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6話 きよめの水

 次の日。目覚めたランジャディールは、ほぼ無言だった。

 固い顔で魚取りに出て、朝の風編みを終えた師を出迎え、食堂で給仕をこなす間。その唇は、きつく引き結ばれていた。師は午前中いっぱい神聖語の手ほどきをしてやったが、言葉のやりとりは最低限。

 子どもは目を伏せ、師の顔を極力見ないようにしていた。

 そうしてお昼になるなり。


「おそうじにいってきます」


 ぺこりと頭を下げ、逃げるように走って当番仕事へいってしまった。 

 夜も眠れず目の下にくまを作ったセイリエンは、おかげで午後中ろくに瞑想できなかった。

 岩の室でひとり悶々と悩んでいたのだが。


――「レナン、もっと食えというに!」


 夕餉(ゆうげ)のとき、黒き衣のディクナトールが弟子に無理やり食べさせようとしているのを見て、ハッと気づいた。


「まったく。久々に給仕してあげれば、やっぱりこれですか。もう十分食べましたよ」

「こら逃げるな! また吐きにいくつもりだな? 待てレナン!」


 黒髪の弟子は振り向かず、颯爽と小食堂を出ていく。

 あのレナンは、セイリエンと同じ年に寺院に入った。ディクナトールはやせっぽちの彼をふびんに思ってか、引き取ったころから今まで徹頭徹尾、太らせるのにやっきになっている。給仕をさせるついでに、たくさん食べさせようとするのだ。


『太らんと、かわいがってやらんぞ』


 勧める量は、まったく尋常ではない。パンや魚を次々口に押し込んでいくという、ほとんど拷問のようなものだ。その結果レナンは師をうっとうしがり、寺院の地下にある鍾乳洞に篭もるようになってしまった。今ではめったに、地上に帰ってこないぐらいである。

 師の押し付けが過ぎたため、レナンは身も心も、師から離れてしまったのだ。


(まさか私も、やりすぎたというのか?)


 おいしいお菓子も特注の絵本も、罪悪感にさいなまれる子どもにとっては、過分で大変な重荷だった、ということだろうか。

 

(たしか一番はじめは――図書室にあった絵本を読んでやった)


 初めての夜は、本を棚から落とされたことにびっくり唖然。

 たまたま借りていて本棚に入れていた絵本を一冊寝台に置かれ、それが読んでくれというサインだと察するのにだいぶ時間がかかった。

 選ばれたのは量販ものの、うすっぺらくてぼろぼろで、素朴な絵柄の本。内容はたしか、人間の子どもに翼が生えて天使になる、という話だったと記憶している。

 読んでやるとはじける笑顔こそ出なかったが、ランジャディールはそれはそれは幸せそうなため息をついていた。あれはひそかに喜びを噛み締めるような吐息だった。

 たぶんあれぐらいのもので、とどめておけばよかったのだろう。

 お菓子も箱入りで最高級の砂糖菓子でなく、飴玉程度にすればよかったのかもしれない……。

 しかし頭ではそう理解できても。


(ほどほどのもので我慢する? いやだ! ラデルは、この私(・・・)の仔なんだぞ? 金獅子家の公子にして、次期後見人たるこの私の!)


 セイリエンの感情は、納得できなかった。

 

(私の子になったということは、金獅子家の一員となったということだ。そしてさらに成長すれば……)


 あのまぶしい笑顔を見た瞬間。セイリエンは予感した。

 将来、単に弟子を慈しむ気持ちが、さらに深化するのではなかろうかと。

 ただの養い子に対するものではなく、もっと特別な想いを抱くのではなかろうかと。

 その予感は、日増しに確信になりつつある。

 夜も眠れぬほどに、あの子どもの笑顔が欲しいのだから間違いない。

 いや、もしかしたらもうすでに、その感情は芽吹いているのかもしれない。

 もうすでに……。


(我が想いと願いを受けるあの仔は、将来、私を継ぐ者となろう。あの金獅子家を統べる者に。そんな特別な子を、この私とあの家にふさわしいよう教育するのは、しごく当然のこと。あたりまえのことだ)


 セイリエンは、子どもに最高の教育を与えるつもりでいる。

 知識だけではない。なんでも。すべからく。最高のものを与えねばならないと信じている。

 いにしえの王家の血を引く彼は、それだけは、どうしても譲れぬと感じた。

 金獅子家の家名と、その高貴な血筋にかけて。


(王族の物品も様式も、あの子には絶対、必要なものだ――!)





 その夜。ランジャディールはいつもと変わらず、師の部屋に本をばらまいた。本棚にも隠れた。

 

「ぶたないよ」


 いつものように師の言葉を聞くと目を伏せ、本を片付けはじめる。

 けれども。絵本を選ぼうとしなかった。


「どれがいいのかな?」


 師が促してようやくおずおず寝台に乗せたのは、ラベル付きのうすっぺらい図書室の絵本。

 特注で贅を凝らしたものは、あきらかに避けてきた。

 

「これが好きだったろう?」


 冬の女王の美しい絵本を差し出しても、唇を噛んで首を横に振る。


「こっちのおはなしが、ききたいです……」


 遠慮しているのは明白で、寝台に座るのもやっとの有様。むろん、笑顔など浮かべる様子は毛ほどもない。


(昨日は本を読む前に(ナツメヤシ)を与えなかった。あれがたぶん、悪かったのだ)


 セイリエンは、些細な事実にすがるかのようにそう分析した。



『本をばらまいた罰だ。悪い子は食べられてしまえ』



 罪の意識にさいなまれている子はたぶん、今まであれで、やましい気持ちをいくばくか緩和されていたのだろう。甘いお菓子という点に首をかしげながらも、「罰」という言葉が、薄氷のように罪悪感を覆っていたのだ。

 だが昨晩、子どもの罪悪感は大きく膨れ上がってあふれてしまった。もう形ばかりの言葉で包むことはできないほどに。

 ナツメヤシをつまんで差し出せば、ランジャディールは躊躇しながらも口に入れてくれた。しかし頬にはいつまでもぽっこり突起ができたまま。師が絵本を読み終えても、飲み込めないでいる。

 師の視線に気づいた子どもはうつむいた。


「ごめんなさい……た、たべ……たべられ、ません」

「それは出していい」


 師はため息をついて、ついに折れた。

 最高のものを。王族の扱いを――

 子どもの辛そうな顔を見るなり、その信念はガラガラと音をたてるがごとく、揺らいで崩れてしまった。

 

「もっと別の……別の罰を与えよう。湖の水を、桶にいっぱい汲んできなさい」


 寒い冬。水場のある中庭には雪がふきだまっている。それに桶は重いから、水汲みは辛かろう。

 体罰以外の罰としては、かなりきついものに思えたが。しかし子どもはすぐさま立ち上がり、ものすごい勢いで走って、水をなみなみ入れた桶を一所懸命抱えてきた。


「もってきました!」


 もっとなにか言いつけて欲しいと叫ぶように、その大きな瞳がらんらんと輝き見上げてくる。

 セイリエンは本棚の上に置いているギヤマンの瓶をとり、桶に垂らした。

 たちまち、部屋にかぐわしい香りが広がった。

 

「いい匂い……」

「薔薇から作った香油だよ。この水を使おう」

「なにに、つかうんですか?」

「君が湖に落とされたのは、その身を清めるという意味があったんだ」

「おとされ、た?」


 子どもが首をかしげる。どうやらアルセニウスに背を押されたことは、自覚していないらしい。それとも、びっくりしたあまり覚えていないのかもしれない。

 師は白い木綿の布に香油が溶けた水をひたして絞り、弟子の頬にそっと当てた。

 その冷たさに一瞬、子どもの顔がびくりとする。 


「湖の水には、古来より罪や穢れを落とす力があると信じられている。その水でまた、君を洗ってあげよう。まだ罪が落ちきっていないと、感じているようだから」


 師は聖なる清めの白い布で、弟子の頬を撫でた。

 その額も。白い首筋も。かぐわしい香りが移るよう、ゆっくり撫でた。

 それから蒼き衣を引き落として、肩から背中を優しく拭いてやった。腕も足も。胸も。全身くまなく。

 夏には体のそこかしこに、まだ殴られたり蹴られたりした跡が残っていたが。今はもう、傷はほとんど消えている。 


「これで消える」


 どうか深い心の(きず)も消えるようにと、師は願いをこめて囁いて。

 小さな背にまだうっすら残っている傷に口づけた。


「これで悪い子は消えるよ、ナツメヤシ」

 


 


 その夜。ランジャディールはすんなり、師の寝台で眠った。その体から、実によい香りを放ちながら。

 うなされることもなく、その寝顔は安眠そのもの。みそぎの儀式は、子どもの心を少し軽くしたようだ。

 しかし。

 子どもは次の夜も図書室の本を選び、師が読み終わると言われもせぬのに、桶に湖の水を汲んできた。

 一度だけの儀式では、どうも納得できなかったらしい。

 師は仕方なく桶に香油をたらし、白い布でまた子どもを拭いてやった。


(本をばらまくのと同じだ)


 セイリエンの胸中に不安がよぎった。

 習慣になってしまっては、罪が消えるどころか、いちいち再確認させるだけになってしまうのではなかろうか?

 その推測通り。それから一週間、全く同じ展開が続いた。

 そうして暦は12の月に入った。中庭の小屋がうまるぐらい雪が降った、その日の夕刻。

 いらだち募らせるセイリエンが、小食堂でパンを無造作に引きちぎり、ぶどう酒をあおっていると。


――「ほんと、この寺院では、贅沢はできぬよなぁ」


 左手の少し上座の席から、先輩導師たちが愚痴りあうのが耳に入ってきた。


「肉は食えぬし、着たきりすずめだし。俗世の娯楽はほとんどできぬ。詩を吟じ、鞠を蹴り、すごろくを振るのがせいぜいのところだ」

「十分ではないですか、ソムニウス? 我々はすめらの国の貴族とほぼ同じ生活をしているのだと、かつてわが師から聞きましたよ」

「いやぁ全然だぞ、テスタメノス。たしかに歌詠みも蹴鞠(けまり)もあの国の貴族の趣味だが。食事はひどいし、召使いがいないじゃないか」


 話し声の主は、夢見の人と細手の人だった。一方は夢を見て、もう一方は卜占で未来を知る技を体得している。

 二人は大変仲がよい。セイリエンとレナンのように、同年に寺院に入った仲であるらしい。


「食事はたしかに、ほぼパンと魚だけで辟易しますが。召使いの役目は弟子がこなしてくれますでしょう?」

「そりゃいろいろしてくれるが、弟子は我が子だ。絶対服従するものとはちがうよ、テスタメノス」

「まぁおっしゃる通り、すねられると困りますね」


 今宵は週末なので、ぶどう酒が支給されている。それゆえにずいぶん、饒舌になっているのだろう。

 夢見の人は給仕役をこなす弟子が酒を汲みに厨房へいくと、こそりと囁いた。


「うちのカディヤはしょっちゅう怒って、私の世話を拒否してくるぞ。おそろしいことに、靴ひもを結んでくれなくなるんだ」

「ああ……それはあなたにとっては死活問題ですね、ソムニウス」

「弟子に手をかけるのを惜しんではならんな。大事にしなくては、生活もままならぬ」

「同感です。我が子同然の弟子に対しては、とくに最善をつくすのが師というもの」


(やはりみな同じだ)

 

 杯を握りしめ、セイリエンは深くうなずいた。

 みな、おのれの子がかわいいのだ。手塩にかけて育て、慈しんでいるのだ。


「しかしそなたのミメルは素直でよいなぁ、テスタメノス」

「あなたのカディヤとて、よい子ですよ、ソムニウス。ここにきた当初は蒼き衣を着るのを拒否したぐらい、頑固で強情ではねっかえりでしたが。いまや寺院で、一番優秀ではないですか」

「あれはなぁ、途方にくれたが、なんとかなった。いろいろやってやって、何が効いたのか特定できぬが。詩であろうか? 贈り物であろうか? ただ見守った時間であろうか?」

「なんにせよ、あの子が一番望むものを与えたのでしょう。だからあのように落ち着いたんですよ」


(子どもが一番望むもの?)

 

 セイリエンは胸に手を当て考えてみた。

 ランジャディールが真に望むものとは、なんだろう?

 ぶたないこと?

 だっこしてやること?

 絵本を読んでやること?

 いや、一番望んでいるのは……



『ほんとうのパパじゃないのに!』



(私の仔が欲しがっているのは、ほんとうのパパだ……)

 

「ラデル……部屋へ戻ろう」


 師は弟子を促し、夕餉(ゆうげ)の席を立った。すぐ後ろから、ぱたたと弟子の足音が聞こえる。

 小食堂を出た若き師は、回廊を歩きながら考えた。

 父親になれる本。

 それが作られ送られてくれば、今のこの状況は変わるだろうか?

 みそぎの儀式は失敗だったとがっくりしているセイリエンには、とてもそうなるとは思えなかった。

 

(大体にして、「普通の父親」というものがどんなものか、よくわからぬ。我が父など、全く参考にならぬからな。一日に数分間だけ、姿を見る存在など)


「……ラデル?」


 聞こえていた足音が途絶えていることに気づき、セイリエンはハッとふりむいた。

 とたん、心臓をきつく掴まれた気がした。


――「いい匂いだ」


 子どもの姿は、はるか後方。岩壁に押し付けられ、黒き衣の導師に話しかけられていた。


「ジェロ、ナツメヤシは好きか?」


 三位の長老、アルセニウスに――。

 

「聞けば本が好きだそうだな。私が所蔵する本を見にこないかね?」

「あの……」


 長老は片手を壁につけて子どもを閉じ込め、小さな肩をつかんでいる。その手におそろしく力がこもっているのを、セイリエンは一瞬で見て取った。 

 その証拠を示すように、子どもがこちらにまなざしを投げてきた。顔がほのかにゆがんでいる。

 

「ラデル!!」

「ああ、ジェニス。いや、セイリエン」


 駆け寄ったセイリエンに、もと師は見る者がたじろぐほどにこやかな笑みを向けた。


「この子をひと晩貸してくれぬか? その賢さを見てみたい。ノステラトの散文詩を教えてやろう」

「それはもう教えました」

「では、ベントリウスの史記を」

「それはまだ早いです」


 子どもは今にも泣きそうな顔でセイリエンを見上げてきた。

 肩に深く食い込んでいる長老の指が、異様に赤みを帯びている。

 韻律で熱を発しているのだと察し、セイリエンは血相を変えて師を押し飛ばした。


「なにをする!」

「それはこちらの言葉だよ、ジェニス」


 大きく体勢を崩したもと師が、地に片膝をつく。くいと上げたその顔に浮かび上がるのは、(かげ)りをおびた不気味な微笑。

 セイリエンが一瞬たじろいだ刹那。もと師の肩先から、闇色の矢がいくつも躍り出てきた。


「なっ……! いつの間に精霊を?!」


 歯軋りしながら結界ではじくも。若き導師がいつも展開している七重の結界は、あっという間にすべて砕け散った。


『息吹固めよ! 銀の盾!』


 子どもを引き寄せながら、セイリエンはきらめく銀色の、光り輝く盾を展開した。

 盾にぶすぶすと、もと師が立て続けに放った暗黒矢が刺さり、蒸発していく。

 その合間に、若き導師はさらに強力な魔法の気配をおろし、精霊を召喚した。


『いでよ光! 聖なる玻璃(はり)の炎よ!』


 たちまちもと弟子の周囲に出現したまばゆい光を見た師は、眉根を寄せた。悔し紛れか、口の端をほのかに引き上げ、くくっと苦笑する。

 

「まったく……たかが子どもひとりのために、そんなものを出すとは」

「近づくな!」


 回転する黄金色の光の渦が、みるまに獅子の形をとる。

 子どもを抱きしめ黒い衣の袖でかばいながら、セイリエンは怒鳴った。


「これは私の子だ! セイリエンのランジャディール! それ以外のものには、けっしてならぬ!」

「一瞬神獣を呼んだかと思ったが、人工精霊か。さすがだ、私の獅子」


 こおこおと輝き、今にも炎を吐きかけそうな獅子を見上げながら、アルセニウスは立ち上がった。


「これほどの獅子であれば。これぐらいの精霊は敵ではあるまい?」

 

 もと師の背後から、ぐおんと轟音がとどろく。

 暗黒の矢を出したものの本体――三つ首の狼が、獅子の前に躍り出た。

 それぞれの口から放たれた闇色の炎を、獅子が吐いたきらめく炎がかき消していく。

 輝く獅子は、咆哮した。

 この上なく神々しい炎がその口から吹き荒れ、おどろおどろしい狼を包んで焼いていった。

 またたくまに。三つの断末魔を呑み込みながら――。





 黒の導師は、冗談のつもりで致死の呪いを投げる。

 手持ちの精霊をぶつけあうことは、ほんの退屈しのぎ。娯楽とすら言ってよいものだ。

 勝負は、すぐに決した。

 狼は獅子に喰らいつくされ、無に帰っていった。

 おのれの精霊がちりと消えると、三位の長老は肩をすくめてくすくす笑い、きびすを返して去っていった。


「面白かった」

 

 そうひとこと、さらりと軽く捨て台詞を残して。

 セイリエンもなにくわぬ顔ですぐに獅子を散らし、その場から消した。

 だがランジャディールにとっては、今の光景はとても重たいものだったらしい。

 わなわなふるえ、かすれた声で聞いてきた。


「どうして……おしさまは、ぼくをかさなかったの?」

「そばから離したくなかったからだ」

「はなしたくない……?」

「我が子を喜んで人にくれてやる親はいない」


 それが一般的な親の反応かどうか、セイリエンにはわからなかった。だが今まで読んだ文物や絵本ではそんな感じであったし、今はそんな想いでいっぱいだったので、まよわず断じた。 

 部屋に戻るまで、子どもは考えこむようにうつむき、ずっと無言だった。

 手を握ってくる師の大きな手を、ふるえながらもきつくきつく、ぎゅっと握り返していた。

 部屋に入るなり子どもは本をばらまいたが、棚には隠れなかった。

 セイリエンが腕を掴んでひっぱり、小さな肩が焼けていないか確認したからだった。


「痛くないか?」


 こくりと、子どもはうなずいた。


「よかった、跡はついてない。では、本を読もう。どれがいいかな?」


 沈黙のまま選ばれた本は、図書室の本だった。


「これは……」


 それはこの子に一番初めに読んでやった、人間の子どもが天使になる本で。

 師が読み終えると、子どもは桶を手に取った。

 あの小競り合いのあとだ。セイリエンは念のために、一緒に中庭へついていった。

 子どもは水を汲みながら、そわそわとうろたえた。


「これ、ばつなのに……なんでいっしょに、きてくれるの?」

「心配だからね」

「しんぱい?」

「我が子を心配しない親はいない」


 それが一般的な親の反応かどうか、やはりわからなかったが。セイリエンは今度はそんな想いでいっぱいだったので、まよわず断じた。

 答えを聞くと子どもは黙りこくり、無言のまま桶を部屋に運んだ。その手はふるえないようにしようと、ひどく力がこめられていて、真っ白だった。

 セイリエンはいつものように、子どもの体をかぐわしい布で清めてやった。

 心地よい香りが部屋に充満し、ちゃぷんと水がきよらな音を立てる。 

 子どもの白い背にそっと布をあてたとき――。


「はえて……こないかな……」

「ん?」

「つばさ」


 子どもがそっと囁いた。ほとんど声にならない声で。


「あの子はおおきくなったら、つばさがはえた……あんなふうに……」


 さっき読んだ本の話をしているのだと、セイリエンはすぐに気づいた。


「でもぼく、てんしより、りゅうになるのがいいな……りゅうのつばさ……はえてこないかな……」

「ああ、竜はかっこいいものな。メルドルークも竜だ」


 おだやかに言葉をはさむと。

 子どもはぶるっとふるえて大きく息を吐いた。


「……とんでにげるの。ここからにげるの。そして、まっかなおやまにとびこむの。じゅうってやかれたら、わるい子はいなくなる」


 師は子どもを撫でる手を思わず止めた。胸が痛んだ。

 この子どもの(きず)は、どれぐらい深いのだろう?


「ラデル……いなくなったら私が悲しむから、翼を生やすのはやめてくれ」

「かなしい? おしさま、かなしくなる?」

「我が子を失って悲しまない親はいない」 


 セイリエンが想いを迷わず口にすると。 

 子どもの口から、ひきつけるような、長く長く息を吸い込む音がした。

 師が抱きしめようとした瞬間、気配を感じた子どもはその腕からするりと抜けて逃げた。

 床を這い、本棚にとりつく。


「おしさまは……おや、なの? ほんとに?」


 囁きが小さな口から漏れたとたん。

 ふたたび床に本がぶちまけられた。

 どさどさと音をたて、いつもの段だけではなく上の段まで、子どもは一気に本を落とした。

 棚にある本を全部。


「ラデル……?!」

「じゃあ、よんで!」

 

 鋭く叫びながら、ランジャディールは一冊の本を指さした。


「ラデルこれは……」

「おねがい! よんで!」


 じわじわと涙にうるむ目で師をにらみながら、子どもは叫んだ。

 あきらかに、絵本ではない本を示しながら。


「よんで! よんでよ!!」




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