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黒い聖域   作者: 久遠
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               (4)追憶

 森岡が入社した菱芝ソフトウェアーから親会社である菱芝電気に出向してまもなくのことだった。十二年前である。

 部長の柳下は、出向者新人歓迎会の二次会として、北新地のラウンジバーに河岸を変えた。

 北新地には約四千軒の飲食店が軒を連ねているが、このラウンジバー『生駒いこま』は、カウンター席が六席と、ボックス席が二つしかない小さな店で、堂島上通りの御堂筋側端に建つビル内にあった。有体に言えば、ラウンジとは名ばかりの場末のスナックである。

 そうはいうものの、いかに菱芝電気の部長とはいえ、営業部でもない柳下に潤沢な接待費があるわけではない。それをまがりなりにも、課長を含む八名を引き連れての北新地となれば、かなりの大盤振る舞いであった。

 さて、乾杯をしてまもなく、お決まりのカラオケ大会となった。他の七名は、皆意気込んで選曲していったが、ただ一人森岡だけが陰鬱な表情で選曲本と睨めっことなった。

 森岡は音痴だった。

 生まれてこの方、人前で歌など歌ったことがない。いや、学校の音楽の実技テストで歌ったことはあるが、大抵は教師と二人きりだった。

 森岡の額に脂汗が浮き始めた。歌える歌が見つからないのだ。それでも、ようやく神村の自坊経王寺で大学受験の勉強をしていたとき、幾度となくラジオから流れていた曲に目が留まった。大都会の生活で味わう不安と寂しさを慰める曲だった。

 急かされた森岡は、迷わずその曲を頼んだのだが、それが間違いだった。

 バラード曲だったのである。アップテンポンの曲であれば、音痴でもそれなりに聴かせることはできるが、バラードであれば誤魔化しは全く利かない。柳下を含め、新人の皆は誰もが下を向いて失笑した。森岡にもそれがわかった。森岡は初めて味わう種類の屈辱感に身を震わせながらも、どうにか歌い終えた。

 それから二時間ほどして、地獄のような宴会はお開きとなったのだが、とうとう森岡はその一曲しか歌わなかった。いや、歌えなかった。

 店を出るとき、トイレへ行っていた関係で最後尾となった森岡に、カウンターに座っていた中年女性から声が掛かった。女性の年齢など、森岡にわかるはずもなかったが、神村とは異なる一種独特の風格に圧倒された。

「貴方、明日の十九時にこの店へいらっしゃい」

 優しげな眼差しだったが、有無を言わさない迫力があった。

 森岡は思わず、はいと返事をした。

 店を出た森岡は、いったい何者だろうかと想像した。生駒のママは七十歳近い老婆である。そうだとすると、あの五十歳絡みと思われる女性は何者なのか。そして、何の用があるというのだろうか……。

 北新地の店の多くは二十時開店であるし、生駒もそうであった。

――開店前に何をする気なのだろうか。

 人間として全く格の違う女性であることは森岡にもわかった。まさか、色事とは思えないし、取って食われるほどの器ではない。

 森岡は不安と好奇の交錯する、得も言われぬ奇妙な心持ちのまま次の日を迎えた。

 十九時、森岡は指示通り生駒に顔を出した。中年の女性はすでに店の中にいたが、ママの姿はなかった。

 女性は冷蔵庫からビールを数本取り出すと、

「飲みなさい」

 と命令口調で言った。一滴も飲まない彼女を横目に、

――俺を酔わせてどうする気だ。

 森岡の猜疑心は深まっていった。

 十分ほどで、中瓶二本を無理やり空けたときだった。

「さあ、二十時まで練習よ」

 と、昨夜森岡が歌ったバラードの曲をカラオケに入れた。

 そして、女性から懇切丁寧に歌唱指導を受けた。何度も何度も繰り返し、同じ曲を入れ、徹底的に練習させられた。 

 二十時前になって、生駒のママが出勤したところで終了となった。

 女性は、翌日も同じ時刻に来店するようい言い残して店を出て行った。

 森岡は生駒のママに彼女の素性を問うたが、首を横に振って答えてくれなかった。また、代金の支払いを申し出たが、それも断固として受け取らなかった。

 そのような日が土日を挟んで一週間続いた。そのお蔭で、森岡は課題曲のバラードがそれなりに歌えるようになった。

 人というのは不思議な生き物である。たった一曲マスターしただけで自信が付いたのだろうか、森岡はカラオケに興味が湧いた。同僚とスナックへ行くと、積極的に他の曲も歌うようになった。こうして森岡は現在のように人並みの歌唱力を身に付けたのである。

 森岡はレッスン最終日、密かに中年女性の後を着けて正体を暴こうと試みたが、その企みはあっさりと見破られてしまった。その後、森岡は何度か生駒に通ったが、女性が姿を現すことはなかった。

 半年後、生駒のママは病気入院し、それから二ヶ月後に他界したため、とうとう素性のわからないままとなってしまったのである。


「なるほどのう、そのようなことがあったか」

 松尾は納得したように肯くと、

「しかし、ママはなぜそのようなお節介を焼いたのかな」

 と、園子を窺うように見た。

「感じたからですよ」

「感じた? 何をかな」

「あら、松尾会長のお言葉とも思えない。女が感じると言えば此処しか有りませんでしょう」

 と、園子は艶めかしい笑みを浮かべ、下腹部に手を当てた。

「うう……」

 松尾だけでなく、榊原と福地も唸った。森岡が、まさかという面で首を捻る中で、茜ただ一人が顔を薄く赤らめて俯いた。

 園子の心理は男にはわからない領域である。

 男は、建前は性格と言っているが、現実は外見や損得で女を選ぶのがほとんどである。

 その一方で、女は外見や損得より子宮で男を選ぶ。自分自身に自信があればあるほどその傾向が強まる。動物のメスは、本能により優等なオスの精子を選択すると明らかになっている。種の繁栄のため、劣等な精子を排除する傾向が強いのは自然の摂理なのだ。

 進化した人間には理性と感情が備わったため、本能のまま行動することは少なくなったが、それでも進化以前のDNAは残っている。

 園子は本能的に、

――森岡を抱きたい、彼に抱かれたい。

 との衝動が奔ったのだと、恥ずかしげもなく公言したのである。

「ママほどの者がのう」

 松尾はどこか満足げな顔をした。

「でも、どうして森岡さんがこの場にいらっしゃるの? 会長のお知合いですか」

 あらためて園子が訊ねた。

「実はな、茜と所帯を持つのじゃよ」

「あらまあ、本当に?」

 園子が茜を見た。茜は黙って肯いた。

「なるほど。会長は茜の相手を見定めるために、とんとご無沙汰だった北新地ここに、久々足を運ばれたのですね」

 園子はたちまちにして松尾の魂胆を見破った。

「まあ、それもあるが、わし自身がこの男に惚れてのう。このお二方との共同事業に加えて貰ったところじゃ」

 松尾は遅ればせながら、榊原と福地を紹介しながら言った。榊原は世間に隠れた人物だが、味一番は誰でも知っている一流企業である。

 園子は目を見開いて、森岡を見た。

「会長と共同事業? 森岡? ということは、もしかして貴方がウイニットの……」

「はい」

「あの馬鹿騒ぎの」

 園子の声には少し棘があった。

「なんのことじゃ」

 松尾が興味深げに訊いた。

「初めてロンド(ここ)に来た夜に、彼はいきなり二千万も散財したらしいですよ」

 園子が耳にした限りの顛末を話した。

 厳密に言えば、谷川東良に連れられて来たのが初見であるが、自分の意志で来店したのが初めてという意味である。

「一晩で二千万じゃと」

「本当か、洋介君」

 榊原と福地が同時に訊いた。

「なんと愚かなことをしたと、後悔しております」

 森岡はいかにも決まりが悪そうに答えた。 

「ほほほ……」

 急に園子が口に手を当てて笑い出した。 

「どうかしたかの」

 松尾が怪訝そうに訊いた。

「失礼しました。いえ、私の目に狂いがなかったと思いまして」

 園子が自慢げに松尾を見た。

「たしかに、たしかに」

 松尾は何度も肯き、

「二人と偶然出会ったのもママだけなら、唾を付けたのもママだけじゃからのう」

 と称賛した。

「それで、茜は水商売から身を引くの」

「はい。近々ご報告するつもりでした」

 背筋を真っ直ぐに伸ばした茜の表情に、迷いは一切なかった。

 茜は園子に見出されてこの世界に入っていた。財界の大立者である松尾正之助を後ろ盾にしてくれたのも園子である。茜はそれほど園子から可愛がられていたし、期待をされていた。

 それを、いかに結婚が理由とはいえ、水商売から身を引くということは、どのように非難されても抗弁の許されない背信行為なのだ。そのことを痛いほどわかっている茜が敢えて意志の固さを示したのである。

「目を掛けて頂いたママには申し訳ないと思っています」

 茜は丁重に詫びた。

「しょうがないわね。いずれ花園を任せようと思っていたけど、一度言い出したら利かない娘だから……それに、相手が彼だったら無下に反対もできないわ」

 諦め顔で言ったその目は、愛娘を見るような慈愛に満ちていた。

「さてさて、縁結びの女神様のご来店じゃ。賑やかに飲み直そうかの」

 松尾が乾杯の音頭を取り、酒宴の再開を宣した。


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