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黒い聖域   作者: 久遠
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               (2)遠夢

 宴会の後、森岡は景山を本館のラウンジバーに誘った。彼だけに伝えたいことがあったのである。

「本日は有難うございました」

 いや、と景山は首を小さく左右に振った。

「礼を言って頂くのはまだ早いかと思います。私には、たとえ総務さんの説得であっても、菊池上人が素直に応じるかどうか疑問に思えます」

「同感です」

 と言って森岡は目を細めた。やはりこの男は使える、と満足したのである。

「そこで、景山さんには事前工作をして頂きたいのです」

「事前工作?」

「総務さんの説得の前に、貴方の口から菊池に因果を含めて下さい」

「私が菊池上人に因果を? それは、ますますもって無理でしょう」

「大丈夫です」

 森岡は自信有り気に微笑んだ。

「いったい何をせよと」

「総務さんの真意と称して、内々にアメとムチを吹き込んで頂きたいのです」

「具体的にはどのような」

「アメの一つは、清堂上人が法主になったあかつきには、久田上人を糾弾するという約束です。これで菊池の溜飲も少しは下がるでしょう」

 うむ、と景山は肯いた。

「それから」

「もう一つは彼を近い将来、本山の貫主の座に就けるよう道筋を付けるというものです」

 天山修行堂の裏支配を断念するとなれば、必ずや表舞台での出世を望むだろうであろうとの推測であった。

「本当にそれで良いのですか」

 景山は訝しげな顔つきをした。

「菊池が承諾すれば、久田上人への糾弾はうやむやにするとしても、本山の貫主への便宜は図らないといけなくなります、それは森岡さんの意に反するのではありませんか」

 森岡は、ふふふと含み笑いをした。

「景山さん、むしろ積極的に便宜を図りましょう」

「……?」

 景山には、森岡の真意が見抜けなかった。

「景山さんと私で適当な本山を見つけ、総務清堂上人の許可を得たうえで、菊池に斡旋するのです。私たちが企画するのですから、裏工作などどうにでもなるでしょう」

「そうか」

 景山はようやく森岡の笑みを理解した。

「菊池上人は、総務さんの腹心である私と仇敵も同様の貴方が、まさか手を組んでいるとは思わないから、そこに油断が生じるのは必定。その隙を突いて一杯食わそうというのですね」

「清堂上人は何も御存知なく、約束を果たされたことになりますから、問題ありません。ただ、清堂上人を利用した心苦しさは残りますがね」

「その点は事が済んだ後で、私から重々お詫びをしましょう。それより、菊地上人に気取られないよう十分な注意が必要ですね」

 はい、と森岡は顎を深く引いた。

「私たちが手を握っていることを菊池にはもちろんのこと、清堂上人以外の誰にも気づかれてはなりません。清堂上人にも内密にして頂くようにお願いして下さい」

「わかりました。上手く申し上げましょう。それでムチ方は?」

「その逆で、宗門の名誉を著しく傷つけたとして、清堂上人が法主の間は、いや永井上人が法主の間まで、菊池の如何なる昇進も総本山は認めないという最後通告です。これで約二十年間、つまりはこの先一生涯、菊池は要職に就けなくなります」

「なるほど、出世欲旺盛な菊池上人には強烈なムチですね」

 景山は鳥肌が立つ思いだった。

 森岡が転んでもただで起きる男ではないと承知してはいたが、この絶体絶命とも思える窮地までも逆手にとって、菊池に対する意趣返しを企んでいたとは、景山には考えも及ばないことだったのである。


 森岡の話は続いた。

 ヘネシー・XOのダブルを喉に流し込み、バーテンダーにお代わりを注文すると、口調をあらためた。

「ところで、瑞真寺というのはどういうお寺でしょうか」

 森岡は、胸の中で大きくなる存在の正体を問うた。

「何かありましたか」

 そう聞き返した景山の面が、何処かしら緊張の色を滲ませているように見えた。

「いえ。最近しばしば耳にするものですから、気になりましてね」

 森岡は差し障りなく答えた。

 景山は、瑞真寺建立に至った経緯を詳細に話した。

「天真宗にはそのような歴史がありましたか」

 森岡は呻くように言った。

 その数奇な誕生秘話を知ったことで、瑞真寺の存在が心の中に一層重く圧し掛かって来たのである。

 森岡は、ふっと息を吐いて気分転換を図った。

「ところで、この際景山さんには私の密かな計画を打ち明けておきましょう」

「そのような重大事を私などに話して良いのですか」

 景山が遠慮深げに訊いた。

「先ほど総務さんにお話したこととも関わりがありますので、貴方には申し上げておきます。ただ、これはあくまでも私一人の存念であって、神村先生はご存知ありません」

「承知しました」

「私の眼中には神村先生しかないことは、前にも申し上げました」

 景山は黙って肯いた。

「私はその先生の将来の絵図を勝手にこう描いています。まず、本妙寺の貫主の後は二、三年で退位される久田上人の後継として、別格大本山・法国寺の貫主に上がって頂きます」

 景山は黙ったままだった。

「その法国寺の貫主も三年から五年で退位して頂き、次は天山修行堂の正導師に就いて頂こうと思っています。もっとも、これは久田上人の寿命とも関連しますので、多少の前後はあるかもしれませんがね」

 景山はうむ、と息を一つ吐いた。

「最後に、天山修行堂の導師を十年ほど務めて頂いた後、永井上人の後継として、総本山の法主に上がって頂こうと思っています」

 森岡は他人に対して、初めて己の野望の全てを披瀝した。

 森岡がブックメーカー事業を十五年限りとしたのは、神村の法主擁立という遠大な夢を抱いていたからである。この密かな野望の実現のためには、神村自身だけでなく、側近である森岡もまた身綺麗にしておくことが肝要だった。

「やはり、そうでしたか。貴方のことだから、それくらいのことは考えておられると思っていました」

 景山は、顔色一つ変えずに言った。すべて予想済みだったのである。

「まあ、私が勝手に夢を描いているだけですから、実現できるかどうかわかりませんし、それ以前に先生がご承知下さるかどうかも不明ですがね」

「神村上人の御意思は別として、一見無茶な話のようですが、貴方の力を持ってすれば実現可能かもしれません。先ほどの清堂上人とのお話で、すでに天山修行堂を手中に収めておられるようですから……」

 総本山で生きてきた景山は、在野から法主に駆け上がることの難しさを知っていた。その彼ですら、森岡の智力と財力を持ってすれば、強ち叶わないことではないと思ったのである。

「問題は法主の座ですね。一旦滝の坊に籍を移すとしても、相当な抵抗があるはずでしょうから」

「いや、神村上人なら万人が認める逸材ですし、見渡したところ、他の名門宿坊の中に、傑出した人物もいませんので可能性はあるでしょう」

 と言ったところで、景山の面が引き締まった。

「ただ一人を除いてはね」

「ただ一人……、中原遼遠りょうおん上人ですね」

 そうです、と景山は肯いた。

 「現在、宗務院の宗務次長という要職に就かれておられます。永井宗務総長が総務に上がられた後の、後継の有力候補の一人です。さすが、望めば法主の座も夢ではなかった是遠上人の血を受け継ぐだけのことはあって、なかなかの大器と評判の方です。順調に行けば、森岡さんが目論まれる永井上人の後の法主の座を巡って、かち合うかもしれません」

神村が得度した総本山の滝の坊は、栄真大聖人の一番弟子だった栄招上人が開基した名門中の名門宿坊である。当時の住職で、神村の師だった中原是遠は、その識見、人徳から法主の座も夢ではなかったが、小学校から高校までの同級生だった朋友の栄薩現法主を担ぐことに徹した。

 中原遼遠は、その是遠の実子で神村より五歳年下の弟弟子に当たった。

「もしそうなると、先生の御性分からして、恩師の子息を相手に身を引かれることも十分に考えられますからね。正直に言って、それが気掛かりではあります」

「しかしそれすら、これから二十年もの時間があれば、根回しするには十分だと思っておられるのでしょう? そのために、永井宗務総長や弓削上人、妙智会を味方に付けられたはず」

 森岡は小さく肯いた。

「そこで、景山さんにも力になって頂きたいのです」

「私? 私にできることなど、高が知れていますよ」

 景山は顔の前で手を振った。

「いいえ、重要な役割があります」

 森岡は景山を見据えた。

「貴方には、神村先生の後の天山修行堂をお任せしたいと思っています」

「ええっ! 私に天山修行堂を……」

 茫然自失となった景山の手からグラスが滑り落ちた。

 神村の未来の話には平然としていた景山も、自身に関する思い掛けない言葉に激しく狼狽したのである。

「すいません」

 とあわててグラスを拾い上げた景山に、

「そうはいうものの、二十年も先の話ですけどね」

 森岡は笑い掛けた。

「じ、時期がどうのこうのという問題ではありません。私などに務まるはずがないでしょう」

 景山の口調は整っていなかった。あまりのことに、いかな有能な彼でも消化し切れないのだ。

「まあ、落ち着いて下さい」

 森岡は宥めるように言うと、 

「以前申しましたように、失礼ながら私は貴方の能力を買っています。是非、お考え下さい」

「しかし、私に資格があるでしょうか」

 景山は、総本山の者が天山修行堂に入る当然の懸念を口にした。 

「むろん貴方には、それまでに天山修行堂で荒行を二度成満して頂かなければなりませんがね」

 神村のときもそうであったが、通常総本山の宿坊僧である景山が、天山修行堂で荒行を行うことには非難の声が上がる。しかし森岡は、先刻総務清堂に約束したことへの布石と捉えれば、師である清堂も理解を示すであろうと推察していた。

「二回で良いのですか」

「結構です。貴方は、すでに妙顕修行堂で五回荒行を達成しておられますので、併せて七回達成したことになり、後継者として十分な資格を得られます。その頃には清堂上人もこの世にはいらっしゃらないでしょうから、誰憚ることなくその座に就けるでしょう」

 そう言った森岡だったが、内心は八回を希望していた。確たる規定はないが、歴代の法主は荒行を八回成満していた。影の法主と目されている久田帝玄、次期法主が内定している清堂の二人も八回満行したと聞いていた。

 したがって法主と並び称される久田帝玄の後継ともなれば、同様に八回を期待したいところだが、景山の負担になることを考慮して七回と言ったのである。また、景山であれば、自ら八回目に挑戦するだろうという信頼もあった。

 森岡の目が鋭くなった。

「それに、一度その座に就いてしまえば貴方の好きなようにできますよ」

「え?」

 景山の頭には言葉の意味が響かなかった。

 森岡は不敵な笑みを浮かべた。

「総務さんとの約束どおり、天山修行堂を総本山の管轄下に置くか、あるいはそのままにしておいて貴方が影の実力者となり、天真宗を裏で支配するか、ね」

「そ、そんな、恐れ多い」

 景山は怯むように言った。

「貴方に渡してしまえば、私は総務さんとの約束を果たしたのも同然ですから、その後は一切関知しませんよ」

森岡は捨て台詞のように言った。

 その悪魔の囁きにも似た彼の言葉は、忘れていた酔いを一気に揺り戻し、景山はすっかり悪酔いをしてしまった。


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