エピローグ 神聖暦7800
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ヤシの木並ぶ庭園に、熱い風が吹く。
ふわりと寝台を多く半透明の薄幕が、風にあおられまくれあがった。
更紗模様の敷き布の上で、赤毛の子はけだるげに息を吐いた。
右の耳たぶが燃えるように熱い。
桜色の瞳で垣間見ると、金の獅子がひたと寄り添い、耳を優しく食んでいる。
「あ……」
背をわずかにそらして、赤毛の子は笑った。
「ジェニ……くすぐったい」
「朝からそそられた。喰わせろ」
「やだよ。昨晩いっぱい食べたじゃない」
つれない赤毛の子の細腰に腕を回しながら、金の獅子が囁く。
「またその本を見ていたのか。皇帝陛下」
「うん」
「初歩の初歩だぞ」
「基礎こそ、大事でしょ?」
赤毛の子は本を閉じて赤がね色の革表紙を撫でた。
その題名の金文字は半分以上はげている。だが、だれが何のために作ったものか、赤毛の子はよく知っていた。
その本の贈り主も。はじめの持ち主も。とても不幸な死に方をした。
風邪を引いた師のために鍾乳洞へもぐった幼い弟子は、そこで恐ろしい悪魔に出会ってしまう。
そして――長い長い試練の旅路が始まる……
だがそれは、もう半世紀も前のこと。
生まれ変わったいま。二人はだれよりも幸せになっている。
『ぼくがだれかにひどいめにあわされたら……たすけにきてくれる?』
『当然だ。約束する』
生前約束した通りに、師は我が子を助けにきてくれた。
そして。
今もすぐそばにいて、守ってくれている……。
赤毛の子は、とても幸せそうなため息をついて寝台から降りた。
「あれ? ねえ? 今なんて、俺のこと呼んだ?」
「皇帝陛下」
「まだそうじゃないのに」
苦笑する子に、金の獅子はふんと鼻を鳴らした。
「本日、日付が変わったのを以って、おまえはこの魔道帝国の皇帝位についた。ゆえにもうそう呼んでもよかろう。大体先代は、すぐにでもおまえに位を譲るといっておきながら、それから一体何年だらだらと玉座を暖めてたんだ? むかついてならぬ」
「それは、俺が嫌がったからだよ」
「ふん! とっとと押しつければいいものを」
ぼやく獅子に苦笑しながら、赤毛の子は中庭に出て空を仰いだ。
赤い砂漠を覆う空は抜けるように蒼い。この空のはるかかなたまで、帝国の版図は広がっている。
「ラデルはお師さまから、大きな国をもらった。金獅子州よりも、もっともっと巨大な帝国を」
少年は、ぐっとこぶしを握った。
「これからさらに国を広げる。俺たち師弟を苦しめた寺院をほろぼし、大陸を統一する」
目を細めた獅子は、赤毛の子を爪で引っ掛けぐいと寝台に引っ張り寄せて、小卓の上にあるお菓子をすすめた。
「食べろ俺の子。祝いだ」
「え? いつもと変わんないやつじゃない?」
「いいから食べろ」
「ともぐい……」
笑いながら赤毛の子が砂糖衣のナツメヤシにぱくつく。
「ねえ」
寝台にちょこんと座り、頬にぽっこり大きな突起を作りながら、赤毛の子は聞いた。
「ほんとになんで俺、ランジャディールなの?」
「決まってるだろう」
金の獅子はおのれの口にナツメヤシをほうりこみ、きっぱり断じた。
紅燃ゆる、桜色の瞳をすがめて。
「世界一、うまいからだ」
するとたちまち、赤毛の子の顔に光が降りた。
そのまぶしい笑顔を見た獅子は、実に満足げなため息をついた。
その貌は赤毛の子と同じ。輝くほどにまばゆかった。
まるで本物の太陽のように。
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魔道帝国の高祖、獅子王ジェニスラヴァは、もと黒の導師であったといわれている。
その信憑性は定かではないが、第二代目にして皇帝を称したレヴテル二帝は、生涯獅子王のことを師と呼び、父のごとく敬い奉った。
帝のそばには常に金の獅子が守護者として侍っていたが、それは先代獅子王の分身であったという伝説がまことしやかに語り継がれている。
炎燃え立つがごとき赤毛の神帝は即位後すぐに兵を挙げ、一年たらずで岩窟の寺院を滅ぼした。
さらには大国エティアを併合し、帝国を大陸に覇を唱える三大国の一国と成すのであるが。
それはまた別の、長い長い物語である。
――ランジャディール・了――