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黒い聖域   作者: 久遠
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         第二章 宿願(1)手形

 神村正遠の盟友であったはずの菊池龍峰が裏切っていた。この驚愕の事実に進退窮まった森岡は、ある温泉宿に総務藤井清堂を訪ねる。

 確たる勝算もなく、仇敵も同然の藤井清堂の懐に飛び込むことなど、傍目には無謀な行動に映ったであろう。一つ間違えば、清堂はこの材料を武器にして、対立する久田帝玄を攻撃するかもしれないのである。

 しかし事ここに及んでは、総務清堂に頼る以外、他に手立てが無かったのも事実だった。

 それは太閤豊臣秀吉亡き後、加藤清正や福島正則らに追い詰められた石田三成が、怨敵徳川家康の懐に飛び込んで難を逃れた逸話にも似た、まさに死中に活を求める、伸るか反るかの大胆な賭けであった。

 森岡は、総務清堂への取次ぎに尽力してくれた景山律堂と同じく、清堂もまた、いや次期法主が内定している彼なればこそ、宗門そのものに泥を塗るようなことは望まないと信じたかった。久田の醜聞を攻撃材料としなかったように、である。

 森岡は総務の立場にいる清堂の、その宗門への良心に賭けたのだった。


 森岡が静岡県の北西部、妙顕山の足元に位置する温泉宿岡崎家に着いたときには、すっかり夜の帳が下りていた。

 岡崎家は森岡の見知った宿だった。神村に同行して総本山に出向いた折、何度かこの名旅館に泊まったことがあった。

 岡崎家は、かつては東海道の要衝で本陣の御用を授かっていただけのことはあって、一万坪にも及ぶ広大な敷地には、木造二階建ての本館の他に離れ屋が十五棟もあった。離れ屋はいずれも二間か三間続きで、それぞれに檜風呂が付いていたが、中でも同じ三間ではあるが、併せて四十畳もの広さを誇る「鳳凰」と呼ばれる一棟があった。森岡はその鳳凰の間を予約していた。

 この出張には、神栄会若頭補佐の九頭目らが帯同していた。むろん影警護なので、付かず離れずの適当な距離を置いている。


 総務清堂と景山律堂はすでに到着していた。

 森岡が景山の案内で清堂の待つ鳳凰の間の襖を開けると、三間続きの奥の部屋で床の間を背にした清堂は、自分の正面に座るよう手招きをした。だが、森岡は清堂の居る奥の間には入らず、中の間に正座して、恭しく頭を下げた。

「猊下。本日はお忙しいところ、私などのために時間を割いて頂き、ましてこのような所まで御足労願いまして、誠に有難うございます」

 森岡は、こういう場での挨拶の仕方を知っていた。書生の頃、目上の主賓に促されても、決してその誘いには乗らず、必ず別間に座して挨拶をするように、と神村から教わっていたのである。

 すると、清堂はもう一度手招きをしながら、

「まあ、そう畏まらないで、こっちに来て座りなさい」

 と気品のある声を掛けた。

 二度目の誘いで、ようやく森岡が正面に座ると、清堂はいきなり本音を吐いた。

「正直に申せば、法国寺の件が決着したばかりで、私はあまり気乗りがしなかったのだが、景山が宗門の浮沈に関わる一大事だから、どうしても君に会ってやって欲しいというものでね」

「それは恐れ入ります」

「しかし、景山の話だと、君とは一度会っているらしいね」

「栄真大聖人の没後七百五十年遠忌の大法要のときにご尊顔を拝しました」

「そうだ、思い出した。あのとき末席にいたのが君だったね。しかし森岡君、噂はこの景山から聞いているが、君にはずいぶんと煮え湯を浴びせられた」

 清堂は苦笑いをした。

「恐縮です」

 森岡は身を縮めた。

「ところが、一敗地に塗れたというのに、景山は清々しい気分だなどと、負け惜しみとしか思えないことを言うのでね。実を言えば、この景山ほどの者を、そういう気持ちにさせる男とはいったいどんな人物かと、時さえ経てば私も一度君と膝を付き合わせて話をしたいとは思っていたのだよ」

「そうおっしゃって頂きますと、少し気が楽になります」

 森岡は安堵したように言った。

「ところで、よほどの重大事らしいが、どういうことかな」

 清堂の目が底光りしていた。気品のある好々爺といっても、そこは大宗派天真宗で総務にまで上り詰め、法主の座に手を掛けている男である。凡庸であるはずがない。

 森岡は、事の顛末を包み隠さず話した。

 話に耳を傾けていた清堂の表情は、たちまち苦々しいものに変わり、怒りを抑えるためか、扇子を忙しく打ち仰いでいた。

 そして、森岡の話が終わるや否や、

「何ともはや、愚かな事を……。久田上人も久田上人なら、菊池も菊池だ。嘆かわしい事この上ない!」

 と辺りに響き渡るほどの声を荒げた。およそ、貴人の上品さを持つ清堂には似つかわしくない怒声だった。

「それで、私にどうせよというのだね」

 憤りが冷めやらぬ中、清堂は怒気を含んだ声で訊いた。

「菊池上人から宝物を買い取って頂きたいのです。もちろん、代金の一億は私が用意致します」

「それは良い案ですね。総本山に保管されていれば、たとえ世間に知れたとしても、どのようにでも言い訳が通るとお考えなのですね」

 景山が清堂の顔色を窺いながら、森岡の真意を代弁した。

「しばらく保管していれば、気が気でない久田上人にお灸を据えることにもなりますし、その後折を見て法国寺に返還して頂ければ、と考えております」

「君の考えは良くわかったが、話の限りでは相当な覚悟の上らしい菊池が納得するだろうか」

「そこを次期法主たる猊下にお願いしたいのです。猊下直々の説得ならば菊池上人も従わざるを得ないと思います」

「菊池上人の生家である『蓮の坊』からも、口添えしてもらいましょうか」

「いえ、せっかくのご助言ですが 、それは止めておいた方が良いでしょう。菊池上人は生家に良い感情を持っていませんので、却って上人の心を頑なにさせてしまう恐れがあります」

 久田帝玄から菊池の養子縁組の経緯を聞いていた森岡は、景山の提案を丁重に退けた。

「致し方ない。久田上人の窮地を救うことは面白くないが、これは宗門の名誉に関わることだからそうも言ってはおれない。ここは私が一肌脱ごう」

 清堂は、閉じた扇子でテーブルをぴしっと叩いた。

 やはり法主になるだけの人物である。必ずや私心怨念を捨て、宗門のために立ち上がると読んだ森岡の賭けは当たった。

「そのお礼といっては、誠に僭越ですが……」

 森岡は遠慮がちに切り出した。

「礼など、気にすることはない」

 清堂は森岡の言葉を遮り、即座に断った。  

 森岡は口元を緩めた。

「そうおっしゃられると思いまして、約束手形を御用意いたしました」

「約束手形だと」

 清堂が興味深い声を発した。

「遠い将来ですが、猊下のお望みが叶うことをお約束致します」

「私の望みが叶うとな。いったいどういうことかね」

 清堂は怪訝な眼差しを森岡に向けた。

「先々、天山修行堂を総本山の管轄下に置くように致します」

「何だと! どうして君がそれを知っている」

 清堂は、自身の宿願を森岡が知っていることに驚きを隠せなかった。

「恐れながら、私が森岡さんにお話しました」

 景山が緊張の表情で告白した。

 清堂は二人を交互に見遣り、

「君たちは、そういう間柄になっていたのか」

 と得心しつつも、

「しかし、口で言うほど簡単ではあるまい。今や総本山の妙顕修行堂をも凌ぐお堂だぞ。本当に、君にそのようなことができるのかね」

 清堂の疑心にも森岡には余裕があった。

「できると考えております。まもなく天山修行堂の敷地には、私個人の名で十億円の抵当権を設定致します。おそらく、久田上人には返済できないでしょう。ですから久田上人がお亡くなりになった後でしたら、いずれ時期を見て土地を総本山に寄進することもできます。その後はゆっくりと時間を掛けて、宗務院あたりが後継問題等に影響力を行使していけば良いでしょう」

 と落ち着い口調で存念を披瀝した。

「なんと、そのような事態に至っておるのか」

 清堂は眼を剥いて唸ると、一転、ふふふと半ば呆れ顔で笑った。

「なるほど、景山が君に心を許すはずだ」

 森岡の腹案は、清堂をして思わず頷かせるに十分な説得力があった。

「しかしながら、早急には無理でございます。大変失礼ですが、猊下のご存命中にも無理かと思います。ですが、必ずや約束は守ります」

「それで約束手形というわけだな」

「はい」

「宜しい。景山が信頼する君のことだ、私も信じよう」

 清堂はようやく穏やかな表情になった。彼は景山を引き合いに出したが、何よりも自身の目で確かめた森岡を信用したのは言うまでない。

 森岡は、儀礼的に金銭的な見返りも提示したが、当然のごとく宗門の名誉を守るために金など受け取れない、と清堂は固辞した。

「その代わりといっては恐縮じゃが、君に一つだけ頼みがある」

「私にできることでしたら」

「今すぐではないが、いざというときに力を貸して欲しい」

 清堂の顔には悲壮感が漂っていた。このとき、彼は天真宗の行く末に関わる重大な懸念を抱えていた。

「承知致しました。その折は、微力ながらお力添えを致します」

 森岡は詳細を聞かずに承諾した。権力を手中にしている者とも思えぬ弱気な表情に、森岡は一抹の不安を覚えながらも畳に両手を突いた。 

 話が纏まったところで、芸者、鳴り物を呼んで賑やかな宴会となった。花柳界に生きる者は口が堅いことを知る森岡が、この日の密会が外に漏れることは無いと踏んだうえでの趣向だった。


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