(2)厚情
「よし、決まった。では、仕事に話が済んだところで」
松尾正之助はそう言うと、ちょうど料理を運んできた女将に、
「女将、連れを通してもらえるかの」
と頼んだ。
――会長の連れ? いったい誰だ。
森岡が訝っていると、やがて座敷に姿を現したのは榊原荘太郎と福地正勝であった。
「あっ……」
森岡は驚きのあまり言葉にならない。
「何をそんなに驚いているんや。松尾会長には、昔親しくさせてもろたって話したやろ」
榊原は、楽しげな笑顔を浮かべている。
たしかに、世界的大企業ナショナル・モーターの日本代理店を経営していた頃、榊原は松尾電器にも売り込みに成功していた。だが、今でも親しい交わりがあるとは承知していなかった。
「実はな、洋介君。後になってわかったことなのだが、過日須之内が私の代表取締役の解任動議を提案したとき、彼の懐柔にも拘わらず、誰一人として同意しなかったのは、松尾会長のお陰やったんや」
福地も松尾に頭を下げながら謎解きをした。
「……」
それでも、戸惑いを隠せない森岡に向かって、
「臨時取締役会の二週間ほど前やったか、神村上人の経王寺での集まりのとき、福地さんの顔色があまりに悪かったんで、声を掛けたんや。福地さんから、須之内の造反を聞いたわしが、勝手に松尾会長に相談したところ、その場で東京菱芝銀行の瀬尾会長に連絡されてな、その瀬尾さんが味一番の取締役一人一人を説得されたんや」
榊原が経緯を説明すると、
「東京菱芝銀行は、味一番のメインバンクでな。瀬尾会長は『福地社長を解任したら、今後いっさい手を引く』と最後通告をされたということや」
と、福地が補足した。
味一番はここ数十年間、増収増益を達成している超優良会社である。内部留保金も一兆円近くあり、資金繰りに窮することはない。しかし、我が国最大手の東京菱芝銀行から三行半を下されることの意味が、味一番の役員連中にもわかったのだろう。
松尾と榊原、そして瀬尾も自身の手柄や善行を吹聴する男たちではない。そのため、福地正勝が堅く口を閉ざしていた自社の取締役たちから事情を聞き出し、ようやく裏の真相が判明したのだった。
「では、榊原さんがお義父さんのために、松尾会長へ願ったのですか」
「何を言うとるんや。当たり前のことやないか」
榊原は、何をいまさらとばかりに笑った。
榊原と福地の関係は、森岡が思っていた以上に親密なものだった。
福地正勝は阪神間の御影という、これまた高級住宅街に住んでいるが、父の代までは大阪府堺市に住んでいた。
菩提寺は、堺市の祥宝寺という浄土宗の古刹である。
浄土宗の信者である福地正勝が、天真宗寺院の護山会役員を務めるのは、決して奇異なことではない。菩提寺というのは、葬式一切を委託する寺院であり永続的関係を保つが、護山会というのはあくまでも僧侶個人の支援組織であり、一代限りで終わることが多いのである。
また一般家庭においても、たとえば森岡家は禅宗系の宗派でありながら、天真宗の御本尊も祭っていて、祖母のウメは両方に経を上げていた。このようなことは、全国に多々見られることで、日本人の宗教に対する寛容と曖昧の功罪相半ばする実態である。
神村が三十歳で総本山を下り、父親が開山した経王寺に戻ったとき、収入の当ては全くなかった。神村の父は、極々平凡な僧侶だったので、大阪府の天王寺に経王寺を開山したといっても、檀家など集まるはずもなく、収入は専ら谷川兄弟の自坊雲瑞寺の宗務を手伝った折の手間賃であった。
神村自身が開拓した収入源も、真鍋家からの布施が唯一であった。真鍋家は代々の天真宗信者で、総本山真興寺へ参拝した折は滝の坊に宿泊していた。その縁から中原是遠が餞に紹介したのである。
下山した当初、現在に比べれば時間的融通の利いた神村は、毎月二回、真鍋家と会社に祭ってある観音様への読経を行い、合わせて四十万円の布施を受けていた。むろん、非課税とはいえこれだけでは生計は立たない。
これを支援したのが、榊原荘太郎である。
榊原は仕事柄、全国の目ぼしい僧侶に詳しく、天真宗において宗祖栄真大聖人の生まれ変わりとも評されていた神村の名も当然耳にしていた。
榊原はさっそく経王寺に、下山したばかりの神村を訪ねた。神村は三十歳という若さだったが、十九歳で初めて挑戦して以来、ほぼ隔年で百日荒行を達成しており、すでに大本山あるいは本山の貫主になるための資格を有していた。
榊原は顔を合わせた瞬間、神村に魅了され、一時間も話をすれば虜になった。彼が神村に惹かれたのは、荒行達成で身に付いた神通力だけではなかった。中国哲学・思想に対する造詣の深さ、また清廉で高潔な人徳に惚れ込んだ。
榊原は直ちに経王寺の護山会を組織し、知人や友人に神村を紹介して回った。その中に、福地正勝もいたのである。
松尾正之助が頬を緩めて、
「いやな。わしが先月体調を崩して入院していたとき、榊原さんが見舞いに来てくれたのじゃ。そのときな、森岡君。彼が、十歳も若返ったように生き生きしているのを見て、どうかしたのかと訊いたところ、ようやく意中の人物だった男から後継の承諾を得たと、そりゃあもう喜色満面でな。わしは昔から彼を知っているが、そのような顔を初めて見た。それこそ、車の売り込みに成功したときよりも嬉しそうな顔をしておった。この頑固で偏屈な爺さんの眼鏡に適った男に興味を持ったわしは、失礼ながら君を調べさせてもろた。その結果が、先ほどの提携話ということじゃ」
と噛み砕いて説いた。
「するとな。会長から連絡があり、同席しないかとお誘いになられてな。わしも、例の宝物の一件が気になっておったのじゃが、お前からは何の連絡もありゃせんから、遠慮のう顔を出したという次第じゃ」
「私も、あらためて松尾会長にお礼がしたい、と榊原さんに伝えてあったので、お声が掛かったというわけだ」
榊原と福地がそれぞれ言い足した。
「良くわかりました。あの一件、妙な雲行きになっていましたので、ついご無沙汰しました」
森岡はそう言って榊原に頭を下げた。
「しかし、会長。この男は、私共の後継に決まっていますので、これ以上妙なちょっかいを出さないで下さい」
榊原は笑顔で釘を刺した。
「わかっておるわい」
松尾正之助は煙たそうに口を尖らせた。
「それより、榊原さん。早々に、神村上人も紹介してもらえるのだろうな」
「本妙寺貫主の一件が決まりましたら、その手筈になっています」
榊原は神妙に答えた。
――天下の松尾正之助が、神村先生と交誼を結びたがっている。仕掛けたのは、榊原の爺ちゃんか……。おそらく、この席も爺ちゃんが段取りしたに違いない。
森岡は、久しぶりに心を震わせていた。あらためて、榊原の交誼の広さ、濃さを実感し、彼の温情に感激していたのである。
「森岡君、もう一つ願いがあるのだが、聞き届けてくれんかの」
酒宴が進んだところで、松尾正之助が切り出した。
「どのようなことでしょうか」
「榊原さんから聞いたところによると、三人の会社の持ち株会社を設立するそうだの」
「二年後を目途に考えております」
「ならば、そこにわしのも入れてくれんかの」
「とんでもございません。松尾電器グループさんは大企業ばかり、三社でも私の手に負えるかどうか悩んでおりますし、業務提携だけでも恐れ多いことです」
と、森岡は丁重に断りを入れた。
「いや、松尾電器グループの企業ではない。わしの個人的な会社や」
松尾正之助がにやりと笑った。
「と、おっしゃいますと?」
「わしの趣味が高じて創った全くの個人会社での、三つほどある」
松尾があくまでも個人会社と強調した三社は、
釣りの趣味から、
『釣り道具の製造販売会社』
ゴルフの趣味から、
『七ヶ所のゴルフ場の運営会社』
ワイン嗜好が高じての、
『葡萄園とワイナリー』
であった。
さすがに商売の神様と謳われる松尾正之助だけあって、年商はそれぞれ八百億円、二百四十億円、百八十億円で、利益も五パーセントから十パーセントを生んでいる優良会社だった。
「これなら、問題なかろう」
松尾が催促するように言うと、
「洋介、ここは黙ってお受けしろ」
榊原が有無を言わせぬ面で言ったものだから、
「承知致しました」
と、森岡は頭を下げざるを得なかった。




