬼なのだと。


「浜木綿姉さんは私の自慢の姉さんだから、早く一緒に甘味を食べに行きたいんだ」


今はそれが目標だと、朝陽は朗らかに笑った。



陸拾漆『独り善がり』


それから二日後の深夜。

随分顔色も良くなってそろそろ客を取れるようになるかという浜木綿のもとに、ひとりの男がやってきた。


夜見世も終わる刻限なれば、療養中の浜木綿も静かに眠っている。


誰にも気付かれぬように襖を閉めて無許可に入室してきた男は、未だ浜木綿にひとかたならぬ想いを抱いている銀次郎であった。


「浜木綿、」


夢にまで見た愛する女を組み敷いて、銀次郎はその白い肌に唇を寄せた。


折しも眠りの浅かった浜木綿は、自分の身体の上で蠢くあるはずのない男の存在感に違和感を感じ確認すべく目を開けた。


「何やってんだ、退きな」


浜木綿が不快も顕に抵抗するも、銀次郎はいつかの夜のように女の匂いに酔いしれて一向にやめようとはしない。


手をあげようとすれば手首を抑えつけられ、腹を蹴ろうともがけば好機とばかりに脚の間に身体を入れられてしまう。


「いい加減にしいや、」


浜木綿の怒声が響くも、銀次郎の熱く荒い息遣いは変わらない。

男の熱い舌が浜木綿の首筋を通り、鎖骨を舐める。襦袢の頼りない帯に手をかけられ、露になった乳房を掴む。いよいよ何か手はないかと浜木綿が焦り始めた刹那。


運よく先の浜木綿の声を聞き付けた伊織と吾妻が、浜木綿から銀次郎を引き剥がした。


「銀次郎、あんたどういうつもりだ。ここまで堕ちた野郎だとは思わなかったよ」


二人係で暴れる銀次郎を浜木綿から離れさせ、吾妻は銀次郎の横っ面を力一杯殴り付けた。


その隙に浜木綿は乱された着物を手早く整え、開け放たれた襖から差し込む月明かりに照らされた男の顔を睨み付けた。


「あんた、好いた女の弱ってる所につけ込んで無理矢理手籠めにして、それで満足か」


「俺は浜木綿が好きなんだ」


吾妻にそういい募る銀次郎に、伊織も怒りを顕に怒鳴った。


「あんたがやってんのは自己満足なんだよ。ゆうを好いているなんていう資格はない」


ここまで騒いでいれば、遣り手婆や藤袴達も何事かと集まってきた。


前回浜木綿を救った藤袴は、事の顛末を知るや否や銀次郎の赤く腫れた頬を持っていた煙管で更に容赦なく殴る。


「次はないといった筈だよ。あたしら女郎だって、黙って只で男に抱かれてやるほど安くないんだよ」

銀次郎を見下ろした藤袴の声は、前回と比べ物にならない程冷たい。


銀次郎は楼主が連れてきた若い者に拘束され、今度こそ折檻部屋に送られていった。


「この場に伊吹がいなくて良かったね。あいつがいたらあんたこんなもんじゃ済まされなかったよ」


部屋から連れ出される銀次郎に、すれ違い様初雪はそう吐き捨てた。


禿は皆眠っていた為、翌朝遣り手婆から姉女郎を襲った騒ぎを聞いた朝陽は、起き抜けの浜木綿に泣きついて暫く離れようとしなかった。


後日遣り手婆から浜木綿が聞いた話によれば、銀次郎は三日三晩折檻された挙げ句に慣例通り吉原から放逐されたという。

その報せをもって、漸く騒ぎは終着したのであった。



陸拾㭭『面会人』


じめじめとした梅雨が明け、文月に入った。


結局、七日間床の上で大人しくしていた浜木綿は、朝陽達の看病の甲斐もあって、正常に飯を食い味覚も戻り客を取れるようになった。


「ほら、早くしないと置いていくよ朝陽」


看病されている間、朝陽が伊吹の事を聞きたがったので、浜木綿は暇潰しついでに少しずつ姉女郎の事を語ってやったこともあり、こうして湯屋に着いてくる朝陽を待ってやる程には浜木綿も妹女郎を受け入れるようになった。


二人が湯屋から帰ってきたところへ、遣り手婆が浜木綿に客だと手招きしてきた。


自分には面会人に来るような知り合いはいないと訝しく思いながら、朝陽に遊んでなと伝えて浜木綿は客の待つ部屋に入る。そこで浜木綿が見た顔は、随分昔に両親を亡くした後暫く預けられていた親戚の女房だった。


何しにきたのかなど訊かずともわかってしまうのだが、念のために訊ねてみればやはり金をせびりにきたようであった。女がいうには、故郷の加賀のあたりは去年水害があり、米や作物が殆どとれず米騒動まで起こっているのだという。


浜木綿にとっては恩義など感じてはいないし、心底どうでもいい限りだが、あまりにしつこい女に二度目とくるなと釘をさして端金をくれてやった。



陸拾玖『朝顔』


金を嬉々と受け取った女が帰ると、浜木綿は甘味屋につれていってやると朝陽を呼んだ。


歓迎せぬ訪問人のせいで気分を害されてしまったので、妹女郎への看病の礼のついでに気晴らしに行こうという考えであった。


昼見世がある為そこまで長居は出来ないが構わないかと言うと、そんなの全く気にしないと朝陽は目をきらきら輝かせて早く行こうと浜木綿を急かした。


再び見世の暖簾を潜れば、初夏の太陽が二人を眩しく照らす。


さっさと行こうと仲の町通りへ足を向ける浜木綿の袖を、朝陽がつと引いた。


「なんだい、早く行くよ」


浜木綿が振り返た先で、「見てみて姉さん」と朝陽は郭の軒下に綺麗に咲く朝顔を指差していた。


いつの間に朝顔なんて植えたのかと不思議に思う浜木綿に、朝陽は自分と猫柳が種子を貰って育てていたのだと説明した。


「早く姉さんに見せたくて、頑張って面倒見たんだよ」


そう自慢気に笑う妹女郎の小さな頭を、浜木綿は照れ隠しに髪が乱れるくらい乱暴に撫でてやった。




漆拾『田村という男』


文月半ばに突如浜木綿の目の前に現れたその男は、何もかもが異例であった。


夜見世が始まる直前、浜木綿は自分を指名する上客がいると楼主に告げられた。

部屋持ちになってからは客層もそれなりの身分の男が殆どになったとはいえ、楼主が態々上客と呼ぶような客には思い当たる節はない。それにそんなに良い客ならば昼三や座敷持ちの姉さん達が適任の筈だ。

一体どんな客なのか訊いてみると、思わぬ答えが返ってきた。


その客は実の姉の芙蓉の馴染み客だった初老の男で、花魁・勝山の紹介だという。更に驚いたことに、相手は藩の留守居役だという。そんな大層な身分の人間なれば、吉原遊びといえど大見世の花魁あたりが取る客である。中見世の部屋持ち女郎が指名されるなど、聞いたこともない。


金払いが良いこともあり、断るなど到底有り得ない。満面の笑みで粗相のないようにといいおき去っていった楼主の背中を、浜木綿はどうしていいか皆目検討もつかぬといった心持ちで見送るしかなかった。


いよいよ夜見世が始まり、指示通り部屋で待っていた浜木綿のもとへ、丁重に案内されてきた田村が共もつけずひとりで現れた。


「君が浜木綿か」


とりあえず浜木綿がはいと答えると、芙蓉から妹の話を聞いていてずっと会ってみたかったのだと老人は嬉しそうに笑った。


共もつけずひとりできたということは、見かけによらず色ぼけ爺なのかという目を向けてくる浜木綿に、話がしたいだけだから安心しなさいと老人はまた笑った。


一先ず酌をしようと銚子を持つと、田村は酒は強くないのだとやんわり断った。


「酒は嫌いじゃないんだが、恥ずかしい事に強くなくてな、宴会の座敷で見栄をはって飲んでしまった時は、よく芙蓉や勝山がこっそり梅の袖〈二日酔いの藥〉を渡してくれたんだよ」


だから見栄を張らなくていい時は飲まないのだと話す。こうして客から芙蓉の話をされたことなどない浜木綿は、どう反応していいのか戸惑った。


その心を見透かしたように、田村は自分と芙蓉の思い出や芙蓉から聞いた浜木綿の話を滔々と語り聞かせた。


「芙蓉は私にとって孫娘のようだった。二人の姉を亡くして君も、さぞ寂しくなっただろう」


田村は勝山から事前に伊吹の死も聞いて知っていた。田村の言葉に驚きはしたものの、そんなことよりも浜木綿の胸のうちに疑念がわいてきた。


芙蓉や伊吹の話を持ち出してただ話をしたいだけなどと、この老人は自分に何がしたいのか。


「残念だけど、あたしは芙蓉姉さんの変わりにはなれないよ」


自分ではとんだ役不足だと浜木綿ははっきりと告げてやった。

これですごすご帰るだろうとの浜木綿の思惑は、暫し呆気に取られた後に弾かれたように笑い出した田村の言葉によって外れることとなる。


「変わりなんて考えていないよ。芙蓉の変わりはいないし、浜木綿の変わりも存在しない」


こんな老いぼれでも女性にそんな失礼なことをするほどまだ呆けてはいないよ、とまた豪快に笑った。本当に呆気にとられたのは浜木綿の方である。



漆拾壱『申し出』


結局芙蓉や伊吹、朝陽の話をするだけですっかり引け四ツを回り、そろそろ帰ろうと田村は腰をあげた。


「今夜は楽しかったよ、ありがとう。また来るからまたこの老いぼれの話し相手を頼むよ」


田村の帰り支度を手伝う頃には、浜木綿の表情も随分柔らかくなっていたことをきっと本人は気づいていないだろうと老人は思う。


浜木綿が襖に手をかけた時、思い出したように田村は言った。


「そうだ。私は君がよければ身請けを考えている」と。


この時の浜木綿は、どうせ社交辞令の冗談だと聞き流していた。まさか、本当に近々老人が正式な身請け話を持ってくるとは夢にも思わずに。



漆拾弐『安寧』


昼見世前の僅かな一時、大部屋の机に紙を拡げて朝陽と猫柳は並んで手習いの稽古に励んでいる。


その傍らには猫柳の姉役吾妻と、朝陽にせがまれて指導に付き合っている浜木綿がいる。


先日七夕をしたと思っていたのに、蝉と暑さに苛つくうちに葉月がもう目の前まできていた。


今日も恨めしい程に晴天であれば、太陽も蝉も盛大に夏を謳歌している。寒さと同じくらい暑さにも弱い浜木綿には、目の前で平然と涼しい顔をして笑っている妹女郎達が全くもって信じられない。その有り余る元気と体力を分けてもらいたいものだと、近頃切実に思う浜木綿である。


「浜木綿姉さん、書けたよ」

「私も出来たよ、吾妻姉さん」


黙々と漢字の並ぶ見本の文章を真似て筆を走らせていた二人の禿が、ほぼ同時に顔をあげて各々自分の姉を呼んだ。何かと張り合っている様子の妹達は、今回暗黙に速さも競っていたらしい。


その出来を確認した吾妻は、団扇で扇いでぐったりしている浜木綿に「見なよ、ゆう」と朝陽の書いた紙を拡げて見せた。


「朝陽はたいしたものだよ。自分の姉さんよりもよっぽど綺麗な字を書いてるんじゃないかい」


からかう吾妻に、どうせあたしは字が下手だよ、と浜木綿は若干不貞腐れる。


この暑い中、半時も稽古を頑張った二人に吾妻は、「今から褒美に、私とゆうが美味い心太を食わせてやろう」と告げると、朝陽も猫柳もやったぁと声をあげて喜んでいる。


全く吾妻も妹には甘いものだと傍観を決め込んでいた浜木綿に、だからあんたも行くんだよと吾妻は嫌がる浜木綿を強引に太陽の下へ連れていった。



漆拾参『繋いだ手』


俄が始まり一層賑わう吉原の、葉月のある日。


昼見世前で女郎達ものんびり過ごしている刻限のこと。今日も今日とて朝陽と稽古に励んでいるはずの猫柳の盛大な鳴き声が郭中に響き渡った。


これには流石にどうしたのかと、遣り手婆のみならず女郎達も様子を見にやってきた。

部屋で寛いでいた浜木綿も吾妻に引き摺られて大階段を下りてきた。


浜木綿が大部屋についた時には、既に殆どの女郎達が集まっていてその真ん中で遣り手婆が禿二人をこれまた盛大に叱りつけていた。


「猫も朝陽も、大人しく稽古出来ねぇのか。何が原因か知らねぇが、何れ女郎になる娘が傷だらけになりやがって」


遣り手婆の言葉通り、二人の禿はお互い引っ掻き合ったのであろう顔や身体中傷だらけになっていた。まだ幼い子供故に、禿同士のくだらない喧嘩など郭では珍しいことではない。しかし、いくら競い合う仲だとはいえ、仲のよい部類に入ると思っていた二人組が、こんな取っ組み合いの喧嘩をするなど何が合ったのだろうと皆が不思議に思った。


確か今日は三味線の稽古の日ではなかったかと、浜木綿は記憶している。三味線なんかで取っ組み合いになることなどあるのだろうか。

浜木綿が土間にいる人物をみると、一応一通り今日の稽古は終わったところだったようで、自分は知らぬと三味線の師はさっさと帰っていった。


未だ大泣きしている猫柳では話にならぬと、ぶすくれている朝陽に喧嘩の原因はなんだと遣り手婆が問い詰めると、猫が悪いのだとの一点張りで詳しいことは何も言わない。


では手の早い猫柳がちょっかいをかけたのかと思いきや、猫柳は朝陽が先に手を出したのだと言う。


遣り手婆は埒のあかない子供の喧嘩は面倒見切れぬと、当事者の保護者役にあたる吾妻と浜木綿を呼び、姉女郎が何とかしろと言って去っていった。


任せるといわれても、困るのは姉である。

とりあえず放っておく訳にもいかなくなったので、吾妻は事情を聞こうとしたのだが、すっかりへそを曲げた朝陽と猫柳は口を開こうともしない。


相手が目の前にいては聞けるものも聞けぬと判断した吾妻は、自分は猫柳が泣き止んだら話を聞き出すから、浜木綿は朝陽を頼むと提案し、浜木綿も渋々頷いた。


とはいえ、自分は妹の身で年少者の扱いなど心得てはいない。悩んだ浜木綿は、甘味で機嫌を取ることにした。


手当てもそこそこに、浜木綿は朝陽に甘味屋で葛きりを食わせて落ち着かせた。そこまでは良いものの、なんと聞き出すべきか浜木綿は思案するのみで肝心なことは聞けず仕舞いで店を出てしまった。


どうしたものかと通りをぶらついていると、黙って着いてきていた朝陽が「姉さん、ごめんなさい」と呟いた。

浜木綿が振り返ったのを待って、朝陽はもう一度ごめんなさいと謝った。


「あんたがあんな喧嘩するってことは、何か理由があるんだろ」


浜木綿は溜め息をひとつ溢して小さい妹女郎と目線を合わせるようにしゃがんだ。

その動作だけでびくついている朝陽が面白くて、浜木綿は不謹慎にも笑ってしまう。


何が理由かもわからないのに叱らないよ、と浜木綿は朝陽の頭を撫でてやる。


姉さんに話してみ、と促すと、あのねとぽつりぽつり朝陽は事の顛末を話始めた。


「じゃあ、あんたはあたしの為に喧嘩したのか」


一通り話を聞いた浜木綿がそう確認すれば、朝陽は違うと首を振った。


「あたしが勝手にした喧嘩だもん。姉さんは悪くない」


変なところで強情な娘だと浜木綿は感心すると同時に、この妹女郎は自分に似てるのではないかと思った。


喧嘩の仔細はこうだ。

いつも通り大人しく三味線の稽古をしていたまでは良かったが、稽古が終わり片付けをしていた朝陽に猫柳が声をかけてきたのだという。


書や行儀作法では朝陽に分があるものの、三味線はなかなか上達しない。自分が勝っていると誇示したい猫柳との会話は、稽古の優劣から次第に姉女郎の自慢話に発展したのだという。


「あたしが巧く弾けないなら、きっと浜木綿姉さんも三味線出来ないんだろうって言ったんだ」


だから我慢出来なくて引っ掻いてしまったと、朝陽は正直に話した。


自分になついているとは思っていたが、まさかここまでだとは思っていなかった浜木綿は、内心驚いた。いつか姉女郎の伊吹を侮辱されて客に手をあげ一晩反省させられたのは何処の女郎だったか。やはり自分に似ていると、浜木綿は何処か嬉しくなった。器用でしっかりした娘だと思っていても、何でも我慢出来るわけでもないということか。


「あんたね、三味線なんて得意不得意もあるし、あんたの歳じゃまだ早いくらいなんだから、焦らなくていいんだよ」


それに、と浜木綿は続ける。


「あたしこれでも三味線は郭の中では得意な方なんだけどね。なんなら気が向いたら教えてやるよあんたの姉さんだし」


特別なんだから感謝しろと、浜木綿は真っ赤に腫れている朝陽の頬を撫でて笑った。


約束ねと嬉しそうにやっと笑った朝陽は、浜木綿に指切りげんまんをした。


「あたし帰ったらちゃんと猫に謝るよ。そんで姉さんに謝らせるんだ」


すっきりとして足取りが軽くなった朝陽は、早く帰ろうと歩き出した。もういつも通りに戻った朝陽に、浜木綿も現金なやつだと苦笑する。

今にも走りださん勢いではしゃぐ妹女郎の小さな手を、浜木綿は転ぶんじゃないよと握ってやった。




漆拾肆『身請け』


葉月十五の月見の晩。田村が約束通り、浜木綿のもとへ二度目の登楼をした。


月を愛でるのもそこそこに田村は本題を切り出した。自分は正式に浜木綿を身請けしたいと考えているから、楼主に申請する前に浜木綿本人の意思を聞きたいと。


まさか本気だとは思っていなかったという顔の浜木綿を見て、老人はだから考えてくれと言ったではないかと笑った。


「なんであたしなんだ。妾にしても詰まらないよ」


「妾にしようなんて気は毛頭ないさ。言っただろう、話相手が欲しいって」


田村ももういい歳なれば、部下が育ったこの機に近々隠居を考えているらしく、子も既に家庭を持って離れて暮らしていては孫娘のような人間がいてくれたらと思っての身請け話なのだと言う。


「私はね、芙蓉変わりに君を身請けしたい訳ではないんだよ。前回初めて君に会って、気に入ったから提案したんだ」


まだ会って二度目の浜木綿には、老人に気に入られる理由が検討もつかない。そう素直に返した浜木綿に、田村は思いがけない返答をした。


「気に入ったというのは少し違うかな。


私は君を外の世界に出してみたくなったんだよ」


だって、浜木綿はただ死を待って生きているだろう。


老人の静かで断定的な言葉は、確かに浜木綿の核心を見事についていた。誰にも話すわけでもなかった本心を見ず知らずの人間に言い当てられて、浜木綿は声も出ない。


「言っておくが、同情ではないよ。私は自分で云うのもなんだが、少し変わり者だと自負している。

武士はすぐに腹を斬りたがる生き物だが、そんな人間こそ望みとは真逆の生き方をさせてみたくなる。それと同じだよ」


田村は苦手だという酒を手酌で注いで、一口舐めた。


「そんなくだらない理由で身請けしようなんて、女郎ひとり自由にするのにいくら金がかかるかわかっているのか」


「勿論既に遣り手婆にこっそり聞いて知ってるさ。君の値段が安くないこともね。

金持ちの道楽といえばそれまでだが、君を身請けする時は言い値以上に出すつもりだよ。それが君への礼儀だ」


盃を膳に置くと、田村は窓辺に歩み寄って月を見上げた。


「もし君に好いた男やきちんと生きる意思があるなら、私は客として通うだけに留めるつもりでいたよ。

まぁ、私が君を身請けしてしまったら朝陽から大事な姉さんを奪ってしまうことになるのは心苦しいけどね」


田村は優しい目を浜木綿に向ける。


「もし『幸せ』の意味が知りたいなら、私について来なさい。死ぬのはそれからでも遅くはないだろう。まぁ選ぶのは君次第だがね」



結局その晩はそれ以上の要件はないようで、心が決まったら文をくれと浜木綿に伝えて帰っていった。




漆拾伍『迷い』


翌朝、閑散とする昼見世の最中。煙管片手にぼんやり張見世に座りながら、浜木綿は昨夜田村に言われた言葉を反芻していた。


【お前はただ死を待って生きている】


まさかそんな筈はないだろうと、普通ならそう否定するところだろう。

しかし時間と共に哀しみが薄れる処か、先に逝った芙蓉や伊吹を羨ましく思う気持ちは日増しに募る一方であり、自害こそしないものの飯を食えなくなった時はこのまま死んでも構わない、むしろ好都合だとさえ考えていた。

献身的に看病する朝陽や、自傷行為を泣いて止めた藤袴達に対する有り難みは無いわけではないのだが、まだ生きたいと渇望する気持ちは微塵も感じないのである。


先日自分の為に怒ってくれた朝陽の事が過る。


妹女郎とは三味線の稽古をつけてやると約束したばかりで、最近やっと自分も姉女郎として彼女を世話してやろうと思い始めていた。


とはいえ、それは放っておけないという義務感や死ぬまでの小さな仕事という程度の認識でしかなく、生き甲斐というほど強い立派な執着心とは程遠いものである。


もし今自分がいなくなったら、まだ吉原にきて日が浅い朝陽はどうなるのだろう。


おそらく他の姉さんが後任になるのだろうが、少なからず自分になついてくれている朝陽を傷付けてしまうのではないかと、案じずにはいられない。


少し前の浜木綿ならば、女郎仲間達をそれなりに大切だと認識してはいても、ここまで気にとめたりはしなかっただろう。


こうして出会ったばかりの子供のことを気にするなんて、短時間で人間変わるものなのだなと浜木綿は不思議に思う。


(幸せを知りたかったらついてこい、か)

蝉の鳴く夏空を格子越しに見上げた浜木綿の脳裏に、二人の姉が自分に願った言葉が浮かんだ。




漆拾陸『自由』


昼見世が終わり、夜見世までの時間を自室で過ごしていた浜木綿は、傍で三味線の練習をしている朝陽にねぇ、と声をかけた。


「なぁに、姉さん」

まだ人を疑うことも知らない相変わらず真っ直ぐな目を、朝陽は信頼しきっている浜木綿に向けてくる。



「朝陽はさぁ、もしあたしが姉さんじゃなくなったらどうする」


姉の唐突な質問に、「姉さん絶対死んじゃやだ」と勘違いした朝陽は三味線をほっぽりだして抱きついてきた。

浜木綿は想像していた以上の反応に驚きながらも、「死ぬわけじゃないよ」と訂正してやる。


「あたしを身請けしたいっていう変わり者がいるんだよ」


姉の言葉を聞いて安心した朝陽は、なぁんだ良かったと安堵の色を浮かべた。


「身請けって、姉さんがお外で自由になって幸せになれるってことなんでしょ」

大雑把な解釈だなと呆れながらも、なんで知っているのか聞けば、この間吾妻が堀の内さん(妙法寺)に手拭いの奉納と参詣を遣り手婆に頼んでいた時に、吉原から出られる幸運な方法なのだと教えて貰ったらしい。


「浜木綿姉さんがいなくなっちまうのは寂しいけど、大好きな姉さんが幸せになれるんならあたしも嬉しいよ」


あっさりそう笑顔で答えた朝陽に、浜木綿は驚きで目を見開いた。


「あんた、それでいいのかい」


「うん、姉さんには幸せになって欲しいもん。あたしだって応援したいんだ」


あたしはまだよくわからないけど、と朝陽は続ける。


「身請けって凄いことなんでしょ。悪い人じゃないんなら、折角だし助けて貰わなきゃ勿体ないよ。


あたしは芙蓉姉さんや伊吹姉さんには会ったことないけど、姉さんの姉さんならきっと幸せになって欲しいって言うと思うよ。


だから姉さん迷っちゃ駄目だよ、あたしの為に悩んでるんならあたしの為に行って欲しいな」


涙ひとつ見せないで、朝陽は夏の向日葵のように笑った。



更にその晩。まるで浜木綿の迷いを見透かしたように、夜見世を終えて内証へ時札を掛け替えにきた浜木綿を遣り手婆が呼び止めた。


話をしようと言われ、二階の遣手部屋に連れてこられた浜木綿は、薦められるままに座したものの遣り手婆の要件が何かは察することができなかった。



煙管を取り出して火をつけている間、浜木綿はなんとなく提灯の灯りを眺めて遣り手婆が口を開くのを待つ。


ゆっくり煙を吸い込み吐き出すと、遣り手婆は浜木綿に何を迷うことがあると問うた。


「田村様なら身分は申し分ないし、あのじいさんならあんたを悪いようにはしないだろう。


さっき朝陽に聞いたんだろ、あの娘の気持ちを」


浜木綿がなんで知っていると聞けば、何年あんたらの面倒をみてると思ってんだと老婆は笑った。


「まぁあんたならこのまま居てくれても座敷持ちになって稼いでくれそうだけどね、親心としちゃああたしは伊吹の分まであんたに生きて貰いたいのさ」


「婆さん、あんたあたしが新造になりたての頃、どうせ女郎は吉原を出てもまともに生きていけねぇっていってなかったかい」

「そんな昔のこといちいち覚えてないよ。歳をとりゃあ考えだって変わるもんなのさ」


遣り手といえば、女郎に小言をいって恨まれてなんぼの鬼婆でなければならぬものであるというのに、今浜木綿の目の前に座っている老婆には鬼の面など皆無である。


「前から思ってたけど、憎まれ婆ぁがそんな甘いこと言っていいのかい」


「どうせあんたらうちの女共は、昔からあたしの言うことなんてちっとも聞かないじゃないか。

浜木綿、あんたはもう少し他人の言うこと聞かなきゃ駄目だよ」


まるで伊吹に叱られていた時のようで耳が痛い。


「うるせぇ婆ぁ」と憎まれ口を叩いて、浜木綿は遣手部屋をあとにした。



漆拾漆『交換条件』


翌朝。朝陽に早く返事を書けと急かされたこともあり、浜木綿は田村に返事をするから近く登楼して欲しい旨の文を書いて文使いに届けさせた。きちんとした生業の者に頼んだのは、田村が藩の留守居役という身分であることを考慮しての判断であった。


それから三日後の宵。お役目の目処をつけて、田村は吉原に姿を見せた。


「それで、腹は決まったのか」

腰を降ろして早々に田村は本題に入った。


「あぁ、妹も婆も言うこと聞いて早く行けって煩くてね」


追い出されそうな勢いだと、浜木綿は冗談を返す。


「ただ、あたしは朝陽にまだ何にも姉らしいことをしてやれてない。

せめて姉女郎としていつかあの娘が着る着物や簪のひとつくらいは誂えておいてやりたい。


身請け金を弾むつもりなら、その金を朝陽に使ってやってくれないか」


浜木綿は頼むと、田村に頭を下げた。彼女が誰かに頼み事で頭を下げるのは、人生で始めての事であった。


その浜木綿の姿を見た田村は、女がやっと人間らしさをみせた嬉しさで自然と目許が緩んだ。


「わかった、必ず立派な着物と簪を用意させよう。

私としてはもっと世話してやってもいいが、そうするときっと次の姉さんが気を悪くしてしまうのだろうな」


浜木綿は頷いてこれでいいと伝えた。


「他に望みはないのか」


「朝陽に三味線の稽古をしてやりたいから、もう少し時間が欲しい」


自分の望みはそれだけだと、浜木綿は言った。


やはりこの女はまだ死なせるわけにはいかないと、改めて田村は認識した。


「ならば、着物が出来上がるまでの一月で良いか」


「十分だ」


その日の帰りしな、田村は楼主と一月後浜木綿を身請けする証文を交わしていった。




漆拾㭭『あねとして』


気が向いただけ。どうせいつか死ぬのなら、たまには流されてみようと浜木綿は思った。


そうして受けることにした身請け話。

酔狂で決めたはいいが、さて心残りはと考えた時、自分が朝陽に残してやれることはないか出来る限りのことをしてやろうと考えた。

あと何年かすれば朝陽も水揚げを迎えて女郎になる。その新造出しの支度を調えてやるのは姉女郎の役目だ。普通ならば姉女郎が借金をする形で着物やら一式を準備してやるのだが、身請けされてしまえば浜木綿には何もしてやれなくなる。

だから田村の人の良さと金を宛にして、勝手を承知で望みを叶えて貰った。交換条件といえば聞こえはいいが、女の身一つしか持たぬ自分では男に還してやれるものなど何もない。まして中見世の部屋持ち女郎止まりとくれば、あの男にとって割りに合わぬ出費であろう。

それをあの老人はいとも簡単に呑み、一月の猶予までくれたのだ。女郎の着物など、あの男の金であれば一月とかからず誂えられように。


なんにせよ、事は巧く運び、あとは自分が動くだけだ。

あと一月という短い期限ではあるが、今までの分を補うつもりで朝陽の姉女郎でいてやろうと浜木綿は思っている。


「さて、これから毎日みっちり三味線の稽古でもしてやろうか」


朝陽が将来、郭一の立派な花魁になれるように。




漆拾玖『かぞく』


田村が証文を書いた翌日、郭では正式に浜木綿の身請けを発表され、祝福されこそすれ妬む者は誰ひとりいなかった。皆が自分のことのように喜ぶ様をみて、浜木綿は初めて自分を取り囲む吉原の家族を見たのかもしれない。


それからの日々は、本当に瞬く間に過ぎていった。

朝陽は普段の稽古とは別に毎日浜木綿に付きっきりで三味線を習い、時間が限られていることもあり厳しくなっても弱音ひとつ吐かなかった。


その褒美だという口実で、度々浜木綿は妹を甘味屋に連れていってやった。好物の水飴を買ってやれば、幸せそうに微笑む朝陽をみて、芙蓉や伊吹も自分をこんな気持ちで見ていたのかと考えてみた。


着物のことは、渡す時まではと朝陽には内緒にしている。

あとは何をしてやろうかと、浜木綿は毎晩床の中で考えるようになった。


今夜の客が置いていった赤いびいどろが目にはいる。きっとあの娘にやれば喜ぶだろうと思い付き、明日渡した時の妹の反応に期待して浜木綿は目を閉じた。




㭭拾『見返り柳』


そして長月半ば。滔々明日迎えに来るという文と共に、先に渡してやれという心配りなのであろう、艶やかな朱色の袿とこれまた見事な装飾があしらわれた簪が浜木綿のもとに届けられた。


その申し分ない出来映えの品々に、浜木綿も田村に頼んで良かったと心から思う。きっと浜木綿の姉女郎としての面子も考慮しての贈り物なのであろう。これならば朝陽に胸を張って持たせてやれる。


昼の稽古を終えた朝陽を、浜木綿は早速呼び寄せた。


「なぁに、浜木綿姉さん」

何も知らない朝陽が、嬉しそうに部屋へ入ってきた。


あんたに渡したいものがある、と届いたばかりの袿と簪の包みを広げて見せると、朝陽は信じられないとばかりに浜木綿の顔を見上げた。


「姉さん、これ」

本当にこの娘はいつも予想通りの反応をするなと、浜木綿は笑みが溢れた。

「一応これでもあたしはあんたの姉女郎だからね。三味線の稽古も、新造出しの面倒も見てやれなくなるから、田村の爺さんに頼んで誂えて貰ったんだ。

まぁあたしの金じゃないから偉そうなこと言えないけどさ、女郎になった時に使いな」


姉女郎の優しさに、朝陽はぼろぼろと涙を溢して泣き出した。


「朝陽はほんとに泣き虫なやつだねぇ。猫に負けない花魁になろうってんなら、一々めそめそ泣いてちゃ勤まんねぇよ」


呆れた口振りの割りに、朝陽を宥める浜木綿の目はとても柔らかく、仕方ないやつだと抱き締めてやれば朝陽は暫くの間姉の腕の中で盛大に泣き続けていた。


そしてすっかり秋晴れの昼頃。定刻通り浜木綿を迎えにきた田村に、遣り手婆が『佐奈』を頼むと挨拶した。


板の間は浜木綿を見送ろうと女達が集まっている。着物や小物の殆どを朝陽にやった為、今浜木綿が持っている手荷物は三味線と煙管など僅かなしかない。


別れの間際まで姉に抱きついて離れようとしない朝陽に、浜木綿は鼈甲の櫛を持たせてやった。


「あたしには伊吹姉さんの櫛があるからね、あんたこの櫛欲しがっていただろう」


だからやるよと小さな頭を撫でてやる。その姿見ていた女郎仲間達は、やっぱり浜木綿に任せて正解だったと思った。


「ゆう、姉さん達の分まで幸せになりな」と藤袴。

それに続いて伊織と初雪、吾妻といった特に関わりあいの深かった面々が餞別の言葉を伝える。


「ゆうは、人の面倒ばっかり見てないで次は自分の事を考えなきゃね」

「あたしらの分も自由を楽しむんだよ」

「呆気なく早死にしてたら、あの世でこっぴどく叱ってやるからね」


礼をひとつして、浜木綿は暖簾を潜った。


幼い頃に姉と共に吉原にきてから、苦界と呼ばれる意味を知った。色んな女郎の生き死に様をみてきた。伊吹というもうひとりの姉に出会い、芙蓉と伊吹二人の姉の幸せを願った。


待ち合い辻で、田村が通行の検問を済ませているのを待つ。


目の前に聳える大門を見上げた。

この門を生きて抜けられずに何人の女郎が苦しんだのか。恋しい男と契りを交わしても、報われずに死んでいった女は山の様に居る。


芙蓉と伊吹も男と生きる未来を夢見て、心のそこから吉原から解放されることを望んでいたのだろう。


田村が自分を呼んだ。何も言わず浜木綿は大門を潜った。


「佐奈姉さん、元気でね」

もう聞くはずのなかった声に振り返れば、慌てて走ってきたのであろう息をきらせた朝陽が自分に大きく手を振っていた。

「あんたも立派な女になるんだよ、お梅」

佐奈は涙を耐えて笑ってやった。



大門を出て三曲がりの五十間道を歩き、衣紋坂をのぼる。籠を待たせてあるという見返り柳に差し掛かり顔をあげれば遥か遠くの山々が赤く色付き始めている景色が拡がっていた。


後朝の別れをした遊客が、女郎との別れを惜しんで吉原を振り返るという見返り柳の下で、佐奈は最後に浜木綿として吉原の日々に別れを告げた。



別れと始まりの秋の空は、雲ひとつない青天だった。



.







吉原女郎・浜木綿とそのまわりの女たち生きざまを描く『はなのいろ』。

女郎として生きた前編である第一部『浜木綿』はこれで完結です。


続く後編第二部『佐奈』では、思いがけず身請けされ普通の女・佐奈として生きる葛藤と模索、そして初めて出会う恋の果てに待つ再生の物語を描きます。


ラストまで簡単には進まない佐奈の人生を、最後まで応援して見届けてください!!

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ