(6)叱咤
翌日、森岡は物事というのは、そう一朝一夕には進まないことを痛感させられる。
久田から、石黒組がすでに宝物の一部を売り捌いていたとの連絡が入ったのである。しかもその売却先が、誰あろう菊池龍峰本人という痛恨事であった。
森岡が懸念した通り、菊池は強かにも先手を打っていた。久田帝玄が金を工面して、宝物を取り戻す前に、証拠の品の一部を自分の手元に置いたのである。
――やられた。
心臓を錐で突かれたような痛みが奔った。つれて、足元からおぞましい奇体が這い上がって来るのを感じていた。
森岡にはその正体が何者であるかわかっていた。菊池の並々ならぬ執念を見せ付けられ、生まれて初めて味わう『敗北』という恐怖に慄いていたのである。
言わずもがな、この一件が公に露見したとき、宗教人である菊池には、盗難品と知らずに購入したという抗弁は通らない。それはつまり、彼がいざとなれば身を捨てる不退転の覚悟で事に臨んでいることを表明していることに他ならないのだ。
この背水の覚悟を前に、森岡は手詰まりとなった。為す術もなく、ただじりじりと絶望の淵に追い込まれて行くしかなかったのである。
洋介は、久々茜に愚痴を零した。
「せっかく御前様と話が纏まったというのに、まさか、菊池がここまでやるとはな」
「菊池っていう人も、必死なのよ」
「相手が玉砕をも厭わないとなると、全くのお手上げやな。時間もないことやし……」
茜の目には、それが投げやりに映った。
「ふん、そうかしらね」
嫌味の色が滲んでいた。
「何か良い考えでもあるのか」
「良い考えかどうかはわからないけど、向こうは意固地になっているみたいだから、逆転の発想が必要ね」
「逆転の発想?」
洋介は首を捻った。
「そう。洋介さんは怒りに任せて、相手を追い詰めることばかり考えているでしょう。そうじゃなくて、逃げ道を創ってあげることも考えてみたら」
「逃げ道か……」
洋介は藤井清慶をむやみに追い詰めて、久田の醜聞の暴露に繋がった苦い経験を思い出した。
「きっと、振り上げた拳を下ろしたくても下ろせないんじゃないかしら。だから、彼の面子を保ってあげたうえで、説得する人が必要だと思うわ」
「言うのは簡単やが、これだけ腹を括っている菊池を説得するとなれば、それ相応の人物ということになるやろ。言うまでもなく、目の敵にされとる先生や御前様では無理やから、その上といえば、法主さんということになるが、その場合先生の耳に入れんわけにはいかんやろうし、そもそもが法主さんに持って行く話やない」
洋介は諦め顔をした。
「結局のところ、他に適当な人がおらん」
それを見た茜は、さらに彼の心を逆なでするように言った。
「あら、洋介さんの目は案外節穴なのね」
「なんやて」
洋介はムッとなった。
「もう一人いるじゃないの」
「もう一人? いったい誰のことや」
「ここまで言って、洋介さんがわからないなんて、また珍しい」
とうとう茜は、皮肉まで込めた。
「法主さん以外に、菊池が心を許す人物がいるとはとても思えんな。いったい誰やねん、回りくどい言い方せんと、はっきり言えや」
洋介は憤然として言った。見当が付かない苛立ちと、賢しらな物言いが癇に障ったのである。
「総務さんよ」
茜は何食わぬ顔で答えた。
「なんやて、清堂!」
全く予想だにしなかった名前に、洋介は憤りを忘れ去るほど仰天した。
「総務さんなら、適任だと思うけどなあ」
「な、何を言ってるんや。清堂は、ついこの間まで熾烈な戦いをしてきた敵やで」
「そんなことわかっているわよ。むしろ、それが好都合じゃないのかしら」
「……どういうことや?」
いかな頭脳明晰の洋介も混乱を極めていた。
「神村先生や御前様と敵対する者同士の方が、利害が一致する分、心が通じるかもしれないってこと。それが逆転の発想よ」
茜はしたり顔で言ってのけた。
「そ、そうか」
盲点といえば盲点であった。だが、一旦は肯いた洋介も、すぐに悲観的な言葉を継いだ。
「まあ、一応理屈は通っとるが、清堂が敵だった俺の頼みを聞いてくれるはずがないがな。門前払いが関の山や」
「洋介さんは、景山さんと親しくなっているのでしょう? その辺りを手掛かりにしてみたら」
たしかに、景山律堂とは総本山での大法要のときに会った後、一度食事を共にしていた。
「しかし、なんぼ懐刀やいうても、彼は執事の一人に過ぎんからなあ。第一、もしこれがきっかけで、万が一にも清堂と菊池が手を組んだりしたら藪蛇やないか。それこそこっちが息の根を止められることにもなりかねん」
洋介は諦め顔で退けた。彼の懸念は常識的であったろう。
だが次の瞬間、茜の態度が豹変した。洋介の軟弱な言動に、痺れを切らしたかのように、咆哮を上げた。
「さっきから聞いていれば、グダグダ、グダグダと泣き言ばかり並べてんじゃないわよ。洋介さんらしくもない! そこを何とかするのが洋介さんの本領でしょう! それに最後の正念場でなんでしょうが、肉を切らせて骨と絶つといった、相手と刺し違えるぐらいの気概がなくてどうするの!」
「あっ」
洋介は、我を取り戻したような声を発した。そして、先刻からの彼女の挑戦的な物言いは、自分を鼓舞するためだったと気づいた。
これまで、彼女の優しい母性ばかりを見てきた洋介だったが、このときばかりは七歳も年下の彼女が、まるで姉さん女房、いや母親のように大きく映っていた。
「総務さんだって、伊達にその職に就いているわけではないでしょう。洋介さんが私心を捨て、誠意を尽くせば心に届くんじゃないの。ほら、『窮鳥懐に入れば猟師も殺さず』っていうじゃない」
「……」
洋介は、呆然として返す言葉を失っていた。
寝室へ向う去り際の、
「そうそう、松尾会長が一度洋介さんに会いたいそうだから、近々電話があると思うわ」
と言った茜の言葉も耳に入っていなかった。
一人残されたリビングで、洋介はしみじみと噛みしめていた。さすがに彼女は、関西一の繁華街といわれる北新地で、若くして最高級クラブを経営するだけのことはあるということを……。それはつまり、どのような世界であろうと、トップに君臨する者はそれ相応の器量を持ち合わせている、という極めて自明の理であった。
――虎穴に入らずんば虎子を得ず、か。
こうして茜の強烈な叱咤が、洋介の闘争心に再点火をしたのだった。




