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黒い聖域   作者: 久遠
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         第四章 雄飛(1)台湾

 森岡洋介は榊原壮太郎と共に、世界最大のウーロン茶製造販売会社・天礼銘茶の日本支社長である林海徳と会った。

 南目輝の父昌義から協賛十社が揃い、出資が可能となった旨の連絡を受けて、停滞していた寺院ネットワークシステムについて、再開の見通しが付いたことを詳細に説明するためである。

 天礼銘茶の日本支社は神戸の中心部、榊原商店ビルとは幹線道路を挟んで斜向かいにあった。

 日本での総責任者である林海徳は五十歳。小太りの中背で、目、鼻、口、耳の創りが大きく福々しい顔をしている。いかにも華僑といった風体である。

 林海徳は、その昔火事で自宅を焼失するという災難に遭った際、榊原から深い温情を受けていた。

「森岡さん、久しぶりです」

 林は満面に笑みを浮かべて手を差し出した。むろん、日本語は堪能である。

 こちらこそ、と両手で握りながら森岡は深く頭を下げた。

「例の事業が中断してしまい、申し訳ありませんでした」

「頭を上げて下さい」

 労わるように手を森岡の肩に当てた林は、

「別段急ぐことではありませんから、そう気にすることはありませんよ。それに出資者の目途も付いたようですし……」

 と鷹揚に笑った。

「南目君の話だが、お前から報告を受けて、すぐに林さんに報告しておいたんや」

 榊原が横から事情を説明した。

「残るは、神村先生が無事本妙寺の貫主に就かれるだけですね」

「そのことでしたら、万全ですので御安心下さい」

 森岡が自信を込めた声で応ずると、林が突拍子もないことを口にした。

「では、どうです。私と一緒に台湾へ行ってみませんか」

「台湾ですと」

「えっ」

 急な誘いに、森岡と榊原が声を合わせて問い返した。

「本社社長の海偉に会って下さい」

 海徳と海偉は従兄弟である。

「以前依頼された中国十聖人の墨ですが、さらに収集を進めていったところ、意外なことがわかりましてね。直に海偉から話を聞いてみませんか」

「洋介、本妙寺の方も順調だし、気分転換に台湾へ行ってみるか」

 榊原が乗り気な素振りで言った。

「そうやな、爺ちゃんと海外旅行なんて、最初で最後かもしれんな」

 森岡は、林と榊原の誘いに快く乗った振りをしたが、実はある思惑があって彼自身、台湾行きを模索していたところだったのである。


 天礼銘茶を出たところで、榊原が話があると言って、森岡を自社に誘った。榊原商店の本社は、直線距離にすれば天礼銘茶とは二百メートルも離れていない。ワンフロアーが二百五十坪の八階建ての自社ビルである。

 ならば、と森岡は蒲生に命じて、車を近所のケーキ店に向かわせ、店頭にあるショートケーキを総買いさせた。実に八十個余である。言うまでもなく、榊原商店の従業員への手土産である。

 もっとも、本社勤務の従業員は六十名足らずなのだが、細かい数の計算など面倒くさかったので、店頭に並べてあったショートケーキを全て買ったというわけである。

 大きめの収納箱六個分のショートケーキの山に、

 受付の女性は、

「まあ……」

 と呟いたきり、案内を忘れるほど呆気に取られていた。

 してやったり、と森岡はほくそ笑んだ。彼はこういう、ある意味で陽気な悪戯が大好きなのである。 

 会長室に入ってほどなく、コーヒーと手土産のショートケーキが運ばれてきた。

 榊原は女性秘書が退室したのを見計らい、

「お前に、福建銘茶から接触はないか」

 と訊いた。

「福建銘茶? なんやそれ」

「中国福建省に本社のあるウーロン茶製造販売会社やがな」

 福建銘茶は、中国最大のウーロン茶製造販売会社で、世界シェアーを巡って天礼銘茶と競っているライバル会社だった。

「ないけど、なんで俺に近づくんや」

「それは、はっきりとはわからんが、天礼銘茶のライバル会社やからな。どこからか寺院ネットワーク事業を嗅ぎ付けて、あわよくば……、と考えていてもおかしくないやろ」

 なるほど、と肯いた森岡は、

「俺にそんな話をするということは、爺ちゃんには接触があったんやな」

「あった。しかも、榊原商店うちの上得意先である東京のある寺院からの紹介やった」

「ほう。さすがに本場の華僑の情報網やな」

「感心してる場合やないがな。まだ挨拶程度やったから軽くいなしたけどな。本格的に動くとしたら、お前にも何ぞ言ってくるかもしれんで」

 ふっ、と森岡は笑みを零した。安心しろという意味である。

「爺ちゃんもそうやろうけど、俺に林さんを裏切る気など爪の先ほども無いで」

「それもそうやな」

 と満足そうに言った榊原に、

「ついでと言っちゃなんやが、俺の方も爺ちゃんに相談があったんや」

「なんや、深刻なことか」

 榊原が身構える。

 森岡は顔の前で手を振り、

「ちゃうちゃう、他でもない、榊原商店ここのことや」

「うち、てか」

「持ち株会社になったら、経営全般は俺が見るとしても、実際の全国の寺院回りや山林管理は誰かに任せにゃならんやろ」

「そりゃあ、そうやな」

 榊原は同調すると、

「お前の方で誰か目ぼしい奴はおらんか」

「実は当てがないこともない」

「ほう、誰や」

「ウイニット(うち)の幹部で住倉哲平という男や」

「住倉君? どんな男や」

「菱芝電気で俺の二年先輩でな、ウイニット創業以来、金庫番を任せている」

 榊原は目を細めた。

「信頼できるということやな」

 ふふふ……、と森岡は薄く笑う。

「生意気なことを言うようやが、うちの幹部連中は皆信用できるやつばかりやで」

「なら、なんで住倉君なんや」

「俺の側近の中では、いやこれまで出会った中で、もっとも心の裏表が無く、正直で無欲な男やからや」

 榊原が思わず口元を綻ばせた。

「わしの想いを継ぐのに一番相応しい人物を選んでくれたのやな」

 榊原は頭を垂れた。

 若い頃、破天荒な人生を送っていた榊原壮太郎は、大病を患ったのを機に、現在の寺院に仏具や備品を納入する仕事を始めた。そのとき榊原は、命を救ってくれた神仏に対する報恩感謝の印として、ほとんど利を乗せずに商品販売すると誓っていた。

 榊原は、後継にもその志を受け継いで欲しいと切に願っていた。彼はそのことを察してくれていた森岡に対して、感謝の念に堪えなかったのである。

「まだ、本人には話をしておらんが、たぶん大丈夫やと思う」

「せやったら、一度会わせて貰えんかの」

「先生の件が落ち着いたら、一席設けようか」

「頼むわ」

 榊原は片手で拝む仕種すると、

「なんや、お前の他に、もう一人家族ができるようで、なんとも楽しみが増えたわ」

 そう言って破願した。


 この時代の台湾へは、まだ短期滞在査証ビザが必要だった。ビザが発給されるとすぐに、森岡と榊原そして林の三人は台湾の地に立った。

 森岡に同伴したのは、坂根、南目、蒲生と足立の四人である。峰松重一は神栄会の護衛を申し出たが、森岡はこれを固辞した。その代わりとして、伊能の人選で交流のある警備会社から選りすぐりの警護者を三名同行させた。

 週末を含む二泊三日の強行日程の宿泊地は、グランドホテル台北、通称『圓山大飯店』である。この世界に名立たる名物ホテルは台北市でもっとも眩しいランドマークであるだけでなく、東洋と西洋の設計美学を融合した現代における宮殿建築の代表でもある。

 故に、宿泊予約は取り難いホテルとしても有名でもあるが、そこは台湾でも屈指の大企業である天礼銘茶の社長直々のお声掛りである。森岡と榊原が泊まるスウィートルームと隣接するツイン部屋四室も確保していた。

 圓山大飯店は、元は神社であった。日清戦争の結果、下関条約のよって清朝より割譲されたのであるが、一九〇一年に台湾神社として建立された。戦後、神社は廃止され、ホテルが建設されたのである。

 その夜は、天礼銘茶本社会長・林海偉主催のウェルカムパーティが開かれた。会場はホテル内にある飲茶が絶品と評判の広東料理レストラン『鳳龍廳ほうりゅうちょう』である。

 林海偉は、この台湾全土でも有名な名店を貸切にしていた。

 森岡ら一行は九名。

 一方、天礼銘茶側は林海偉、海徳をはじめ、副総経理の要職にある海偉の息子海登カイトウら二十名を超えていた。どうやら、天礼銘茶以外からも参加しているようであった。その中に異色の人物が混じっていた。痩身の中背で浅黒い顔に目つきの暗い男は明らかに裏社会の人物とわかる。

 尚、総経理とは社長のことである。

 林海偉は非常に小柄な老人であった。

 年齢は六十五歳。従兄弟の海徳とは一回り以上年が離れていた。

 小柄とはいえ、さすがに世界最大のウーロン茶製造販売会社を作り上げた人物である。海偉には相手を威する存在感があった。白髪で柔和な笑みを浮かべてはいるが、眼鏡の奥の瞳は痛みを覚えるほど鋭い。

 森岡はその一種冷徹な光は、裏社会の人間が宿すそれに似ていると思った。

 台湾は中国ほどではないが、表と裏の社会の境界線が曖昧な国である。ちょうど、昭和三十年代の日本の社会構造に近いとみて良いだろう。政界、財界との繋がりが太く、したがって企業人の中にも裏社会からの転身者も多い。林海偉がそうかどうかはわからないが、目つきの暗い男を同伴していることからも裏社会と全くの無縁であるとは考え難かった。

 林海偉が伴った者の大半は彼の仕事仲間であった。言うなれば、これから共同事業を展開する森岡のお披露目と、同時に値踏みをしようというわけである。

「ようやくお会いすることができました」

 海偉が流暢な日本語で握手を求めて来た。台湾の七十歳代以上は、日本統治時代の名残りからほとんどの者が日本語を話せる。それ以下の年代でも、社会的立場の高い者は日本語の話せる者が多い。

「ずいんぶんとお待たせしました」

 森岡は軽く頭を下げて海偉の手を両手で握った。

 寺院ネットワーク事業の発案からすでに一年が経っていた。原因は森岡の部下だった筧克至とギャルソンの柿沢康弘が結託しての裏切りだった。森岡はそのことに少なからず負い目を感じていた。

「まずはお近づきの印に一献」

 と、林海偉がビールの入ったグラスを差し出した。

 このとき、海偉は『乾杯』とは言わなかった。このような場合、日本では乾杯と言うが、台湾でいう乾杯は『杯を乾、つまり空にする』という意味であるから、グラスなり杯なりを飲み干さなければならない。

「皆を紹介する前に一つだけ言いたいことがあります」

 海偉があらたまった。

 森岡はグラスをテーブルの上に置いた。

「なんでしょう」

「今回、ようやく事業展開に目途が付いたとはいえ、私は一年も待ちました。これは事業利益を失ったとも言えるが、森岡さんはどうお考えになりますかな」

 口調は柔らかだが、突き刺すような言葉であった。隣席の海徳も思わぬ発言に顔色を失っていた。

「おっしゃるとおり、一年という時間を無駄にしたのは利益の損失も同然です。私が責を負いますので、何なりとおっしゃって下さい」

 森岡は淡々と言った。

「ならば、損害金として二億円を支払って頂けますかな」

「わかりました」

 森岡は眉ひとつ動かさずに即答したが、

 海偉の、

「もう一つ。彩華堂とかいう和菓子屋が参画するそうですが、遠慮してもらいたい」

 乾いた言葉には、さすがに苦い顔になった。

「理由を聞かせてもらえますか」

「事情は知らないが、ギャルソンという彩華堂の数倍も大きな会社を断っておきながら、いまさら彩華堂でもないでしょう」

「おっしゃることは理解できますが、そうしますと、振出しに戻ってしまい、また一から協賛会社を探さなければなりませんが」

「そのことなら心配ない。私の方で見つけておきました」

 海偉は同行者から一人の男を指さした。陳建銘チンケンメイという五十歳台の男だった。受け取った名刺の肩書は『羅林食品有限公司』の総経理とあった。何を作っているかは知る由もないが、食品会社であることだけはわかる。

「日本でも評判のパイナップルケーキを製造しています」

「なるほど」

 と言った後、森岡は数瞬思考した。

「林さん。今二億円を支払うと申しましたが、今回の事業は白紙に戻したいと思いますので、墨を探して頂いた件も含めて、この際賠償金を明示して下さい」

「お、おい、洋介」

 榊原壮太郎が青ざめた顔で声を掛けた。

「爺ちゃん、すまんがこの話は無かったことにしたい」

 森岡は小さく頭を下げた。

「私たちとは手を切るということですな」

 海偉が低い声で訊いた。

「残念ですが、そういうことです」

「理由を聞かせてもらえませんか」

「貴方と私とでは、人生哲学が違うとわかったからです」

「哲学、とな」

「甘い、とお笑いになるかもしれませんが、私は目先の利益より義と情を重んじます。その方がいずれ大利を生むと信じているからです。彩華堂の南目社長は私の窮地を救って下さいました。そのような恩人を切り捨てるのは人の道に悖るというものです」

「なるほど。たしかに青臭い」

 海偉は鼻で笑った。

「では、十億円を頂きましょうかな」

「承知しました。日本へ帰りましたらすぐに振り込みましょう」

 森岡はそう言って席を立った。

「爺ちゃんはこれまで通りの付き合いをしたらええ。だが、俺は今後一切、御免蒙る」

 森岡は坂根らに目配せをした。

 坂根、南目、蒲生、足立と護衛三人が一斉に席を立った。


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