第四巻 欲望の果 第一章 嫉妬(1)前夜
天真宗・別格大本山法国寺の貫主久田帝玄との面会を翌日に控えたその夜――。
どうにも寝付けない森岡洋介は何度も寝返りを打っていた。そして、深夜三時過ぎを確認すると、とうとうベッドから起き上がりリビングへと移った。
一昨日、森岡は北摂高度救命救急センターの理事長を通じて、久田との面会を取り付けていた。しかも久田は、密会場所として病室ではなく法国寺を指定した。
まさに、森岡が推測したとおりの展開となったのだが、そうはいうものの、久田の真意がどこにあるかは不明のままだった。
「洋介さん、眠れないの」
風呂上りの茜が缶ビールを片手に顔を覗き込んだ。
島根から戻った直後から、二人は半同棲生活を送るようになっていた。平日に深夜まで飲んだときには、洋介が都島にある茜の高層マンションに泊まり、週末には箕面にある洋介のマンションで一緒に過ごしていた。二人は本妙寺の件が片付くのを待って正式に入籍するつもりでいた。
「こないに落ち着かんのは久しぶりやな」
「洋介さんが緊張で寝付けないなんて、よほどのことなのね」
「なんせ、相手は御前様やからなあ。それも向こうの意図がわかっていれば俺も前もって手が打てるのやが、今回は全く見えてこん。とにかく、その場の成り行きによって臨機応変に対応せなにゃならん。御前様相手に、これは難儀なことや」
洋介は陰鬱そうな顔で、茜から手渡された缶ビールを一気に飲み干した。
「でも、御前様ほどのお方が裏切りなどという卑怯な真似をされるかしら」
「普通に考えれば、誰かてそう思うやろうな」
茜に同調した洋介は、
「せやから、そうせざるを得ない切迫した事態に陥っておられると思うのやが、その見当がいっこうに付かんのや」
と渋い顔をした。
「手掛かりは全くないの」
「いや、ないこともないが……」
「どんなこと」
「御前様は、関東の広域暴力団の息の掛かった金融屋から相当な借金をしておられる」
「それが絡んでいるということではないのね」
「おそらく、法国寺の宝物が消えた件には絡んでいると思うが、どう考えても仮病を装ってまで合議を延期されたこととは結びつかんのや」
洋介は首を捻った。
もし、久田帝玄が金に困窮しているのであれば、むしろ神村を早く本妙寺の貫主に据えた方が得策であった。というのも、神村が貫主になれば様々な事業が動き出し、それに伴って多額の資金が流入するからである。洋介が解せなかったのは、その資金の一部融通が可能であることを帝玄自身も承知しているはず、ということだった。
「そういうことですか」
そう言って茜は冷蔵庫から新しい缶ビールを取ってきた。そして一口飲んだ後、肩越しに手渡すと、そのまま腕を洋介の首に巻き付けた。
「なあ、茜。この頃俺は、本妙寺の前貫主だった山際上人が亡くなられた直後から、何かどす黒い陰謀が蠢いているような気がして仕方ないんや。筧と宇川の裏切りもそうやが、それ以外にも不明なことが多々ある」
洋介は振り返って茜に顔を向けた。
「総務清堂による法国寺前貫主の黒岩上人への勇退勧告や、藤井清慶による御前様の醜聞のリークと規律委員会への提訴。それらを裏で画策したのも、そして今回の御前様の件もその黒い陰謀の一環のような気がするんや」
「黒い陰謀って、正体不明の誰かが御前様をも動かしているって言うの? そんな人が天真宗の中に、いえこの世の中にいるとでもいうの」
「常識的に考えればおらんやろうな。けど、御前様の弱みを握っている奴がいるとしたら、どうやろうか」
「弱みっていえば、それこそ暴力団からの借金がそうなのだろうけど、違うのでしょう」
「そうなんや。せやから借金の問題以外に何かあるんや、何かが……。俺は何か重大なことを見落としているような気がしてならんのや」
そう言うと、洋介は天井を見つめて深い溜息を吐いた。
外はすでに東の空が白み始めていた。
カーテンの隙間から差し込んだ光の陰影で察知した茜は、
「外が明るくなってきたわ。洋介さん、眠れなくても横になって身体を休めた方が良いわ。なんといっても、今日は一世一代の大一番なんだから」
と、洋介の手から飲み掛けの缶ビールを取り上げ、寝室へと彼の背中を押した。
「大一番か。大相撲でいえば、まるで東の正横綱に幕下が挑むような、本場所では到底ありえん取り組みやな。御前様が片足でも骨折しておられん限り、とても勝ち目はないな。いや、それでも難しいな」
冗談とも愚痴ともつかぬことを言って、洋介は寝室へと向かった。




