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黒い聖域   作者: 久遠
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               (4)外道

「御前様、少しお待ち下さい。もしやその男とは、九州の菊池龍峰上人ではないですよね」

 帝玄は虚しそうな眼をした。

「残念ながら、その菊池上人だ」

――なんということだ……。

 森岡は激しく動揺した。まさか、神村を実弟のように可愛がっていたはずの菊池龍峰が、そのような鬼畜に転落していたとは俄かには信じられない話だった。

 森岡は、帝玄に疑問をぶつけた。

「しかし、菊池上人は本妙寺のときはともかく、法国寺の貫主に御前様を擁立したときも、その後の多数派工作にも助力していました。今頃になって妨害するくらいなら、何故力を貸したのでしょうか」

「そこが、彼の陰険な性格を現しているのだ」

 吐き捨てるように言った帝玄だったが、

「元はといえば、これも私が悪かったのかも知れない」

 と一転して後悔の表情になった。

「実は、天山修行堂を買い取りたいという彼の申し出を断るとき、明確に『君には譲らない』とは言わず、『神村上人に譲るつもりである』とだけ言ったのだ。私の言葉を受けて、彼は『神村上人さえいなければ、自分にも可能性がある』と勘違いをしたのだ。法国寺の件で、神村上人に同行してやって来たとき、何食わぬ顔でいた彼の本心は見抜いていた。そういう次第だから、本妙寺のときも、神村上人から依頼さえあれば、彼は率先して尽力したと思うよ」

「……」

 森岡にしては珍しく、帝玄の言葉の意味が理解できなかった。

「ほう、君にもわからないことがあるのだね」

 帝玄は、むしろ安堵したように言った。

 帝玄が言わんとしたことは、大本山本妙寺の貫主と天山修行堂の導師を両立させることは、物理的に不可能だということである。

 帝玄も、本山に匹敵する長厳寺と天山修行堂の二寺院を抱えているが、彼の場合は、両寺院とも個人所有であるから、宗務はどうにでも融通が利く。

 天山修行堂に入るときは、長厳寺の宗務は高弟を代役に立てることも、近隣の寺院に助力を願うことも可能だが、大本山ともなればそうはいかない。まずは、大本山の宗務を全うすることを第一に考えなければならないのだ。

 それは、法国寺の貫主になった帝玄にも言えるのだが、彼の場合は高齢に加え、不埒な考え、つまり新しい支援者を獲得することが主目的であったから、二年、三年で退位する心積もりだったし、短い期間であれば天山修行堂は副導師に任せることもできる。

 しかし、神村の場合はそうはいかない。

 五十代半ばの若さで、大本山の貫主になるということは、長期政権は必定であり、そのうえで天山修行堂を引き受ければどうなるか。大本山の宗務のためとはいえ、新任の導師が天山修行堂の務めを疎かにするようなことがあっては、周囲が黙ってはいないのである。

 帝玄は、神村を大本山や本山の貫主たちに引き合わせなかったのは、まさにこの一念があったからだと言い添えた。つまり、神村を手の届かないところにやりたくなかったということである。

 森岡は、東京目黒の澄福寺に芦名泰山を訪れたときの菊池龍峰の言葉を思い出した。

「菊池が、本山の貫主を目指さないのも同じ理由ですね」

 菊池龍峰が所有する冷泉寺は、末寺とはいえ本山に匹敵する繁栄があった。金銭面に限れば、持ち出しが必須な本山の貫主に就任する必要はない。

「次元は違うが、そう言えるかもしれない。だが、彼が本山の貫主の座を目指さない第一の理由は、今言ったとおり天山修行堂が狙いだからだ」

「表向きの理由と腹の内は違っているというわけですか」

 そうだ、と帝玄は肯いた。

「菊池は、神村上人が本妙寺の貫主になってしまえば、天山修行堂を受け継ぐことができなくなると考えた。彼が法国寺の件で尽力したのはそういう思惑があったのだよ」

「ところが、宝物の一件で、そのような回りくどい工作が不要となった菊池は、先生が大本山の貫主になることすら認めたくなくなった、というのですね」

「大本山本妙寺の貫主を無事務め上げれば、その先に別格大本山法国寺貫主の座も射程圏に入るし、神村上人ならば法主の座ですら夢ではないだろう。そうなれば、神村上人のことだ、並の法主で終わるはずがない。日本仏教界の頂点に君臨する可能性だって生まれる。嫉妬深い菊池は、たとえ天山修行堂を手に入れたとしても、神村上人が表舞台で華々しく出世し、宗門内だけでなく仏教界全体や世間一般からの耳目も集めて行くことに我慢ならなかったというわけだ」

「なるほど」

 森岡は唸った。

「神村上人も絡んでしまい苦慮した私は、とりあえず急場凌ぎの緊急入院を画策したというのが真相なのだ」

「これでようやく全てが腑に落ちました。私のような若輩者によく話して下さいました」

 森岡は感謝の意を表した。

「しかし、一ヶ月も日延べして大丈夫なのでしょうか。菊池は、明日にでも警察沙汰にするとも限らないと思いますが」

「それは大丈夫だと思うよ。強硬手段に訴えれば、念願の天山修行堂が手に入らなくなるわけだから、よほどの決心がいる。彼にしても、そう簡単には踏み切れないだろう。それに……」

 帝玄がその先を躊躇った。

「他に何かございますか」

「此度の所業は、菊池一人の考えとも思えないのだよ」

「先ほどおっしゃいました瑞真寺でしょうか」

「う、うん」

 またしても帝玄の歯切れが悪くなった。

――御前様ほどの傑物をして、口を重くさせる瑞真寺とはいかなる力を持った寺院なのだろうか。しかもその瑞真寺と菊池龍峰は繋がっているかもしれないという……。

 森岡の胸にもう一度寒風が吹き荒れた。

「ともかくも、お話しを伺えば伺うほど、人倫の道にも悖る奴のこと、たとえ警察沙汰は控えたとしても、他に何を仕出かすか想像が付きません。御前様、先ほど一週間後に三億円を用意すると申しましたが、一日でも早い方が良いでしょう。私の方は、明後日には用意できますので、そのように取り計らって下さい」

 森岡は会談の最後に、今回の一件を決して口外しないよう帝玄に念を押した。それは、帝玄の体面を気遣ってのことというよりは、兄とも慕う菊池の本性が神村の耳に入ることを慮ったのであり、さらに言えば、すでに悪事の顛末が露呈している事実を、菊池本人に気づかせないためでもあった。

 森岡は、いつの日か必ずや菊池龍峰に対して、苛烈な意趣返しを考えていた。そのためには、菊池の自分に対する警戒心を緩いままにしておきたかったのである。



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