(2)畏友
そのときである。
あははは……と林海偉の笑い声が高らかに鳴り響いた。
林海徳や榊原が目を丸くして見つめている中、森岡は厳しい視線を海偉に送っていた。
「いやあ、申し訳ありません」
海偉は席を立って深々と頭を下げた。
「まさに、郭さんの言われたとおりの人物だ」
「総経理もお人が悪い。彼を試されたのですか」
郭さんと呼ばれた老人が笑顔を作りながら森岡に近づいて来た。海偉より年長である。
森岡は微かに見覚えがあった。といっても、いつどこで出会ったのかは思い出せなかった。
「お忘れですか、神戸の華人会館ではお世話になりました」
「華人会館……。ああ、銘傑さんのお父上様ですね」
はい、と老人は肯いた。
郭銘傑とは大学時代からの友人である。詳細に言えば、亡妻奈津美の短大時代の友人・江昭燕の交際相手が銘傑だった。つまり、両方の恋人同士が先に友人関係となり、お互いの交際相手を紹介し合ったのである。銘傑を除く三人は同い年だったが、銘傑は四歳年上で、知り合ったときはすでに日本の企業で働いていた。
浪速府立大学への留学を終えても帰国せず、そのまま日本企業に就職した銘傑にはある重要な使命があった。
現在、日本と台湾の間に国交は無いが、台湾経済界の非公式の訪日は再三ある。
銘傑はその一行の通訳兼ガイド役を担っていたのである。むろん、訪日団の中には日本語を話せる者が数多くいるが、銘傑には及ばないうえ、彼は英語も話せたし、日本の内情に詳しかった。まさに打って付けだったのである。
その後、銘傑は台湾に戻り、日本でいうところの経済産業省の役人になっている。しかも、外国企業局、つまり台湾に進出する外国企業への認可、管理監督する部署の課長に出世していた。
国家試験制度が確立している日本では考えられない登用である。
その郭銘傑と江昭燕は、日本でも結婚披露宴を行った。その会場となったのが、神戸の幹線道路から一本北の筋に有った華人会館だった。
台湾も含め世界中に進出している華僑の絆は強く、日本においても例外ではない。この披露宴にも関西を中心に八百名の台湾人や中国人が参集していた。
日本人の招待客は新郎新婦の大学時代の友人、会社の同僚らが中心だったが、その中に森岡洋介と福地奈津美も含まれていたのである。それどころか、森岡は友人代表のスピーチまで依頼されたのだった。
その宴の中に、当然のことながら銘傑の父郭偉殷も出席していたが、
挨拶を交わす程度のことで、しかも十数年も前のことであり、偉殷の風貌が代わっていたため、森岡はすぐに思い浮かばなかったのである。
郭偉殷は、台湾最大の建設会社『台湾工程股份有限公司』の董事長である。董事長とは役員会のトップの会長といったところである。台湾工程股份有限公司は、元は日本統治時代の会社を終戦と同時に、銘傑の祖父が受け継ぎ現在に至ったものである。
「気を悪くしないで下さい。林さんも他意があってのことではありません」
郭偉殷が頭を下げた。
森岡は、手を介して頭を上げさせたが、
「せっかくお会いできたというのに、大変申し訳ないのですが、やはりこの話は無かったことにさせて頂きます」
森岡も丁重に腰を曲げて、その場を立ち去ろうとした。
そのときだった。
扉の前にいた女性から声が掛かった。
「森岡さん、おじを許してやって下さい」
必死の形相で懇願したのは、誰あろうその江昭燕だった。
郭銘傑も隣に立っていた。林との会話で、森岡は二人が部屋に入って来ていたことに気づかず、二人は二人で、林海偉と森岡の間に流れる不穏な空気を敏感に察し、立ち止って成り行きを見ていたのである。
――おじ……。
森岡は瞬時に頭を回転させた。おじ、というのは血縁の『伯父』または『叔父』なのか、ただ単に知り合いの年輩の男性のことに過ぎないのか。
というのも、浜浦では『あに』もそうだが、『おじ』も、親族の伯父または叔父でなくとも、近所の顔見知りの年配男性を『……おじさん』と呼ぶ習慣があったのである。
「海偉おじさんは、本当の親戚なのです」
昭燕は、私の顔に免じて……、と頭を下げた。
彼女にそうまでされると、森岡は強く出ることができなかった。
森岡にとって昭燕は、まさに頭の上がらない女性だったのである。
実は、森岡と奈津美の間を取り持ったのも昭燕なら、森岡がコンピューターエンジニアの道に進むきっかけを作ったのも彼女だったのである。
神村正遠の自坊経王寺に寄宿した森岡を気に入り、是非とも我が娘を嫁がせたいと、福地正勝は森岡の世話をさせるため、奈津美を経王寺に通わせたが、森岡は丁重に断った。理由は、神村の許で一心不乱に師の思想哲学を学び取りたかったからである。
深く傷心した奈津美は、一旦は森岡を諦めようとした。その彼女を叱咤激励したのが江昭燕だったのである。
元気のない奈津美を励ましているうち、事の次第を知った昭燕が、『奈津美本人が嫌われたわけではないのでまだ脈はある』と、森岡の通う大学へ日参するように進言したのである。しかも、胃袋を掴むために弁当まで持参させたのも昭燕だった。
また、森岡が菱芝ソフトウェアでアルバイトをするきっかけとなったのは、短大を卒業した江昭燕が、その菱芝ソフトウェアでアルバイトをしていたからである。
彼女が手にしていたプログラミングの書類に興味を持った森岡は、彼女の紹介で菱芝ソフトウェアでアルバイトを始めたのだった。
森岡のスキルアップの速度は目覚ましく、七日間の研修を受けた後、一ヶ月で初歩的なレベル、三ヶ月で中位レベル、一年で高度なレベルのプログラミング技術を習得した。大学四年次には、書生修行の片手間にも拘らず、出来高制の一ヶ月のアルバイト料が三十万円と、当時の大卒者初任給の二倍を稼いでいた。
奈津美との結婚は、福地正勝次第で有り得たかもしれないが、森岡がIT業界に進むことは、江昭燕と知り合わなければ、まずもって無かったであろう。
「貴女に頭を下げられたら、私はお手上げです」
森岡はそう言うと、林海偉に向き直った。
「大人げないことを言いました。お許し下さい」
「いや、私の悪ふざけが過ぎたのです」
「いえ、そういうことではなく。実は私も林さんを試そうとしたのです」
「え?」
「貴方が私を試しておられるのはすぐわかりました。そこで逆手にとって怒った振りをして席を立てば、どのようになさるか試そうと思ったのです」
「な、なんと。私の謀を見破っていたと」
はい、と森岡は申し訳なさそうに言った。
「では訊きますが、もし私が何もしなければ、貴方は黙って十億円を支払うつもりだったのですかか」
「もちろん、そのつもりでしたが、必ずや林さんは和解の道を選択されると信じていました」
「ははは……」
林海偉は、再度高笑いをした。
「生意気でした」
「いやいや、お互い様ということで水に流しましょう」
「はい」
「では、話は無かった、というのは取り下げてもらえますな」
「どうぞ、宜しくお願いします」
森岡は深く頭を下げた。
ふう、と一同から安堵の溜息が漏れた。
「何をしていたんだ。もう少し遅ければ、取り返しの付かないことになっていたかもしれないのだぞ」
偉殷が目を吊り上げて怒った。
「すみません、父さん。出掛け際に突然の来客があったもので」
銘傑は肩を窄めて頭を掻いた。
「銘傑君夫婦も揃ったことだし、宴をやり直しましょう」
海偉は、森岡らに席に戻るよう促した。
二時間ほどの会食の後、林海偉が森岡をカラオケに誘った。林側は、海偉と海徳以外は三名を残して皆遠慮し、森岡側も榊原と護衛役三人の合わせて四人がホテルに残った。というのも、林海偉側の三人は明らかに黒社会、つまり暴力団関係者とわかったからである。おそらく、連れていかれるカラオケ店も林海偉もしくは、同行する三人の所属する組織の息の掛かった店に違いなかった。
銘傑夫妻とは、翌日の夕食を共にする約束して別れた。
海偉が森岡を連れて行った場所は、台北で一番の繁華街ともいわれる西門町地区
のメインストリートの外れにある高級カラオケクラブ店だった。
広々とした室内には個室もあった。個室に通されると十数名のホステスたちが現れた。皆が美人でスタイルも抜群である。シルクのチャイナドレスのスリットが深く、動くたびに美脚が露になった。
森岡はなんとなく日本のクラブとは違う、と思ったが、問い質すわけにもいかなかった。
美形揃いの十数名の中でも、さらに一段と際立って若く美しい小姐が、
「何かデュエットしませんか」
と日本語で話し掛けて来た。彼女は沈美玉と名乗った。
「日本語の歌は歌えるの」
「二、三曲なら」
彼女は曲名を言い出した。中に森岡の歌える曲があった。森岡がその曲を伝えると彼女は何とも言えない笑みを浮かべて曲を入れた。
――どうやら商談成立らしいな。
と、林海偉が密かな笑みを零した横で、海徳は苦虫を噛み潰したような顔をしている。
翌日、郭銘傑から聞いた話では、普段この店にはその場でのお持ち帰りシステムはない。日本と同じで、ホステスを口説くには何度か指名して食事やデートにこぎつけるのだという。だが、特別な場合に限り即席の売春店になるのだという。つまり、森岡は特別な接待客だということなのだ。
沈美玉は十七、八歳ぐらいだろうか。名は体を表すとはよく言ったもので、大きな目にやや濃いめの眉、上品な鼻と口と、まるでアイドルのように愛らしかった。
カラオケを歌い終えた直後、彼女が小声で圓山大飯店のルームナンバーを訊いてきた。森岡が泊まるスイートルームは榊原が同宿しているが、寝室はリビングを挟んだ両側にそれぞれあってルームキーも中央扉と自寝室のそれの二つあった。
森岡がルームナンバーと寝室の場所を教えて席に戻ると、海偉が『加油』と言った。『がんばれ』という意味の中国語である。
これも後で判明したのだが、どうやらカラオケをデュエットすることが商談成立ということらしかった。




