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黒い聖域   作者: 久遠
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               (3)蜜罠

 景山と別れ、部屋に戻って内湯に入っていた森岡に来客があった。すでに日付が変わっていた。時を選ばぬ訪問客に、身構えて応対に出た蒲生は、ドアの前に立つ来客の姿に安堵の息を漏らした。

 森岡を訪ねて来たのは、置屋・鈴邑すずむらの女将と芸者の小梅だった。

 慌しく風呂から上がった浴衣姿の森岡は、

「どうかしましたか」

 と訊ねた。

「こんな深夜に申し訳ありません」

 頭を下げた女将に、

「時間は構いませんが、何か不都合なことが生じましたか」

 と、森岡は気遣った。

 それというのも、総務清堂との宴会のとき、この小梅も呼んでいたのである。人格者の清堂や景山に限ってまさかとは思ったが、無理難題を押し付けたのではないかと疑ったのである。

 森岡の懸念を察した女将は、 

「とんでもありません。総務さんはむろんのこと、お連れ様にそのような不埒な方はいらっしゃいません」

 と強い口調で払拭した。

「では、どういった用件でしょう」

 森岡の重ねての問いに、女将はいっそう緊張の面になった。

「この小梅を助けてやってもらえないかと」

「助けるとは?」

「小梅を身請けしてやって頂けないかと……」

「身請け?」

 一瞬、戸惑いの表情になった。

「いくらですか」

「それが……」

 女将は口籠もった。

「遠慮なくどうぞ」

「六千万でお願いします」

「ほう」

 森岡は思わず息を吐いた。

 身請けの相場は――といっても相場など有るようで無いようなものであるが――二千万円前後である。小梅は芸者になったばかりの二十歳。端正な美人というわけではないが、男好きのする顔立ちで、色白の肉感的な身体をしていた。

 下賤な言葉で言えば、たしかに上玉の部類ではある。しかしながら、それでも精々倍の四千万円が上限であろう。女将の提示した金額は法外といっても良かった。

「何か込み入った理由があるようですね」

 裏事情を察した森岡が訊いた。

「実は、小梅の父親が事業に失敗しまして、六千万の借金を抱えてしまったのです」

 女将はやるせない声で言った。

 花柳界ではよくある話である。近年は少なくなったとはいえ、花柳界に飛び込む理由の一つが借金、それも親のそれである。女将はこれまで幾人ものそういった女性を見て来ていた。もっとも、今も昔も手っ取り早い借金の返済手段は風俗の世界に身を置くことである。

「お父さんはどのような事業をされていたのですか」

 森岡は小梅に訊いた。自身の身請け話である。事情を説明させ、覚悟の程を量ろうとしたのである。

「父は、御山で土産物を扱う商売をしていたのですが、三年前に御山の材木に手を着け、失敗したのです」

 小梅ははっきりとした口調で言った。

 彼女のいう御山とは総本山のことである。当然のことながら、総本山真興寺の周辺には門前町が開け、参詣客を相手の土産物店が軒を連ねていた。小梅の実家はその中の一軒だった。

 これもまた言うまでもないが、妙顕山をはじめ周囲の山々は全て天真宗が所有している。その広大な山野に生い茂った檜、欅、杉といった樹木は、適度に伐採されて業者に売却されたり、総本山の堂塔伽藍の新築、改修に用いられたりしていた。

 その際は、いわゆる山師やましが介在することになる。山師は、古くは山々を渡り歩いて金などの地下資源を探す技術者あるいは科学者であったが、近年は一山当てて大儲けをしようとする輩が多くなった。そのため、胡散臭い詐欺師的な話をする者を山師というようにもなった。

 山林に関わる山師とは、一目で山の価値を算出する人物のことを指す。樹木の種類、数、品質などを一目で見抜き、金額を弾き出すのである。この山師の判断が売買値の参考になったため、その眼力は重要であった。

「お父さんは、なぜそのようなことに」

 手を出したのか、と森岡は訊いた。地道な商売していた者がなぜ、との疑念である。

「馴染みの業者に唆されたのです」

 小梅は恨みがましい語調で言った。

 その業者とは二十年来の付き合いで、十年前に一度、檜三百本、欅二百本、杉二本を三千百万円で落札したことがあったという。

 今回はその五倍強の量だったため、総額は一億六千万円となった。資金に余裕のなかった業者は利益を折半するという条件で、不足分の一億円を用立てて欲しいと相談を持ち掛けた。この商談の場合、三割の利益を乗せて転売することが見込めた。つまり、小梅の父の懐には労せずして三千万円が手に入ることになった。

 業者は信用できる男だった。年に七、八度も総本山を訪れ、その度に店に顔を出し親交を深めた仲だったのである。小梅の父は預金を下ろし、不足分の八千万円は家の土地建物を担保にして金融機関から借り受けた。土地建物の評価は担保価値を下回ったが、材木の伐採権を追加担保として差し出す条件が付記されていた。

 そうして首尾よく材木の権利を落札したのだが、いざ伐採の段になって異変が起こった。切り出し作業のため山に入った職人の一人が行く方知れずになったのである。作業中に不足の事故が起こったという報告はなかった。その証拠に懸命な捜索にも遺体は発見されなかった。

 この不可思議な事件は『神隠し』として門前町の人々の口の端に上った。

「神隠し、ですか」

 森岡は不審げに言った。

「噂はこの近辺まで広がりましたから、御山は大変なことだったと思います」

 女将が言い足した。

「結局、この一件を御山の祟りだと恐れた伐採を請け負った会社が手を引いたのです」

「それで一億円が焦げ付いたのですね」

 そうです、と小梅は肯いた。

「事業を持ち掛けた業者に支払い能力はなく、材木の権利を譲渡するということで許しを請うてきました」

「では、どなたかに権利を譲られれば良いのではないかな。元は一億六千万の価値があるわけだから、半値でも八千万は回収できるでしょう。損には違いありませんが、金融機関からの借り入れ分は返済できたでしょう」

「もちろん、父も懸命に転売先を探しましたが、何といっても霊験灼な天真宗の御山です。一旦ケチの付いた材木を買取ろうという者は現れませんでした」

 そう言って小梅はうな垂れた。

「触らぬ神に祟りなし、というですか」

 森岡は同情の声で呟いた。

「私が芸者となって父を援助していますが、まだ六千万円の借金が残ったままです。それでも利息を払い続け、何とか差し押さえを免れてきたのですが、突然、土地家屋を差し押さえるとの最後通牒が届いたのです」

「何の前触れも無くですか」

「はい」

――銀行は、そのような荒っぽいことはしないものだが……。

 森岡は、きな臭いものを感じ取ったが口にはしなかった。

「その危難を救ってくれそうな人が、現れたのは現れたのですが」

 女将が言い難そうにした。

「彼女の身体が条件というのですね」

 森岡は察したように言った。

 大学生の頃から花柳界を良く知る森岡は、この手の話には通じていた。なにせ、彼の最初の女性も当時『菊乃』という源氏名の芸者だった片桐瞳である。

「そうなのです」

 森岡は小梅を見たが、彼女は俯いたままだった。森岡には、それが恥じらいというのとは違った印象を受けた。

「どのような人物ですか」

「『カワハラ』という五十歳絡みの実業家です」

「カワハラ……、他には?」

「天真宗とも関わりが深いらしく、年に数度総本山を参詣しておられるようで、岡崎家に宿泊された際、小梅も座敷に呼ばれたのです」

「気に入られたわけですね」

「はい、一目で」

 女将が答えた。

「私に相談されたということは、その話、嫌なのですね」

 森岡は小梅に念を押し、こくりと肯いた彼女に、

「でも、なぜいきなり身請けなのかな」

 と訊いた。

「えっ」

 小梅が当惑顔になった。

「まずは、借金を申し込むのが普通じゃないかい」

 小梅は一瞬言葉に詰まったが、

「六千万なんていう大金、私には返済する当てがありません」

 と気丈な声で答えた。

 たしかに六千万円という額は、おいそれと返済できる額ではない。よほどの人気芸者になり、馴染みの客が付かなければ無理な相談だった。仮に、借金を肩代わりする新たな身請け話が舞い込んだとしても、人物的に森岡より好条件とは限らないのだ。

「なるほど、それで身体を売るということですね」

 森岡は辛辣な言葉を浴びせた。

 二人は困惑の表情を見せた。彼女らが知る森岡にしては、予期せぬ厳しい言葉だったらしい。

「私だって男ですからね。小梅さんなら自分の物にしたいのはやまやまですが」

 森岡は前置きすると、

「良いのですか、日陰者ですよ」

 森岡は独身だが、愛人だと宣言した。

 小梅はしばらく考え込むと、意を決したように、 

「森岡さんなら構いません。助けて下さい」

 と訴えた。

「猶予はどれくらいありますか」

「二ヶ月ほどです。それまでに良い返事を貰えないときは、容赦なく立ち退きを迫るそうです」

 女将が代わって答えた。

「では、私に一ヶ月時間を下さい。前向きには考えますが、私だけを頼りにせず、その間に他の解決策も考えてみて下さい」

 森岡はそう言うと、所有する土地建物と山林伐採の権利書の写しを要求した。もちろんのこと、森岡が乗り気になったのは小梅の身体が目的ではない。彼の気を引いたのは総本山の材木であった。

 総本山の周囲の山々には良質の材木が密集していることを森岡は耳にしていた。これを契機に総本山の材木を扱えるようになれば、榊原への恩返しにもなるし、神村の法主就任へ向けての事業に使える、と考えたのである。


 翌早朝の六時、森岡は再び景山に面会を求めた。カワハラなる人物に心当たりがないか問うためである。

「このように朝早く申し訳ありません」。

 森岡が非礼を詫びた。

 景山の目が一瞬泳いだ。昨夜の悪魔の囁きが蘇ったのである。

「き、気になさらないで下さい。七時には岡崎家ここを発つつもりでしたから、お会いするならこの時間しかありませんでした」

 気を取り直した景山は真顔で、

「何かありましたか」

 と訊いた。昨夜の計画に齟齬が生じたと思ったのである。

「景山さんはカワハラという人物に心当たりがありませんか」

「カワハラ?」

 全くの予想外の問いに、気の抜けた声を発した。

「いや、失礼。そのカワハラという人物と何かありましたか」

「それが、突拍子もない相談を受けまして……」

 森岡は苦笑いしながら、小梅の身請け話をした。

「ほう。森岡さんが芸者の身請けをされる」

 景山はからかうように言った。むろん、森岡の目的が小梅の身体ではないと推量してのことである。

「カワハラとはどのような人物ですか」

「五十絡みの実業家で、天真宗の信者らしく、年に数度総本山に参詣するようです」

「男性ですね」

「そうです。この岡崎家にも何度か泊まったことあるようです」

「年に数度の参詣というのは、たしかに奇特な人物ですが、御山には年間に数十万人も参拝客があります。カワハラという名だけでは見当も付きません」

 と言った直後、景山の脳裡を何かが突いた。

――カワハラ? まさか……。

「どうかされましたか」

「ちょっと気に掛かることが浮かびましたが、杞憂かもしれませんので、まだ申し上げるほどのことではありません」

 さりげなく言った景山の面に、どこか陰鬱な影が射しているのを森岡は見逃さなかった。


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