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3話 望み

 灯りを落とした暗い部屋の中で、セイリエンはいらいらと本棚を押した。

 ごご、と重量のある音をたて、本棚の一部が奥へ後退する。

 その横にできた隙間に入り込む。

 そこは、小さな隠し穴。物置として作られたのだろうが、のちに岩戸を本棚に加工し、隠し部屋めいたものにしたようだ。

 若き導師がこの狭い「城」をこよなく気に入っている最大の理由が、ここにある。

 偶然この穴を発見したとき、セイリエンは小躍りした。穴は狭すぎて椅子は置けぬほどだが、密談するには十分だ。たぶんにそうするためにかつて利用された場所であろうことは、想像にかたくない。

 穴の奥の岩壁からは、小さな岩の天板がせり出している。自然と突きだしている岩の表面を平らに削ったものだ。その上に、台座に乗った水晶玉がひとつある。


「くそ……! なんたることか」


 セイリエンは歯軋りしながら、水晶玉に大きな手を置いた。


『ごきげんうるわしく、黒き衣のセイリエン様。金獅子州公家筆頭家令、ヨハン・ゴロブモンカにございます』


 卓上の水晶玉が紫色に点滅する。

 おのが魔力がひそかに外界に繋がったことを確認するなり、若き導師は恐ろしい形相で玉を睨んだ。


「うるわしくなどない。じい、本日早朝、注文の品を受け取った」

『……もうしわけございません。そのご様子では、お気に召されませんでしたか』

 

 水晶玉の向こうの声が、かすかに震えてかしこまる。

 岩窟の寺院は湖に張られた結界によって、物理的に外界から切り離されている。しかし力ある黒の導師はすべからく、水面下で大陸諸国の政体と密接に繋がっている。諸国は常に、導師の叡智と予言の力を欲しているからだ。

 現在、金獅子家の後見を担っているのは、三位の長老アルセニウス。つい昨年までこの導師の一番弟子であったセイリエンは、十代半ばから師の片腕として大量の密書を取り扱い、金獅子家の州政に深く関わってきた。

 その事実と当家の公子という出自をかんがみて、金獅子家の家臣団は、セイリエンを次期後見人の最有力候補とみなし、一目おいている。

 中でもとりわけ水晶玉の向こうにいる筆頭家令とは、昵懇(じっこん)の仲だ。

 ヨハンは、セイリエンが公子であったときから城の家政を取り仕切っており、世継ぎの公子だけでなく、不遇な第二公子にもひそかに目をかけてくれた賢臣である。

 つまり。多少のわがままや無理難題とてこころよく聞いてくれる、実にありがたい存在だ。


猊下(げいか)のお気をうるわしくできませなんだは、このヨハン、大変もうしわけなく……』

「いや、あれは最高の逸品であった。あったのだが……じい、製作責任者を出せ」

『おそれながら夜分遅くにて、すでに――』

「たたき起こせ」


 ふたたび水晶が明るく点滅するまで、セイリエンはいらいらと狭い穴の中をいったりきたりした。

 そう。あの絵本の出来は最高だった。

 師弟は――セイリエンとかわいいランジャディールは、美しい絵と物語に呑みこまれた。

 子どもはあの本を読んでくれと声に出して願い、細密画に目をみはり、感嘆のため息をついていた。

 すめらの皇家に次いで古く、由緒正しき王家である金獅子州公家。知らぬものとてない名家が抱える専門職人の、技の粋を凝縮した一点物だ。この大陸にあれほどの逸品は、そうはないだろう。

 だがしかし。

 しかし――


「なんだあれは!」


 玉が点滅するや、セイリエンは金獅子家の家令部屋に繋がっているそれに、顔を寄せた。


『も、もうしわけございません、猊下(げいか)。製作責任を負いました監督官のミハイルであります。な、なんぞ不備なぞありましたでしょうか』

「いや、予想以上に大変見事な品だ。大陸一と賞賛してもよいだろう」


 眉根険しく、セイリエンは低い声で呻いた。口にした言葉とはまったく間逆の、今にも相手を呪いだしそうな雰囲気で。 

 

『あ、ありがとうございます。画家も職人も、吟味いたしました。一頁一頁の細密画と飾り文字の出来具合、および製本装丁も厳しく審査いたしましたゆえ、その御言葉はまことにおそれおおく、心より感謝を申――』

「ほめておらぬ!」


 思わず大声を上げた若き導師は、ハッと後ろを気にした。

 狭い部屋の寝台では、金髪の子どもが眠っている。やっと寝かしつけたところだ。

 起こさぬよう、気づかれぬよう、十分気をつけなければならない。

 

「絵はすばらしかった。話も見事だった。しかしだ」


 セイリエンはぎりっと奥歯をいらだたしげに鳴らした。


「私の仔は、笑わなかった!」

『お、お許しくださいませ。ししししかし猊下(げいか)、おそれながら、あ、あれは……』

 

 ごくりと、水晶玉の向こうにいる監督官が息をのむのが聞こえた。


『あれは、悲劇の物語で、ございます』





 絵本の最後は、実に見事なものだった。

 塔にのぼった人間たちが見たのは、まるで死して風化した骸骨のような冬の殿下。

 だがそのかんばせは頬骨がでているというのにえもいわれぬ美しさであり、この世のどの美女よりも清らかで、高貴な光をまといて描かれていた。

 何よりその口元に浮かべし微笑みの、なんとうるわしかったことか。

 大陸一とうたわれし美女とて、あのような美しい表情はできぬだろう。





『いと高き塔へ向かった人間たちは、水晶の枝にさした王殿下の文を、冬の殿下に手渡しました。

 老いさらばえ、ほとんど骸骨となった冬の殿下に怯えながら。

 殿下は文をごらんになるなり、たちまちその御顔から険しい刃のような念を消されました。


「ああ、王殿下、王殿下、愛しております」


 殿下は文をだきしめ喜びの涙をこぼし、とても幸せそうなため息をつかれると。

 すぐに香りよき紙に返歌をしたためました。

 そうして梅色の風を織ろうと、(はた)の前にお座りになられたのです。

 ところが。

 殿下はそのときふっと膝を折られて、その場にお倒れになってしまわれました。

 少しも眠らず何十年も風を織りつづけたその御身は、ただただ怨念によって支えられておりました。

 その念から解放された今。

 殿下の御身は、力尽きてしまわれたのでした。

 倒れふした殿下の御身はまるで春のいぶきを浴びた氷のごとく、溶けていき。

 みるみる透けて、風に変わっていきました。

 なんともかぐわしい、梅の香りのする風に。

 

「なんということだ。なんということだ!」


 人間たちはうろたえましたが。

 消え行く殿下の御顔はなんともお美しく、えもいわれぬ微笑みをうかべておられました。

 解放感と歓喜に包まれた、なんともやわらかくうるわしい笑顔を。



 こうして冬の殿下は、幸せな気持ちを胸いっぱいに抱かれて、天へ召されていかれました。

 匂いかぐわしい、いとしい王殿下からの文を、胸にひしとお抱きになられて。

 その御身を、雪の結晶をまとった梅色の風に変えて。

 それこそは、あの待望の風。

 春の殿下を目覚めさせる、雪の下の梅色の風でした。

 殿下の幸せなお気持ちが、たおやかで美しい、目覚めの風を生み出したのでした。

 王殿下が帝都の前で見上げてごらんになった梅色の風は、まさにこの、冬の殿下の喜びの念がつまった、散華の風であったのです』





「なんで死ぬのだっ!」


 セイリエンは水晶玉に向かって鋭く囁いた。うろたえる監督官の説明がどもりながら返ってくる。


『ししししかし、これはすめらの国に伝わります名高い伝説で、げ、原題は「雪の下の梅色の風」という大変古典的な悲劇でありまして……』

「ああ、ああ、たしかに。たしかに正しく悲劇であった。すばらしい悲劇だ」


 




『冬の殿下を傷つけてはならぬと申し渡されていた人間たちは、震え上がりながら王殿下のもとへ戻りました。

 目覚めの風は吹きましたが、冬の殿下は消えてしまいました。

 そう報告し、みまかられた冬の殿下がのこされました薄様(うすよう)の衣と返歌を、王殿下に捧げますと。

 

「君ならで 誰に見せむ白梅の 玉の緒尽きしも咲きにおうかな」


(あなた様の他に一体誰に、この白梅を見せましょうか。

たとえ枯れ果ててもこの梅は、かぐわしく咲き誇ることでしょう)


 歌をご覧になった王殿下は涙をこぼされました。

 ぼろぼろ。

 ぼろぼろと。文を抱きしめ涙をこぼされました』





「みな、大団円だった」


 セイリエンは苦々しげにつぶやいた。

 王殿下は泣きながら人間たちに褒美を与え、春の殿下はめざめて、大島小島には何十年ぶりかで春がもたらされた。

 とつくにへ逃げた人間たちは徐々に戻ってきて、大雪の中でも残っていた人間たちに、いろんなものを育てるすべを教えた――。

 

「実にめでたしだ。恋人たちをのぞいてはな」





『王殿下は帝に許されましたが、とつくにへと去られました。

 帝がろくに冬の殿下を悼むことなく、すぐに次の冬の織り姫を任命したことに腹をたてたからでした。

 その腕には、人間たちが泣きながら届けた、冬の殿下の衣と文とがありました。

 とある国に至った王殿下は、すまいと定めたとある山のふもとに、その衣をお埋めになられました。

 するとたちまち一本の梅の木が芽吹き、みるみる育ち。

 まっしろな梅の花が咲きみだれました。

 冬の殿下の辞世の歌を思い出した王殿下は、これはいとし君の化身と深く信じました。

 そうして天へみまかるその日まで、冬の殿下の本当の御名で、その木をやさしくお呼びになって愛でられたのでした。


「とわに愛している。うるわしき白梅(しらうめ)よ」



 冬の女王の物語・完』 





 水晶玉が怯えるように点滅している。 


「背表紙に描かれた一本の白梅も見事だった。あれはすめらの国でつとに有名な景勝地、白梅山の起源神話であろう。実にすばらしかった。だが。だがな。私の仔は、」


 セイリエンは両手で顔を覆って深くため息を吐いた。


「笑わなかったのだ!」

『そ、それはその、あれはその、ですから……悲劇で、ございますので』

「ぼろぼろ泣かれたのだ。おひめさまの御心がすくわれてよかったと。でもせめて一瞬だけでも、おうじさまに会わせてあげたかったと」

『お、おそれながらそれは、しごく、ご正常な……ご反応かと……』

「悲劇はならぬ!」


 岩の天板に両手をつき、セイリエンは唸った。

 涙をこぼすランジャディールは、それはそれで大変かわいらしかった。師は香油の匂いを移した布で優しく子どもの涙をふき取り、きつくきつく抱きしめてやった。つぶらな瞳から落ちる涙は、まるで真珠のよう。への字にむすばれた薔薇色の唇はかすかにふるえ、なんとも愛らしかった。

 だがそれは、セイリエンがもう一度切に見たいと望んでいるものではない。

 彼が見たいのは。 

 どうしても見たいのは――


「たしかに文芸の品では悲劇こそ至高とされる。つまりこれは、「最高のものを」とざっくばらんに注文をつけた私の落ち度ではあるが。よいか、今度は、十歳の子どもがはじけて笑うような絵本を作れ」

『お、落ち度など滅相もございません。詳しくご意向をお聞きしなかった私の不首尾にございます。なにとぞご容赦を――』

「謝罪はよい。今すぐ作れ」

『それでは、御子様ほどのご年齢の子供に、大変人気があります物語で、製作させていただきます』

「三週間以内に仕上げろ。豊穣祭の贈り物にする」

『かしこまりました、黒の猊下(げいか)

 

 そう。見たいのは。

 まぶしい笑顔だ――。

 

 セイリエンは隠れ穴から出て、本棚をそっと元に戻した。

 光量を落とした灯り壷が、寝台に眠る子どもの顔をやわらかく照らしている。

 涙の跡がまだ残っている顔を。

 セイリエンは涙流れたその頬を優しく撫でた。


「ナツメヤシ……」


 ランジャディールはめったに笑わない。

 無邪気に声をあげて笑うようなことは決してしない。

 口の端を少しほころばせ、ぎこちなく微笑むぐらいがせいぜいだ。

 毎晩本を床にばら撒き、本棚に隠れる子は、別のところにもよく隠れる。

 岩壁の隙間とか。中庭のトリ小屋の中とか。物置とかに。

 そうして、師が探し出すまでずっとそこで待っている。

 

『そこにいたのか、ナツメヤシ。心配したぞ』


 見つけ出して抱きしめてやっても、決して笑わない。ただホッと、安堵の息を吐くだけだ。 

 ゴミ箱をたおしたり、ものを隠して師の反応をみることもしてきたが、それはすぐにしなくなった。 だがいまだに警戒心の塊で、無造作に近づけば怯えて後ずさる。

 けれども。


(もう一度見たい。どうしても)


 若き導師はかつて見たのだ。たった一度、一瞬だけ。

 


『この子が欲しいです』



 並み居る黒き衣の導師たちの前でそう宣言したとき。しっかと見たのだ。

 この子の顔が、ぱあっと輝いたのを。

 まるで真夏の燃え輝く日輪のような笑みを、浮かべたのを。

 あんなにまぶしくかわいらしい顔が、この世にあるだろうか。

 

(いや、ない。世界中どこを探しても。あんな顔をする子は。どこにもいない……!)


 



 一瞬だけ、あの奇跡の笑顔を見られた理由。

 それはあのときセイリエンが、子どもを助けた「英雄」になったからだろう。

 年に一度。夏至の日に、4、5人ほどの子どもたちが寺院に捧げられる。

 長老たちは湖を渡り、向こう岸の町からその捧げ子を受け取って、露天の広場に並べる。


『この子がほしい』


 そう名乗り出た導師に、子どもが与えられるのだが。


『落ちた!』

『おやおや。湖に落とされたか』

『アルセニウスさまが、思いっきり背中を押したぞ』

『金髪の子か。見目良いのになぁ』 


 たまに、舟から降りようとした時に、湖に落とされる子がいる。

 捧げ子になるのはほぼ、導師となって名だたる実家に貢献するよう望まれた王侯貴族の子。

 しかし、おのが魔力を制御できずに他人を傷つけ、寺院に封印されねばならぬと判断された子も、送られてくることがある。

 そんな子は血筋がよくなく、過酷な環境で育って傷つけられていることが多い。

 しかし広場でのお披露目では、子どもの出自が述べられるだけで、生育環境の詳細はほとんど明かされない。それゆえ湖に落とす、という暗黙の告知がまかりとおっている。

 そして。


『おい、おぼれてるんじゃ?』

『沈んだぞ』


 ランジャディールは、落とされた。

 落としたのは三位の長老アルセニウス。他でもない、セイリエンのもと師だった。

 

(なんということを!)


 もと師は明らかにうすら笑い、みなの反応を楽しんでいた。 

 名乗り出る者をなくし、魔力の強い子をすんなり手にいれよう。

 そう企んで、落としたにちがいなかった。

 金獅子家の後見人は冷酷だ。使えるものは容赦なく使い潰す。セイリエンのようにひとかどの血筋のものは大事に扱うが、そうでない子には平気で鞭を使う。

 湖に落とされた子どもも、きっといいように酷使され、弄ばれるだろう――。


『大丈夫か? 水を飲んでないか?』

『だい、だいじょぶ、です』

『かわいそうに、きれいな金の髪がびしょ濡れだ』


 気づけば。

 セイリエンは湖の中に入って、おぼれかけた子を救っていた。

 師がなしたことに申し訳ない気持ちでいっぱいで、若き導師は、湖から抱き上げた子どもをきつく抱きしめた。濡れそぼった体を拭いてやり、抱っこして広場に運ぶ途中で話を聞いた。

 生まれはセイリエンの実家が統べる、金獅子州。

 寺院はあの世と同じだと、たくさんの人から言われたそうだ。

 だから死んだパパとママに会えると信じて、おそるおそる船に乗ってきたという。


『あえないの?』


 両親に会えないと知った子どもは、声をあげて泣き出した。

 そして言った。

 師になる人は、絵本をよんでくれて、だっこしてくれて、ぶたない人がいいと……。

 子どもを安心させたくて、セイリエンは優しく言ってやった。

 細い手足についている傷や痣に、気づかないふりをして。


『まあ、どんなに悪い子でも、私はぶたないよ』


 その言葉が、子どもの心に刺さったのだろう。

 広場に入った時。

 石の座席にずらりと座る導師に気圧された子どもに、若き導師は乞われた。


『あの。あの。あのね』


 うるんだ大きな目が、すがるように見つめ上げてきたのを覚えている。

 とても澄んで、美しい瞳だった。

 

『パパに……なって、ください』

『それはどうかな』


 セイリエンは即答できなかった。

 師のやり方には腹が立ったが、いざ選択をつきつけられると、迷いが胸中をよぎった。

 それに。


『あのね。君の方からは、選べないんだよ』


 弟子に、師を選ぶ権利はない。

 正直、澄んだまなざしにすべてを読み取られたような感覚がしてうろたえた。

 すんなりうけがえば、子どもに主導権をとられる。そんな気がして、少しだけ腹が立った。

 だからあいまいに答えてぼかしたけれど。

 あのときすでに若き導師は、自分にすがってくる子をほしくてたまらなくなっていた。


――『この子をほしい者は?』

『肌が白いな。美味しそうだ。抜けた一番弟子の代わりに、この子をもらおう』


 広場の舞台でアルセニウスが名乗りをあげ、子どもを抱きかかえたとき。

 セイリエンは覚悟をきめた。

 もと師は乱暴にぎりぎりと、背後から子どもの腕をつかみ上げたのだ。

 子どもは恐ろしく怯え、悲鳴をあげた。


『ひぐっ……』


 助けて、と叫ぼうとしたその口を、アルセニウスが強引にふさぐのを見た瞬間。


(その手を放せ!)


 怒りのあまり師に呪いを飛ばしそうになるのをこらえながら、セイリエンは名乗りをあげた。



『その子がほしいです。私にください』



 その瞬間。

 目を見開いた子どもの顔がはじけたのだった。

 えもいわれぬ歓喜が、そこにあった。

 まことあれは天使だと、輝く光だと、そうとしか取れぬ笑みがこぼれたのだ。 

 しかし子どもをアルセニウスから奪い、抱き寄せたとたん。

 その笑顔はたちまち消え去って、子どもの大きな瞳に涙があふれた。

 それは喜びと不安と。期待と警戒とが入り混じった、複雑な色の涙だった。


『お願い! パパになって! お願い!』

『大丈夫だよ。泣かないで』


 黒い衣に顔をうずめてくる子に、セイリエンは囁いてやった。一分の迷いもなく――。


『君は、私の子だ』





 雪の降りが激しくなってきた。

 窓の外は宵闇が埋まるぐらい真っ白だ。 


「おまえが私を選んだからじゃない」


 セイリエンは微笑みながら、寝台で眠る子の隣に身を添わせた。

 寝台は狭いが、子どものおかげで暖かい。


「ほしかったんだ、ナツメヤシ。本当におまえがほしかったんだ」


 幸い。「師に譲れ」と迫るアルセニウスを、セイリエンは退けることができた。

 まだ弟子をひとりも持たぬ導師がもつ、「優先権」を持っていたためだ。

 子どもは晴れてセイリエンのものになり、日々成長している。

 たしかに隠れたり本をばらまいたり、他の子と違うことをするけれど。

 文字を読むのもまだおぼつかないけれど。しかし暗誦の能力はすごい。

 魔力の練り方もめきめき上達し、初歩的な韻律はもういっぱしに使いこなせる。

 アルセニウスがなぜこの子をほしがったのか如実に分かる、驚異的な習得速度だ。

 だから不満は、ほとんどない。

 ただひとつ。


 笑ってくれない。


 そのことを、のぞいては。


「高望みか? いや、そうは思えぬ」


 あの笑顔をもう一度見たいと思うのは、親として自然な欲求だろう。

 この子どもを、幸せにしたいと願うのは。


「頼む。笑ってくれ」

  

 セイリエンは韻律を唱えながら手を薙いで、淡い光を放つ油壷を消した。

 眠る子どもの頭にそっと口づけながら、守ってやるように体に腕をまわす。

 その細くて小さな身は、とても暖かかった。

 若き導師はその心地よさに喜びのため息をついて、子どもの耳元にそっと囁き目を閉じた。



「よい夢を見ろ。私の仔」 



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