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黒い聖域   作者: 久遠
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         第三章 人徳(1)巨魁

 静岡から戻った森岡洋介に一本の電話が入る。

 松尾電器グループの総帥・松尾正之助の意を受けた秘書からであった。数多の経営者たちから『商売の神様』と崇められ、日本経済界を牽引する、いや経済界だけではない、今や私塾を通じて、政界への直接的影響力も増大している、まさに日本のトップリーダーの一人であった。

――そういえば、茜がそれらしきことを言っていたな。

 森岡は、茜の言葉を思い出しながら受話器を取った。

 用件は、明日の夕刻、幸苑で会食したいというものだった。

 松尾正之助は山尾茜の後見人である。その茜と結婚するからには、一度は会っておかねばならない人物だった。というより、そもそもが願っても滅多に会える人物ではない。それが先方から会いたいというのである。森岡に断る理由などなかった。

 翌日、約束の時間より十五分早く着いた森岡は、例によって茶室に顔を出した。抹茶を一服所望すれば、ちょうど良い時間になると計算していた。

 ところが、女将が息を切らしてやって来て、

「森岡さん、お急ぎ下さい。会長はすでに席に着いておられます」

 と急かした。

「え? もう」

「会長は、いつも三十分前にはお着きになります。まあ、森岡さんとも思えない。てっきりご承知だと思っておりましたわ」

 女将の初枝は顔を曇らせた。彼女が、いかに親身になっているかが見受けられる。

「女将、心配には及びません。会いたいと言ってきたのは先方ですし、遅刻をしたわけでもない。それで咎められるのなら、世界の松尾正之助もその程度の人物だということです」

 森岡には外連味がなかった。いかにも師の神村正遠しか眼中に無い、何者をも恐れぬ彼らしい物言いである。

「まあ」

 女将は目を丸くして呆れた声を洩らした。

 そして、

「それにしても……」

 と嘆息に変わった。

「有能な方だとは思っていましたが、まさか松尾会長の方からお誘いがあるとは……」

「いったい、どういう要件なのか。恐ろしい限りです」

 森岡は真顔で惚けた。

 松尾正之助は、孫娘同然の結婚相手を品定めをしたいのです、とは言えなかった。

「やはり、なぎさを貰って頂くべきでしたわ」

 女将が悔しげにお点前を見た。森岡のお茶は必ず若女将、つまり女将の愛娘である渚が点てた。その渚は聞こえないふりをしていた。

「森岡さんの初婚のときは、渚はまだ九歳でしたけど、再婚なさらないうちに成人したというのに、幸苑を継がせることばかりが頭にあって、嫁にやることなど毛頭思い付きませんでした」

 女将はいかにも口惜しそうに言った。

「女将、それが正解です。渚さんとは十五歳も離れていますし、しかも私はバツ一です」

 森岡は苦笑いをした。

「そのような瑣末なことはいっこうに気に致しません」

 女将は語気を強めて言ったが、

「でも、こんな不出来な娘では森岡さんの方からお断りでしょうね」

 と、最後は自身に言い聞かせるように呟いた。

「人にはそれぞれ宿命というものがあります。渚ちゃんはこの由緒ある幸苑を継ぐのが生まれ持った宿命です」

 森岡はお点前を頂き、茶碗を戻した。

 そうですね、と女将は一つ息を吐いた後、

「あらあら、ごめんなさい。無駄口を叩いている場合じゃないわ。本当に会長をお待たせすることになってしまいます」

 そう言って、再度森岡を急かした。


「遅くなりました」

女将が襖を開けるのと同時に、森岡は少し声を張り上げて言った。しばらく頭を下げていたが、いっこうに声が掛からないので、森岡は痺れを切らしたように顔を上げた。

――おや?

 森岡は少なからず戸惑った。二間隔てた座敷にいる松尾正之助が、床の間を背にする上座ではなく、横手の席に座っているのだ。つまり、対等ということである。

 森岡はしばらく逡巡したが、すくっ、と立ち上がると、足を滑らすように進み、黙礼して席に着いた。

 これもまた神村の教えであった。

 岡崎家での総務藤井清堂のように、先方が上座に着いているときは慇懃な所作が求められるが、この松尾正之助のように、対等の席に着座している場合は上座を進めるなどの必要以上の遠慮は無用、ということなのである。

「森岡君、今日はいきなりで申し訳なかった。わしが松尾正之助じゃ」

 森岡が着座するなり、松尾が口を開いた。

「とんでもございません。会長こそ私如き若造に時間を割いて頂きまして恐縮です。私が森岡洋介です」

 森岡は松尾の目を見据えて言った。

 松尾正之助は八十三歳。加齢が止まったかのように若々しく、現在でも経営の第一線で活躍している。馬面顔で笑うと目尻が下がるため、それを見てうっかり気を緩めてしまおうものなら、即座に痛い目に遭う。

「さすがに、良い目をしているのう」

 まず松尾が誉めた。

「野心を剥き出しにするわけでも、さりとて隠すのでもなく、涼やかで力強い」

「重ね重ね恐縮です」

 森岡は、今度は頭を下げた。上気した顔を隠すためである。天下の松尾正之助に誉められ、気分の悪かろうはずもない。だが、そうかといって、彼が心浮かれることはなかった。

『人たらしの名人』

 松尾正之助は、俗にそう言われている。彼と会った者は、必ず彼の信奉者になるからだ。

――なるほど、こうやって心を掴むのか。

 森岡は冷静に判断していた。

 批判したのではない。その手に乗った振りをしても良いし、無視しても良い。松尾正之助にとっては、極々ありふれたことであろうし、そもそも彼が人たらしだけの人間でないことは明白である。 

「茜が申しておったとおりの男じゃの。肝も据わっているらしい」

 と言葉を付け加えた。

「茜と一緒になるそうだの」

「はい」

「一応わしも後見人だからの。あの娘が選んだ男をこの目で見ておきたかったのじゃ」

 松尾は凝っと森岡を見つめた。

「念のために言っておくが、わしとあの娘との間には何もありゃせん」

「承知しております」

 森岡も松尾から目を逸らさずに応じた。

「もっとも、どうこうしようにも、もう役にたたんわい」

 松尾は、わははは……、と大笑いしたかと思うと、一転真顔になり、

「茜は辛い宿命を背負い、苦労を重ねた不憫な娘じゃ。森岡君、わしからも頼む。あの娘を幸せにしてやってくれ」

 と両手をテーブルに置いて頭を下げた。

「頭をお上げ下さい。会長が申されるまでもありません」

 森岡は、全身から汗が吹き出るのを感じていた。天下の松尾正之助が自分に頭を下げている。一人の女性、しかも赤の他人のために、である。

「そこでだ」

 頭を上げた松尾の目が鋭くなった。

「婚姻の祝いに託けるわけでもないが、どうだね、森岡君。わしとこと組んでみないか」

「はあ?」

 森岡は瞬時には言葉の意味が呑み込めなかった。。

「わしとこのグループに『松尾技研』いうのがある。ここと業務提携をしてもらえんかの」

 とんでもない、と森岡は即座に遠慮した。

「松尾技研さんと申せば、業界大手です。私のところとは釣り合いが取れません」

 松尾技研は社員数が三千名、売上高が二千億円の規模を誇る、ソフトウェアー業界では最大手の部類に入る。

 いやいや、と松尾は顔の前で手を振りながら、

「恥ずかしながら、わしとこはこの分野では出遅れての。図体ばかりでかくて、あまり上手くいってはおらんのじゃ。そこで、技術力のある君のところを巻き込んで立て直したい。正直に言えば、そういう企みじゃ」

 と決まりが悪そうな顔をした。

 森岡が経営するウイニットは、現在資本金が五億円。額面は一株五万円であるから、発行株数は一万株である。このうち、八十パーセントに当たる八千株を森岡が所有している。

 森岡は、上場時にそのうちの半数を売却するつもりでいる。それにより、彼の持ち分比率は四十パーセントに低下するが、霊園造成の費用捻出のため、榊原に五パーセントを売却しており、他に野島ら幹部役員が合わせて十パーセント所有しているので、経営権を奪われるようなことはない。

 松尾正之助は、森岡の持ち分の中から全体の十パーセントに当たる一千株を、一株当たり二百万円で購入したいと申し出た。一株が五万円の株を四十倍の二百万円で購入したいというのは、一見高値買いのように映るが、実はそうではない。

 前途有望な株は、上場する前に市場外取引において値が跳ね上がることは良くあることで、事実昨今はIT関連企業というだけで、未上場の株式が実態以上の評価値で取引されていた。それらに比べれば、ウイニットは断然有望な株式だといえた。

 ともかく、松尾の申し出により、森岡は二十億円の現金を手にすることになる。

「承知致しました。宜しくお願いします」

 森岡は座布団を外し、少し後ろに引き下がると、両手を付いて頭を畳みに擦り付けた。

「うん、うん」

 松尾は破顔して何度も肯くと、

「大事なことじゃが、仲間に諮らなくても良いのかの」

 と気遣った。

「はい。皆も私と同じ気持ちだと信じています」

 森岡は明瞭に言った。その表情は、清々しい自信に溢れていた。


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