(2)悔恨
翌朝、森岡は京都山科の別格大本山法国寺に久田帝玄を訪ねた。
帝玄は森岡との面談のため、入院先である大阪吹田の病院を密かに抜け出ていた。
法国寺を抱く山々は、早くも秋の装いを纏い始めていた。まるで申し合わせたかのように順序良く色づき始めたカエデ、ツツジ、ニレ、ブナ等は絶妙のコントラストを放ち、五十にも及ぶ塔堂、伽藍、子院といった人工物も、大自然と見事に同化して悠久の時を讃えている。
『西の総本山』との異名を持つこの大院は、かつては京都五条にあり、数代におよぶ天皇の御綸旨十余通を所蔵していることでもわかるように、長年に亘り勅願道場として栄華を誇っていた。
比叡山延暦寺を御所の北東の鬼門とすると、法国寺は南西の裏鬼門にあたり、その配置からしても、かつては天皇家鎮護の祈願所たる権威を誇っていたことを窺わせる。
なるほど、戦国時代には京都に上洛した大名がしばしば本陣とし、足利将軍家との謁見の場となったというのも肯けた。
客間に請じ入れられた森岡は緊張の極致にいた。まさか、このような形で影の法主とも称される久田帝玄と合い見えることになろうとは、夢想だにしないことだった。
彼は、腹の中から一切の駆け引きを除去していた。そもそも駆け引きが通用するような相手でもなかった。ただひたすらに帝玄の本心を聞き出し、もし助力できる事が有れば、そこに活路を見出そうとしていた。
望みがあるとすれば、こうして帝玄が面会に応じてくれたことである。もし、完全に反旗を翻したのなら、会う必要もないはずであった。
しばらくして、ドアの向こうに人の気配がした。
「森岡君。良く来てくれたね」
帝玄は、応接室のドアを開けて足を踏み入れるなり声を掛けた。
「御無沙汰しております。お元気そうで安心しました」
不意を突かれた森岡は、あわてて立ち上がって頭を下げた。
「なあに、少し体調を崩したのを執事長が大袈裟にしたのだよ」
帝玄は何食わぬ顔で言った。
「そうでしたか、そうお伺いして安心しました。また、本日はお時間を取って頂き有難うございます」
「いやいや、他ならぬ君だけには、何をおいても会わないわけにはいかない」
「恐れ入ります」
もう一度頭を下げた森岡は、
――やはり、作為だったか。
と確信したが、仮病についてはそれ以上触れなかった。
「しかし、君とは鳥取以来だね。私の晋山式でも顔を見なかったが、来てくれなかったのかね」
「とんでもございません。もちろん馳せ参じましたが、御前様のお近くには、皆さん御立派な方ばかりが居られましたので、挨拶は失礼させて頂き、隅の方で拝見しておりました」
「何を言っているのかね。私を法国寺の貫主に押し上げてくれた第一の功労者は森岡君、君じゃないか。何を遠慮することがあったのだね」
帝玄の口調には、全く敵意が感じられなかった。森岡は、ほっと胸を撫で下ろした。
「醜聞による規律委員会の懲罰会議を乗り切れたのも、君が永井宗務総長に手を回したからだというじゃないか」
「なぜ、それを?」
森岡は訝しげに訊いた。
永井大幹に協力を求めたことは、永井本人と弓削しか知らない事実だった。森岡は、二人には公言しないよう釘を刺していた。その証拠に、神村や谷川兄弟の耳にも入っていない。
森岡の面に不審の色を見た帝玄は、
「永井宗務総長から直接聞いたのだ」
と種を明かした。
「御本人から、ですか」
森岡の面には疑念が張り付いたままだった。
「正直に言えば、私も今度ばかりは覚悟していたのだ」
帝玄は神妙な声になった。
「永井上人の査問にも一切の抗弁をしなかったので、必ずや厳罰になると思っていた」
――やはり弓削上人の推量どおりだったか……。永井宗務総長に手を回して正解だった。
森岡は心の中で呟いた。
「ところが、戒告という軽い処分で収まった。そこで、永井宗務総長を問い質したのだよ」
「そうでしたか」
「君との約束を守り、彼は口を硬く閉ざしていたが、私の恫喝にも似た執拗な問い掛けにようやく真相を明かしてくれたというわけだ」
「永井上人には却って悪いことをしました」
「君には私から事情を明かすと言ってある」
帝玄は、気にするなと首を横に振った。
「だから、晋山式では真っ先に礼を言おうと君を待っていたのだ」
と言って帝玄は深々と頭を下げた。
「君には大変世話になった」
「御前様、どうぞ頭をお上げ下さい。御前様にそう言って頂けるだけで、私には十分です」
森岡は湯飲みに手を伸ばした。濃い煎茶を一口喉に通し、いよいよ眦を決したとき、その気配を察知した帝玄が先に口を開いた。
「例のことだね」
「はい」
「私もね、君がそろそろ現れることだと待っていたのだよ」
「私を待っておられた?」
「そうだ。君のことだから、早晩今回の事を聞き付けるだろうし、そうなれば神村上人には内緒でここにやって来ると思っていたよ。上人は今日のことは知らないのだろう」
森岡は小さく肯き、
「余計なご心配はお掛けしない方が良いかと思いまして」
と独断での訪問である旨を告げた。
「そういう君だから、私は待っていたのだよ。君には何もかも話そう。それが、私に尽力してくれた君への義務だと思うのでね」
帝玄も湯飲みを手に取り、二、三度すすった後、おもむろに話し始めた。
「まず、君の想像しているとおり、宝物を持ち出したのはこの私だ。そして、その行き先は石黒組なのだ」
「石黒組、ですか」
森岡はとりあえず安堵した。
帝玄の口から石黒組の名が出たことで、少なくとも彼が正直に打ち明けようとしていることは確かと思われた。
「週刊誌に書かれていたその石黒組だ」
帝玄は唇の端を歪めた。
「石黒組には借金があってね。その担保の一部として、どうしても渡す破目に追い込まれてしまった」
全ては彼に非があった。
バブル時代、取引銀行の口車に乗って手掛けた不動産事業等々が、バブルが弾けたのと同時に、悉く失敗して多額の負債を背負うことになった。その結果、危うく融資の担保に入っていた長厳寺の敷地のうち、駐車場と宿坊の土地を手放さざるを得なくなった。
既の所で彼を救ったのが、稲田連合の先代会長・稲田政吉であった。稲田は特別攻撃隊、いわゆる特攻の生き残りだったせいか、ことさら信心深く、よく帝玄の父帝法の元に訪ねて来ては、教えを請うていた珍しい極道であった。
帝法の誼だった稲田政吉の紹介で、稲田連合傘下の石黒組の息の掛かった極東金融が低金利で肩代わりをしたのだが、しだいにその返済もままならなくなった。それでも、稲田政吉が生存中は、帝玄との関係から取立ての催促などはなかった。
だが稲田政吉が亡くなり、続いて彼の舎弟だった先代の石黒組長の死去に伴って代替わりしてからは、徐々に態度がよそよそしくなり、ついには担保にしていた長厳寺の土地を取り上げるという通告があったのだという。
ここ数年、鎌倉近辺の再開発が進む中、長厳寺の約三万坪の敷地は魅力があったと推察された。とはいえ帝玄にしてみれば、鎌倉時代から脈々と先祖が守ってきた土地であり、父帝法と彼自身の努力によって、今日の隆盛を勝ち得た名刹である。簡単に手放せるものではなかった。
そうこうしているときだった。
別格大本山法国寺の黒岩貫主が勇退するという話が伝わってきた。八方塞だった帝玄に訪れた千載一遇の好機に、親交のある八王子興妙寺の立花興淳貫主の推薦を得て立候補しようと考えた。法国寺の貫主になれば、他の本山とは比べ物にならない強力な護山会があり、新しい支援者も見つかるのではないかという期待があったからだ。
だが、ほどなく藤井清慶が立候補すると聞き及んだため、資金に余力のない帝玄一人の力では勝利するのは困難と自重していたのである。
神村正遠からの話が舞い込んできたのは、その矢先だったのである。
まさに渡りに船とはこのことで、神村が支援してくれるとなれば、藤井清慶に勝利する見込みがあるのではないか、また経費の持ち出しも最小限で済むのではないか、と踏んで承諾したというのが真相であった。
「全く、お恥ずかしい限りだ」
話し終えた帝玄は、両手で顔を覆い隠しながら俯いた。
その仕種に、森岡は居た堪れなくなった。周囲から鎌倉の御前様と崇められ、影の法主と畏敬の念を抱かれる傑物も、彼の目には醜態を晒すただの老人にしか映っていなかった。
「そうですか、そのような事情がお有りになったのですね。あのとき、御前様があっさりとお引き受け下さったので、拍子抜けした程だったのです」
森岡は、長厳寺での初対面の折を想起して言った。
帝玄が顔を上げた。
「しかし、あまりに時間が無かった。事業をするにしても、大きな収益を上げるまでには最低でも二年は掛かる。しかも、その収益はあくまでも別格大本山法国寺、つまり宗門に帰するものである。長厳寺のように自由に扱うことはできないから、私的に流用しようにも、自ずと限度というものがあった」
「事業に出資ではなく、純粋な支援者は見つからなかったのでしょうか」
「いなかった。いや、法国寺の護山会ではないが、一人だけそれらしい者がいるにはいたのだがね」
帝玄は口幅ったい物言いをした。
「その方には、断られたのですか」
「いや、相談を持ち掛けようと思ったのだが、途中で話ができなくなったのだよ」
「どうしてでしょうか」
帝玄が肩を落とし、溜息を吐いた。
「その若者が、余りに一途に他の上人を支援していることがわかってね。しかも、その若者は法国寺の件でも、相当に助力してくれていた。私はそれ以上の助成など、とても言い出すことができなくなってしまったのだよ」
森岡は、はっとなった。
「御前様。もしかして、その若者というのは私のことですか」
そのとおり、と帝玄が大きく肯いた。
「あの鳥取での朝、電話で朝食に誘ったのは、腹を割って君に相談しようと思っていたからなのだよ」
森岡は思わず唇を噛んだ。鳥取での早朝の電話を思い出したのだ。
――あのとき、御前様本人が直接電話を入れられ、さらに二人きりの朝食とされたのには、裏にそのような事情があったのか。
森岡は未熟な己に忸怩たる思いになった。茜と結ばれて有頂天になり、洞察力の劣化を招いていたのは明白だった。
「遠慮なさらずにおっしゃって下されば、少しはお役に立てたかもしれませんのに……」
森岡は唇を噛んだ。
「そうだね。そうするべきだったかもしれないね」
帝玄は弱々しい声で同調した。
「大変恐縮ですが、私は勝手に御前様を大師匠だと思っていました」
「大師匠?」
「神村先生は私の人生の師匠。御前様はその先生の師でいらっしゃるのですから、私にとっては大師匠に当たると心に刻んでおりました。ですから、私にできることでしたら何でもする覚悟でおりました」
「そうか。君が法国寺の件で私に尽力してくれたのには、そういう気持ちも含まれていたのだね」
「はい」
「そうとは知らず、君への相談を断念し、進退窮まった私はとうとう魔が差したように法国寺の宝物に手を出し、石黒組に担保として渡してしまったのだよ。実に愚かなことを仕出かしてしまった。いまさら後悔しても仕方のないことなのだがね」
苦悶の表情が、森岡の目に痛々しく映っていた。
――金というのは恐ろしい。これほどの偉人でも抗しえないのか。
彼は、その苦悩地獄から帝玄を救い出せるものならば、とついに核心に触れた。
「失礼とは思いますが、極東金融からお借りになった残金がいくらかお教え願えませんか」
転瞬、帝玄の目つきが変わった。かっと見開いて、森岡の心中を見抜かんとしているかのように睨んだ。
森岡は決して目を逸らさずに相対した。彼もここが正念場だと本能的に見極めていた。それは瞬時の間であったが、森岡には永遠の流れように感じられた。
もとより帝玄も、森岡に二心などあるはずもないことは顔を合わせたときから承知していた。
やがて、彼の重い口が開いた。
「利息を含めて十億だ」
――少ない。
と、森岡は思った。
彼は、伊能の報告以来、頭にこびり付いて離れなかった二十億円という数字の半分の額に、勇気付けられた思いになった。
「その十億円、私が立て替えましょう」
自然と口を衝いて出た。
「なに! 十億円全部をかね」
帝玄も思わず驚きの眼で森岡を見返す。
「そうです」
森岡はそう言った後、一つ息を呑んで頭の中を整理した。
「とりあえず、一週間後に三億を用意致しますので、そのときに宝物を返却して貰って下さい。残りの七億は一ヶ月後に用立てます。どうでしょう。この条件で先方は承知するでしょうか」
「それならば問題はないと思うよ。しかし、本当に良いのかね」
帝玄は不安顔で訊いた。
「ただ、一つだけ条件がありますが、宜しいでしょうか」
「もちろん構わない」
「聞くところによりますと、天山修行堂の敷地は御前様が買い取られて、個人名義となっているとのことですが、間違いないでしょうか」
「間違いない。元々は大本山興妙寺の敷地内に建立したものだが、その後私が譲り受けている」
「では、その天山修行堂の敷地を担保に入れさせて下さい」
その瞬間、帝玄が厳しい顔つきになった。
「と、申しましても、どうぞご安心下さい」
森岡は懸念を払拭するように、両手の掌を二、三度大袈裟に振った。
「私は、不動産業者ではありませんから、土地自体に興味はありません。興味があるのは天山修行堂の後継者問題です」
ほう、と帝玄が目を細めた。
「僭越ながら、御前様は後継者を決めかねておられると承っております。しかも、血縁には拘っておられないとか……」
「そのとおり。私には一人娘しかいなくてね。婿を後継者に育てようと努力したのだが、天山修行堂を受け継ぐまでには至らなかった。何しろ、今や天山修行堂は全国の優れた僧侶が、さらに自らを高めようとして籠もるお堂だからね。それ相応の能力がないととても務まらないし、能力を無視して血縁者を後継者に据えるような私物化も許されない。だから、天山修行堂は然るべき人物に託そうと思っているのだよ」
――園方寺の道仙方丈の推量は間違いではなかった。
と心の中で膝を叩いた森岡は、己の野望の一端を口にした。
「そういうことでしたら、神村先生を後継者に指名して頂けないでしょうか」
帝玄が、ふふふと声もなく笑った。
「そりゃあ、彼が望むなら私としても願ってもないことだよ。森岡君は知らないらしいが、私はこれまで何度も天山修行堂を継いでくれるよう頼んでいるのだよ。だが、その度に断られている」
「先生は断っていらっしゃる? 何故でしょう」
「はっきりした理由を言わないが、おそらく彼のことだから、娘婿のことを気遣ってのことだと思うよ」
「先生なら考えられますね」
森岡も同意すると、
「その件は折をみて先生に進言すると致しまして、そのためにも土地を担保に入れさせて下さい」
再度頭を下げた。
「そういうことであれば全く問題はない。もう一度言うが、天山修行堂は父帝法が開基し私が受け継いだが、宗門のためであれば私物化するつもりは微塵もない。神村上人が受け継いでくれるのなら本望だし、土地も建物も彼の名義にしてくれて構わない」
そう断言した帝玄の目が少し懐疑的なものに変わった。
「その後、君は根抵当権を外すつもりだね」
「はい」
「さすれば、私は十億円で君に売却し、君がそれを神村上人に寄進したと同じことになる。それなら十億円はちっとも惜しくないというのだろう」
「おっしゃるとおりです」
森岡は笑みを浮かべた。
しかし……、と帝玄は大きな嘆息を漏らした。
「鳥取のときも思ったものだが、神村上人は君のような献身的な支援者に恵まれて果報者だな。今日の件も上人は知らないと聞いてつくづくそう思う」
「とんでもないことです。私が勝手にやっていることですから。しかし、御前様と良いお話ができて安堵しました」
「安堵したとな」
「なんと言いましても、御前様は神村先生の向後になくてはならないお方です。もし、私が余計な事を致しまして、御前様と先生の間に溝ができるようなことになれば、私には償いようが無いところでした」
「なるほど、それで安堵したというわけか。十億も用立てる羽目になったというのに、いかにも君らしいな」
帝玄は、森岡の神村を想う心根に心底から感服していた。
一人を深く想い遣る心は、いずれ万人に通ずる。それは山頂の一滴の雫が、やがて大河に通じているのと同じ道理である。
帝玄は、もしこの男が宗門の世界に入って来たのなら、神村に断りを入れ、まずは自身の最後の弟子にしたい、とつい考えずにはおられなかった。




