(3)問答
天真宗の本山相心寺の山門に初老の男性の姿があった。
一口に京都といっても、相心寺は市内の喧騒から離れた山深いところにあり、三方を渓流に囲まれた豊かな自然の中にあった。
というのも、相心寺は昭和の初期まで、関西地域における僧侶の修行堂だったからである。その後、荒行の場は総本山の妙顕修行堂に集約され、相心寺はその役割を終えたのだが、その折本山に格付けされた。
現在でも車が通れるのは麓までであり、そこからは徒歩となった。立地条件の悪さから参拝客などはほとんどなく、主な収入源は社員研修の場としての施設提供であったが、昨今はスピチュアルブームもあって、一般人の体験修行などの企画で、それなりにの賑わいを見せていた。
山門を潜った初老の男は、庶務受付で大本願人の申込用紙を受け取ると、願目を記入して三十万円を手渡した。
受付の若い僧侶は酷く驚いた様子で、小走りに奥の部屋に入ると、しばらくして壮年の僧侶が応対に来た。
差し出された名刺には執事長の肩書きがあった。
執事長は愛想良く、男性を本堂へ手招き入れた。それもそのはずで、この相心寺において三十万円という祈祷料は、個人に限っていえば一年に一度あるかないかという高額だったのである。通常は千円か二千円、高額であっても精々五千円というのが祈祷料の相場であった。
祈祷料に応じた品質のお札を受け取り、そこに願目を書いて渡せば、読経のとき願目と氏名を読み上げてくれるという段取りである。
相心寺の祈祷規定だが、金額が一万円未満の場合は、毎日夕方に行われる読経の際、まとめて願目と氏名を読み上げて祈祷する。
一万円以上の祈祷料になると、希望によりその場で本堂に上がることができ、その日の当番僧侶が即時に祈祷する。
祈祷料が五万円以上になると、当番僧侶に代わって執事長が祈祷を行い、以降一週間に亘り当番僧侶が毎夕の読経時に祈祷する。
さらに十万円になると、大本願人とされ、貫主自らが祈祷し、以降一ヶ月間読経の際に祈祷してくれるのである。
十万円以上は、額によって一ヶ月以上から数年間祈祷の対象者とされた。
初老の男性は三十万円の祈祷を申し込んだのであるから、当然貫主自らが読経するのが慣わしであった。
本堂で待つこと十五分、受付で応対した執事長を従えて、細身の僧侶が姿を現した。執事長より格上の僧侶であるから、この僧侶こそ、第三十五世桂国寺貫主の一色魁嶺と思われた。
その瞬間、初老の男性は内心でほくそ笑んだ。この男の目的は、まさに一色に謁見することだったのである。
この男、元は警察庁・犯罪行動科学部・捜査支援研究所の主任研究員を務めていた男である。日本警察において、プロファイリングの草分けの存在であった。定年退官後、雑貨貿易商という表看板を上げていたが、その裏で警察当局の要請により、ときに捜査協力をしていた。
今回、男は伊能の依頼に応じ、一色の性格を分析するため、直に会おうと出向いたのである。
むろん、この日一色が在院していることを確認したうえでの訪山であった。貫主自らの読経には十万円で事足りたのだが、念を入れるためと、読経後の雑談を当てにして増額したのである。
はたして男の期待通り、一色は祈祷の後、男を応接室に誘った。
応接室には簡単な酒宴の用意がしてあった。
「あらためまして、貫主の一色です」
一色は名刺を渡しながら挨拶すると、ビール瓶を手にし、
「お一ついかがですか」
と勧めた。一瞬、グラスを手にするのを躊躇った男に対して、
「車ですか」
ビール瓶を置いて、一色が確認した。
「車は車ですが、運転手を待機させております」
「そういうことでしたら、お付き合い下さい」
一色は、再びビール瓶を手に取り、もう一度勧めた。
「では、少しだけ頂きます」
男はあまり酒が強くなかった。そのため、一色の分析に差し障りが出ることを懸念したのだが、二度も勧められて断ったのでは、一色の心証を悪くしてしまう恐れがあった。
一色は自らのグラスにもビールを注ぎ、一口含むと、
「東京で雑貨商を営んでおられるとか。相心寺はどのようにしてお知りになったのですかな」
と訊ねた。
相心寺は、関西でさえ世間に知られた存在ではない。まして、東京にその名が知れ渡っているはずもなかった。
「知人に天真宗の敬虔な信者がおりまして、このお寺は世にあまり知られてはいないが、隠れた名刹であると聞きました」
「それで、わざわざ東京からお見えになったのですか」
「ええ。元は僧侶の修行の場と伺って、自分の目で確かめたくなりました」
「それはそれは、奇特なことで」
一色は上機嫌になった。
「雑貨商とは、どのような物を輸入されておられるのですかな」
「食器、アクセサリーなど、気に入った物を取り寄せておりまして、とくに決まったものはありません。そうですね、骨董なども扱っております」
「骨董?」
一色の目が興味の色を滲ませていた。
男は「しめた」と思った。性格というのは、興味のある話をしているときに顕著に現れるからである。
「中世ヨーロッパの作品や中国の書画なども好きですね」
「ほう。では現代の書画はどうですかな」
「もちろん、大いに興味があります。貫主さんもお好きなのですか」
一色の頬が思わず緩んだ。
「興味といいますか、知人に画家がおりまして、後援しております」
「ジャンルはどのような?」
「山水画です」
「山水ですか」
男が、当てが外れたような仕草をすると、
「興味は無いようですね」
一色は咎めるような物言いをした。
――気難しい性格のようだな。
男は苦笑いをしながら、
「いえ、興味が無いわけではないのですが、何分造詣が浅いもので」
と言い繕うと 、間髪置かずに言葉を繋いだ。
「ご指南を頂ければ有り難いのですが」
「そうですか。では一幅持って参りましょう」
そう言い残して応接間を出て行った一色は、数分後桐箱を手にして戻って来ると、
「これなどは、良い物ですよ」
と取り出した掛け軸をテーブルの端で広げた。
「これはなかなかの物ですね」
男に良し悪しを見る目などなかったが、如才なく相槌を打った。
「どうです。宜しければ、この掛け軸をお求めになりませんか」
「恐縮ですが、おいくらでしょう」
「五十万です」
「五十……」
男は躊躇いのある振りをした。一色の金銭感覚を探っているのである。
「本来は百万の値打ちがある物ですが、奇特な貴方ですから、半額にしたのですよ」
一色はいかにも押し付けがましく言った。
「作者は貫主さんの縁者でしょうか」
落款に「色翁」とあったことから、作者は一色本人ではないかと疑ったが、わざと遠まわしに訊いた。
「ええ。まあ、そのようなものです」
思いも寄らぬ問いだったのであろう、一色の歯切れが悪くなった。どうやら、触れて欲しくない様子である。
――やはり、臭う。
男はそう思ったが、ここで詮索を止め、
「わかりました。これも何かのご縁でしょうから、この掛け軸を頂戴します」
と申し出た。
一色の相好が崩れた。
「おっ、そうですか。では、当院の風呂敷に包みますので、このままお持ち帰り下さい。代金は後日振込みで結構です」
――振込みだと? なぜだ……
疑念抱いた男は鎌を掛けてみた。
「領収書を頂ければ、代金はただいま現金でお支払い致しますが」
「いえ。画家本人の領収書を取ったり、それを送ったりするのも面倒ですから、御手数ですが、振り込んでもらえませんか」
男には、一色は現金払いを拒んでいるようにさえ映った。
周知の如く、布施などの宗教本分に関わる金銭は無税の優遇措置がなされている。書画などの、いわゆる揮毫料は免税ではないが、現金で受け取りさえすれば、税務署もお手上げとなる。
――作者は本当に縁者なのだろうか。
男の疑心は晴れなかった。
仮に、作者が一色本人だとすると、痕跡が残る振り込みにしているということは、むしろ税金を正しく支払っているのだから、本来は疑念を抱く方がおかしいのであるが、一色本人から受ける印象とは掛け離れていたのである。
一色が指定した口座名は「亀井一郎」となっていた。
伊能に調査を依頼してから一週間後の夜。
坂根を伴った森岡の姿が、祇園のクラブ「ダーリン」に見られた。
伊能の中間報告を元に、現場に足を踏み入れたのである。
扉を開けると黒服が近付いて来た。
「一見だけど、ええかな」
森岡が断りを入れた。ダーリンは「会員制クラブ」を謳っていたからである。
もっとも、クラブの会員制というのは、主として暴力団関係者の入店を拒否するための方便であり、たいてい場合が入店可能である。このあたりは、同じ京都の祇園や先斗町などの御茶屋のそれとは意味合いが異なる。
黒服は、二人を舐めるように見ると、奥に戻って五十絡みの女性を連れて戻って来た。どうやらこの店のママらしい。
「どなたかのご紹介でしょうか」
女性は丁寧な口調で言った。
「いえ。たまたま、祇園を歩いていてこの店を見つけたのです」
森岡も穏やかな口調で答えた。
「……」
女性もまた、品定めをするかのように凝視した。身形はそれなりに整っているが、高級店で遊ぶには、何分若過ぎるのである。金持ち風の若者といえば、大概は暴力団関係者と相場が決まっている。
外見は堅気に見えるが、それでも慎重になった。
「これが身分を証明できませんか」
森岡は、財布からダイナースのプラチナカードを取り出して見せた。遊びなれている彼は、こういった店側の懸念は熟知している。
その瞬間、女性の面に安堵の色が奔ったが、
「申し訳ありません。当店では、このカードを取り扱っておりません」
と頭を下げた。その様子から、暗に入店を断っているのではないと理解した。
関西でも、特に京都の言い回しを理解するのは難しい。
たとえば、迷惑な来客を早く帰したいときは、
『ぶぶ漬はどうおすえ?』と言う。
「ぶぶ漬」とは茶漬けのことで、「茶漬けをご馳走になる」と思い込むと、顰蹙を買うのがおちである。
「では、このカードは?」
今度は、アメックスのプラチナカードを取り出した。
「まあ」
女性は驚嘆の声を洩らした。
この頃、プラチナカードは高額の年収以外に、一定の資産を所有するものにしか発行されなかった。その相当に敷居の高いプラチナカードを、ダイナースとアメックスの二枚も所有していることは、かなりの資産家であるばかりでなく、社会的信用の担保がなされていることの証明だったのである。
森岡は正体を隠匿するためにも、現金で精算するつもりでいた。したがって三百万円を持参していたが、それを見せることはしなかった。飲食代の精算の懸念ではなく、身分保証を求められたときに、現金は何の役にも立たないのだ。
「アメックスは扱っております」
ママらしき女性は、快く中に入れた。
席に着いた二人は、下にも置かない接遇を受けた。店にとっては、またとない上客でありこの先常連客にでもなってくれれば、と皮算用をしてのことであった。
森岡は、さりげなく店内を見渡した。五十坪ほどの広さは、祇園では上位の部類に入る。出勤しているホステスは十四名。その中に、森岡のお目当ての女性がいるはずであった。
森岡は、谷川ともしばしば会って、榊原や伊能からの情報と照合、精査もした。
森岡の提案で、この会合に神村は同席しなかった。
最たる理由は、神村には宗教人として高みの道を歩んでもらいたいと願っている森岡が、醜い談合から彼を遠ざけるためだった。また、万が一の場合のことも考え、神村は何一つ知らない方が安全である、と見据えた配慮もあった。
森岡は、もし何時の日か直接対峙する機会が訪れたなら、神村にはただひたすらに、己の信念、信条により相手を説得してもらえればそれで良い、と考えていたのである。
「あかん、現状はええことないな。予想通り安田、広瀬、酒井の三人の新貫主は、久保さんに取り込まれとるから、三対八ということやな」
谷川は眉間に皺を寄せて言った。
「では、前回山際上人に味方された上人方のうち、村田以外の方々は変わりなく先生を支持して下さるのですね」
谷川の思惑とは違い、榊原の情報と一致したことに、森岡は胸を撫で下ろしていた。
「今のところ、そういうことや。黒岩、戸川、北見、この三人のお上人方は山際上人のときもそうだったが、私利私欲がなく、筋目というものを大事になさる方々やから、多分大丈夫とは思うけど、それでも気を付けてしっかり捉まえておかんとあかんわな」
「では、その三人の貫主さんには、前もって三千万円ずつ渡しましょう」
谷川の慎重な物言いを受けて、森岡が提案した。
「えっ、三千万……もか?」
谷川は上ずった声を発した。
「金は成功報酬として渡すんやないんか? もし、神村上人が負けたらどうするんや。全くの無駄金になってしまうんやで」
谷川は、俄には信じることができなかった。すでに味方に付いている上人たちを引き止めておくために三千万円もの大金を、しかも前もって渡すという森岡の真意を計りかねていた。
「成功報酬というのは避けましょう。先にお渡しすることで、その方々の意志を縛っておいた方が得策です。この三名の方々は、山際上人の頃から味方になって頂いています。もしかしたら、久保上人側から誘いの話があったかもしれないのにも拘わらず、です。そのお気持ちに対するお礼という意味合いもあるのです」
「それにしても、三千万もか」
谷川は、もう一度同じ言葉を呟いた。
彼は、久保の工作金が二千万円であることを知らなかったし、まして森岡がそれを知っていることなど、微塵も思わなかったのである。
驚きが冷めやらない谷川に向かって、森岡はさらに言葉を付け足した。
「もし足らなければ、いくらでも上積みしましょう。谷川上人の言われるとおり、この三名の上人方はこちらの命綱です。相手からこちらに寝返らせようにも、この三名から引き抜かれたのでは計算が立ちません。まず、この三名の支持をしっかりと強固なものにしてから、寝返らせる上人の的を絞りましょう」
「えっ。三千万にまだ上乗せをするやと? それやったら、金がいくらあっても足らんようになるで」
「この際、金は問題ではありません。必要なら、五億でも六億でも用意致します」
「六億ってか……」
谷川東良は思わず唾を飲み込んだ。完全に言葉を失い、二十歳近くも年下の若者の豪胆さに、不気味なものすら感じ始めていた。
「では、谷川上人には金の運び役をお願いします。これは、私などにはとうていできない重要な役目ですので、宜しくお願いします。それと、引き続き相手に付いた八人の上人の身辺の情報を集めて下さい。私も、それなりに調べてみますので……」
一転して、森岡は下手に出た。
正直にいえば、谷川東良をそれほど頼りにしていたわけではなかったが、さりとてへそを曲げて離脱されても困ると思っていた。現在はどのような些細な情報でも必要としていた。そういう意味からすれば、谷川東良に気を使いながら、上手に動かすことが肝要だと考え直したのだった。
「わかった。せやけど、合議までには二ヶ月半足らずしかないから、急がにゃならんなあ」
森岡のせっかくの心遣いにも、谷川東良は毒気に当たったかのように、力のない声で答えるのが精一杯だった。
――少しやり過ぎたかな。
と、森岡が後悔をしたときだった。
二人のやり取りを見ていた坂根が、咄嗟の機転を利かせた。
「ところで、谷川上人は修行されながら、アジア諸国を旅されたと伺っていますが」
「お、おう。断続的にだが、この六年間アジアを廻っていた。まあ、修行というほどのことではないがな」
谷川は背筋を伸ばすと、身体を少し前のめりになった。その仕草は、彼が話題に興味を示したときの癖だった。
それを看取った坂根は、さらに訊ねた。
「アジアはどこを回られたのですか」
「せやな、東南アジア近辺は大体廻ったが、長期に滞在したんはスリランカとタイかな」
「両国とも敬虔な仏教国ですね」
「そやねん。この両国は僧侶の社会的地位が高いやろ。国民は皆僧侶を敬愛しとる。同じ僧侶としては、羨ましく思ったで」
「そうでしょうね。でも、日本だって仏教伝来の当初は、それらの国々の僧侶と同じぐらい民衆から敬われていたのではないでしょうか。いったい、何時頃からこんな風になったのでしょうか」
坂根にしてみれば素朴な疑問だった。
その昔、ある宗派の法主が地方へ巡教に出掛けると、地元の信者たちは生き神である法主が浸かった風呂の湯を飲んだという逸話が方々に残っている。むろん、どこまでが真実かは定かでないが、少なくとも村の重役たちは、羽織袴の正装で迎えたというのは事実である。
また、農村部では秋に収穫された米が、漁村では春の一番漁で取れた魚が、それぞれまず神社や寺院に奉納されたというのも、至極ありふれた神事であった。
坂根がそういう事実を知っていたとは思えなかったが、急所を突く問いであることに違いなかった。
「うーん」
谷川は再び言葉を失ってしまった。
「おそらく同じ仏教でも、その二ヶ国と日本では、大きく系統が異なるからやろうなあ」
森岡は真実を言い当てていた。
インドで開かれた仏教は、その教えの学び方によって顕教と密教にわかれたが、もう一つ釈迦の没後五百年を経て、思想的な考えの違いによって、小乗仏教と大乗仏教にわかれた。
「乗」とは教えのことで、乗り物に例えているのである。すなわち、小乗とは小さな乗り物を指し、出家して厳しい修行を積んだ僧侶だけが悟りを開き救われるというという意味である。したがって、修行をした僅かな人が救われ、一般の人々は救われない。釈迦の没後の、長い間この思想が定着していた。
対して、釈迦は全ての人々を救いたかったはずである、という思想のもとに誕生したのが大乗仏教である。大きな乗り物というのは全ての人々を救うことを目的としているという意味である。
しかしながら、全ての人を救うというのは、高邁な思想である反面、堕落を招きかねない。全ての人が厳しい修行などできないからである。しかして、一般人だけでなく肝心の僧侶まで怠惰な生活に落ちてしまった。
日本に伝えられた仏教は、この大乗仏教が基本になっている。つまり、タイやスリランカのように、今でも僧侶が厳しい戒律を護っているのと異なり、日本の僧侶は妻帯し、飲酒し、肉を食う。これを堕落と言われても仕方がなかった。
尚、小乗仏教という呼称は、大乗仏教側から付けられた差別語なので、最近では「上座部仏教」といわれている。
図らずも、彼のこの言葉を最後に、しばらくの間会話が途切れてしまった。
「谷川さん、ずいぶん意気消沈されていましたね」
谷川と別れると、坂根は申し訳なさそうに謝った。
「せやな。俺も最初は一発かましておこうと思い、金の話をしたんやが、ちょっと薬が効き過ぎたと反省しとったんや。お前が機転を利かせてくれたお陰で助かったわ」
「でも、私も余計なことを訊いたために、最後はまた気まずい雰囲気になってしまいました」
「気にするな。お前は当たり前のことを訊いたまでや。この国は、宗教が放浪しているような国や。世界のどこにクリスマスも正月も同じように祝う国民がいるやろか。嘆かわしいことやが、結局日本人というのは宗教というものの本質を理解せず、所詮金儲けのイベントとして捉えているに過ぎんのやな」
「でも、それは日本人の許容量の深さを表していると言う者もいますが」
「それは詭弁というもんや」
森岡の語気が強まった。
明治維新によって、一気に西洋文化が流入したのにも拘わらず、日本人がその精神を失うことはなかったが、その理由は、当時は日本人の心の中に、確固たる規範があり、精神レベルが高かったからで、残念ながら現代はそれが極端に薄れている。
――資源のない国が世界と伍して行けたのは、ひとえにその精神性の高さ故だったというのに、こんなに精神劣化した民族の先行きは明るくないな。
と、森岡は憂いていた。
日本人が急速に宗教観念を失ったのは、明らかに太平洋戦争後だといえよう。
元来、八百万の神々というように、日本は古の昔から自然神を崇めてきた多神教の国である。全国各地に民話や祭りがあるのはその名残で、しかも山一つ隔てただけなのに、祭りの風習は全く異なっていることが多い。一神教の国では到底考えられないことである。
多神教は、突き詰めれば無信心に陥る危険性を内在しているが、戦前までは恥の文化と天皇制が抑制していたと考えられた。この二つが、日本人の規範の中心だったのだ。
奈良時代の昔から、日本は村社会だったので、人は皆、いわゆる「世間体」というのを気にして生きてきた。後に、村八分という厳しい罰則制度が確立したこともあって、この世間体が自己規律の中核を担って来たのである。現在でも、日本人が相手の自分に対する評価というのを人一倍に気にするのは、そのDNAが残っているからともいえる。
恥の文化とは少し外れるが、外交などでも、とにかく相手国ともめたくない、丸く収めたいと主義主張を通さないのも、村社会の中で生きてきた悪い面が歪に表面化した結果であろう。
天皇制は、いまさら言うまでもなく、立国から今日に至るまで、そこはかとない神聖なものであり、日本民族の精神的支柱であった。そうでなければ、千数百年も続くはずがない。
政権が武家に移ってからも天皇制が存続したのは、民が天皇を敬っていたため、もし天皇制を打破すれば、民の信は離れて行き統治が難しくなる、と時の権力者たちが考えたからに他ならない。
戦後の占領軍も同様に捉えた。
だからこそ、当初天皇に求めようとした戦争責任を不問に付し、天皇制を維持させることに政策転換したのである。歴史を振り返れば、明治時代から戦中まで、憲法によって神格化が図られていた時期の方が例外なのである。
それが、戦後復興を遂げるにつれて、その代償を払うかのように地域社会が破壊され、家族は離散した。結果、世間の目から逃れた人々は、水に流されるように破廉恥になり、天皇という存在も心から離れていった。その心の空洞に入り込んでしまったのが、経済中心主義という概念、俗にいう物欲である。
これが人生の価値の中心に居座ってしまい、いつの間にか物欲を満たすことがの最高の幸福だという低俗な観念が日本人を支配してしまった。
絶対神を持たない民族の弱点が露呈したのである。
「しかし、社長。世界には狂信的なものもありますよね」
「そうやな」
「それはそれで、困ったものではないのですか」
「確かに、日本人のように宗教観の薄いのも問題やが、行き過ぎるとそれも厄介なものにはなるな。難しい問題やな」
森岡はそれ以上の明確な返事をしなかった。
彼は神村の教示により、確固たる宗教観を培っていたが、同時にそれは他人に強要すべきものではないということを含んでいた。森岡は強要することはもちろんのこと、他人の宗教観に影響を及ぼす発言すらも、避けようと心に決めていたのだった。
坂根もそのことは良く承知していた。彼は、以前神村との関係を訊ねたとき、森岡から神村に心服する理由を聞いていた。そのとき、二人の出会いの経緯こそ聞き出せなかったが、森岡の宗教に対する考え方と、書生時代のある会話を教えてもらっていた。
出会いの経緯の他に、森岡が神村に深く傾倒して行った理由の一つは、神村が森岡に対して天真宗への入信を一切勧誘しなかったことである。神村が、森岡家は禅宗系であり、天真宗への改宗を進めても断るだろうと遠慮したためではない。この頃の森岡は、そのような熱心な信者ではなく、むしろ無信心に近かった。
まして、家を捨て故郷を離れ、古いしがらみから解放された彼のこと、大恩ある神村からの勧めとあれば、改宗することに躊躇いはなかったといえよう。
だが神村は、最後まで一言もそれと察せられる言葉を口にすることがなかった。
森岡は、そこに神村の誠意と善意と見識と人徳を観た思いになった。
森岡が、そのことに人一倍拘ったのは、ある憤りと悲しみの経験をしていたことによる。
それは、父の死に際してのことだった。葬儀に参列するため、父の一番下の妹が、二年ぶりに帰郷していた。森岡は兄弟がいなかったため、一回りしか年が違わず、高校を卒業して上京するまで、一緒に暮らしていた叔母を姉のように慕っていた。
だがそのとき、彼女はもはや彼の知る叔母ではなかった。
彼女はある新興宗教に入信していたのである。
そして事件は起こった。通夜の晩、彼女は森岡にこう言ったのである。
『世界は近いうちに破滅に向かい、人類もまた滅亡に向かう。そのとき生き残っているのは、私たちの宗教の信者だけである。だから洋介も私たちの宗教に入信しなさい』
このとき、森岡はまだ十一歳だったが、腸が煮え返るような怒りが込み上げ、叔母を容赦なく罵倒した
「叔母さんはいったい何のために帰郷したのか。禅宗系宗派のしきたりに則り、父の魂を弔い、喪に服すべきときに、己の信じる宗教を押し付けるとは何事か。時と場所をわきまえろ! しかも、その宗教の教義の素晴らしさを説くならまだしも、相手を恐怖に落とし入れて勧誘するなど言語道断、人倫の道に外れている。僕がそのような邪宗に入信するはずもないし、このような勧誘を他の親戚たちにもしようと思っているのなら、即刻この家から出て行ってくれ!」
もちろん、少年の彼にこのような理路整然とした言葉遣いはできるはずもなかったが、目に涙を浮かべての必死の抗議に、森岡の言わんとしたことを理解した叔母は、以後東京へ帰るまで、一言も宗教の話はしなかった。
森岡は悲しかった。弟のように可愛がってくれていた叔母の、あまりの心変わりに、もう一人肉親を亡くした喪失感があったのである。
この事件以来、森岡は叔母の心を奪った宗教というものに警戒心を抱き、人の弱みに付け込んで、入信を進める所業を忌み嫌うようになった。
このような悲しい経験をした彼にすれば、神村の誠真な態度が心を捉えて離さなかったのも、当然といえば当然だったのかもしれない。
もう一つの理由は、神村の実直な性格に、人間としての器の大きさを感じたからである。
森岡は、書生に入って間もなくの頃、神村にある事を問うた。
「先生、本当にあの世は存在するのですか」
いきなり大命題を問われた神村は苦笑いをした。
「君も、ずいぶんと思い切った事を訊くねえ。仏教徒の私に訊ねるようなことではないよ」
一旦前置きをすると、
「そうだね、天真宗僧侶・栄麟として答えるならば『是』だが、神村正遠個人として答えるなら『非』だね」
と答えた。
森岡には、全く意外な答えだった。個人としては、という断りがあったとはいえ、まさか師の口から「あの世は無い」という答えが返ってくるとは思ってもいなかったのである。
森岡は続けて問うた。
「では、守護霊とか悪霊といった類のものはどうでしょうか」
「それも、世間一般が認知しているようなものは無い」
「そうしますと、テレビで見かける霊能者は皆偽者で、霊を見たというのは嘘を付いているということですか」
「いや、そうではない」
神村は首を横に振った。
「個々の霊能力者の真偽は別として、いわゆる心霊現象というものはある」
「……?」
森岡にはわけが解らない。
「森岡君、私が考える霊というのは、人間自身が作り出す現象なのだと思っている」
「はあ」
森岡には神村が何を言っているのかわからない。
「人間の脳というのは、その約九十パーセントが未開発なのは君も知っているね」
「はい」
「となると、その未開発の領域には、どのような能力が備わっているのか、興味が湧かないかい?」
「ええ、まあ」
森岡には曖昧な返事しかできなかった。
「つまりね、テレパシーとか透視といった超能力といわれるものも、本来全ての人間に備ている能力かもしれないということ。もちろん、霊能者と同様、マスコミに登場する超能力者の真偽もまた別だがね」
「……」
思わぬ話の展開に、もはや森岡には言葉が無かった。
「そういう考えの延長で言えば、いわゆる霊というものも、自己あるいは相手の脳の中にある思考や記憶を、視覚化する能力の産物ともいえるのではないかな。しかもそれは、遺伝子レベルで考えると、本人だけでなく、先祖に遡って蓄積された思考や記憶を視覚化することもできるかも知れないという壮大なものになる」
神村は森岡をまじまじと見つめた。
「森岡君、そう考えた方が、ロマンがあるとは思わないかい?」
言い終えた神村の目が笑っていた。
後々になって考えてみれば、神村一流の「からかい」だったのかもしれないが、森岡はずいぶんと新鮮な空気に触れた気がした。
人間の脳に関することを、科学者ではなく、その対極にあるはずの宗教人の口から聞いたことが、いっそうその思いを強くしていた。
高僧らしいもっともな説を聞かされると思っていた森岡は、この気持ちの良い裏切りによって、神村の哲学、思想の一片に触れただけでなく、人間としての謙虚で真摯な一面も窺い知ったのだった。
「ところで、社長。前から一度お伺いしたかったことがあるのですが」
御堂筋の信号待ちをしているとき、坂根はずいぶんと遠慮がち言った。
「なんや、お前らしくもない」
「それがその、社長はいったいどれくらいお金をお持ちなのかと思いまして」
「そんなことか。そうやな、三十億ちょっとかな」
森岡はあっさりと答えた。
「ええー、そんなに」
坂根は目を見張った。彼の想像を遥かに超えた額だったのだ。
「でも、私の見るところ、ウイニットの株は手放されていませんよね」
「そうや。幹部社員やお前と南目に譲った以外は、最小限しか手放してへんし、それらの金は会社のために使っとる」
「では、いったいどのようにして……」
「お前が、不思議に思うのもわからんでもない。間単に言うとな、俺の財産は株で儲けたもんなんや」
「株? 株式投資ですか」
坂根の声には疑心の色が滲んでいたが、無理もなかった。彼の見たところ、森岡が株式投資をしているという気配はないし、三十億円もの金を儲けることが、並大抵の所業でないことは、誰にでもわかる道理だ。
むろん森岡の才能であれば、できない相談ではないだろうが、それにしてもあまりに唐突な話であった。
「中学生のときな、ある老婆から相場の手ほどきを受けたんや」
「ちゅ、中学生……」
坂根は、唖然として言葉が無い。
その坂根に向かって森岡が意味ありげな笑みを向けた。
「ただの老婆ではないで。相当な霊能力者でな、テレビに出ているような連中とはレベルが違うんや」
「はあ?」
坂根は思わず疑念の声を漏らした。
――何を突拍子もないことを言い出すのか……
と思った坂根だったが、次の瞬間、
――いや、この人なら有り得る。
と思い直した。
坂根好之は実兄の秀樹から、森岡の生家について話を聞いていた。
凋落したとはいえ、島根半島随一の分限者で権勢家だった灘屋である。どこにどのような人間関係があっても不思議ではない。
また、実際に三年間付き合ってみて思い知らされたことは、森岡には謎の部分が多く、容易にその人物像を推し量れないということだった。
森岡は事実を言っていた。.
彼はあるきっかけがあって、中学三年生のときに株式投資で生計を立てている老婆から株式投資の手ほどきを受けた。
それ以来、中学・高校と勉強そっちのけで、株式関連の本ばかりを読み漁った。
そのうち、新聞紙上で売買のシミュレーションをするようになり、高校のときには短波ラジオを学校にまで持ち込んで、昼休みや終業時間になると、校舎の片隅に隠れて株式放送を聞くという有様になった。
「お前、休み時間や昼休みに何をしていたのだ。気味が悪くて容易に近づけなかったぞ」
後年、高校時代の友人斐川角雲栄が語った言葉である。
ところが、そのような所業に明け暮れていたあるとき、株の値動きには一定の法則のようなものがあることに気づいた。それは、既存の「ケイ線」や「チャート」とは別物だった。
つまり、彼なりの売買の法則を発見したのである。
さっそく、その法則に照らし合わせて売買シミュレーションをしてみると、一度に大利を望むことはできないが、ローリスク・ローリターンで、割りと着実に稼げることがわかった。
そこで、大学に入ってから忠実にそれを実践し、儲けたのである。
ちょうどバブル景気が始まる直前で、日経平均はずっと右肩上がりだった。数年後に、史上初めて一万円台の大台に乗せるや、それから三、四年で、史上最高値の三万八千円強を付けることになった。日経平均は、僅か十年ほどで十倍にもなったのである。
「そういう次第でな、余程の下手を打たんかったら、何を買っても儲る時代やった」
株式の法則を発見したことに加えて、運が良かったと森岡は付言した。
「それに比べ、現在は散々たるものですね」
「そういうことやな。坂根、バブルは株だけやなかったことはお前も知っとるやろ」
「不動産ですか」
「そうや。不動産はもっと凄かったんやで。結婚した時、新居として六千万のマンションを買ったんやけどな、二年後には二億になっとった。不動産バブルはな、大阪は東京に遅れてやって来たからな、わかり易いことこの上なかったんや」
「では社長は、不動産でも儲けられたんですか」
「いや、儲けたといっても株に比べればたいしたものではなかった。手持ちのマンションが値上がりしたといっても、住んでるとこやから売ることはでけんしな。仮に売っても他も高いんやから一緒やろ。土地なんて、その筋が絡んでいるから、とても手が出せへん。結局、セカンド・ハウスで少し儲けただけや」
「では、たったそれだけで?」
坂根はつい言葉を滑らした。株式相場とは全く無縁の彼にしても、今の話だけで三十億の金が集まるとは思えないのである。
「ほう。お前にもわかるか。そりゃあそうや。そんなことぐらいで、三十億も儲けられたら、人生楽なもんや」
森岡は自身を皮肉るように言い、
「正直に言うとな、書生に入って二年目の頃やった。先生の晩酌の相手をしていて、つい株の話をしたんや。するとな、後日一人の老人が寺を訪ねて来てな、先生から紹介されたんやけど、それがとんでもない人物やったんや」
と言葉を継いだ。
「いったい、誰ですか?」
坂根の目が好奇に輝いた。
「是井金次郎や」
平然と言った森岡を、坂根は、まさかという顔で見た。
「是井金次郎? もしや、『北浜の鬼神』との異名を取り、最後の大物相場師とも言われた、伝説の相場師では?」
「そうや、その人や。お前でも知っとんのやな」
森岡は茶化したように言った。
「株に興味のない私でも、それくらいは知っています。一連の仕手戦で大儲けをして、その年の長者番付で一位になり、マスコミで話題になったこともありましたから」
坂根は口を尖らせた。
「そういうこともあったな。まあ、あの類の人種は仕事柄神仏を尊ぶ人が多いからな。先生とも昵懇だったらしい」
「確かに、相場師なんて常に命を張っているようなものですからね」
「それでだ。何のことはない、その後度々情報を貰って、是井さんの相場に提灯を付けさせてもらったんや」
と、森岡は裏事情を明かした。
提灯をつけるとは、有力な大手筋に付和雷同して売買することで、鯨に吸着するコバンザメみたいなものである。
「その後、今お聞きしたやり方で、少しずつ増やしていったのですね」
坂根が悟ったように言った。
「そういうことやな」
「それで納得しました。しかし、社長。株をするにしたって元手がいるでしょう? それはどうされたのですか」
坂根の核心を突く問いに、森岡の面が引き締まった。
「それは、またの機会に話するわ」
そう言って、坂根の肩をポンと叩いた。ちょうどそのとき、二人はロンドに着いていた。
森岡はロンドへ向かう階段の前で立ち止まり、
「そういうわけで、俺の持っている金は、ほとんどがあぶく銭や。せやから、気前よく使えるんやろな。これが額に汗水流して稼いだもんやったら、さすがに多少は躊躇するやろな」
と言って、自嘲の笑い声を上げながら階段を下りて行った。
徐々に沈んで行く森岡の背を見つめていた坂根は、それが彼の照れ隠しであることを看破していた。恩師神村のためなら、たとえどのような金であろうと、全てを注ぎ込むことがわかっていたのである。
だが、その坂根にしても、いかに恩人とはいえ、何故森岡がこれほど神村に尽くすのか、の答えには行き着かなかった。
このときの彼にできたことは、森岡はまるで親の敵のように金を使うことでしか得られない「何か』を欲している、それだけ心の闇が深いのだろうという想像だけだった。