7話 竜王のお話
「これよんで! いますぐよんで!」
ランジャディールが指さした本。その表紙には、美しい絵が描かれている。
空とぶ竜だ。
だがそれは、絵本ではない。セイリエンはごくりと息を呑み、首を横に振った。
「ラデル。それは……韻律の呪文を記した書だ」
しかし子どもは床にぶちまけた本の山から迷わず、その本を拾い上げた。
それは変身術の韻律を記した本であったから、若き師はたじろいだ。
(まさか本気で、背中から翼を生やしたいのか?)
胸中を襲ってきたのはおどろきよりもむしろ、恐れと不安。
子どもはただおのれの罪をこわがり、縮み上がるだけでなく。自分を罰したいがため果敢に行動を起こしたのかと、師はおののいた。
(いやだ、失いたくない! どんなに乞われても、その技は決して教えぬぞ!)
決してこの子を手離すものかと、師は弟子をなだめにかかった。
「ラデル。韻律は段階をふまないといけない。覚えたいなら、まずは基礎をしっかりやってからだ。一足飛びに高位の技を習得するのは無理だよ。君にはこの韻律書はまだ、難しすぎる」
「ううん。ちがうよ。きっとそんなんじゃない……」
「違う?」
それはどういう意味だろう?
子どもは歯を食いしばり、本の山を越えてずかずかと、眉根をひそめる師のまん前にきた。そして拾った本をわざとぐいぐいと、師の胸に押し付けた。
困惑顔で押し付けられた書を手に取ると。絶対にその本だと宣言するように、子どもはきびすを返して床にしゃがみ、落とした本を棚に戻し始めた。しゃくりあげるのを、必死にこらえながら。
「グレゴリは……よんでもらってた。いつもママに、よんでもらってた」
その頬を、涙がぽたぽたとこぼれおちた。
「グレゴリ? それはだれだね?」
「お、おじさんの、子ども……ぼく、きいてた。ろうかでこっそりきいてた。おばさんは……」
子どもは激しく鼻をすすりあげた。
「おばさんは、いつでもグレゴリによんでやるの。たくさん、おはなしをよんでやるの。グレゴリは、おばさんのほんとの子どもだから……いつでも……」
子どものいわんとすることを図りかねて、セイリエンはますます眉間にしわを寄せた。
「いつでも。たくさん……」
一冊だけで終わりにしてほしくない、ということか。
子どもがねだるままに、何度も読むとか。決まった時間ではなく、好きな時にいつでも読んでやるとか。本当の親ならそうする、と言いたいのだろうか?
(たしかに。単に定時にこなす作業ではならぬのだな。しかしなぜにこの韻律書なのだ?)
「おねがい。だっこしてよんで」
本をすべて片付けた子どもが、こちらをまっすぐ見つめてくる。
澄んだ淡い蒼の瞳が、射抜いてくる。
もう決して膝の上には乗ってこないと思っていたのに、自ら頼んでくるとは。
(これは……)
試されている――。
挑むような子どもの目を見下ろしたセイリエンは、そう直感した。
賢い子どもは、確かめようとしているにちがいない。
自分を「我が子」だと言うセイリエンが、本当にそうなのか。
このおねだりにどう対応するかで、見極めようというのだろう。
『きっとそんなんじゃない……』
師は、さきほどの子どもの言葉を反芻した。
(この韻律書は、韻律書にあらず……)
わざわざ違うと言うからにはそうなのだろう。
すなわち。この書をそのまま読み上げれば、セイリエンはたちどころに敗北するということだ。
これは『そんなんじゃない』。そんなものではない。
ということは……これは、「見た目通りのものではない」。
(なるほど。もっと別のものとしてとらえろということか。つまり韻律書としてではなく、物語が記されているものだと、想像しろというのだな?)
「わかったぞ……それを望むかナツメヤシ。朝と晩、魔法の歌を紡ぐこの黒の導師に……」
セイリエンはおのが身を刺してくる、子どもの冷たく澄んだ瞳をまっすぐ捉えた。
「この私に、物語を紡げと命じるか!」
子どもの瞳が大きく揺れる。どくんと激しく、期待と願いをこめて。
どうやらそれで正解のようだ。しかし話を作るなど、生まれてこのかた一度もしたことがない。
内心おのれにできるだろうかと不安になりながらも、若き導師はにっこり笑顔を浮かべて、寝台に座った。
「よかろう。おいで、ラデル」
呼んだとたん。子どもは大きく息を吐き出し、飛びつくように師の胸に抱きついてきた。
「おねがい……!」
腕に力を込めて師を抱きしめてくる。師がそっと押して促すと、子どもはすんなり膝の上に乗った。
第一の関門は突破したと、師はホッとした。
しかし、勝負はこれからだ。
子どもから抱きしめられるとは、これはなみなみならぬ期待をかけられている。
(さて、どんな話をすればよい?)
神々の話? 英雄の話? 美しい乙女たちの話?
いままで読んだありとあらゆる文物の内容が、セイリエンの頭の中に一挙に去来した。
ただのおとぎ話から、かのカイヤールの哲学書まで。いきなりいっしょくたに。
混沌の波が頭の中にどっと押し寄せてきた。荒れ狂うそれは渦となり、セイリエンはその深淵にのまれそうになったが、なんとか浮かび上がって知識の海を俯瞰した。
(子どもが喜びそうな話か……)
「むかしむかし、あるところに……」
子どもの目の前で本を開き、無難にはじめようとしたセイリエンは、ふと口ごもった。
(いや。世間一般の子どもが喜ぶのではなく……この仔が喜ぶ話を作らなければなるまいぞ)
この金髪の仔が好きなもの、といえば――。
(竜……そうだ、竜王メルドルーク!)
セイリエンはよどみない声で語りだした。
朝と晩。石の舞台で歌うその声で、紡ぎはじめた。
いまだかつて誰も聞いたことのない、世界でただひとつの物語を。
『むかしむかしあるところに、偉大な竜の王がおりました……』
『「あまたの人間にそう語られし伝説の竜! おまえこそが、かの竜王メルドルークか!」
天地を揺るがす咆哮が、あたりに響き渡りました。
とある王国のまんなかにたつ、巨大な象牙の塔。
そのてっぺんに座す竜に向かって、蒼き狼が叫んでおります。
遠き東の国からやってきたこの狼の名は、妖狼フェンリル。
竜の王が守る国を滅ぼさんと、今まさに、百万の眷属を率いてやってきたのです。
ぐるぐる唸る狼は、恐ろしい吠え声をたてました。
「そのうろこは黄金の陽光。その瞳は真っ赤な太陽。おお! まさに伝説の通り! そこな竜、おまえこそ、かの有名な神剣、「戦神の剣」がかたどりし竜王だな!」
「いかにも。我こそは竜の中の竜!」
「このフェンリル、守護神たるおまえを打ち倒し、この国をもらいうける!」
「笑止! うぬなど我の敵ではないわ!」
狼は、吹雪を吐き出すおそろしい神獣。ぐばりと口を開け、すさまじい冷気を放ちました。
「凍りつけ! メルドルーク!」
絶対零度の冷気がたちまち、象牙の塔を氷の塔に変えていきます。
しかし竜は眉ひとつ動かさず、その口から、輝く咆哮と燃える波動を繰り出しました。
「天竜! 滅・熱・炎!」
「ぐおわぁああ!」
たちまち、塔にはりついた氷が溶けました。
蒼き狼も溶けていきました。百万の軍勢もろともに。
みな、暴れまわる真紅の炎に蒸発させられてしまいました……。
メルドルークは、竜の中の竜。
灰色の大導師が生み出した、大陸最強の神獣です。
いまだかつて、だれにも負けたことがありません。
王国の真ん中に立つ大きな塔をねぐらにし、ぐるりと四方、千里先を常にみはっています。
塔は象牙でできていて、周囲を囲んでいるのは七重の大きな堀。
近づく者はすべてこうして、神の炎に焼かれます。
あまたの神獣や軍団が攻めてきても、決して王国は滅びません。
竜王の炎の咆哮で。翼のひとなぎで。敵はみな吹き飛ばされるのでした』
「竜王メルドルーク……!」
ランジャディールの口から囁きが漏れる。
セイリエンは頭をもたげて子どもの顔を横から見てみた。湿っていたその瞳に、ぱっと明るさが点っている。
(よし! いける!)
若き導師はそれっぽく、本の頁をぺらりとめくった。
紙面にはびっしり神聖文字が並んでいる。しかし若き導師はその呪文の羅列をまったく無視して、話の続きを紡いだ。
『しかしそんな最強竜が、大変な危機に陥ったことがただの一度だけあったのです。
王様の命令で同盟国を助けに飛んで行き、いつものように敵を殲滅し、意気揚々と凱旋したその帰り――』
「がいせんって……」
「ああ、戦いに勝って帰ることだ」
「せんめつは、しってる。敵をぜんぶたおすこと……」
「そうだよ。よく知っているね」
言葉の意味を説明したセイリエンは、内心ひやっとした。
これはおとぎ話だから、言葉を選ばなくてはならない。
ランジャディールは普通の子にくらべて語彙が豊富だが、まだ十歳だ。
(分かる言葉で、話さなくては――)
『意気ようようと、勝利を歌って帰ってみれば。
なんとあの象牙の塔が、敵に占領されてしまっていたのです。
王様と竜王が同盟の軍をひきいて国をあけたすきをついて、別の国の神獣が攻め込んできたのでした。
いつもなら、敵をいとも簡単に片づけてしまえる竜王ですが。
攻めてきた神獣は、卑怯な大サソリ。
そやつはあろうことか、象牙の塔に住んでいる人々を人質にしてしまったのです。
竜王は怒り狂いました。そして気が気ではありませんでした。
人質にされた人々の中には、竜王が愛してやまない姫がいたからでした』
物語に姫はつきものだ。やはり出さねばなるまい。
白猫王のように竜王にもちゃんと、伝説に名高い伴侶がいる。
『その姫こそは、大陸に名だたるうるわしき歌姫。
水晶の声きよらかな、リンデ・フォンジュ。
白鳥のごとき姫とよばれる、美しい乙女でした。
いとしい姫を。人々を。傷つけられてはなりません。
反抗できぬ竜王は、サソリの眷属に襲われました。
その翼は裂かれ。うろこは剥がされ。赤き瞳はえぐりとられてしまいました。
サソリは歌姫がメルドルークの弱点だということを、よく知っておりました。
そのため象牙の塔の宝を全部うばったばかりでなく、竜王の眼と姫を奪って、王宮へと進軍していきました』
ランジャディールがそっとセイリエンの腕に手を置いた。
メルドルークのやられ方が少々残酷だったかもしれぬと、師はどきりとした。
しかし子どもはきゅっと師の袖を握って聞いてきた。
「どうなったの? それで竜王は、どうなったの? おしえて」
つぶやくなり、子どもはうれしげなため息をもらした。
「ああ、一度でいいから、こんなふうにいってみたかったの……グレゴリみたいに」
養い親の子がくったくなく母親に話をねだるのを、ランジャディールは廊下からいつもこっそり見ていたのだろう。そしてずっと、うらやましく思っていたのだろう。
もしかしたら両親との記憶はほとんどなく、グレゴリの母を見て、理想的な親を想像してきたのかもしれない。
(だとしたら。私は生みの親に勝てるかもしれぬ)
子どもは蒼い衣の袖で目に残る涙を拭いたが、その口はほのかにほころんでいる。
期待感がはんぱなくふくらんでいるようだ。
絵本であれば、次の頁の絵や文字をみたら、先がどうなるか大体わかる。
だがたった今この場で紡ぎ出しているこの物語の行く末は、どうなるかわからない。
その展開は、話を作って話している者の気分次第。
それゆえに、先がものすごく気になるのだろう。
(即興の力か)
たぶん乞われてまた同じ話をしてやっても、一言一句再現するのは無理だ。細部はきっと変わる。文字になっていないから、話は自由自在。本当に、好きに作れる。
(そうだ。自由にできるのだ……ならば……ならばこの仔の好きなものをもっと出そう)
竜王のほかにこの子が好きなものは、なんだったろうか?
セイリエンは語る口調に熱をこめた。
『傷ついた竜王は息もたえだえになりました。
このままでは、王宮はサソリに焼かれてしまいます。国が滅びてしまいます。
地に伏してもなおあきらめず、這い進もうとしておりますと。
そこにたのもしい盟友がかけつけてきました。
それはまっ白い毛なみのつよい猫。かの、白猫王でした。
かけつけてきた白猫王は、桃色の砂糖衣がまぶされたお菓子を竜王にさしだしました。
「さあこいつを食べろ、メルドルーク。神様の食べ物だから、たちどころに傷がなおる」
「かたじけない、メキドの猫の王」
「礼にはおよばないぞ。おいらたちは、友達じゃないか。ほら、つい先日、いっしょに魔王ダンタルフィタスを壷に押し込んだ仲だ」
「おお、そうだった。あのときも我らは傷だらけになったが、このお菓子のおかげで元気になれたな」』
ランジャディールの瞳が、一気に明るさを増す。
最強の神獣と最強の英雄。
ふたりが共闘するなど、実に夢のような話だ。しかも桃色の砂糖衣のお菓子といえば――。
名をいわずともそのお菓子が何か、思い当たったらしい。ランジャディールの口から、かすかにくすりと笑いがもれた。
(そうだ。ランジャのナツメヤシだよ)
セイリエンはさらに増援としてもうひとり、仲間を出した。白猫王がしもべにしている、緑の蛇だ。
蛇は最強の神獣を崇めるほど大好き、という設定にしたので、この蛇ははしゃいでしなをつくって黄金の竜にまきついた。
「似合いの夫婦のようだ」と、白猫王が竜と蛇をからかう様を語ると。
ランジャディールは微笑みをうかべて、師のそでをぎゅっと握り、なんとねだってきた。
「おしさま、ウサギもだして。とけいをつくれるふしぎなウサギ……だして」
「技師ウサギのピピか。ウサギも好きか?」
「うん」
「よかろう。では、仲間に加えよう」
ピピとは、赤妖精社が出している絵本に必ず出てくる、何でも作れる万能ウサギだ。
子どもの望みどおり、セイリエンは不思議なウサギを登場させた。
竜王は目を奪われてしまっているから、ウサギが義眼を作って嵌めてやったことにした。
(おとぎ話の主人公が何人も。実に豪華絢爛だ)
時代考証など、めちゃくちゃだ。
メルドルークも白猫王も、そしてウサギも、まったく別の時代に生きた伝説のものたち。
だが、紡がれる物語の中では仲良く出会い、一緒に戦える。なんでもできる。
自由にだれでも、話の中に出せるのだ。
だれでも……
(だれでも? そうか、だれでも出せるのなら……)
セイリエンは頭に浮かんだひらめきを、すぐさま言葉にした。
『こうして傷が癒え、目が見えるようになった竜王は、仲間たちを背に乗せて、王宮へ向かいました。
その途中で、街道を埋めるサソリの眷属たちと戦っている戦士に出会いました』
うまくいくだろうか。
『その戦士の、なんと勇猛果敢なことでしょう。
まだ少年だというのに、鉄のサソリたちをばったばったと、つぎつぎ斬りふせているのです。
その手にもつ剣は、黄金竜をかたどった、たいそう美しいもの。
柄にはまっている赤い宝石がきらきら輝いています。
「なんと! あれは戦神の剣だぞ!」
白猫王がおどろいて、戦う少年を指さしました。
「あれは大陸になだたる精霊の剣、おのが主人を選ぶときく」
「ではあの勇敢な戦士は、剣に選ばれた者なのじゃな」
「うっは、まるで軽い棒切れのようにあの大きな剣を振り回してるぞ」
「なんと、剣の切れ味のすさまじいことぞ!」
竜王は目を細めてその戦士の隣に降り立ち、吠えました。
「我の姿をかたどりし剣の持ち主よ! 助太刀いたそう!」
その咆哮に飛ばされて、鉄のサソリたちがいっせいに浮き上がりました。
少年戦士はその隙をつき、剣を一閃。たちまちサソリの群れを薙ぎ切りました。
その太刀さばきはあたかも疾風のごとし。剣聖ヤッハカルもかくやの勇壮さ。
戦士は炎の息吹を吐いた竜をうれしげに見上げてきました。
「たすかった、竜王メルドルーク! 君が倒されたと聞いて悲しんでいた」
「我は無敵ぞ、少年よ」
「竜よ、大サソリは王宮を攻め落とした。王宮を恐ろしい要塞と成し、お逃げになった王様を殺さんと、この鉄のサソリどもをくりだしている!」
「なんということか! 即刻大サソリを倒さねば。しかし姫が人質に……」
「竜王よ、僕が王宮へ忍び込んで、人質の姫を助けだそう。僕は小さい。だから大サソリはきっと油断する。姫を助け出したら思う存分、暴れてくれ」
「よかろう、少年よ! 我が背に乗るがいい!」
竜王はその少年も背に乗せて、空に飛びたちました』
「すごい。その戦士、だれ? 剣せいヤッハカルみたいってことは、その人じゃないから……エティアのぶおうさま? ぎんの足のせんしさま?」
ランジャディールは首をかしげ、一所懸命考えている。ちらと様子を伺えば、その瞳はいまやきらきらと輝き始めている。頭の中に、あまたいる英雄たちのことが次々と浮かんでいるに違いなかった。
『その背に乗って戦った勇猛な戦士の名前は……』
セイリエンは背を低くし、子どもの耳元でそっと囁いた。
『ランジャディールといいました』
刹那。
子どもの体がハッと固まった。その小さな口が、ぽかんと開く。
静寂が部屋に降りた。
そのまま、永遠にも思えるような沈黙がしばし流れたのち。
膝の上の子どもはぶるっと体をふるわせ、おそるおそるふりかえった。
「いま……なんて?」
「その戦士の名は」
セイリエンは今一度囁いた。目を見開く子どもに微笑みを落としながら。
「ランジャディールだ」