(3)再会
二時間後、幸苑を出た四人は、いや他に松尾正之助の共の者が三人、福地正勝のそれが一人、さらに坂根と蒲生、足立を加えた十一人はロンドへ顔を出した。
さすがは天下の松尾正之助である。新地の本通りを歩いていると、見るからに身形の良い紳士たちが次から次へと松尾に声を掛けて来る。松尾は挨拶を終えると福地を傍らに呼んで紹介した。上場していないとはいえ、味一番は食品業界大手で超優良会社である。松尾の紹介に十分に足る人物である。
森岡と榊原は、その度に松尾らとは距離を置いたところで足を止め世間話をした。
「洋介、例の鴻上がそろそろろ返事を貰いたいと言ってきたが、断るで」
鴻上への返事とは、榊原の人脈を利用して、簡易の仏壇や霊園をパソコンのネットワークを駆使して販売しようという事業計画話である。
「爺ちゃん、断るのはちょっと待ってくれへんか」
「なんや、なんかあるんか」
榊原は意外という顔をした。
「今調査中なのやが、この話には裏があるような気がするんや。せやから、背後の鼠を炙り出すまで話を引き延ばして欲しい」
「背後の鼠やと。また誰かがお前を陥れようとしていると言うんかいな」
おそらく、と肯いた森岡は、東京で偶然耳にした情報を話した。むろん、美佐子と名乗った謎の女性のことは伏せたうえである。
「なんと、鴻上の背後にあの筧が蠢いているというのか。また難儀なこっちゃのう」
と、榊原は渋面をした。
「ただ、鴻上が俺と筧の関係を知っているかどうかはわからんがな」
「場合によっては鴻上という男は使えるということやな」
「さすがは爺ちゃん、わかりが早い」
「こら、馬鹿にするな」
榊原はおどけるように森岡の額を小突いた。
「それやったら、もう少し詳しい計画書を出せとでも言っておこうか」
「それで、頼んまっさ」
森岡は片手拝みをして笑った。
そのとき、一人の男がすーと近づいてきた。蒲生と足立が森岡と榊原の前に立ち塞がる。
「蒲生、心配いらん。知り合いや」
森岡に近づいた男は、あるクラブの黒服だった。
「森岡社長さん、これからロンドですか」
「そうやが」
「偶には、うちの店にも顔を出して下さい。ママが首を長くして待っていますので」
「そういやあ、しばらくママの顔を見ていないな。よっしゃ、今日時間が有ったら顔を出そう」
「本当ですか」
黒服は飛び上がるように喜んだ。
「今日は偉いさんと一緒やから時間は確約はできんが、閉店間際ぐらいには行けると思う」
「偉いさんとは、そちらのお方ですか」
黒服は榊原を見た。
「おう。この爺ちゃんも相当な偉いさんやが……」
と言いながら、森岡は松尾に視線を送った。森岡の視線の先を見た黒服は、あっと小さく叫んだ切り地蔵になった。
松尾正之助は、夜の街はすっかりご無沙汰だったが、今でも折に触れ経済ニュースなのでテレビ画面にその姿を露出している。若い黒服でもその顔には見覚えがあるらしい。
松尾の姿を見たときの、茜の驚いた顔といったらなかった。茜だけではない。とんでもない大人物の来店に、ホステスや黒服らは仰天し、店内は騒然となった。
森岡から、
『同伴及び予約客以外は貸切りにして欲しい』
との連絡を受けてはいたが、まさか松尾正之助の来店があるとは思ってもいなかったのである。
幸いにも開店前に連絡を入れたので、客はホステスに同伴した七名だけであった。茜は、すぐさま入り口に臨時貸切りの紙を張り出し、さらに黒服を立たせて、来店客を丁重に断わらせた。
また、同伴客も気を利かして、早々に腰を上げたため、森岡一行が来店した九時半頃には全くの無人となっていた。
森岡は、榊原と福地を茜に紹介した。茜は、森岡の亡妻奈津実の実父との初顔合わせに、一瞬動揺を見せたが、すぐに平素と変わらぬ接遇に戻った。
榊原と福地は、共にロンドは初めてだった。二人は共に資産家だが、榊原は大病以来飲酒を控えていたし、学者肌の福地は料亭より小料理屋、高級クラブより家庭的なスナックを好んだ。
「ところで、森岡君、茜。二人のことは話しても良いかな」
松尾正之助が、いきなり言ったものだから、
「どうしましょう」
茜が森岡の顔を窺った。二人はお互いの眼で確認し合い、
「結構です」
と、森岡が答えた。
「会長、どういうことですか」
榊原が訊ねた。
「二人は所帯を持つのじゃよ」
「ええー」
驚いたのは、榊原と福地だけではない。ホステスや黒服も思わず声を上げた。むろん、ホステスや黒服たちは二人が親しい関係にあることは知っていたが、まさか結婚まで考えていたとは思ってもいなかったのである。
「会長はなぜご存知なのですか」
福地が訝しげに訊いた。さもあろう、自身はともかく榊原ですら知らない密事なのである。
「茜、もう良いだろう」
松尾は了解を得ると、
「茜はな。わしの孫娘なのじゃ」
松尾正之助があまりに真顔で言ったものだから、皆が凍り付いたように身を固め、一斉に茜の顔を窺った。
「血は繋がっておらんが、わしは本当の孫娘だと思い、可愛がっておる」
松尾の一言で、その場の緊張がようやく解けた。
だが、
「なあんだ、隠し子ならぬ隠し孫かと思ったわ」
とのホステスの呟きに、
「わしは大真面目に孫娘だと思っておるし、遺産の分配もするつもりでおる」
と、松尾が断言したため、一同は再び息を呑んだ。
「それもあって、洋介に興味を抱かれたのですね」
榊原が腑に落ちたように訊いた。
「まあ、そういうことじゃ」
「そうか、洋介君は再婚するのか」
福地が寂しそうな顔をした。
「お義父さん、以前にも申しましたように、私が彼女と再婚しましても、お義父がお義父さんであることに変わりはありません」
森岡が気遣うように言った。
「となると、わしは森岡君の義理の祖父みたいなものじゃの」
松尾正之助が言うと、
「会長、私も同様ですぞ」
と、榊原が口を尖らした。
「あらあら、私の旦那様になる人は、とんでもない『爺殺し』のようですね」
茜が呆れ顔で言うと、座がどっと沸いた。
「私にも、このような文質彬彬の娘が一人増えるのですな」
その中で、福地正勝が亡き娘の面影を偲ぶようにしみじみと呟いた。
和やかな談笑が一時間ほど続いた頃、ロンドへと向かう階段を降りて行く初老の女性がいた。薄紫の加賀友禅に、つづれ織りの帯を締めた出立ちは、思わず息を呑むほどの風格に溢れている。
彼女の姿を看とめた氷室の表情は、一層強ばったものになった。店先に立ち、来店客に対して丁重に断りを入れているロンドの支配人である。
「貸切りと聞いたけれど、氷室、お前自ら表に出ているのですか」
初老の女性は、少し驚いた声で言ったが、顔には笑みが浮かんでいた。
「茜ママのご指示で……」
支配人の氷室は視線を落として言った。
「なぜ私が知っているのか不思議ですか」
女性は氷室の心中を見透かしたかのように訊いた。
「は、いえ、その……」
口籠った氷室に女性は言葉を被せた。
「松尾会長がいらっしゃるのでしょう」
氷室が目を剥いた。
「なぜ、それを?」
ふふふ、と女性は微笑んだ。
「大島建設の志方社長が教えて下さったのよ。ロンドを出た後、私のお店へ来られたのだけど、途中で松尾会長をお見掛けしたので、挨拶をされたらしいの。会長が北新地に足を運ばれることなど、珍しいことだから秘書に命じて行き先をお調べになったのよ」
ああ、そういうことかと、氷室は納得した顔をした。
「会長なら、私は入っても良いでしょう」
いや、と氷室は当惑の表情を浮かべる。
「あら、何か都合が悪いことでも?」
「松尾会長にはお連れがいらっしゃいます」
「お連れ? では、無理強いはできないわね」
落胆の声で言った女性に、
「少々、お待ち頂けますか。茜ママに伺って参ります」
氷室は軽く頭を下げ、女性に背を向けて扉を開けた。
ほどなく、松尾の快諾も得て戻った氷室は、女性を案内して中に入った。
「よう、ママ。久しいのう」
松尾が鷹揚に声を掛けた。
「お邪魔して宜しいでしょうか」
女性は艶然とした笑みを浮かべながらそう言うと、一同を見回した。
女性の気遣いに、茜は、
「ママでしたら、何も遠慮は要りません」
と席を立って松尾の横を譲ろうとし、榊原と福地はその貫録に圧倒されている中で、
「あっ、貴女は!」
森岡が驚愕の声を上げた。
暫し森岡を凝視していた女性は、やがて薄い記憶が蘇ったように目を見開いた。
「まあ、あのときの新入社員さん?」
「はい」
「お名前は、確か……、そう、森岡さんでしたね」
「そうです。憶えて頂いておりましたか」
森岡が目を輝かせる一方で、
「何や、森岡君はママと面識があるんかいな」
と、松尾は悪戯を見破られた子供のようにつまらなそうな顔をした。
「何と申し上げたら良いのか……」
森岡は複雑な表情を浮かべ、
「失礼ですが、どちらのママさんのでしょうか」
と問い返した。
「森岡君、彼女が花崎園子さんじゃ」
松尾が何食わぬ顔で紹介した。
そう、この初老の女性こそ北新地でも指折りの老舗最高級クラブ『花園』のオーナーママの花崎園子である。松尾電器会長・松尾正之助のかつての愛人であり、レストランでアルバイトをしていた茜を見出した恩人でもあった。
また、茜がロンドを開店した際、花園の副支配人だった氷室を補佐役として遣わしたのも園子であった。彼女の親心である。
「まさか、あのときの恩人が花園のママさんだったとは……」
嘆息交じりの声を上げた森岡に、
「恩人?」
と、皆が一斉に目を向けた。




